ザ・ハイプリエステス・4
日が高いせいか、先生の目の色が暗い紫色に見えた。
それが綺麗で、ぼうっと彼の目を見上げる。
「……なんですか?」
君は、の次の言葉が出てこない。
たぶん、自分でも思ってもみなかった言葉だったのだろう。すこしばかり、身体が硬直している。
「おれが、……どうしたんですか?可哀想って、言うんですか?他の人とは違うって言うんですか?」
自分は今、何を言っているのだろう。
けど、たぶん先生に特別扱いされたくなかったのだと思う。
自分が今言ったことは、先生に言ってほしくない言葉だ。
彼は、初めて真を見たときでも、表情に出さなかった。ぎょっとすることもなかったし、対応もごくごく普通の生徒と同じだった。
それが少しだけ、好ましく思ったのだけど。
この先生も、同じなのだろうか。
先生の目が、真を真っ直ぐに見下ろしている。
無表情のまま、やっと口を開いた。
「確かに、君は他人とは違う。だが、違う事が将来何になる。まっとうな生活をしていれば、誰も文句など言わないだろう」
暗に、真はまっとうな生活をしていない、と言われているようで、歯を食いしばって俯く。
悔しくて手がふるえて、なさけない。
確かにまっとうじゃなかったかもしれない。
自分を卑下して、貶して、悲劇のヒーローぶっていたのかもしれない。
それをずけずけといわれてしまえば、何も答える事も出来なくなる。
ずっ、と足を引きずって先生のすぐ隣から走って逃げた。
悔しい。
悔しい。すごく、悔しい。
先生が持っていた自分が買おうとしたビニール袋の存在さえ、忘れていた。
思い出したのは、自分の部屋に飛び込んだ後だ。
壁に背中を押し当てて、膝に額を押し付ける。
ぼろぼろと目から涙が出てきた。
最近はまったく泣いていなかったのに、どうして先生に言われただけでこんなに悔しいのだろう。
すこしでも、好ましくおもっていたからだろうか。
たぶん、そうだ。
ぐいっ、とトレーナーの袖で涙をふいて、暗くなりかけている空を見上げる。
濃紺の空の色は、見ているだけで気が晴れるような気がした。
そうだ。
こんなにきれいに移ろう空を見ていれば、今の自分の思いなんか吹き飛ぶ。
もう一度、コンビニに行って自分のお金で買おうとバッグを持って、扉を開けた。
ごつん、
という何かがぶつかる音がして、足元を見下ろす。
靴があった。
いや、靴だけではない。そこから伸びる足も、あった。
嫌な予感がしながらも、のろのろと視線を上げていく。
その予感は当たって、そこには雪が積もった人間が立っていた。
「……せん、せい……」
「……」
ずい、と出されたのは、昼にコンビニで買ったもの。
頭と肩、そして腕にも足にも雪が積もっている。
相当な吹雪だったらしい。
呆然と、それでも反射的にそのビニール袋を受け取ってしまった。
それからぐるりときびすを返して去ってゆく。
「ち、ちょっと、せんせ、ま、待って!」
あまりにも驚いてしまった所為で、噛んでしまった。
それでも彼は立ち止まらない。靴下のまま外に飛び出して、走る。
先生を引き止めてどうするかなんて、分からない。
そうだ、お金を返さなければならないのだ。
「お、お金……!」
ぴたり、とようやく立ち止まった場所は、寮のエントランスのあたりだった。
再び機械のようにくるりとこちらを振り向く。
「君は、奢られ慣れていないのか」
「え?」
「そう言おうとしたのだが。君がなにか勘違いをしていたようだな」
「……!!」
顔が強張る。
馬鹿だ。
馬鹿だ。
自分は馬鹿だ。何を墓穴を掘っているのだろう。
ばっ、と先生から顔を背けて、羞恥でぶるぶるとふるえる手をどうにか押さえ込む。
「す、すみませんでした……。そ、その、自意識過剰だったと言うか……」
頭を下げて謝ったが、先生は何も言ってはくれない。
沈黙が痛い。
こんなところを須磨たちに見られたら、何て言い訳をしたらいいのだろう。
「君が気にすることはない。悪いことをしたというのなら、自分のほうだ」
「え?」
「一言、足りなかった」
では何だったのだろう。
「君がまっとうな生活をしていないと捉えてしまったようだが、自分はそう言いたかったのではない」
「……?」
髪の先から、ぽたりぽたりと溶けた雪水が床に落ちてゆく。
濡れてぺったりとした前髪から、鋭い目がちらりと見えた。
きれいな、藍墨茶色にも似た、薄い色をした目が。
「君は、まっとうな生活をしていた。内申書を見れば分かる。紙切れ一枚だが、分かることもあるし、分からないこともある。見てみなければ、実際は分からない。だが、君の内申書の内容は、まっとうだ。勉学も、生活態度もすべてまっとうだ」
「……おれは」
そんなんじゃない。それは、父が自分に求めた唯一のものだから、叶えようとしただけだ。
首をふろうとしたが、それでも先生はなおも続ける。
「まっとうじゃなかったのは、まわりの大人たちだろう」
先生の声がわずかに掠れた。
それでも、初めて聞いた。まっとうじゃなかったのは、大人だ、という言葉を。
先刻まで沈んでいた心が、すこしだけ浮上する。
それでも、自分にも問題があったのだろう。
「……ちがいます。おれが、自分なんか、って卑下してたから。きっと、中学校の先生たちも呆れたんだと思うんです」
「……」
先生は何も言わずに、まばたきを数回した。
よく見ると先生は、とてもきれいな顔をしている事に気付く。
目は鋭いけど、決して目つきが悪いというわけではない。
「君の気持ちは、君にしか分からないだろう。それは、人間誰しも同じことだ」
「そう、ですね」
「人間はすれ違うものだから、落ち込むのだろう。では、これで失礼する」
「ま、待ってください!」
髪の毛が濡れて、モッズコートにも雪が積もっている。
そんな人を、はいそうですかと帰せるほど、冷たくないはずだ。
そう思えたのは、先生の言葉があったからだろうか。
理解できていないような表情をしている先生の腕を掴んで、自室に再び戻った。