17.彼女の手紙
「言い訳はいらない、結果を持ってこい」
ただそれだけを電話口に吐き棄てて、男は受話器を置いた。――その表情は苛立っているようにも、憔悴しきっているようにも見える。
綾乃小路電子本社の一室、冷たい蛍光灯に照らされた部屋で深く溜め息を吐きながら椅子の背もたれに体重を預けると、背もたれが悲鳴をあげる。男は……政臣は、くしゃりと己の髪を掻き混ぜた。
彼女が、政臣の愛しい婚約者である環希がカラスに拐われて――『殺された』とは言わない、言いたくない――から半月近くが経とうとしていた。それから、紅家の従僕達や綾乃小路家の総力を挙げて環希の捜索が行われていたが、未だ手掛りは掴めずにいた。
「環希さん……」
政臣は頭を抱えて机へ突っ伏した。立場と身体の事を考えると、こうして待つしか出来ない事が歯痒い。――酷使した右腕、『剣』の鞘は完治には程遠く、包帯が巻かれ三角布で肩から吊されていた。
その時、ノックの音。
政臣は顔を上げ、乱れた髪を整えると、何事も無いような表情を顔に張り付けて口を開いた。
「入れ」
部屋の扉を開いて足を踏み入れたのは、若き銀髪の吸血鬼。その姿を見やると、政臣は僅かに眉を潜めた。
「……何の用だ、ダーク」
酷く冷たい、地を這うような声音。それにダークは頭を振ると、片手に持っていた小さな箱を投げて寄越す。
「アンタにだよ。……マスターの机の引き出しから出てきた」
ダークの言葉に、政臣は僅かに目を見開く。受け取った箱を見つめ、一瞬不安げに瞳を揺らしたが、小さく息を吐くと手早く箱を開けた。
――箱の中には、一通の手紙と、カフスが入っていた。
「…………」
眉を寄せたまま、封筒を開く政臣。飾り気の無い白い封筒に白い便箋、綴られているのは見覚えのある文字――
『お前がこれを読む日が来なければ良いのに。
私は近々お前の前から消えるだろう。
そもそも私はその為に生まれ、育てられたのだから、文句を言うつもりは無い。
それなのに、私が消えた後、お前がどうなるかを想像して少し恐くなった。お前に会えなくなる事を想像して、とても恐くなった。
お前のせいで、私は
「私」を諦められなくなった。
だが、幾百年の年月を重ねて整えられた舞台に既に上がってしまっている私達では、この茶番劇を止める事は出来ないだろう。
だから、幕が閉じてしまう前に、どうしてもお前に伝えておきたかった。
愛している。
私はお前が思うよりずっと、お前の事を愛している。
追伸
このカフスは、お前の誕生日に渡しそびれた物だ。
渡せる気がしなかったから、同封しておいた。』
――手紙を読む政臣の手は、僅かに震えていた。二度、文面を読み返してから、カフスを手に取る。精緻な細工の施された、アメジストのあしらわれたカフス。
「どうして……!」
カフスを握り締め、震える声で絞り出すようにそれだけ言うと、政臣は顔を覆った。……その拍子、封筒の中からひらりとこぼれる一枚の小さな紙。
それを拾い上げ、――政臣は瞳を細めた。手紙とは違い、走り書きの文章……けれど、確かに彼女の文字。
『もしも、お前が私を失いたくないと思ってくれるなら。
私を奴の舞台から引きずり下ろしたいと願うなら……』
最後まで目を通すと、政臣は突然立ち上がった。椅子の背もたれに引っ掛けてあったコートを片手に掴み、部屋の扉へ向かって歩き出す。
政臣の様子を眺めていたダークは怪訝そうに瞳を細め、続いて紡がれた政臣の台詞に瞬いた。
「ダーク、お前も来い。
……環希さんを取り戻す」
コートに袖を通し靴音も高く廊下へと歩み出す政臣の後を、肩をすくめながらダークが追う。――物問いたげにしているダークを横目で見やり、政臣は苛ついたように口を開きかけたが……廊下を歩く己の部下である若い女を発見しそちらへ言葉を投げる。
「今から出る、車を回せ。……彼女絡みの事以外は各自の判断で処理しろ」
突然の言葉にも女は慣れた様子で一礼し、足早にその場を後にした。それから政臣はダークへと視線を戻し、先刻封筒からこぼれ落ちた紙を差し出す。
「……お前も、環希さんを救いたいだろう?」
受け取った紙に素早く視線を走らせ、次いでその蒼い瞳を見開いたダークは――深く、頷いた。
――そしてそれから数刻後、二人は紅家本邸に居た。人気の無い、床の角にうっすらと埃が積もった廊下を歩きながら政臣は眉を寄せる。幾ら環希の捜索に人員を割いているとはいえ、邸内の管理すら行き届かないとは思えない。
「……ダーク、」
「あの爺、従僕にも手ェ回してやがったんだよ」
政臣の言葉を遮り、苦々しげに吐き捨てるダーク。
「半分が向こうについた。
マスターの捜索と、まだ諦めていない使徒の奴らを撃退するので手一杯だ」
自嘲するように口元を歪める。そんなダークに政臣は口を開きかけるも、何も言わずに歩みを進めた。
目的の場所、カラスが使っていた部屋に到着し足を踏み入れるまで会話は無く――男二人は微妙な空気を漂わせたまま捜索を始める。
主にうち捨てられたその部屋の空気は寒々しく、必要最低限の家具しか無い為か生活感も消えていた。
二人は机の引き出しを探り、本棚の本を開き、部屋の隅から隅まで調べ上げる。
そして、本棚の前に立っていた政臣が何かに気付いた。
「これ……動く、な」
「あ?」
しゃがみ込み床を調べていたダークが政臣の呟きに立ち上がり、本棚へと歩み寄る。政臣の隣に並んで、本棚を軽く叩いてから手をかけ力を入れると、音も無くそれが横にスライドした。
下から現れたのは、古びた扉――どこか人間を拒むような――。二人は顔を見合わせると、ゆっくりと扉に手をかけた……。