―眠るのが怖くなる理由―
「ねぇ、杏奈は『眠るのが怖くなったこと』ってある?」
私の問いかけに隣で本を読んでいた杏奈は顔を上げる。
彼のすらりとした指が、ページを捲ろうとしたまま動きを止める。
「何ですか、それ?」
何と問われても文字通り、言葉の通りのことである。
そして、私は私自身にその問いをするとしたら、答えは”NO”である。
「あのね、眠るのが怖いって言ったのよ。
そして、それには理由があるのよ。」
「だから、何なんですか?いったい誰が言ってたんです?」
そう言って杏奈は訝しげに私を見やる。
紅い髪、紅い瞳・・・私や彼も含め、多くの人がこの色を持つ。
「・・・・・・さん、紅姫さん?」
「えっ・・・?」
はたと気づくと不思議そうに杏奈が私を見てる。
その紅い瞳は”彼”を思い出させる。
高い高い塔の上。
遠い昔に過ぎ去った春を、ただただ待ち続ける人。
「え、じゃ無くて奇妙な問いかけをしたまま黙り込まないでください。」
不満そうな顔をして杏奈は私を見やる。
こういうときだけ、普段大人っぽい彼が年下であることを再認識する。
・・・とは言っても私も彼もいい年した大人なのだけど。
「あぁ、ごめんなさい。昔お姉ちゃんが言っていたのよ、『眠るのが怖い』って。」
意地っ張りで強がりで、人に頼ることが苦手だった私のお姉ちゃん。
遠い昔にヒナ君と、叶うことのなかった桜の下での再会を約束した人。
「彼女って・・・時々小難しいこと言いますよね。『眠るのが怖くなる理由』ですか・・・。」
そう呟いて、杏奈は考え込む。
杏奈は六花ちゃんの幼馴染で、お姉ちゃんとも顔見知りだ。
そしてその質問をされたとき、私にはまったくわからなかった。
だけど杏奈なら、その答えがわかる気がする。
「その答え、紅姫さんにはわかったんですか?」
「わからなかったわ。だからお姉ちゃんに答えを教えてもらったの。」
にっこり笑って私が言うと、杏奈は再び悩みだす。
紅い髪、紅い瞳、中性的な美貌を持つヒナ君とは違う男らしい・・・だけど綺麗な杏奈の顔。
「杏奈って・・・今いくつだったっけ。」
お姉ちゃんが亡くなって10年以上。
彼女の時は18だったあの日に止まってしまったけれど、生きている私たちは年を重ね続けている。
私、お姉ちゃん、ヒナ君。
3人は同じ年に生まれた幼馴染だったけど、お姉ちゃんは18でその時を止めた。
そしてヒナ君は、お姉ちゃんと一緒に心の時を止めた。
私だけ・・・年をとり続けている気になってしまう。
お姉ちゃんだけを愛し続けて心のときまで留めてしまったヒナ君を愛する六花ちゃん。
彼女と杏奈は同じ年で私たちよりも若いけど、それでも何年も前にお姉ちゃんの年をぬかした。
そっくりの顔立ち、まったく違う髪と瞳の色。
私とお姉ちゃんは誕生日こそ1日違うがそれでも確かに双子だった。
「年ですか?この間27になりましたけど。
そんなことより紅姫さん、ヒントください、ヒント。」
そう催促する杏奈を見てると彼と初めてあったときを思い出し、少しだけ懐かしい気分になった。
あの時幼かった杏奈ももう27になり、杏奈との結婚生活ももう5年目、私も30を過ぎた。
「ヒントね・・・逆のことなら大半の人が思ったことあると思うわ?」
「逆のこと?つまり『眠るのが怖くなくなる理由』ってことですよね?
俺には余計意味がわからないんですが。」
「あら、そう?でもその答えはとても単純で、納得できることよ。」
そしてみんな、そうなりたいと願っている。
「納得・・・できるんですか?
あ、もしかしてそれって彼女特有の変に後ろ向きな話ですか?」
「後ろ向き・・・と言うかそんな感じね。
どっちかと言うと仮定に近いかな。」
私の言葉に杏奈は答えがわかったのか、くすくす笑い出す。
お姉ちゃんの性格を知っていて、なおかつ勘のいい杏奈ならわかる気がしていた。
「紅姫さんは今、『眠るのが怖い』ですか?」
綺麗な笑みで、杏奈は問う。
そして私も、笑みを浮かべて答えを返す。
「今はまだ『怖くない』わ。
でもこの子が産まれたら、『怖くなる』かもしれない。」
そう言って私はお腹のふくらみを撫でる。
ここには、もうすぐ産まれる私と杏奈の子供がいる。
「わかりましたよ、紅姫さん。
『眠るのが怖くなる理由』は、『幸せだから』ですね。」
優しく笑って杏奈が言った答えに、私は幸せそうに笑い返した。
『あのね、紅姫。私が眠るのが怖い理由はね、今がとても幸せだからなの。
眠って目が覚めたあとに・・・もしも今のヒナの隣にいられる幸せが夢と一緒に無色になりえたら・・・私は怖い。
だから私は、眠るのが怖くてたまらない。』
幸せだから。
今の自分が幸せだと、何よりも実感できるから。
・・・だから私は怖いのです。
夢から醒めて、この幸せが無色に消えてしまったら・・・。
そう考えると私は眠ることすら怖くなる。




