3 変わらない声
「も、もしもし」
なんて言おう? え? ホントに先生なの? それとも知らない人?
パニクる頭の中で必死に言葉を探す。
「あ、あの! ええと、わ、私、チョウシンケンの生徒だった者、ですけど。
え、榎本先生ですか?」
自分でも驚くくらい噛み噛みだったけど、言いたいことは言えた。
チョウシンケンっていうのは、『長町進学研究ゼミナール』の愛称。
この名前を知ってるのは、塾生と先生だけ。
・・無言。やっぱり他人かな?
先生の声かな、なんて調子のいいこと思ったんだけど。
「・・・・・のんちゃん?」
「そ、そう! のぞみです。ウソ!? 先生? ホントに?」
携帯を持つ手が震えて、落としそうになったから両手で持ち直した。
「ほんとに?はこっちのセリフですよ。驚きました。久しぶりですね」
耳に響く先生の声はやさしくて。当時の先生の顔がすぐに頭に浮かんだ。
「今、話しててもいいんですか? 掛け直すから一度切りますよ」
「あ、だいじょうぶ。私、掛け放題プランだし電話代とか気にしなくていいよ。
って言うか先生、私もう子どもじゃないんだから!」
「はは。そうですね。失礼しました」
うわあ、先生だ。先生だー。懐かしいなあ。信じられない。
「先生、番号変えてないんだね」
「そうですね」
「よく、私の名前、覚えてたね」
「君のことは忘れませんよ。・・僕の最後の生徒さんでしたし」
ああそっか。私、大学は他県に出たから後から知ったんだけど、私達の学年が卒業したのを最後にあの塾は潰れたって。
大手の学習塾があちこちに建ってたし、塾生も最後にはかなり減ってたもんね。
「先生は、今、何してるの?」
「今は個人病院で内科の医師をしてますよ」
いし? イシ? ・・・医師?
「先生、お医者さんなの!?」
「あの後、頑張って医大に入って、ようやく三年前に医者になったんです」
「すっごーい・・。はあー、ホント、すごい」
頑張ってって・・頑張ったくらいでお医者さんになれるもんなの?
いや、先生ならやりかねない。ってもうやったのか。
すごいな。お医者さん・・・。
すごいすごいを連発していると、くすくすと笑う先生の声。
「君は、十年経っても変わりませんね。・・・あの頃の、可愛いままですね」
どきん、と胸が鳴った。
「そんな・・・ことない。オバさんになっちゃったよ。もう三十だもん」
「君がオバさんなら僕はおじいさんですよ」
あははは、としばらく笑った後、先生は静かな声でこう言った。
「だいじょうぶ。何年経ったって、のんちゃんは可愛いです。
自分で自分を落とすようなことを言ってはダメですよ。君の悪い癖です」
ああ。
・・・泣きそうになる。
目頭がじわんと熱くなる。
昔からそう。先生は勉強だけじゃなくて、私の悩みもいっぱい聞いてくれた。
テストで悪い点取った、友達とケンカした、お姉ちゃんとケンカした・・・。
人に相談するのは苦手だったのに、先生はなぜか話しやすくて、だからいつも先生に泣きついてた。
ぐだぐだ悩んでは落ち込んで、沈み込む私は、とってもめんどくさい奴だったと思う。それでも先生はいつもちゃんと聞いてくれた。
涙をこらえるのに必死で、声が出せない。
電話なんだから、しゃべらないと意味がないのに。
「・・のんちゃん。僕、夜は結構時間があるんですよ。
よかったら、また、掛けてくれませんか? メールでもいいですし。
君と話すと仕事で疲れた心がほっとしますから。
今日はもう切りますけど・・・、また、掛けて下さい。待ってますから」
「・・うん」
一言、呟くのがやっとだった。
先生は優しい。
きっと私がこんな状況なのを見透かして、気遣ってくれたんだ。
音のなくなった携帯を握り込んだままソファのクッションに顔をうずめた。
今の生活にものすっごく不満がある訳じゃない。
娘は可愛いし、旦那さんも娘の前ではいい父親をやってくれる。
他のママ友もそんなもんだって言ってたりするし。
・・でも、どうしても満たされないって思ってしまう。
久しぶりの先生の声は、全然変わっていなくて、あの時のまま。
「のんちゃん」って私のことを呼ぶ、優しい声。
私のことを気に掛けてくれるひとがいる。
ママとして、母親としての私じゃなくて『のぞみ』という一人の、私を。
それだけのことが、こんなに嬉しいなんて。