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君を喚ぶ声  作者: 佳月紫華
第2章 旅の支度
40/45

40 飛鉱艇 10

 油断していた。

 まさかこんなことになるなんて――。


 ◇

 

 共有トイレからひとりの女性が姿を現す。

 顔の醜美は見えないが、すらりと背が高く、独特の存在感がある。

 地味な服装の割にそそる物腰だ。下女か料理女か。

 擦り切れたありふれた木綿の濃茶のワンピース。ベージュの飾り気のないエプロンをしている。モスリンハットからは黒髪のおくれ毛がチラリとのぞいていた。

 人目を避けるように立ち去ったのは、逢引でもしていたのか。男性たちの部屋の区画とは別のところに女性たちの部屋はあるはずだった。

 すれ違いざまに顔でも拝もうかと、目を向けた。

 こちらの思惑をわかっているのか、瞳の色すら見ることが叶わない。

 それでよく歩けるものだというくらい堅く目を瞑り、床と言うよりは斜め左下の床と壁を凝視し、不審な程怪しい顔の背け方をしている。

 全身から目を向けるなと叫んでいるような仕草に、男は舌なめずりをした。

 見れぬものほど見たくなるのが人間の性だ。

「ねー、奥さん。お嬢さーん? そうそう。君だよ君! 顔見せてよ。こんなところで何してるの? 僕とも遊んでよ。どうせ、もういいことして来たんだろ?」

 馴れ馴れしくしなだれかかってくる見知らぬ男に、エリカは俯きながら首を振った。

 男の顔が近づいてくる。プンと酒の匂いがする。酔っぱらいを軽くあしらうくらい朝飯前なのだが、そうも言ってられない状況だった。

 長い廊下の先に、同室のウィル、モーリー、マルクスがこちらへ向かってきているのが見える。

 彼らは紳士だから助けようとするだろう。それは一番避けたいことだ。

 ドレスの胸元を無意識にギュッと探る。いつもあるはずの貴石がそこにはない。

 エリカは男の伸ばした手から逃げるように走り出した。

「おい!」

 立ち去った背中に、男の舌打ちと下世話な罵りが届いた。

『こっちが黙ってれば調子に乗って……! あんたみたいな気持ち悪い男なんてこっちから願い下げだわ。ああやだ。生理的に受け付けない』

 一気に廊下を走り抜け、エレベータに乗り甲板へ出ると日本語で悪態を吐いた。

 思わず出た汚い言葉に苦笑する。久しぶりに女性に戻って、日本語で言いたいことを吐き、そんなことでイライラが緩和される自分に笑いが止まらなくなった。

『あははは……。わたしって単純だ』

 甲板の船縁に寄りかかり、真っ黒な湖を眺める。

 ふたつの下弦の月が雲間からのぞいていた。月明かりとカンテラが真夜中の艇を淡く浮き上がらせる。

 陽気な歌声が風に乗って運ばれてくる。

 艇乗りたちの歌声だ。

 離陸前の港の夜泊まりは、船員達にとって束の間の休息なのかもしれない。

 まるで海賊船のようだと自然と笑みがこぼれた。


 かあちゃんのめしが一番の肴さ

 冷えたラキに安いヴェヌムを流し込み

 大地の恵みに舌鼓(したつづみ)

 空の女神を一時忘れ 地上の美女を愛でるのさ

 空は自由を与えるけれど 優しさは持ち合わせてはいない

 俺らは厳しい天空(そら)の虜 自由を愛する飛鉱艇乗り

 死ぬほど酒樽を積み込め ヨーホー

 ちょっぴり干し肉 魚 野菜に 果物も

 ヨーホー ヨーホー

 夜泊まりの港で 女を抱くのさ

 俺らは陽気な飛鉱艇乗り

 琥珀の魅惑の泡立ち ケレスを並々注いで

 ジョッキを掲げろ ヨーホー

 自由に空を飛びまわり 各地の美女を愛でるのさ

 ヨーホー ヨーホー

 明日は離陸だ 天翔る船 飛鉱艇

 準備はいいか 飛鉱石に魔力を注げ

 準備はいいか マストに魔布帆を張れ

 風魔術の威力を確かめろ

 ヨーホー ヨーホー

 俺たちは逞しい飛鉱艇乗り


『ヨーホー……』

 思わず真似して口ずさんでみる。

「ヨーホー。俺たちは飛鉱艇乗り」

 すぐ後ろの頭上からバリトンが聞こえる。エリカはハッと振り返った。ウィルだ。

 目線を下げ床を見つめたまま立ち去ろうとした背中をウィルの声が引きとめる。

「お嬢さん。レ――?」

 暗に名を求められているのだ。

 彼は未婚か既婚かわからない女性に対する敬称『レ』に続く姓を尋ねている。

 ふふっと微笑む。ウィルはエリカだとは気付いていないようだ。紳士的な距離を保ちつつも、じりじりと焼け付くような視線が刺さる。眇められた翡翠色の瞳は好奇心に輝いている。その目には苛立ちも混じっていた。

 言葉を発しないエリカの態度に彼はどのような行動にでるのか、エリカは少し試してみたくなった。

 真っ暗な闇に感謝する。エリカは何も告げずに彼の前を去ることにした。

「お嬢さん……」

 ウィルの呼び掛けは宙に浮いたまま、伸ばした右手も空を切った。

『だめなの。貴石が盗まれてしまったから……。取り返すまでは話せない。言葉は理解できるけど、訛りがまだ抜けていないもの』

 甲板から第4層まで下る階段を一気に駈け下りながら日本語で呟く。

 女性たちが寝泊まりしている区域のトイレにそっと忍びいる。並んだ個室のひとつに入り、モスリンハットを脱ぐ。ひっつめにしていた髪を解くとまだ乾ききっていない短い黒髪があらわれた。

 ごわごわした濃茶のドレスを脱ぐと、幾重にもさらしを巻く。腰回りにも程良い硬さの砂袋を入れ、さらにさらしを巻いた。

 臨時職員、皆に配られた白のセーラーと紺のズボンに着替えると、少年へと姿は変わる。

 女性の浴室で水浴びを終え、すぐに部屋に戻る予定がこんな時間だ。

 もう戻らなければ。明日も早くから仕事だ。乗客が搭乗する日でもある。すなわち大空へと舞う日。離陸が迫っていた。

 貴石がないことの弊害は、ウィルの前で言葉を発せられないことだ。

 コーワン学究院でモーリーや同じ地球からの迷い人マルクスと共に、貴石がなくても言葉が理解できるよう勉強を重ねてきた。だが、リスニングは上達したものの、エリカがネイティブ並みの発音まで流暢に話せるようになるには、時間が足りなかった。

 マルクスのスピーキングは大いに上達した。エリカも不自由はしなくなった。ただし、訛りがひどかった。

 今まで普通に話していたのに、急に訛り混じりの言葉になるのは不自然だろう。

 入浴時、浴室の建て付け棚に着脱した衣類に隠すように貴石を置いた。身体を水で清拭する僅かな間に誰かが盗っていったのか、気付いた時にはなくなっていた。

 なぜ片時も肌身から離さずにいなかったのか。後悔先に立たずだが、悔んでいる暇はない。

 飛鉱艇にいる間に貴石を探し、取り返えす。ただ、それだけを考える。

 なぜだかとてもあの石がないと不安になる。言葉の理解などの恩恵があるのはもちろんだが、いつの間にかお守りのように思っていた。守ってくれていると。加護が宿っていると。

 無意識に貴石のあった胸元を探ってしまう。

 部屋の前で一呼吸おき、シャンと顔をあげドアをくぐった。

 ウィルはまだ帰っていない。

 ざっと中を確かめる。

 モーリーとマルクスだけが部屋にいた。チラリと視線を向けると、彼らもエリカを見つめる。

 仲直りをしようと謝罪の言葉を口の中で彷徨わせる。

「アノね……。ソノ……」

「エリック。戻ってたのか」

 頭上から低音が響く。ウィルが戻ってきた。

 びくりと身体が強張った。振り返らずにエリカは自分の下段にある二段ベットへと向かう。カーテンを引き外の世界を締め出した。

 ウィルが戻ってこなければ、モーリーとマルクスに謝り協力を仰ぐつもりだった。異世界から来たという事情を知っている彼らなら、快く手伝ってくれるはずだ。

 貴石がないことで、言葉に不自由してしまったエリカには誰よりも友人たちの助けが必要だった。心の支えも。

  

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