おもくい
どこか遠くで声がする。
まどろみという薄い膜の向こうから聞こえてくる。
「獏って知ってるか?」
それはよく知っている声だった。
年のせいか妙に粘っこい息をつく人だった。彼女の前では決して吸わなかったが、常に煙草の匂いが纏わり付いていた。
(師匠……)
それは――よく知っていた声だった。
言葉を契機に記憶が揺り起こされ、その声、その言葉を聞いた時のことを思い出した。
まだ修行中の幼い自分と、それを見守る師匠の姿。そこまでははっきりと思い浮かんだ。あれはどこでのだっただろうか。いつもの庵の側か? 裏山か? はたまた遠出した時のことだっただろうか。
ぼんやりとしている。
しかし言葉だけは鮮明に覚えている。
「獏っていうのは、人の夢を喰って生きてる獣だ。悪夢を喰って人を守ってくれるんだ」
そして、片膝を立てて腰を下ろした師匠は、傍らに控えるモノを撫でた。
硬い藁を針金で縛り上げて、針鼠のように仕立て上げたものをイメージすれば、おおよそ近いだろう。ただしそれは針鼠より遙かに大きく、その発達した四肢や体格からすれば狼や豹のようにも見える。
「こいつらは獏じゃあないが、似たようなもんだ」
そいつは、一度ぶるっと上半身を奮わせて、不満げに師匠を睨んだ。
「こいつらは夢は喰わん。だが、その代わりに人の想念――想いを喰うんだ。夢喰いならぬ想い喰いだな」
師匠は忌々しげに口を歪ませると、そいつの背をそっと叩いて、こちらの方へ促した。のそりと前へ歩み出たそいつは、巨大な犬歯の突き出た鼻面を彼女に寄せた。
「とりわけこいつは人間様の悪意ってやつが大好物で、そればっかり選り好みして喰いやがる。そのせいでこんなに不細工なツラになっちまった」
確かにそいつはどう控えめに見ても穏やかな面相の般若だったが、彼女には鼻の突き出たパグ、くらいにしか思えなかった。
そんなことないよ。大人しいし、可愛いよ。
口を尖らせてそう反論する。
「そいつが行儀良くして、可愛いのはお前の前でだけだ」
師匠は憎々しげに吐き捨てた。
「そいつはいずれお前の相棒になる。なんと呼ぶかは、お前の好きにするがいい」
彼女はとびっきりの良案を思いついた顔で、
じゃあ、おもくい――想い喰いだから、オモイがいい!
そう言った。
……そこで記憶の再生は途切れた。
師匠の姿も、醜い獣も、小さな自分も、砂のように崩れ落ちていく。
精密精緻なそれらの砂像の中で、師匠の顔だけがのっぺらぼうだった。
最初から最後まで、どうしても思い出せなかった。
不意に気配を感じて彼女は目を覚ました。
「オモイ?」
彼女を起こした気配が、頬に鼻面を押しつけた。
時刻はとうに宵を過ぎていた。
彼女が身を起こした場所は、ちっぽけなビルディングの屋上だった。室外機の隙間に収まるように横たわっていた。
ビルディングの中ではまだ空調を効かせているのか、室外機の音とそから吐き出される生暖かい空気だけが流れている。人の気配はない――が、眼下を見下ろせば、街の明かりの中を人々が行き交っていた。
この街で人が眠りに就くことはない。
振り返ると、ビルディングの向こう、街頭に浮かび上がる緑化公園があった。池をぐるりと回る遊歩道と、それらを囲むように植えられた雑木林。不自然ではあるが、そこには自然があった。しかし、その作られた自然には野生に感じられるような生命の息吹が希薄だった。
その緑化公園を渡る人影があった。
人影を目にした途端、彼女の気配が引き締まった。彼女の目が、その人影の背から立ち上る禍々しい陽炎を捉えた。
それは日中にあっては、陽光に紛れて見えることはない。深く沈んだ宵の闇。そこだけが薄暗いオーラを際立たせるのだ。
彼女は立ち上がり、一瞥もくれず呟くように言った。
「オモイ、行くよ」
言うが早いか、突如コンクリートの地面を蹴って疾駆し、屋上を囲むフェンスを一足飛びに跳び越えて空中に躍り出た。さらにその背後から彼女身長に倍する大きな躍動が飛び出し、追い越した。
躊躇もせずその筋肉の塊の背に、藁のような毛を掴んで乗る。
それはあの醜い獣、オモイだった。だがその体躯は最早犬や狼などの範疇には収まらない、大型肉食獣のそれだった。
ビルディングの壁を駆け降りて、一陣の風と化したオモイと彼女は緑化公園の木を薙ぎ倒す勢いで縦断した。
急制動をかけて止まったオモイから、慣性の法則に身を任せて飛び出した彼女は、くるりと回転して勢いを殺し、公園の街頭の降り立った。
目前には先程の人影――よれたスーツのサラリーマンがいた。肩から立ち上るオーラでその表情は定かではない。
男が不審げに身じろぎした瞬間、
「恨まないでね――」
言葉と同時、一瞬で距離を詰めた彼女の鋭い蹴り足が、サラリーマンの側頭部に突き刺さった。
脳震盪を起こしてふらつく男の背に素早く回り込み、倒れそうになる身体を羽交い締めにする。彼女はまだかろうじて意識を保っているらしい男の耳元で囁いた。
「悪いことは言わないから、大人しくなさいな。このままほっとくと、後戻り出来なくなるよ」
オモイがのそりと男の前に立つ。
醜悪な黒い獣。錐のように鋭い牙から白い靄を伴った呼気が漏れる。
その姿を目にするや、恐慌に駆られた男が暴れ出した。それを宥め賺しながら、必死に取り押さえる。
「ちょ、こう見えてもオモイは人間に危害を加えられないんだから、大人しくしろ――このっ!」
後頭部に力一杯の頭突きを入れると、二度目の震動は効いたと見えて男の身体が脱力した。
「オモイ、今だ!」
ジンジン痛む額にたんこぶの予感を覚えながら、彼女はオモイをけしかけた。
獣の身体が割れる。
限界まで開いた口の端からバリバリと音を立てて、横一文字にオモイの身体が裂けて開いていく。人間を一飲みに出来るように。そうして胴体の半ばまで開いた後、オモイは男を頭から齧り付いた。
寸でのところで身を離した彼女は、その様子を見守った。
文字通り全身を使ってオモイは咀嚼する。時折開いた口の隙間から湯気が漏れた。
数分もそうした後、オモイはおもむろに口内のものを吐き出した。まるで味のなくなったガムのように。
街頭の光の下で大の字になって伸びる男の身体には、先程の暗いオーラは微塵もなかった。口の中で転がされていた割りには、唾液のようなものも付いておらず、それどころかよれよれだったスーツに少し芯が入ったようでさえあった。
「さて、と」
男に近付くと、億劫そうにその懐を探って財布を取り出す。中折れ財布を開くと、万札が数枚挟まっていた。クレジットカード類には目もくれず、万札を何枚か失敬する。
「悪いね。授業料――じゃないな。今後の人生の軌道修正をしてもらったと思って、ありがたく出しといてよ。単に死ぬ以上の偉い目に遭うところだったんだから、安いもんでしょ」
もう興味が失せたとばかりに財布を男の腹に投げ捨てて、彼女は踵を返した。
遊歩道を街の明かりの方へ向かって歩いて行く。
そっと、その後ろに黒い獣が寄り添う。
宵闇の公園を照らす街灯の下を通る時だけ、彼女の背から立ち上る微かな光が……
了
『フリーワンライ企画(http://privatter.net/p/271257)』5/24開催の第二回のお題「可愛いのはお前の前でだけだ」で執筆した。
期日はとっくに過ぎているが、次回参加へ向けた練習ということで。
だいたい一時間、かな? 三十分近くオーバーした気もする。負け。
分量はまあ個人的には悪くないと思うけど、冷静に見ると「彼女」の容姿とか全然描写してないな。三人称の体だけど基本的に「彼女」の視点だから……ね? そういうことで。今後の課題。
第三回6/1は参加出来るかな?