08.はがれてゆく
携帯電話の電源を落とし、ポケットに滑り込ませたところで部屋の扉が開く。男は跪き、部屋へと足を踏み入れた女、環希へと頭を垂れた。
「カラス、状況は」
環希の言葉に、男……カラスは顔を上げ、常と変わらない仏頂面のまま言葉を紡ぐ。
「『使徒』は現在本国を出立したようです。本隊が邸に到着するのは明後日かと」
環希はそれを聞きながら、歩き回り何やら思考を巡らせている様子。かつん、と足を止めれば振り向いて、口を開いた。
「配置はいつも通り。カラス、お前が指揮しろ」
「了解致しました」
カラスが一礼するのを視界の端だけで捉えてから、今度は自らの足元できょとんとした表情を浮かべているルネを見下ろして、
「お前は遊撃部隊だ、ルネ。基本的にはカラスの指示に従っていればいい」
「うん……」
歯切れの悪いその返答に、軽く頭を撫でてやってから、
「ダーク」
背後へと、振り返る。
「お前は綾乃小路家へ向かえ。そちらの防衛は任せる、何人か連れていっても構わん」
「はいはい、了解でーす」
ひらりと片手を振るダーク。それを一瞥してから環希は胸の前で腕を組み、溜め息を吐いた。
「……ほら、行け」
ぱん、と手を叩いて行動を促す環希。ダークは出立の準備と綾乃小路家への連絡をしに、ルネは何やら緊張した面持ちで自室へと。
だが、カラスはそのまま部屋に残り、ちらりと壁の時計を確認してから、環希に向き直った。
「御館様、そろそろお食事の時間ですが……」
「……わかった、すぐに行く」
短く答えて、カラスを部屋から出させる環希。ひとつ溜め息を吐いてから、部屋の机へと歩み寄り引き出しを開けた。
――引き出しの中を見下ろし、再び溜め息。
そっと引き出しを閉めると、結い上げた髪を解き、上着を脱いで、部屋を出た。
そして……食堂へと到着し、大きな机にひとりでついて、運ばれてくる華美すぎず質素すぎない料理を口に運ぶ。
広い部屋の中に時折食器の触れ合う音が響くだけの、静かな食事。……ひとりきりの、食事。
ひどく事務的なそれが終わり、環希が口元を拭っていると、目の前に置かれる水の入ったグラスと薬の包み。影のように佇むカラス。
「明後日は戦ですから、少し前回からの間隔は狭いですが飲んでおいた方が宜しいかと」
それは、カラスが調達してくる薬。増血剤のようなもので、かなりの失血に耐えられるようになり、血のちからも増す。ただ、強い薬の為、半月に一度の使用が限度。この薬を、環希は何年も服用している。
「……そうだな、この間飲んだばかりだが……」
慣れた様子で包み紙を開き、中の粉薬を水で流し込む。こくり、と喉が動いて、薬を飲み込んだ。そして、ほとりと吐息をこぼすと呟く。
「これを飲むとよく眠れるから、その意味でも助かるな」
一息置いてから、立ち上がって机から離れようとした環希の足元が、ふらつく。ぐらりと身体が傾いたのを、傍に立っていたカラスが抱きかかえるようにして支えた。
「大丈夫ですか、御館様」
低く囁くようなカラスの声。聞き慣れた筈のそれに、環希は妙な感覚を抱いていた。
「……御館様?」
――心臓が、跳ね上がる。耳元を擽る声が、胸の奥をざわめかせる。触れている手が、身体が、熱い。
駄目だ。頭がくらくらする。早く、早く離れなければ、私が剥がれてしまう……!
「離さないで……」
朦朧とする意識の狭間で、今まで聞いた事のないぐらい切なげな、苦しげな女の声が聞こえた。
「……鴉津」
それが自分の口から出た声だという事に、気付く前に。環希の意識は、闇へと沈んだ……。
「…………」
カラスは、眉を寄せた仏頂面のまま腕の中の環希を見下ろしていた。
「剥離の速度が速すぎる、明後日まで保つのか?
……全く、あの気狂いめ……」
どこか愚痴めいた呟きをこぼしながら、意識を失い力の抜けた環希の身体を抱き上げるカラス。見下ろす瞳は真紅の氷。
――その奥に封じ込められているのは、ちりちりと燻る炎。
「幾百年の夜を待った。……逃す訳には、いかない」
自らに言い聞かせるように紡がれた言の葉を聞く者は居らず、環希を抱くその手に不必要なぐらい力が込められたのに気付く者も居なかった。