10.宴前夜
「どうしてお前がここに居る」
「……心配で飛んで来た婚約者にそれはないんじゃないかな、環希さん」
ベッドに横になっている環希、その傍らの椅子に腰掛けている政臣。常と変わらぬ調子で台詞を紡いではいるが顔色の悪い彼女を、政臣は苦笑しながらも気遣わしげな様子で見ていた。
「連絡は行っている筈だろう、じきに『使徒』との戦争が始まる。生命線二人が同じ場所に居るのは賢くない。
……さっさと帰れ」
環希はあくまで淡々と、どこか突き放すようにも聞こえる響きで言い放つ。……だが、その瞳は政臣の方を見ようとはしない。
「……それ、卑怯だよ」
そんな環希の顎に指を添え、ぐい、と自らの方を向かせる政臣。
「ちゃんと僕の目を見て。目を逸らしたままなんて、許さない」
厳しく追い詰めるような語調とは裏腹に、環希の顎に添えられた指先は力なく、瞳の奥にはどこか切なげな光。
その瞳を正面から捉えてしまった環希は、息を呑んで黙り込んだ。
「僕だって馬鹿じゃない、今どういう状況かはわかってる。……だからこそ、君の傍に居たいのに……」
真剣な瞳に気押されかけていた環希が、ふと。一瞬何かを言いかけて、唇を引き結ぶ。そして政臣の手首を掴んで押し返し、頭を振った。
「……駄目。……帰るんだ」
少しの間、沈黙が部屋を支配する。……先に動いたのは、政臣だった。
立ち上がると、そのまま黙って部屋の扉へと向かう政臣。見送る環希が、彼の片腕――少なくともスーツの袖口から見える範囲すべて――に包帯が巻かれている事に気付いて問い質そうとする前に、その背は扉の向こうへと消えた。
しん、と再び静まり返る部屋。
「…………」
――これでいい。間違っては、いない。
さっきまでよりひどく広く感じる部屋、冷たく感じる空気。
環希はひとつ溜め息をつくと、布団を肩まで引き上げベッドへと沈み込んだ。そのまま身体を丸め、瞳を閉じる。――だが、欠片も睡魔が訪れない。
身体は本調子ではなく、ふわふわと浮かぶような感覚が消えない。鼻の奥がつんとして、それで漸く、ああ、
「寂しい」
のだと気が付いた。自ら突き放しておいて、結局は彼を求めているのだと。
だが今更気付いたところで、プライドの高い環希が政臣を呼び戻す筈も無く。
頭の天辺まで布団を引き上げ、手足を縮めて丸くなる。きつく瞳を閉じて、羊水の海に浮かぶ胎児のように。
――だが。その状況は唐突に破られる。
いきなり布団を引き剥がされ、突然感じた外気に環希が瞳を開くと、そこには先刻帰った筈の政臣。
「……怒るよ」
政臣は布団を投げ捨ててから腰を折り、そのまま環希の目元に口付けた。――いつの間にか滲んでいた、涙を拭うように。
「一人で泣くなんて許さない、君が泣く場所は僕の腕の中だ」
咄嗟に抵抗しようとした環希を押さえ込み、幾つも幾つも口付ける。……抵抗が止んだところで、漸く政臣はその行動を止めて、環希の瞳を覗き込んだ。驚きで乾いた涙が、再び彼女の目の縁に溜まる。
「どうして、戻って……」
ようやくそれだけ搾り出した環希に、政臣は笑みを浮かべてみせた。
「いつからの付き合いだと思ってるんだい?
……君が、泣いている気がしたから」
背とベッドの間に腕を差し入れ、環希を抱き締める、政臣。彼女の耳元に唇を寄せ、穏やかな声で囁く。
「本当は心細いんだよね?」
「……あぁ」
「明日は戦争なのにこんな状態で、不安で、それでも気を張って……」
「……よくわかったな」
いつになく素直な環希に、政臣はこっそり苦笑する。それから、更にきつく彼女を抱き締めた。
「もうバレてるんだから、さ。……強がらなくて、いいよ」
その言葉に一瞬強張る環希の身体。……だが、すぐに力が抜けて、おずおずとその腕が政臣の背に回された。
ぎゅ、と縋り付くのに、政臣がからかい混じりの言葉を紡ぐ。
「意外に寂しがりやだよね、環希さんって」
「……うるさい」
「責めてるつもりはないよ、そういうところも好きだから」
「う……」
頬を染め口籠もった環希に、触れるだけの口付けを。それから至近距離で囁くように訊ねる。
「傍に居てほしいんだよね?」
「……あぁ」
「僕のこと、好きだよね?」
「あぁ、……え?」
誘導尋問に気付いた時には既に遅し。政臣はひどく嬉しそうな笑みを浮かべると、愛しげに環希の髪に触れた。
「違う、いや、今のは……」
「それじゃあ僕のこと、嫌い?」
「う、……」
追い詰められた環希は視線を彷徨わせ、なんとかこの状況を打破しようと考えを巡らせる。
ふと政臣の手に巻かれた包帯の事を思い出し、慌てて話題を逸らす。
「手、どうしたんだ?」
環希のその言葉に、政臣は一瞬きょとんとした顔をしたが、ああ、と片腕を見やる。
「ちょっとね。……心配してくれるの?」
――藪蛇だ。
政臣の笑みが微塵も崩れないのを見ながら、環希は内心溜め息をついた。
「……もういい、寝る」
「そう、お休み」
環希の宣言に政臣は身体を離したが、その瞬間、咄嗟に環希は政臣の服を掴んでいた。
怪訝そうな表情の政臣に、照れ隠しだろう、ぶっきらぼうに台詞を吐く環希。
「……私が眠るまでここに居ろ」
その台詞に一瞬目を丸くした政臣だったが、すぐに笑みを浮かべ、
「仰せのままに、お姫様」
おどけた台詞で応えた。
――眠りについた愛しの姫君を見下ろして、政臣は穏やかな笑みを浮かべた。
一房彼女の髪を摘み上げて口付けを落とすと、立ち上がり、部屋の外へと向かう。
廊下へ出て、そっと扉を閉め、曲がり角の向こう側まで歩いて……壁へともたれかかった。
顔をしかめ、包帯の巻かれた片腕を抱え込む。額には脂汗まで浮いていた。
「糞ッ……いい加減に俺に従え……ッ!」
珍しく荒げた声、乱暴な口調。爪が食い込むぐらい強く、包帯の上から腕を押さえ付ける。
「もうあんな化け物共には任せておけない……俺が彼女を守らなければならないのに……ぐ、っ」
どくん、と。包帯の下で、異質な
「何か」
が脈打つ。不穏な、不吉な、胎動にも似た……。
「環希さん」
ぽつり。
「……愛してる」
呟かれた言葉は、廊下に蹲る闇に溶けた。