30 マルクス・ヨッカー 3
「……落ち着いた?」
エリカたちは先程の入口近くの通路から、図書室の少し奥まった場所にいた。
ローテーブルの前にある座り心地の良いソファーに腰かけている。
「ああ。ありがとう、エリック」
赤く充血した蜂蜜色の瞳を伏せ、微笑する。
マルクスのこれまでの経緯を聞き、どれだけ彼女自身が恵まれた環境にあるのか感謝する。
あの日――はじめてハウメアのバスティ山の深遠の森の中で目覚めた日――から今までこうして無事に平穏な生活ができているのは、どれだけ幸運なことだろうか。
同じく地球からトリップしてしまったマルクスが大変な日々を送ってきたというのに……。
「それからどういう風に過ごしてきたのか……教えてもらってもいいかな? マルクス」
彼には心から打ち明けられる協力者がいたのかどうか――それがエリカの気がかりだった。
純粋にマルクスのことを気遣っての言葉かと問われれば、否と言うざるを得ない。そこにはエリカ自身の保身もあった。
彼に彼女自身も地球から異世界ハウメアへと迷い込んだことを打ち明けた以上、そこから自身の身の上が明らかになるのを恐れたのだ。
ファミエール家に協力すると契約した以上――いや、これまでもこれからもお世話になっている本当の家族のようなジンやエヴァのために――マルクスとの話は広げたくないと思ったのだ。
「アレカラ……俺はモーリーの家、ビンデバルト家にヒロワレタンダ。モーリーの父君が俺のようなマヨイビトをシエンシテイルらしい」
「それじゃあモーリーは君の事情を知っているの?」
マルクスは俯いていた顔をパッとあげ微妙な顔をする。
「……ドウダロウナ。俺はモーリーには話してナイヨ。でも……ワカラナイ。タダ、あいつが信用デキル奴だってコトハ俺がよくワカッテル」
「それは同感だ」彼の言葉にエリカも力強く頷く。
まだ浅い付き合いだが、モーリーもマルクスも信頼できる友人だということはわかる。
モーリーには事情を打ち明けても良いのではないか――エリカの心は揺れる。マルクスのこともある。彼が心から慕う友人にエリカも含めて協力を仰ぐことはいけないことだろうか?
全て話すことは出来ない。約束だから。
ファミエール家の失踪した娘クリスティーヌの命運がかかっている。だから打ち明けられない部分もあるだろう。
それにまだエリカにはわからないのだ。物事には多面性がある。何が正しいのかなんてその人の立ち位置で決まるものでしょう?
片方の立場からの情報しか知らないエリカは何をもって正義を判断すればいいのだろう。だからまだ自分の行動に確信を持って実行出来ずにいた。
「打ち明けるのか? モーリーに」とエリカは問う。
「迷ってルンダ……」
マルクスは赤褐色の髪をかきむしり考え込むように嘆息し、頬杖をつきうーんと唸っている。
きっとモーリーは心強い味方になってくれるはずだ。マルクスはもちろん、エリカにも。
それにモーリーの父の話も聞いてみたい。何かわかるかもしない。迷い人を保護しているのなら、エリカ達のほかにもまだ地球から来た人々がいるのだろうか?
帰る手段がわかるかもしれない……。
今まで考えないようにしてきたけれど、故郷の日本に残してきた家族、友人、生活、仕事――全てのことが中途半端に放ってある。それなりに幸せな日々だったと思う。何気ない日常を送っていた。不満もあったが深刻な悩みはなかった。
忙し過ぎた日々に辟易していたのは確かだが、全てを投げ出してまで抜け出したいとは思っていなかった。
……いや、ハウメアにとばされてしまって正直ほっとしたのも事実だ。唯、無責任に仕事も生活も家族も友人も放りだしてきてしまったことに心が痛むのだ。
まだ帰れない。ハウメアでやることが残っている。その後は? 帰るべき場所は――?
「じゃあコインで決めよう。表だったらモーリーに言う。裏だったら言わない。どう?」
「ワカッタ」
エリカは銀貨を取り出し左親指の上に乗せる。
弾かれたコインは綺麗に宙を舞いエリカの手のひらの甲へと落ちてくる。
被せた右手をそっと外す。
「あ……おも――」
「なぁ、何してるんだ?」
凄くいいタイミングで賭けの対象がやって来た。
「モーリー!」エリカはニヤッと笑ってマルクスにウィンクする。
「マルクス、表だ」
「リョウカイ」とマルクス。
モーリーは狐につままれたような顔をしている。
「モーリーに話がアルンダ。チョットいいカナ?」そう言うとマルクスはエリカに目配せする。
「誰にも聞かれたくない。どこか良い場所しらないか?」エリカはモーリーに尋ねた。
「何だよ? ……ちょっ」
「えっ? えぇっ?!」と言いながら混乱しているモーリーを、2人で両脇を抱え図書室の奥へと引っ張っていく。
大分奥まで来た。
座り心地のよさそうな椅子もある。
エリカは周辺の様子を見てまわる。近くに自分たちのほかに誰もいないことを確かめると2人に座るように促した。
「話がある。秘密の話だ。誰にも言わないと約束できる?」
モーリーの灰色の瞳を真っ直ぐ見据え、エリカは椅子に座る彼の前で跪き答えをじっと待つ。
いつものようなにこやかな談笑とは違った張り詰めた空気に、モーリーの顔も緊張を帯び真剣な眼差しへと変わった。
「俺はおちゃらけてるけどさ、約束は守る。話せよ。何だよ?」
真剣な声で2人を見つめる灰色の瞳に曇りはない。
場所を移してからずっと沈黙を守ってきたマルクスが口を開く。
「俺タチのコトダ。モーリー、俺タチ地球からキタンダ」
「アース? ってどこだっけ。俺、地理は意外と知ってる方なんだけど……聞いたことないな。お前が前に言っていた国名と違うだろ、マルクス」
キョトンとした顔でマルクスの方を向く。
その言葉にマルクスとエリカは頷く。
「地球はこことは違う次元の異世界……なんだと思う。たぶん」エリカがその問いに答えた。
「はぁ?!」
モーリーの目が大きく見開かれた。唖然とした表情のまま固まっている。彼の両手は頭を抱え、髪をかきむしっている。波打つダークブラウンの髪の毛が動揺のあまり乱れている。
「……異世界? まさか。そんなはずは……だったら親父は……」混乱した様子で口走る。「俺は……信じてたのに。もう抜けたものだと……」
モーリーの動揺にエリカは不安になった。彼は何を言っているのだろう?
まるでモーリーの不安感が伝染したかのようにエリカも神経質になる。
「大丈夫ダヨ、モーリー。俺は君ノコト信頼シテル」力強くマルクスが語りかける。「何か君の父君ノコトデ気になるコトガアルンダネ? ……ヨカッタラ話してクレナイカ?」
先程まで涙を流していた人物とは思えないほど、マルクスはしっかりとした態度で向き合っている。
見た目は若返りのために幼く見えるが、彼は歴とした社会人の男性なのだ。エリカとそう年も変わらない。
マルクスの態度にモーリーも落ち着きを取り戻す。
「もう大丈夫だ。ありがとう、マルクス」モーリーは静かに語り始める。「家の親父は商売をしていて結構手広く上手くやってるみたいなんだ。まぁ、大商人ってやつだ」
モーリーの冷静な口調にエリカも気を取り直し、彼ら2人が座るソファーの向かい側のひとり掛けの椅子へ腰を落ち着け話を待つ。
「何年か前から親父が身寄りのない流民たちを連れ帰って来るようになったんだ……」モーリーは言葉に迷ってるかのようにゆっくりと語彙を選びながら続ける。「彼らは外国人のようだった。考え方が変わってるんだ。……なんというか不気味で、古風な話し方をした」
「古風……?」エリカは遮った。
「ああ、何世代も昔のような変わった話し方をする人たちでさ……。まぁ老人や中年ばかりだからかもしれないけどさ。遠い外国から来た流民だっていう話だった」
はじめて聞く話に真剣に耳を傾ける。
「親父はそんな彼らに住む場所や施しを与えていた。まだそこまで年をとっていない働ける者たちには仕事を……。だけどそんな親父の慈善に口を出してきた財団があったんだ」
モーリーの言葉にハッとする。
「財団……?」
財団とはディスノミア財団のことだろうか。ジンたちが敵対している組織?
ハウメアとエリスの併合の研究をしているとか……。
「あぁ。俺もよくは知らないんだが、さる偉いお方達が秘密裏に集う財団に入らないかという誘いがあったみたいなんだ。親父は喜んでいたよ。事業も成功を収めていたけど何しろ身分はただの商人。箔が欲しかったんだろうな……」
昔のことを思い出すように遠い目をして寂しそうにモーリーは話す。
「親父は財団に入ってから意気揚々に出かけて行っていたよ。いつからか保護している流民たちを連れて行くようになったんだ。……そのころから財団について語ることを嫌がるようになったんだ」
「ソノ財団ってイウノハ何なの?」マルクスは尋ねる。「何をシテイルの? ソノ組織は」
ズバリと尋ねたその質問にエリカも身を乗り出した。
モーリーも一旦語るのを止めこちらに視線を向ける。結んだ両手に力を込めてふーっと嘆息する。
「俺も……よくは知らないんだ。気になって……親父がぽろりとこぼした言葉の端々から推し量ったことしかわからない。ただ、俺は財団が憎い」彼の握った拳が震える。「母さんが死んだのは彼らのせいだ」
モーリーの告白に言葉も出ない。
彼の灰色の瞳はいつものような穏やかさはなく、おちゃらけたムードメーカーの片鱗も影を潜めている。
エリカがそんな彼に声をかけようとするとモーリーがふっと軽く微笑んだ。
「ごめんな。湿っぽい話になっちまった。もう何年も前のことだ。大丈夫。そんな顔するなよ、エリック」
「あ……。モーリーごめん。話すの辛いよね」
傷口をまた広げるようなことをしてしまった。彼の明るさが眩しい。その笑顔の裏にどんな悲しみを抱えていたんだろう。
「気にすんなよって言っても気にするよなぁ……。まぁ、そんなことがあって親父は財団から手を引いたはずだった。いまだにマルクスみたいな外国から留学生の支援はしてるみたいだけど。なっ! マルクス」
「ソウダナ。モーリーの父君ニハお世話にナッタヨ。デモ俺は外国人じゃない」マルクスは苦笑する。
実際マルクスは外国からの留学生ではなく、エリカと同じく地球からどういう訳かハウメアへと迷い込んでしまった異世界人だ。だからモーリーの父親が財団から抜けたというのは微妙だ。息子のモーリーに悟らせないように今でも組織の一端を担っているのかもしれない。だとしたら性質が悪い。
どういう経緯でモーリーの母親が亡くなったかを詳しく聞くのは憚れる。その原因だと自身の息子が思っているのに財団に関わり続けるのには、どんな理由があるのだろう。
マルクスの話だけを聞いている時には、とても良い人のように感じていたが……。
エリカは益々わからなくなってきた。
本当はモーリーの父親からも話を聞きたかったが、やめた方が無難だろう。
「そう……なんだよな。親父は何やってんだ。で、アースってのが異世界なんだって?」モーリーは2人に尋ねた。
「うん。こことは違う世界っていうのは確かだよ。僕たちの世界には魔法も存在しない。言葉はアースでいうところの英語や欧州の言葉に近いみたいだけど……地球にも存在しない言語だし、文字も見たことないものだったし」
エリカがそう言うとマルクスも頷き続ける。
「エリックの言うトオリ地球はココトハ大分チガウ。俺は2年前マヨイコンデしまったところをモーリーの父君にタスケテモラッタンダ。君の父君は俺が異世界カラきたことを知ってイルヨ。ただ俺は今までのマヨイビトとは何かがチガウって言っていた。この若返ッテイク容姿のコトダト思うケド」
エリカとマルクスは今までのことを彼に説明した。
モーリーはたまに冗談を言いながらもちゃんと真剣に聞き理解を示してくれた。
「大体のことはわかったよ。で、俺はどうすればいい?」そう尋ねたモーリーにエリカは灰色の瞳を真っ直ぐに見据え訴えた。「僕たちが異世界から来たことは秘密にしておいてほしい。でも……」エリカはマルクスに目配せする。「デモ俺たちに協力してホシイ。色々教えてクレ。ハウメアのことナンカヲ」マルクスが言葉を結んだ。
それからの日々はモーリーは2人の良き友人、教師として様々なことを教えてくれた。この世界の常識や若者らしい遊びなんかも。
エリカは貴石を外してもヴァレンディア語が操れるようにマルクスとモーリーに教えてもらいながら言葉を学んだし、マルクスも貴石を貸しそれをかけて学ぶことによって彼の語学力も大分上がった。
モーリーにはこの世界にはない科学のことを話したり、地球の話は彼の一番の関心事になった。彼の苦手な古語は貴石をかけてエリカが教えた。
3人はお互いの足りないところを補完し合いながら、成長していった。悪ふざけや遊びを通してだったり、学校での課題やいっぱいの宿題を共にこなしたりしながら。課外活動も何度も一緒にしている。
こうしてエリカたちの学園生活は充実したものになっていった。