16.噐
男の、獣のような咆哮。
普段の穏やかな表情を脱ぎ捨てて、その男は……政臣は、他の男に抱かれている愛しい彼女――瞳を閉じたまま、その胸を刀に貫かれて微動だにしない環希――に向かって悲痛な叫びをあげた。
「環希さんッ……!」
そして政臣は、その焼けただれた右腕を突き出し、冷静さの欠片も無い声音で絶叫する。
「来いッ、レー……」
だが、それは途中で遮られた。部屋に飛込んできた銀髪の吸血鬼、従僕ダークが、政臣の右腕を掴んで押さえ込んでいた。
「馬鹿、そんな状態で『魔剣』なんか呼んだら腕が吹き飛ぶぞ!」
「……ッ、離せ!」
暴れる政臣を羽交い締めにして、ダークは改めてその部屋の状況を見やる。
――部屋の中央で壮年の吸血鬼、従僕カラスが、紅の女王たる環希を抱きかかえている。それだけならそれほどおかしくはない。異常なのは、……環希の胸を貫いて背中から生えている、銀色の刃。
「遅い。また、間に合わなかったな」
カラスがそう呟き、ダークはそちらを睨みつけながら口を開く。
「……いつからだ。
いつから企んでやがったこの狸爺ィ……!」
ふ、と。カラスが口元を緩める。それは、とても……冷たく。
「『はじめから』だ、愚かな道化。
はじめから私は、あの御方の為だけに」
そのまま片腕で環希を抱え込み、深い紅色の瞳を細めるカラス。
「さようなら、二人とも。……『器』は完成した」
ぶわ、とカラスの周囲に霧が渦巻き、それはカラスの背に収束して翼を形作る。――その姿は、まるで贄を拐う悪魔。
政臣がダークを振り払い、必死に手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴む。
乙女を抱いた悪魔は――環希を抱いたカラスは――窓から外へと飛び去った……。
――とても、くるしい。
私はここに居たいのに、誰かが私を引き擦ろうとしている。
『……すまない』
誰?
『その身体借り受ける。
……私の、遠い遠い娘』
駄目、来ないで。私の居場所、とらないで。
『少しの辛抱だ、眠って……』
とらないで、
「私」を……
「私」を、とらないで……。
『……哀れな娘』
ずるり、と。引き擦られて――
――数刻後、何処かの屋敷の一室、寝台の上にて、ひとりの女が意識を取り戻していた。女はゆっくりと上半身を起こし、胸に走った鈍痛に顔をしかめる。
艶やかな長い黒髪をかきあげてぼんやりと宙を眺める女の姿形は、紅の女王たる紅環希そのひとだったが、その纏う雰囲気は決定的に違っていた。
「……お、やかたさま」
突如響いたのは、低く途切れ途切れの男の声。部屋の扉を入ったところで足を止めて、女を見つめる銀髪の吸血鬼の声。
――ばさ、と床に落ちたのは、その腕に抱えられていた着物。
「御館様……!」
女へと一息に距離を詰め、寝台の前に跪く男。頭を垂れてから、感極まったように声を震わせる。
「貴女が逝ってしまわれてから、ただ、この日の事だけを……」
その言葉を遮るように、女がそっと手を差し伸べ、男の頬に触れて顔を上げさせる。
戸惑うような紅色の瞳で女を見上げる男に、女はゆっくりと顔を近付け、そして、口付けた。
――ひと呼吸ほど置いてから女が身体を離すのに、男はその腕を掴んで引き止める。……そして、再びふたりの影はひとつになった。
「すまない、鴉津……」
唇が離れて第一声、女は男の左腕が在るべき場所に視線を流しながらそう呟いた。
男も一瞬そちらに目を向けたが、唇を緩めると頭を振る。
「いえ……この程度なら、御館様の血を頂ければ……」
男の口元から覗くのは、鋭い犬歯。女はひとつ頷くと自らの襟元に手を伸ばしたが、眉を潜めると手を止めた。
怪訝そうにそれを見ていた男は、何かに思い至ったような顔をすると、女の襟元に手を伸ばした。
「……失礼致します」
そのまま、服をはだけさせてゆく。鎖骨のあたりが露になったところで、手を止めた。
「後で御着物に着替えましょうか」
女は頷き、それから頭を傾げて首筋を男に向けた。――男は瞳を細めると、女の首筋へと顔を埋める。
「……頂きます」
す、とそこに舌を這わせてから、牙を突き立ててゆく。皮膚を突き破り潜り込むそれに、女の身体が強張る。
男は瞳を閉じたまま、どこか恍惚としているようにも見える。……上下する、喉。
「あ、……鴉津……」
僅かに震えた女の声に、男ははたと瞳を開いて、女の首筋に突き立てた牙を抜く。そのあとに残った傷をぺろりと舐めあげてから、顔を上げた。
「申し訳有りません、久方振りだったものですから……その、とても美味しくて……」
――言い訳は途切れ、身体の周囲に霧が舞う。男の左腕が在った場所に霧が集まり、徐々に腕の形を作ってゆく。
数刻後、完全に左腕が再生され、男は軽く手を握ったり開いたりしてから、口元を緩めた。