2 懐かしい名前
四月は待ちに待った幼稚園の入学。
娘の千沙は大はしゃぎで、毎日、今日は誰とお友達になったとか誰と遊んだとかうれしそうにお話してくれる。
幼稚園って子どものものだけじゃなくて、母親も忙しいんだって初めて知った。
役員決め、授業参観。親子遠足・・。
まだ一ヶ月しか経ってないのに、なんだかもう疲れたかも。
人付き合いはそんなに得意じゃないけど、そんなこと言ってもいられない。
ママ友は子どもの為にも大事だって、テレビで言ってたし。
にっこり笑っておしゃべりをして、何人かのママ友を作った。
今日もママ友数人と集まってランチ会をした。
子どもの話と旦那の話、美味しいスイーツの話、今晩の夕飯のメニューを何にしようとかそんなことばっかり話してた。
当たり障りのない会話。周りに合わせて、なんとなく笑って私も話した。
夜、家事を済ませて一人でソファに深く座る。
この時間、ホッとする。
「・・・」
起きてる間中賑やかな千沙が寝てしまうと、この部屋はとたんに静まりかえる。
イライラしてる時はあの甲高い声がうるさく思えるのに、シンとしてるとあのカワイイ声が聞きたくなるなんて、勝手なものよね。
何となく携帯をいじっていると、懐かしい名前がズラリ。
携帯電話を変えた時もそのままアドレスのデータはコピーしてもらったから、何年も連絡をとっていない大学時代の友達やバイト先の先輩の名前も残ってる。
たまには、整理しようかな。
今の時刻は夜の九時半。
最近ようやく朝までぐっすり寝てくれるようになった娘は、さっき一度起きてトイレに行ったから、もう起きないと思われる。
旦那さんも仕事が大変みたいで、今週は遅帰りが続いている。
今週は、じゃないな。先週もか。
いつからか、もう分からないかも。
きっと今夜も遅い。ぐったりして帰ってきて、ろくにしゃべる間もなくお風呂だけ入って、ばたんきゅーと寝てしまう。
この人にもう電話掛けることはないだろうなーと思う相手は、迷わず消去。
大学の友達も、何人か仲の良い相手を残して、後は消去。
引っ越す前のご近所さんの連絡先・・・もちろん消去。
実家のご近所さんは、万が一なにかがあると必要かな・・・。
小学校の時の友達・・・懐かしい。みんな元気かなあ。
今頃みんな何してるんだろう。
ソファにごろんと寝転がって、指だけ動かして黙々と作業していた私。
ある名前が目に入って、口をポカンと開けて固まってしまった。
「・・・先生・・」
名前を見ただけで、当時の記憶が一気に蘇った気がした。逆に、なんで今まで忘れてたんだろうって不思議に思うくらい。
先生は高校の時に通っていた個人塾の理数の先生で、
・・・私が大好きだったひと。
先生は落ち着いた優しい声で話す、穏やかな人だった。
でもすごく頭が良くて。先生やってるんだから当たり前かもしれないけど、数学もどんな問題でもスラスラ解いちゃって、教え方も分かり易くて。
集中力が切れた頃に、先生が飼ってる熱帯魚の話やカメの話、趣味でやってるカメラの話とかをしてくれたりして。
その塾は担任制の個別指導だったから、三年間ずっと先生と二人で話せる塾の時間が楽しみだった。
バレンタインの時にはこっそりクッキーを作って渡したりして、ホワイトデーに可愛いブレスレットをもらって飛び跳ねるほど嬉しかったのを覚えてる。
「懐かしいな・・・」
三年間、塾で週に二回会って、ずいぶん親しくなったつもりでいた。
あの頃の自分に言ってやりたい。
先生にとって、ただの生徒の一人でしかなかったんだよって。
勘違いしちゃダメだよーって。
大学合格を知らせに塾に行って、先生に「合格祝いにデートして!」って、無理矢理誘った。・・・今思うとすごい恥ずかしい。
小娘に誘われて、先生も迷惑だっただろうなって。
私は舞い上がってたから、とにかく嬉しかったことしか覚えていない。
映画に連れてってくれて、そのあと喫茶店でパフェを食べさせてくれた。
何をしゃべったのかも思い出せない。
ああ、とんでもないこと言ってたらどうしよう。
最後の最後のワガママで、先生のプライベートの番号を教えてもらった。
塾ではそういうのは禁止されてるって、ずっとお願いしても絶対に教えてくれなかった番号。
「もう塾は卒業したんだからいいでしょ!」って言ったのをぼんやり覚えてる。
ああやっぱり私、超ハズカシい小娘だ。
とは言っても、あれから・・・もう十年以上経ってるし。
え? もうそんなに経ってるの!? 自分で言って驚いちゃった。
先生の番号も、もう変わってるに決まってる。
消してもいいよね。消すべきだよね。
でも、
・・・・消す前に、ちょっとだけ、掛けてみようかな。
繋がらなかったら、消せばいいし。
変な人が出たら、間違えましたスミマセンって言って切ればいい。
ちょっと、掛けてみるだけ。
ドキドキドキドキ。こんな緊張感、久しぶり。
子どもの頃なにかイタズラして、バレるんじゃないかってドキドキするみたいなそんな高揚感。
プルルルッルルル・・・
五回、六回、呼び出し音が鳴って、もう切ろうかなと思った、その時。
「はい」
男の人の声。
え? まさか?