第16話 小さな青空教室
「んんっ~~! 暖かくて心地いいなぁ」
「いいお洗濯日和ですわね」
泡まみれの腕で背伸びする俺の独り言に、メルディは話を合わせてくれる。
相槌を打つような自然な返しが心地よい。
作業に戻り、衣類を板にゴシゴシと擦りつける。
これは、ガルアに作ってもらった洗濯板だ。
あの日、ダエルさんはコレを持ち帰るのを忘れていた。
俺もその場に居たのだが……すっかり忘れていた。
それを翌日になって気付き、ショックで変顔になっているのを、みんなに笑われた。
特にミイティアは、お腹を抱えて苦しそうに笑っていた。
「おっちょこちょいのマサユキ様」
はっ!
メルディはニッコリとほほ笑む。
「し、仕方ないでしょ! 洗濯板を見ると思い出してちゃうんだから!」
「そうですわね。あの時のマサユキ様のお顔は……とても印象深かったですわ。フフフフ」
「もお!」
なんとも言えない気持ちが胸をモヤモヤとさせるが、これは洗濯物にぶつけることにする。
「こんなに簡単に済んでしまいますと、なんだかお洗濯をした気になりませんわね」
「全自動洗濯機があれば、もっと楽になると思うよ」
「それは『洗って』『乾かして』『畳んで』くれたりするのでしょうか?」
「そんなに万能じゃないよ。洗って、乾かすまで」
そう、メルディには俺の前世を伝えてある。
後で知ったことだが、俺が『この世界の人間でなかった』ことは薄々感づいていたらしい。
本も読めないのに、異様に物知りな俺に違和感を感じない訳がないからだ。
前世について打ち明けると決心した後は、止まらなかった。
彼女は黙って聞いてくれた。
感づいていたこともあり、大きく驚くことも無かった。
そして、この世界で天涯孤独となった俺のために泣いてくれた。
心のつっかえが取れたようだった。
彼女は決して俺を裏切らないだろう。
俺も彼女のためにも頑張らなければならない。
そんなことを思い耽っていると、
メルディは何も言わずに微笑む。
やっぱり、メルディはすごい人だ。
◇
そうこうする内に洗濯は終わった。
汚れた水を近くの草原に棄て、俺たちは家に戻る。
余談にはなるが、汚れと石鹸で濁った水は直接小川には流さないことにした。
その代わり、仕上げの水洗いは小川で行うことを許容した。
こうすることに確固たる根拠はない。
石鹸はとても環境に優しいと言われているが、微量ながらも環境汚染をするはずである。
長い年月で見ても、大した事がないかもしれない。
急激な土壌汚染をするわけでもないだろう。
しかしそれは、『前世と同じ環境』だった場合だ。
この世界は前世に近い環境だが、必ずしも同じとは限らない。
特別な浄水処理施設がある訳でもない。
将来、石鹸が普及して一般の人でも気軽に使えるようになった時、水質汚染の原因になったら怖いからである。
俺の住んでいた日本は、世界的にも水に恵まれた国だった。
蛇口を捻れば透明で綺麗な水が出るのが当たり前で、水を浄化する処理施設のおかげで水質汚染の事例もほとんどない。
しかし、世界に目を向けると水質汚染はかなり深刻だ。
泥水のような濁った水を飲料水とする国もある。
糞尿だけでなく、すべての排水が川に流れ込み、それで体を洗い、その水を飲料水とする国もある。
宗教的に遺体を川に流す習慣がある国もある。
工業廃水で酷く汚染された川や海もある。
水が透明であるという認識は、日本と一部の先進諸国だけなのだ。
汚れてしまった水を改善するのには何十年も掛かる。
この世界は科学技術は後進的であり、自然の恵みに頼った生活をしている。
自然の恩恵を一方的に頼っている状況で、環境の改善まで自然に押しつけてしまうのは、人として罪を感じずにはいられない。
この石鹸はそういう推論の元、取り扱いには注意を払っているが……。
いずれ環境被害と浄化施設などの理論を完成させるつもりだ。
猿真似だとはいえ、『この世界での石鹸の発案者』として責任があると思うからだ。
改善策ができるまでは、これが一つの作法として認識を広めるための実例として、汚水を草原に流すことにしている。
小さな決意を確認し、広く澄みきった空を眺めながら家に向かう。
◇
家に着くと、メルディは洗濯物を干し、俺は授業の準備を始める。
そう! これから青空教室が始まるのだ。
今日はメルディが先生をして、文字の授業を行う予定である。
依頼していた黒板は思ってたより早く出来、翌日の夕方には届いた。
ついでとばかりに、ノート代わりの小さな黒板と、生徒用の簡易的な椅子。
あと、チョークが折れないように挟む、添え木のような『チョーク挟み』の製作もガルアに依頼した。
色々と小物ばかり依頼してガルアを小間使いのようにしているが、彼は快く引き受けてくれた。
そして翌日の朝、ガルアが大荷物でやってきた。
椅子を縄で縛って背負い、両手には小さな黒板の束と、チョーク挟みを入れた袋を持って。
仕事が早いのはいい。
単に面倒だったのかもしれないが、一人で背負い込むのは俺と同じところがあると感じてしまう。
石鹸が売れてお金が入ったら、その分もちゃんと支払ってやりたい。
黒板の台座を持って広場に向かおうとすると、ガルアがやってきた。
「おはよう」
「ああ」
昨日から授業を始めたこともあるが、ガルアは昨日もこんな感じだった。
メルディやミイティアにはちゃんと挨拶するのにな……。
ガルアは何も言わずに黒板を持ち上げ、準備を手伝う。
広場に黒板の台座を置き、黒板を設置する。
椅子を持ってきて、その上に小さな黒板とチョークを付けたチョーク挟みと、黒板消し用の布切れを置く。
これで準備完了だ。
準備が終わると、授業が始まるまでの時間でガルアと剣の稽古をする。
授業前に怪我をする訳に行かないので、岩や枝、木片などを排除した広場で行っている。
しばらくすると、父親に連れられた子供たちがやってきた。
メーフィスとラミエールだ。
実は先日、ガルアに頼んで村の子供たちに生徒募集の勧誘してもらった。
もちろん、授業料はタダだ。
しかし、大半のご両親には『魔獣の出る季節』という理由で反対されたそうだ。
ガルアはメーフィスとラミエールのご両親に、送り迎えに護衛することと、俺がダエルさんの息子だということで、やや強引に承諾を取り付けたそうだ。
なぜ俺が理由になるのかは、分からないのだが……。
それにしても魔獣の出る季節なのに、ガルアの家はずいぶん放任主義だなぁとも思う。
そんな訳で、メーフィスとラミエールは初登校の日なのだ。
簡単に挨拶を交わした後、2人の父親は仕事に向かっていく。
残された2人は少し緊張しているようだ。
メルディがやさしく2人を席に誘導する。
メーフィスとラミエールはオドオドしながらも、席に着いた。
ミイティアは……と思ってたら、ミイティアが家から飛び出してきて、みんなに挨拶するとサッと席に着く。
俺もガルアも席に着く。
さあ、授業が始まるぞ!
◇
「皆様、おはようございます。では授業を始めます。起立! 礼! 着席!」
こういった礼儀は俺が教えた。
最初は形式になってしまうだろうが、礼儀は大事だ。
今日の授業は、簡単な文字の読み書きをする予定だ。
黒板に文字を書き、メルディ先生が読み方を発音する。
それを生徒が復唱する。
その後、小さな黒板で書き取り練習をする。
今日の授業はメルディが行っているが、俺と日替わりで授業をする。
メルディが担当する授業の最終的な目的は、文字で手紙を書けるようになり、本を読めるようになること。
それから礼儀作法、店での商品の選び方、交渉術、料理や獣の捌き方など、一般生活で必要となる知識の習得だ。
俺の担当は算術に始まり、治療方法、商業取引の考え方、経済学、設計書の書き方、物理化学、地学に生物学、測量方法など。
あと希望者だけで剣術、体術の授業も行う。
項目は多いが教師として知識を習得したわけではないため、俺の場合は教える工夫に苦労しそうだ。
特に、前世と異世界との知識の整合性は重要だ。
間違えたことを教えても意味がない。
そのためにも早く本を読めるようになる必要があるのだ。
それに、将来外の世界に旅に出ることを考えると、野営方法や街での振る舞い方、地図の読み方や危険の察知方法、戦闘になった場合の戦術など、学ぶべきことが山積みだ。
時間があるとはいえ、なるべく早く習得したい。
◇
授業が終盤に入ると、みんな疲れてくる。
休憩を挟む必要がありそうだ。
時計があるかは知らないが、原始的な時計なら作れそうだ。
その内、準備してみるか。
授業中だというのに、ガルアはウトウトしいて、今にも眠ってしまいそうだ。
「寝るなよガルア。教えるのは案外大変なんだぞ」っとツッコミを入れようと思っていたら……俺が怒られた。
よそ見をしていたことを怒られたようだ。
一緒にガルアも怒られる。
そろそろお昼時ということもあり、本日の授業は終りになった。
ミイティア、メーフィス、ラミエールはグッタリしている。
慣れない授業ということもあるが、まるで夏期講習を受けている感じだ。
ガルアは……木剣を振り回し、気分を入れ替えているようだ。
家の中からリーアさんが出てきて、声を掛ける。
「みんなご飯よー!」
みんなで家に向かう。
でも、メーフィスとラミエールの表情は固い。
昼食をここで取ることは聞いてるはずだけど、緊張しているのだろうか?
メルディが優しく声を掛ける。
「さあ、一緒に食事にしましょう」
「は、はい。ありがとうございます」
「……ありがとう、ございます」
メーフィスとラミエールはぎこちない返事をする。
さすがメルディと感心しつつ、俺から2人に話し掛けながら家へ向かう。
◇
昼食を取り終えると、メーフィスが話し掛けてきた。
「マサユキさん。明日はマサユキさんが先生をすると聞きましたが、どんなことを教えて貰えるのですか?」
「うん。明日は算術をやる予定だよ」
「算術ですか! 楽しみです」
「メーフィスは将来、商人になりたいの?」
「いえ。父のように工房員になりたかったのですが……。僕はひ弱ですので工房で接客をやりたいと思っています」
「なるほどね。それなら必要な知識は多そうだ。ところで……メーフィスは今年でいくつになるの?」
「今年で12歳です。妹は11歳です」
ラミエールを見ると、気付いたのか頭を下げてくる。
「俺と大して変わらないね。『さん』付けはいらないと思うよ」
「いえ。マサユキさんは博識ですし、僕の先生になります。これでいいのです」
「そうか……。うん、分かった」
「父から聞いたのですが、マサユキさんは工房の有名人らしいですね? なんでもすごい発明をしたと聞きました」
あれ? 最重要機密じゃなかったのか?
石鹸に関しては秘匿しているのだろうが、こんなにも有名だといずれバレてしまいそうだな。
俺自身を最重要機密にしてもらえば良かったかな?
……まぁいい。気を付けなきゃ。
「いや~発明と言っても、工房の人たちの力と、木工職人のアンバーさんがいたからこそ実現できた物なんだよ。それにすごいと言えば、ガルアはすごいよ。注文した物はすぐ作ってくれるし、手先が器用だから想像以上の精度で作り上げちゃうもの」
「へえ~、ガルアが」
「知ってるかもだけど、ガルアはああ見えてすごい人想いのいい奴だからね。この前ミイティアが怪我した時なんて、すごい勢いで水汲みをしてくれたし、俺にも喧嘩で勝ったしね。でも、彼みたいになっちゃダメだよ」
「おい! 適当なこと言ってるんじゃねえ!」
ガルアはソファーに座り、背中を向けたまま俺にツッコミを入れる。
見ると、小刀を使ってチョーク挟みの持ち手部分を削っている。
どうやらミイティアとラミエールのチョーク挟みの調整をしているようだ。
なんだよ。やっぱり思った通りじゃん。
だが! そこで作業をするな!
床に落ちた木屑はメルディが掃除するんだろうからな!
なんやかんやで騒ぎながら昼食後の休憩が終わり、メーフィスとラミエールを俺とガルアで護衛して家に送り届ける。
◇
2人を家に送り届け、途中でガルアと別れた。
家に着くと、メルディとミイティアが教室の後片付けをしている。
急いで向かう。
「俺も手伝うよ」
「お帰りなさいませ。マサユキ様」
「お帰りさない。お兄様」
3人で片づけを済ませる。
今度から授業の後にでも片づけよう。
それにしても……ミイティアが起きているとはちょっと驚きだ。
たぶん、この後寝ちゃうんだろうけど……。
◇
予想通り、一休みしてる間にミイティアは寝てしまった。
ミイティアをベットに寝かせ、1階のソファーでゆっくり寛ぐ。
メルディも仕事を終えて、一緒にお茶を飲みながら簡単な授業の反省会をする。
反省会が終わり、しばらくボーっとしていたら……横でメルディが寝ていた。
朝起きるのは早いし、家の仕事を手伝っている上に授業や準備、さらに俺や子供たちへの気遣いもある。
疲れてしまって当然だ。
そっと立ち上がり、棚にあった布を彼女に掛けてあげる。
彼女の寝姿は……絵なる。
触れたい感情を抑え、リーアさんにお願いして不要な布をいくつか受け取り、小屋に向かう。
◇
小屋に着くと、乱れた息を整えながら小屋に入る。
持ってきた荷物を一端棚に置き、棚から石鹸の詰まった2つの木枠を取り作業台に置く。
木枠は2種類。『印のある物』と『ない物』だ。
印の入った木枠の石鹸は固まっていた。
印のない方はまだ固まりきっておらず、もう少し時間が掛かりそうだ。
今確認しているのは検証実験の結果である。
まずは印の入った木枠の石鹸からだ。
石鹸を少し削り、水を垂らして確認してみる。
例の如く、良い泡立ちだ。
最初に完成した物との違いはない……。
たぶん、同じ物が出来たと思う。
次に、印の無い方を検証する。
こちらは無心で作るようにした石鹸である。
印有りと同じ方法で検証したが、泡立ちは印有りほどではない。
割と普通である。
印有りの方には、石鹸は完成後のイメージを想像していた。
メルディが風呂場で髪を洗い、体を洗っているイメージだ。
ほのかに香る石鹸の香り。スベスベの肌とサラサラの髪。
みんなが喜ぶ顔を思い浮かべながら、丹念に仕上げた。
その結果、イメージとほとんど差がない石鹸が出来上がった。
しかし、初期の頃の石鹸は失敗続きだった。
まったく固まらなかったのだ。
あの時点では、思惑通りの原材料なのか分かっていなかった。
だから、『失敗するかも?』と思った。
そのイメージが反映されたのかもしれない。
いや、そこまで万能なら普段の生活にも影響があるはずだ。
ということは……ある特定の物に集中し、強いイメージを込めることで発動する。ということだろうか?
それなら一応理屈は通る。
ってことは、メルディの俺への執拗なアタックも! ……いやそれはないか。
俺は距離を置きたかったのに態度は変わらなかったしな。
それに、ガルアの俺への扱いは変わっていない気がする。
……止めよう!
これは脱線し過ぎな気がする。
あと思い当たるのは、腕の怪我の治療だが、
痛みが強かったが集中していた。
傷の具合も確認していたし、どのように治って行くのかも想像した。
だから、異常に速い速度で治癒してしまったのかもしれない。
だが、腕は未だに痛むことがある。
切り傷の治癒速度と、骨の治癒速度には差がある。それなら理屈が通る。
そして、最大の疑問。
この世界にやって来た時の現象。
あれは完全に理解の範疇を超えている。
少なくとも俺の力でも意思でもないし、この検証結果とは関連がないと思う。
若返りも関係ないと思うが……。
頭をブンブン振り、考察をやめる。
今すぐ結論を出さなくていいや。いずれ実験なりで結論を導き出そう。
「よし、次!」
リーアさんから貰った布を取り出し、作業台に置く。
それを剣で切り裂く。
剣の切れ味が良いのかスイスイと切れていく。
さすが、親方さんの剣だ。
布を縦に細く切り、1個ずつ丸める。
これは包帯だ。
別の布を取り出し、こんどは少し大きめに切る。
これは止血用の抑え布。
余った布を更に細かく切る。
これは手術用の血溜まりを吸わせる布だ。
小屋の棚を物色し、口に咥える用の適当な木を用意する。
表面はざらついているが、一先ず使えるだろう。
もっといい形の物をガルアに依頼してみるとするか。
袋の中を確認する。
水筒が1本入っている。
これは傷口を洗い流す用の水だ。
あとは、手術用のメス、ピンセット、縫合用の針。
これは親方さんに依頼してみるとしよう。
ついでに、これらの道具入れをガルアに頼んでみるか。
確認を終え、袋に詰め込む。
腰に付けるが、少し不格好だ。
物は多いし、サイズも合っていないから仕方ない。
一杯詰め込める魔法の鞄とかはないのだろうか?
でも……あれってどうやって中の物を探るんだろうか?
……まあいいか。
妄想を切り上げ、次の作業に入る。
次は石鹸の準備だ。
棚から石鹸の詰まった印入りの木枠を1つと、特級表示の木箱を4つ用意する。
木枠には、棒状の石鹸が4本詰まっている。
石鹸を傷付けないよう、慎重に木枠を分解する。
「おっと!」
ツルンッ! と石鹸が木枠を滑り、床に落ちてしまいそうになった。
これは前回とは違う反応である。
落としても品質は変わらないとはいえ、特級表示の商品としては致命的だ。
落とさなくて良かった。
「ふぅ……。危ない危ない。これ1本でいくらになるんだろうか?」
試しに簡単に計算してみる。
1本から普通サイズの石鹸が10個作れるとして、1個当たり金貨1枚とすると1本金貨10枚。
大体300万くらいか。
とはいえ、1個金貨1枚って、高くないか?
石鹸は結構高いと言ってたし……まぁこんなもんだろ。
なるべく形を崩さないよう慎重に木箱に納める。
念のため、ランダムにいくつか品質確認をする。
10本の石鹸を木箱に詰め終わり、それらを布とロープで丁寧に梱包する。
残り2本は布で包む。
この2本は工房へのお裾分けである。
まだストックはあるが、実験の比較用と家で使う用に残している。
「よし! 準備よし!」
木箱と布で包んだ石鹸を持ち、小屋を後にした。