36 飛鉱艇 6
「ジン、あの子は大丈夫かしら?」
スビアコ村の酒場の奥の母屋の一室で、エヴァが問いかける。
「ああ。ヴィンスがよこしたル・アークライトが付いている。彼は頼りになりそうだ。きっと無事に連れ帰ってくれるさ」
ジンはエヴァの腰を抱き寄せ、黒髪にキスを落とした。
「でも……あの子は、女の子でしょう? 本当に大丈夫かしら。今まではこの家で私たちが守ってあげられていたけれど、今回は泊まりがけで男の子たちに囲まれての仕事なのよ?」
薄紫色の瞳が不安げに揺れる。
「飛鉱艇に乗ることになってしまって、すまない」
「……いいの。私も気にしすぎね。でもクリスティーヌのことがあったからだけじゃないのよ。それはわかって?」
「ああ。わかってる。あそこでは魔法が使えない。あの子にかけている幻術が切れてからのことを心配しているんだってことは、ちゃんとわかってる」
飛鉱艇は魔鉱石の浮力と魔法で風を起こし飛ぶ。そのためその2点に魔力を集中させなければならなかった。だから魔力の乱れを防止するため、乗客には一切の魔法の使用を禁止している。もちろんそれは乗務員にも例外なく提示されていた。
「あの子には私から用心するように言い聞かせたわ。それにもしもの時のために女の子にもどれるよう鬘やドレスも用意した。幻術が切れてからのために付けひげや腰回りに入れる特殊な素材も渡してある。……それでも不安なのよ」
エリカがかけている幻術は一日しかもたない。毎朝かけ直さなくてはならないのだ。それほど女性を男性に見せる幻術は複雑なのだ。ちゃんとかけ直さないとほころびができてしまう。髪の色を変えるだけのような単純な幻術とはわけが違った。
魔従キャロにかけている毛の色を変える幻術は比較的単純なものであるし、魔導具で半永久的に保つことができているので問題はない。
「そうだな。俺もエリカが心配だよ。本当の娘みたいなものだ。……もしあの子が生きていたら、きっとエリカと同じくらいだって考えてしまうんだ」
「……そうね。名前も贈る前に旅立ってしまったあの子。もし生まれてきていたら私たちきっとお姫様みたいにうんと甘やかして、ジャックもクリスティーヌも……うっ……うっ」
エヴァの嗚咽が居間に響いた。
そんな彼女をジンが強く抱きしめる。
「大丈夫。クリスティーヌはどこかで元気にしているさ。それに亡くなったあの子も見守ってくれているよ。エリカも今はわざと子供らしくやんちゃに振舞っているが、しっかりとした女性だ。きっと無事に乗り越えられるさ」
「そうね。エリカは私が昔あった娘に似ているわ。あの子を見ていると“大丈夫”だって力が湧いてくるのよ。不思議な雰囲気の子ね……」
ジンとエヴァは大きく開け放たれたテラスから空を見上げた。
美しい夕暮れ時だった。薄紅色が映った雲の隙間から二つの月がぼんやりと姿を現し始めている。光星の支配する時間はもうじき終わる。
◆ ◆ ◆
みぃーみぃーと鳴く魔従キャロたちは、大きなガレー船のような飛鉱艇の第5層にある倉庫区横の飼育スペースに預けてきた。キャロの場所は土や牧草で敷き詰められており、水や大好物の赤いラディッシュのようなネズーラという野菜やネズミなどの死骸が木桶の中に積まれている。魔従やペットの種類別に分かれており、みぃたんたちも快適そうだった。
エリカは恐る恐る違うスペースの扉の向こうを伺ってみたが、ドラゴンはいないようだ。
「ドラゴンはいないみたい。よかった」
「ぶっ」
隣のウィルが噴き出す。
「お前っ。ドラゴンが乗ってるわけないだろう?!」
「へっ?」
エリカは不思議そうに首を傾げる。
少しだけの好奇心と恐ろしさを感じながら、ドラゴンが垣間見えるものと期待していたのに残念だ。
色々な地方へと運搬される家畜たちも、少し離れた柵の中に放たれている。
「バカだな」とフッと笑いを浮かべたウィルの横顔をキッとにらみ、エリカはみぃたんたちを預けた第5層から上層へと踵を返す。
飛鉱艇の内部は本当に驚くべき作りだった。巨大なガレー船のような外観からは想像できないような繊細な内装を施された第2層、第3層の客室部分。先程はキャロたちを御すのに精いっぱいで、良く見えていなかったが、まるで映画で見たタイタニック号のような豪華な船内に息をのむ。
優美な吹き抜けのある大ホールを横目に、木目調の長い廊下を進む。
目の前にはエレベータがあった。先程は魔従キャロを連れていたので、なだらかなスロープを右に左に下ってきたのだが、帰りはこれに乗るらしい。
「エレベータ?」
エリカが固まっていると「乗るぞ」と肩を押しだされた。
どんな仕組みかは全くわからないが、昔の外国映画で見たようなレトロな百合を模った黒鉄柵の扉のついたエレベータは地球にあるのと変わりないように感じた。ただスイッチに浮かぶ各階の数字がなぜかローマ数字で、その表面に僅かに魔力を感じ取ることができることに、これも魔法か、魔導具の一種なのだろうと考えた。
いや、確か魔法はここでは使ってはならないはず。エヴァの言葉が脳裏をよぎる。
『エリック。いいこと? 飛鉱艇の中では魔法は使ってはダメ。大変なことになるから絶対に使ってはだめよ。約束して頂戴。いいわね?』
大変なこととはどんなことなのか、しっかり聞いておけばよかったと思ったが、もう後の祭りだ。
それなら科学なのか?
もっとちゃんと学究院やエヴァの座学で、勉強しておくんだったと嘆息する。
魔法がある為、あまり発達されていないとされている科学。でも理工学もさっぱりなエリカからしてみれば、科学も魔法もどちらも同じ不思議で便利な力に違いはなかった。
ウィルは何の疑問も感じず乗っているように見える。ここでは当たり前のものなのかもしれない。スビアコ村やリーラベルの学校で過ごしてきて大分この世界に慣れたと思っていたけれど、まだまだ知らないことがこんなにもたくさん溢れている。
歓声をあげながら走りまわって色々なものを見て回りたいのに、いつも見慣れている何でもないふりをして過ごすのは骨が折れた。まるで旅行に行ったのにホテルに缶詰にされた気分だった。
「早く戻ってモーリーとマルクスに話を聞かないとね」
「そうだな。あいつらちゃんと聞いてるかちょっと心配だ。飛鉱艇は客としてはいつも乗ってるが、俺も乗務員は初めてなんだ。早く戻ろう。まだそんなには時間は経ってないはずだ」
わしゃわしゃとエリカの短い黒髪を大きな右手で撫で、エレベータを降りモーリーとマルクスのいるデッキへと続く扉へと颯爽と歩きだす。
「待ってよ。迷いそう」
「早く来ないと置いてくぞ」
振り向いたウィルの翡翠色の瞳は悪戯ッ子のように笑っていた。
鉄製のドアを開けデッキへ出ると、先程の大きな目立つ看板の下でまだ説明は続いていた。台の上に乗っているのか、集まる人々から白のセーラーを着た船員の姿が最後列からでも見える。
モーリーとマルクスは前列にいるはずだ。さすがに遅れていって割り込みするのは気が引けるので、後方にそのままつき船員の話に耳を傾けた。
「あー。また新人が来たようだ。これは重要だからまた同じ話を繰り返すが……」
ウィルとエリカが遅れてきたため、また説明してくれるらしい。それは助かるとエリカは姿勢を正した。
「これはまぁ常識なので知っているとは思うが、ここ飛鉱艇では魔法は制限されている。今回はヴァカンス中ということもあって、学生たちも混じっているようだから詳しく説明しよう」
そう言って船員はエリカたちの方へと視線をよこした。前列の方へも視線を向けたことから、モーリーやマルクスはあそこにいるのだろう。
「学校で習ったとは思うが、魔法は大地の力の中に眠っている魔力を引きだして紡ぐもの。魔力というのは大いなる存在――至高なるものの通称だが……」
「おいおい。そんなことはいいからさっさと説明しておくれっ」
ガヤガヤと民衆の中から野次が飛ぶ。
大いなる存在。至高なるもの……?
エリカが記憶を手繰り寄せるように、エヴァや学究院での授業を思い返していた。習ったような気もするし、はじめて聞くようでもある。そうだ。はじめて魔法を習った時にそんな話をエヴァから聞いた。でも、あまりにも全て信じられないことだらけの日々で、すっかり頭から抜けていたのだ。
本当にこの世界は、地球とは異質で不思議なことだらけだ。そうかと思えば、人々の姿は地球と変わりはないし、妙な共通点もたくさんある。
それがエリカを混乱させた。
流されてここまできたが、これからどうしたらいいのだろう。あまり考えると思考の深淵から浮上できなくなりそうで、楽天的に過ごそうと決めていたのに、ふとした時に負の思考が足をからめとる。
肩に置かれた手にエリカはハッとした。
ぼんやりとしていたのに気がついたのか、ウィルが心配そうにエリカを覗きこんでいた。
「おい。大事な話だ。ちゃんと聞いておけ」
「う、うん。わかった」
ウィルは隣で深刻そうな顔をしているエリカを見て眉を寄せた。
たまにこんな時がある。何を悩んでいるのか、ふとした瞬間にとても遠い目をして沈んでいることがある。とても悲しそうなやるせない表情を見ていると、不思議と守ってやりたいと思ってしまう。
最初はいやいやだったお守役だったはずなのに、そんな自分に自嘲する。保護欲なのか――。自分でもよくわからない感覚に頭をふり、ウィルは前を向いた。
「とにかく、飛鉱艇は大地から遠く離れ大空を翔る船だ。大地から離れるということは、魔力もそれだけ引き出しにくい。引き出せることも問題なのだが――。上空から地上の魔力を引きだすことの弊害は集まった皆さんは知っているようなので……ゴホン、ゴホン」
またしても長ったらしい説明に、人々の間から不満の声が洩れ、船員はむせ込んだ。
「というわけなので、飛鉱石上昇魔術航空士と風魔術士、一等から二等航空士、船医、船長以外の魔術使用を禁止する。これを守らなかったものは、一切の弁明を許さず即座に降船を言い渡す!」
船員の説明が終わったかとザワザワし始めたところ、海賊のような風貌の男性がぬっと顔をだした。年季の入った茶革の外套の中には、濃紺の上下の擦り切れた服が見えた。着崩してはいるが、チラリと見える銀モールの刺繍から推測するに船員服だろう。ぼさぼさの黒髪は薄茶色の左目にかかりそうなほど長く、肩まである後ろ髪は邪魔なのか一部まとめている。
どうみても堅気の人間には見えない迫力のある彼の姿に、先程までの元気はどこへやら野次も止み、皆借りてきた猫のようにおとなしくなった。
「船長!」
説明をしていた船員が心臓の位置に手のひらを置き、片膝をつき礼の型をとる。
「船長?! あれが?」
思わず声をあげたエリカの方をぎろりと睨み、にやりと笑った。