それなんて歌?
「それなんて歌?」
無意識の内をつかれた狼狽で、俺はうまく声を出すことができずに口をぱくぱくと小さく開閉することしかできなかった。それくらい、俺にとっておどくべきことだったのだ。
声のした方角――ちょうど真後ろにそいつはいた。見なくとも、存在のかたまりがどっぷりと立っていることがわかる。
徐々に、かつ慎重に、首をその方向に巡らせる。緊張の刹那。「できることなら逃げ出せ」という弱気な命が神経をなめるように伝った。そのせいか、全身にじっとりとした冷や汗が流れるのだった。
唾をひと飲み。乾いた上唇を舌で舐めた。
「やぁ……三荻さん」
その言葉には生気がなかった。
補いとして、でたらめな愛想を笑いを口元に張り付かせながら。
「で、なんの歌?」
ぎくり、という擬音を、いましがた俺はたしかに聞くことができた。
「なんの歌って……ああ、それはエリック・サティなんどけど――知ってるかな? そのサティの、ジムノペディ。一度ゆっくり聴いてみるといいよ。きっと心地良い気持ちになれるから」
じゃ、と言った後。平静と自然を装って、俺は足早にこの場から離脱することを決行。なぜって。それは俺がこの三荻が苦手なことも理由の一つだ。
――大げさに音を立てて席から立ち上がり、出口の方向に踵を返す。ちょうどよく、ここは図書室だ。気を遣って小声で話しかけてくれた三荻には悪いけど、そういう状況を作らせてもらう。
俺と三荻の二人に、さきほどまで読書や勉強に勤しんでいた数人の視線が注がれていた。哀しいかな、俺たちは音を発生しすぎたのだ。つまり、当然であり暗黙のルールに則って、この図書室から退室しなければいけない。反論の余地はなく、周囲の嫌悪に満ちた視線がそう申していた。彼らの目にはひどく悪印象に俺たち二人は見られていることだろう。常識知らずのバカップル、と。
我ながら実に狡猾な手段だと自負する。この難攻不落、袋小路とも思える窮地から脱出の糸口をつかんだのだ。あっぱれあっぱれ、めでたしめでたし、まさに大団円。どこからともなくファンファーレが鳴り響いているのを聴いた。
慢心した気持ちと面持ちで偉大なる一歩を踏みだそうとしたとき。
どうしてか――足がぴたりと止まる。リノリウム張りの床からは小気味良い単音が発せられた。これはおかしい、とすぐに勘付いた。
何が起きたのか……俺の中では、新聞の一面と等級のトピックがそこにあった。手には生温かい人のぬくもりと感触。そして、あれほど気にしていた気配がすぐそばに感じられた。
ああ――と、俺はすぐに状況を理解した。こうなったらもう俺は逃げることができない。チェックメイト、戦況がそう告げていた。
茜色に染まる廊下、ここで俺の独白が始まった。
「実は、ユーコちゃん推しなんだ、俺。ああそうだ。三荻さんにも今度CD貸そうか。ちょうど俺、同じモノ五枚持っててさ……」
そうして、横を歩く三荻は、してやったりといった表情で微笑むのだった。