05 橋の向こう
石の遺跡前にベースキャンプを移してから、12日がたった。魚と山の幸だけで生活を始めてから、2週間以上。エリカとみぃたんの野外生活は意外と順調だった。
エリカが山で山菜や木の実などを採り、みぃたんが小動物や魚を獲るという連携ができていた。小動物は遠慮させていただいたけれど。やはりパックのお肉に親しんでいる現代人としては、野生の動物を処理して料理するということがどうしてもできない。
お風呂は川で水浴びをすることで済ます。洗面セットに入れていた洗顔石鹸で、体も髪も全身洗う。タオルがないので、焚き火の前の草のベッドに寝ころびゴロゴロと時間をつぶす。自然乾燥だ。着替えはローブと服を交互に川で洗い着ている。
だいぶ痩せた。胸も小さくなった。痩せたのはうれしいけれど、これ以上は女性らしさがなくなりそうだと心配になってきた。
意外と快適な生活だったが、そろそろ山を降りることを考え始める。石の遺跡のあの白い巨石の謎も気になるがまた来ればいい。
あの後、対岸の遺跡にはみぃたんと一緒に毎日行っていた。あの白い遺跡には触れないように、色々と調べてみたのだ。あの白く輝く大きな岩石の向かいにある、変哲のない巨大な石の石肌に、見覚えのある文字が炭かなにかで、書きつけられているのを見つけた。
それは、カタカナで『ワタシハ ココニ モドッテ キタイ アナタノ イル セカイヘ』と書かれていた。
なぜ日本語がかかれているのか。それも片仮名。あの時浮かび上がった文字は見知らぬ文字だったけど……。
わたしの前にもここに来た日本人がいるってことかな、とエリカは考える。
もうひとつ遺跡のある対岸を調べて、山の下の方へ真っ直ぐ続く階段があることがわかった。
みぃたんと降りてみたら、石段は橋の前で終わっていた。この橋を渡ったら何処に着くのだろうか。
何度か渡ろうとしたのだが、橋の向こう側に甲冑が2対、長剣をもって立っているのを遠巻きに見つけてしまい、渡れずにいた。
いきなり襲われたら怖い。こちらの知識が何もないので、未知との遭遇には慎重になってしまう。
幸運なことにその鈍色に光る鎧と兜を着こみ長剣を持った戦士たちは、向こう側を向いて立っているのでエリカたちには気付かなかったようだ。
みぃたんと飛び越えてしまおうかとも考えてみたが、距離がものすごく長く飛んでは渡れなかった。川の流れも速いので、落ちてしまったら危険だ。
そして今夜、私たちはあの橋を渡る。
準備は出来ている……と思いたい。
毎日こっそりと様子を伺い、あの甲冑たちがいなくなる一瞬があることがわかった。朝、昼、晩と今から向かう夜中だ。夜中が一番あの橋を空ける時間が長い。闇にまぎれてあの橋を渡るには良い時間だ。
服にローブ、白髪のかつら付きの三角帽子をかぶり、鞄ひとつに家を出た時のままのなけなしの荷物をまとめた。
チャックを閉めそれを背負い、エリカはみぃたんの背中に跨った。
「みぃたん、そろそろ行こうか?」
「みぃー」
エリカはみぃたんの耳の後ろをなで励ますと、逞しく大きく成長した異世界の生物はひらりと目前の川を飛び越える。
月明かりと星の煌めきしか夜道を照らすものはない。風を切って暗闇の森の中をかけぬける。
エリカはみぃたんの首の後ろの毛をぎゅっと握った。夜の冷気がスピードが増すほど頬や耳、指先に突き刺さる。
そうっと石段を下っていくと、思ったとおり甲冑を着た者たちはいなかった。
「よし。渡っちゃおうか」
「みぃー」
長く続く石造りの橋を渡り終えると、その先にはまた石段が下へと続いている。
「行こう」
「みぃ」
結構な段数を降りたことろでやっと階段が終わり、土が踏み固められただけの道が続いていた。道の先の方に、ぼうっと暖かい光が見えてくる。
しばらく進むと、土の道が石畳の道へと変わり疎らに建つ家が見えてきた。どこにでも転がっているような灰色の石を切り出したようなレンガで出来た家々は、一見するとヨーロッパの田舎の風情を醸し出しているように思える。
きちんと整備された道を進んでいくと、ひらけた広場が村の中心に鎮座しており、噴水がそこから放射線状に存在する家々を見守っていた。
「……村? やった! みぃたん、村だよ」
「みぃー」
甲冑の騎士が橋を封鎖していたので、まさか普通の村があるとは思っていなかった。不安だった気持ちが一気に解けた。ほっといたのと同時に眠気が襲ってくる。夜中という時間帯を考えるとしょうがない。
寝る場所を確保しようと徘徊する。
こんな夜中に空いている宿はないかもしれない。それにこの世界のお金もない。エリカは途方に暮れてしまった。折角人里に辿りついたのにまた野宿に逆戻りしなければならないのか。
村はシーンと寝静まっているようだ。
ぶらぶらと広場を徘徊していると、一軒だけ煌々と明るい光が洩れている建物が見える。
「……酒場&商人ギルド?」
見たことない文字だ。それなのに、なぜかそう読むことができた。
電線もコンセントもささっていないのに明るい電飾で描かれた酒瓶のマークとローマ字に似て非なる文字が、建物の前の空中に浮かんでいる。
エリカは看板であろうそれを不思議そうに見上げ、また後ろに回って見てみるが全くどんな仕組みなのかわからない。看板を眺めながらくるっと半回転し酒場の扉の方へと歩きだす。
(入ってみようかな?)
エリカはみぃたんに外で待つように伝え、建物に近づいていく。
「みぃたん、ちょっと待ってってね?」
「みぃー」
みぃたんは、建物の陰に丸まって横たわる。
カランカラン。
重厚な木製の両開きの大きな扉を開けると屈強な男たちが振り向いた。すごい迫力だ。留学していた時を思い出す。西洋人のような外人たちが不思議そうにこちらを見つめる。その中でも一番逞しそうな、50歳前くらいのダンディーなおじ様が話しかけてきた。
「この辺で見ない顔だな。坊主」
聞きなれない言葉。英語でもフランス語でもスペイン語でも中国語でもなく、ただ未知の言葉であるというのが突き刺さる。それなのになんで何と言っているのかわかるんだろう。
エリカはその異常さに気付きながらも、恐る恐る一泊の宿をお願いしてみる。
「……えーと。道に迷ったみたいなんです。一晩泊めていただけませんか?」
自身の口からこぼれる言語もまた聞きなれぬ音、リズム。
どこか英語など欧州寄りの言葉のようにも感じるが、はじめて聞く音。このグローバルな世界で。世界は狭くて色々な情報が手にとれる世の中でそんなことがあるのだろうか。
壮年の男性は少し考え込むような仕草をし、呆然としていたエリカを奥の部屋へ来いと顎で示す。
「ちょっとこっちに来い」
親父さんの迫力に負けて、言われたとおり恐る恐る彼のほうへ歩いて行くと、腕を掴まれ隣の部屋へ引き込まれた。
少しまずい状況かもしれない。
「痛いです! 離してくださいっ」
「坊主どこから来た? 迷子か。それとも家出か?」
さっと白髪の鬘付き三角帽子をはぎ取られ、じっと見つめられる。
乱暴にはぎ取られた鬘と一緒に長い腰までの髪をくくっているリボンもほどけ、顔周りに広がった。
壮年の男性の深蒼色の瞳が驚きで見開かれる。
「坊主、お前……女の子か」
「そうですけど。え? どう見ても女じゃないですか、私」
エリカは男の子に間違われたことに少なからずショックを受ける。野宿生活はそんなに女性らしさを奪ってしまったのだろうか。
「ここはどこですか?」
エリカは男性に尋ねる。
みぃたんのような未知の生物の存在やストーンサークルの遺跡での不思議な体験。ヨーロッパなどにもなさそうな聞きなれない言葉などにも触れ、なんとなく地球ではないどこかだということは理解できる。それでも最後の望みをかけ、男性にここはどこかと尋ねたのだ。
「ここはスビアコ村だよ。お嬢ちゃん」
「……スビアコ村? どこの国のスビアコ村ですか?」
「それはもちろんヴァレンディア王国のスビアコだ」
男性は不審な顔をしつつ答えてくれる。
変なことを聞くやつだと思われているに違いない。エリカだって自分がとてもおかしいことを聞いているとわかっている。それでも確かめずにはいられなかった。
「今は西暦何年ですか?」
タイムリープの可能性も考える。
「西暦? 何言ってるんだ。そんなのは聞いたことがない。今はハウメア紀だ」
目の前が真っ暗になる。最後の望みが断たれてしまった。
ここは地球ではない。
「……ハウメア?」
やはりここは異世界なのだろうか。
「異世界……?」
エリカはフラフラと力なくその場にへたり込んでしまった。
「お前、エリスから来たのか?」
「え?」
いきなり先程までのトーンから一変し、鋭い冷やかな声で問われる。
(何言ってるんだろう、この人)
エリカは訳がわからなかった。それに恐い。
自分の言葉に何か原因があったのか。
「エリスって何ですか? あの石の遺跡のこと?」
「違うのか……。あの遺跡はここらじゃコンパスって呼ばれてる。本当の名前を知ってるやつは、もう少なくなっちまった」
「コンパス? コンパスって方位を知るために使うやつですよね?」
何を言っているのだろう。段々と話がわからないほうへと逸れていく毎にエリカの不安感は増してきた。
「方位? エリスから来たという男が、大昔に作ったものらしいが……。よくわからねぇが、コンパスの方に行ったやつらがいきなり消えちまったりすることがあって、今じゃあ危ないから封鎖してるんだよ」
いきなり消えてしまったことがある……?
神隠し。
封鎖している場所……。だから誰もいなかったのか。というか、そんな危ない遺跡は早く取り壊してくれればよかったのに。もしかしてあれが原因でこの場所に迷い込んでしまったのかもしれない。
「そうなんですか。私もよくはわからないです。気が付いたら山にいて」
エリカは床を見つめたまま呟いた。
「そうか……。わるかったな。俺はジン。この店のオーナーだ」
この人に非はない。むしろコンパスにこの村の人間が迷い込まないように気を配っている良い人だ。きっと信用に値する人間に違いない。
「いえ。いいんです。私はエリカです。エリカ・望月」
エリカはゆっくりと発音する。
「エリカ……モチヂュキィー?」
うーんとなんかものすごく違う気がする。
「モ・チ・ヅ・キ。望月です」
「モチチュキー?」
餅つきでは決してない。いや……気にしまい。
「はい。エリカ・モチヅキです。よろしくお願いしま……あっ! ジンさんここで働かせてくださいませんか? よかったら住み込みで。お願いしますっ」
エリカは、ガバっと頭を下げる。
「……」
ジンは黙って考え込んでいる。
「ダメですか?」
「……ひとつ条件がある」
「条件?」
ただでこんなにおいしい話があるとは思っていなかったが、条件の提示によってはまた野宿に戻らなくてはならないかもしれない。
「あぁ。ここで働くからにはお嬢ちゃんには坊主のフリをしてもらう。ここは酒場だしギルドもやってるから、荒くれ者が来ることが多い。お嬢ちゃんみたいな、若い女の子が働くような場所じゃない」
良心的な提示。むしろエリカのためを思っての条件。
男のフリをするくらいどうってことない。もともと自分は男らしい性格だ。見た目はどうであれ、野宿で痩せた今となっては、女性らしい丸みはなくなってしまった。それは『坊主』と間違えられたことでも証明されている。
「……わかりました。男の子のフリをすればいいんですね?」
「できるかい?」
できないなんて言わない。やるからにはやってやろうじゃないか。
「あぁ、もちろんだよ。ジンのおっちゃん」
男の子になりきって、低い声で返すエリカ。
「じゃあ……エリカだから……エリカ、エリカ……。うーん」
ジンはエリカの名を呟きながら、考え込んでいる。
「よし。今日からお前はエリックだ。エリック、今日はもう遅い。仕事は明日からだ。2階の端に余ってる部屋がある。そこを使うといい」
エリカだからエリック。単純明快だ。これなら間違っても誤魔化せるし良い名前だ。ただ、モチヅキは変えなければならないだろう。ジンには発音がどうもしにくいらしい。それにきっとここでは違和感を感じる性かもしれない。
「ありがとうございます! ジンさん」
部屋に案内されたエリカは、窓を開けみぃたんに呼び掛ける。
「みぃたん、ここでしばらく暮らすことになったよ。明日会いに行くからまっててね」
みぃたんは窓から顔を出しているエリカを見上げ「みぃー」と返事をし、家の陰に消えていった。
◆ ◆ ◆
少女が2階に上がったのを見届けるとジンは酒場のある店舗部分へと向かった。ジンは妻の姿をみとめ微笑んだ。L字のカウンターでは妻のエヴァが艶やかな黒い黒髪をなびかせ接客していた。
がたいの良い荒くれ者たちを上手くあしらいながら、酒やちょっとしたつまみを出している。
「なぁ、親父あの坊主はどうしたんだ?」
常連のボブが聞いてくる。
「ああ。一瞬誰か気付かなかったが、甥っ子が訪ねてきたんだ」
ジンは誤魔化す。
ジンは普段から寡黙であまり多くを語らない。だから誰もそれ以上は尋ねようとはしなかった。
ただ、妻のエヴァだけが弧を描いた眉を上げ、ジンに菫色の澄んだ瞳で一瞥を投げかける。
「さぁ、悪いけど今日はもう店じまいだ。これは俺からのおごりだ。これを飲んだら帰ってくれ」
ジンはポリポリとアッシュブラウンのツンツンと立った短髪を掻き、一杯ずつ客たちに酒をふるまいつつ外に閉店の文字を放つ。
客たちは誰も文句を言うことなくさっさと酒を飲み干し勘定を済まし帰っていった。
ジンはこの村で一目置かれていた。誰も彼には逆らおうとはしない。信頼される人望とそれにギルドでは尊敬を集める強さを持っていたのだ。
客たちが帰っていくと妻のエヴァが事情の説明を求めに近づいてくる。
美しいこの女性は激しい気性と情熱をエレガントな所作でヴェールに包み秘めている。
ジンは妻を逞しい腕の中に閉じ込め、柔らかな甘い唇に接吻を落とした。
「ジン。誤魔化さないで」
満足そうな甘い呻き声をあげ、エヴァは抗議するのも忘れない。
だが、彼女は間違っている。
ジンは全く彼女に秘密を持つつもりは欠片もなかった。ただ、美しいこの人を味わいたいと思った本能に従ったまでのこと。
「エヴァ。逸材を見つけたよ」
「……え?」
ジンはエヴァを腕の中にとらえたまま彼女の耳元にささやいた。
彼女は逸材だ。
俺達家族のために協力してもらおう。