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盗まれた香りに、名前を書き忘れていますよ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/05

 婚約を解消する、と言われたとき、リーネの鼻が先に反応した。言葉より早く。


 ルドガーの襟元から、3日前にはなかった甘い混合香が漂っている。ローズ・ド・メの合成油にジャスミン・グランディフロルム。安価だが華やか。リーネの調合ではない。


「承知しました。調合表の引き継ぎは3日以内にお届けします」


「——それだけか?」


(——引き継ぎが必要なのは調合表より、あなたの襟元の言い訳のほうだと思いますけれど)


「父上も、鼻が利くだけの補佐なら代わりはいくらでもいると言っていた」


 鼻が利くだけの補佐。


 3年間で47本の香水を調合した。王妃の春の香り。外交晩餐会の室内香。戴冠式の祝祭香。


 戴冠式の日を覚えている。セバスチャン主任調香師が壇上で香水を国王に献上したとき、「見事だ」と賛辞が送られた。リーネは調香室のドアの隙間から、拍手の音だけを聞いていた。抽出に3晩かかったネロリのトップノートが、遠い広間で褒められている。


 リーネの名前が瓶に載ったことは、一度もない。


 ルドガーが去った調香室に、安い香水の残り香が漂っていた。リーネは窓を開けた。春の風が入り、棚の試香紙がかさりと揺れた。


 ◇


 3日後。調香室の私物を木箱にまとめながら、リーネは棚の奥から試香紙の束を引き出した。


 3年分の試行錯誤。数百枚。鼻を寄せれば、まだ微かに香る。


 47本すべての香水に、リーネはごく微量の同じ精油を加えていた。パチュリとサンダルウッドの間に、針の先ほどのネロリ。調合表には載せていない。


(——あれは、私の署名だから)


 誰にも見つからない。分かっていた。瓶に刻まれないのなら、せめて香りの中に自分を。


「リーネ様、荷物をお運びしますわ」


 侍女のマリーが、にこにこと木箱を持ち上げた。


「ありがとうございます。試香紙は捨ててください」


「全部ですか? 3年分ですわよ?」


「はい。必要ありませんから」


 マリーが何か言いかけたとき、調香室の扉が開いた。


 ◇


「——その試香紙、捨てるのか」


 低い声だった。扉の前に、黒髪の長身の男が立っている。質素な外套、剣帯なし。靴だけは革が上等で、手入れが行き届いていた。


(——白檀。松脂。雪解けの土。……森の中で暮らしている人だ)


「失礼ですが、どちら様でしょうか」


「ヴィクトル。ノルデン辺境公爵だ」


 辺境公爵。王都には年に2度、外交の季節にしか現れない人物だ。


「調香室への御用でしたら、セバスチャン主任にお取り次ぎしますが」


「主任には用がない。お前に用がある」


 リーネは試香紙を持ったまま、瞬いた。


「——私はただの補佐で」


「知っている。だから来た」


 ヴィクトルは外套の内ポケットから、1枚の紙を取り出した。


 古い試香紙だった。端が褐色に変色している。


「3年前の外交晩餐会で、テーブルに1枚落ちていた」


「……それを、お持ちに?」


「この香りが気になった。晩餐会の室内香と似ているが、違う。何かが足されている」


 リーネの指先が冷たくなった。


「あの——お伺いしてもよろしいですか」


「何だ」


「心拍数が上がっていらっしゃいますね。体温の上昇でトップノートの揮発速度が変わりましたので」


「リーネ様」マリーが木箱の陰から声をかけた。「お客様を鑑定しないでください」


「鑑定ではありません。観察です」


「……医者か」


 マリーが木箱の陰で肩を震わせている。


 ◇


「次の晩餐会でも同じ香りがした」


 ヴィクトルは調香室の椅子に、許可なく座った。


「偶然かと思った。だが3度目も同じだった。4度目も。——それで、集め始めた」


 外套の内ポケットから、紙の束が出てきた。10枚。20枚。まだ出てくる。


「晩餐会のたびに拾った。調香室の前の廊下に落ちていたこともある」


「……何のために、ですか」


「セバスチャン主任の別の作品を取り寄せた。主任が単独で作った香りには、この要素がない。王室御用達にだけ入っている」


 リーネの手から試香紙が1枚、滑り落ちた。


「——ということは、主任の香りではない」


「……」


「ノルデン領には調香師がいない。辺境は森と山だ。花は咲くが、香りに変える人間がいない。——来ないか」


「大変恐縮ですが、ノルデン辺境公爵が、たかが補佐にわざわざ」


「たかが補佐が、47本の香水のすべてに同じ隠し香を入れるか?」


 リーネが1歩、後ずさった。


「47枚。全部に、同じネロリがある」


 ヴィクトルは真っ直ぐにリーネを見た。


「お前は、全部の香水に自分を残していた」


 リーネの視界が滲んだ。左手が、試香紙を握ったまま震えていた。


「公爵様。リーネ様の調合なさったカーテン用香料、お使いでいらっしゃるでしょう。首筋から、同じベルガモットが」


 ヴィクトルの耳だけが、赤くなった。


「……侍女は鼻が利くのか」


「いいえ。ただの観察ですわ」


 マリーは、にこにこと笑いながら調香室の扉を閉めた。


 ◇


 ノルデン領は、王都から馬車で5日の距離にあった。


 針葉樹の森を抜けると、谷間に小さな城下町が広がっていた。空気が澄んでいる。王宮の調香室に染みついていた合成油の残り香が、肺から洗い流されていくようだった。


 馬車を降りたリーネは、道端に群生する野花に膝をついた。指で茎を折り、断面を嗅ぐ。


「この品種のラベンダー、標高600メートル以上でないと精油の含有率が——土壌のpHは弱アルカリ性ですね、石灰岩の層が近い。日照時間は——」


 通りがかりの老農夫が足を止め、ヴィクトルに小声で囁いた。


「公爵様。あの方、花に……」


「嗅いでいる」


「嗅いで。……ずっとですか?」


「ずっとだ」


「お大事になさってください」


「調香師だ」


「ああ」


 老農夫は全く納得していない顔で去っていった。リーネは何も聞こえていなかった。


「この株、去年の秋に植え替えましたね。根の張り方が浅い。来春にはもっと良い精油が——」


「リーネ」


「はい」


「城はあっちだ」


「……すみません」


 ◇


 ヴィクトルの城は質素だった。調香室として用意された部屋は、王宮の半分の広さしかない。だが窓が大きく、森の風が直接入る。


 ノルデン領での最初の仕事は、公爵家の公式香水の調合だった。


 リーネは森に入り、素材を集めた。ヴィクトルは黙ってついてきた。


「この白樺の樹液、春先の2週間だけ採取できるものです。香りの核に使えます」


「いつでも採れるようにしておく」


「——公爵様が?」


「庭師では香りの層が読めないんだろう。なら、俺が覚える」


「覚えるとおっしゃっても、樹液の採取時期は気温で判断するもので」


「教えろ。覚える」


「……夜明けの気温が7度を超えた最初の朝です」


「7度」


「はい。7度です。それ以上でも以下でもなく」


「分かった」


(——この人は、本当に覚えるんだろうな)


 辺境公爵が、調香師のために白樺の樹液を採る。森の空気が、一瞬だけ甘くなった気がした。


 試香紙に新しいブレンドを含ませ、ヴィクトルに差し出した。


「——嗅いでいただけますか」


 ヴィクトルが試香紙を受け取り、鼻に近づけた。3秒。5秒。


「入っているな」


「何がですか」


「隠し香」


 リーネの指が止まった。


「——入れていません」


「入っている。王宮の47本と同じものが」


 リーネは自分の試香紙を改めて嗅いだ。——確かに、ネロリが香る。3年間入れ続けた習慣が、指に染みついていた。


「消しますか」


「消すな。お前の香りだ。消す必要がない」


「……癖なんです」


「癖だろうが意図だろうが、変わらない」


 リーネは返事ができなかった。試香紙を持つ指先だけが、震えていた。


 ◇


 公爵家の公式香水が完成したのは、ノルデンに来て7日目のことだった。


 白樺とラベンダーとネロリ。森の風をそのまま閉じ込めたような、透明な香り。


 リーネは完成品をヴィクトルの前に置いた。


「いかがですか」


 ヴィクトルが瓶を手に取り、手首に1滴落とした。鼻を寄せる。3秒。5秒。10秒。


「……いい」


「より具体的にお願いできますか。調合の記録に必要ですので」


「……非常に、いい」


「語彙が増えていません」


 ヴィクトルが黙った。眉間に皺が寄っている。言葉を探しているらしい。


「……森に似ている」


「素材が森ですので当然です」


「……もう1度嗅がせろ」


「何度嗅いでも語彙は増えませんよ」


 ヴィクトルの耳が赤くなった。リーネはくすりと笑った。——笑えたのだと、1秒後に自分で驚いた。


「……今、笑ったな」


「笑っていません」


「嘘だ。口角が動いた」


「嘘ではありません。口角が動いただけです」


「それを笑ったと言う」


「調香師の定義では、笑いとは横隔膜の振動を伴うものです」


「調香師の定義は知らない。俺の定義では笑いだ」


 リーネは黙った。調合台の上の試香紙を整える指先が、微かに温かかった。


 ◇


 翌日、リーネは次の調合に取りかかった。ノルデン領の来賓用の室内香。


 今度は意識した。ネロリを入れなかった。


 試香紙に含ませ、ヴィクトルに差し出した。彼は受け取り、3秒嗅いだ。


「——入っていないな」


 声に温度がなかった。


「はい。今回は意図的に外しました。ここでは私の名前で調合していますから、署名を——」


「そうか」


 ヴィクトルは試香紙を机に置いた。立ち上がり、調香室を出ていった。振り返らなかった。


 リーネは試香紙を拾い上げた。鼻を寄せた。何も間違っていない。調合は完璧だ。


 ——なのに、指先が冷たかった。


 ◇


 王都から使者が来たのは、その翌日のことだった。


 セバスチャンの新作が外交晩餐会で不評。王妃が4度目の試作も却下。宰相が調査を命じ、過去3年分の仕入れ伝票を精査した結果——精油の発注者がすべてリーネ名義であることが判明した。


 そして、さらに1通。


 宰相名義の召喚状。リーネに、公開裁定への出席を求めるものだった。


「……証人として、ですか」


 リーネは召喚状を持つ指が震えるのを止められなかった。


 ヴィクトルが、調香室の入り口に立っていた。昨日からまともに目を合わせていない。


「行かなくてもいい。俺が代わりに——」


「いいえ」


 声が震えた。けれど、止めなかった。


「私が——行きます。自分の調合を、自分の名前で証明します」


 ヴィクトルは5秒黙った。


「——俺も行く」


 短い。けれどその声に、昨日消えていた温度が戻っていた。


 ◇


 王宮の大広間は、3年ぶりの匂いがした。大理石の冷気と、蝋燭の油と、100人分の人間の体温。


 リーネは広間の端に立っていた。ヴィクトルが隣にいた。


 セバスチャンは壇上で、宰相の前に立っていた。顔色が悪い。——嘘をつくと体臭の組成が変わる。3列離れていても分かった。


「では、主任。最新の調合をご披露いただけますか」


 宰相の言葉に、セバスチャンが瓶を差し出した。


 宰相が一嗅ぎして、眉をひそめた。王妃も一嗅ぎして、何も言わなかった。


「——リーネ殿。あなたの見解を」


 リーネは壇上に上がった。瓶を受け取り、手首に1滴落とした。


 1秒。鼻がすべてを読み取った。


「——主任」


「この香水、定着剤が二重に入っています。1日目に入れたものと、3日目に入れたもの。3日目のほうは配合を間違えていらっしゃいます」


 セバスチャンの顔が引きつった。


「それから、ベースノートにパチュリをお使いですが、パチュリは沈香と喧嘩します。——お気づきになりませんでしたか」


 会場が静まった。セバスチャンは答えなかった。


「最後に——」


 リーネは瓶のラベルを見た。


「このラベル、主任ご自身でお書きになったんですね」


「……それが何だ」


「お上手です」


 3秒の沈黙。会場の空気が変わった。


 セバスチャンは最後の弁解を試みた。


「私の秘伝の配合は——これを御覧ください」


 調合表を宰相の前に差し出した。


 リーネは一目見て、息を吐いた。


「その調合表、私の字ですけれど」


 セバスチャンの口が開閉した。手が宙で止まった。


「ち、違う。これは私が——」


「2頁目の3行目に、ネロリの含有量を0.3と書いた上から0.5に修正した跡がありますね。修正したのは私です。主任は修正に気づかれませんでしたか」


 セバスチャンは答えなかった。顔から血の気が引いていた。


 ヴィクトルが立ち上がった。


「俺は3年間、リーネの試香紙を読んでいる。47枚。すべてに同じ隠し香がある。セバスチャン主任の単独の作品には、それがない。——以上だ」


 会場の空気が動いた。視線がセバスチャンからリーネに移っていくのが分かった。


 リーネは壇上で、何も言わなかった。試香紙を1枚、指の間で回しているだけだった。


 ◇


「それで、ルドガー様が『父上の名前で出ていたのは知らなかった』と仰ったそうですが」


 裁定後の控室で、マリーがにこにこと報告した。


「知っていましたよ」


「リーネ様」


「婚約中、私の調合台を何度も見ていましたから。あの人の鼻では違いが分からなかっただけです」


「それは罪ですわね」


「何の罪ですか」


「鼻の怠慢です。調香師の婚約者が、調合の違いも分からないなんて」


「それに——ルドガーは私のことを1度も『リーネ』と呼んだことがありません」


「何と?」


「『お前』です。3年間ずっと」


「……それはもはや犯罪ですわね」


「マリー」


「はい?」


「……言いたいことは山ほどありますが、全部今さらです」


「今さらではない話を1つだけ。公爵様、裁定の場で宰相に感想を求められていましたわ」


「何とおっしゃったんですか」


「『いい裁定だった』」


「……それは褒めているのでしょうか」


「さあ? ただ、耳だけは赤かったですわ」


 リーネは試香紙を整える手を止めた。笑いそうになるのを、かろうじて堪えた。


 ◇


 裁定の結果、セバスチャンは主任調香師の地位を剥奪された。リーネの名前が、過去3年間の47本の香水の調合者として、正式に記録された。


 王宮からは即日、招聘の書状が届いた。「王室調香師」の肩書きつきで。


 リーネは、書状をヴィクトルに見せた。


「断る理由はない。——行け」


 ヴィクトルの声は平坦だった。顔も動かない。ただ、右手の指先だけが、試香紙の角を何度も撫でていた。


「公爵様」


「何だ」


「嘘をつくと、体臭の組成が変わるんですよ」


 ヴィクトルの手が止まった。


「今、あなたから緊張性の発汗が検出されます。行けと言いながら——行ってほしくないんでしょう」


 沈黙が落ちた。


 ヴィクトルが、初めて目を逸らした。耳の先端が赤い。首筋まで赤い。


「——調香師は医者か」


「いいえ。ただの鼻ですわ」


 リーネは笑った。涙が1筋、頬を伝った。


「……行きません」


「何?」


「王宮には行きません。ここにいます」


「なぜだ」


「王宮の空気は合成油の残り香が染みついていて、嗅ぎたくないからです」


「——それだけか」


「それだけです」


「嘘だな」


「なぜ分かるんですか」


「お前が嘘をつくとき、左手が試香紙を探す。今、指が動いた」


 リーネの肩が、小さく跳ねた。


「……リーネ」


 名前を呼ばれたのは、初めてだった。


 ヴィクトルが、リーネの手を取った。試香紙ではなく、指そのものを。


「47の香りの中で、一番美しいのは、お前自身の匂いだ。署名じゃない。お前だ」


 リーネの唇が震えた。試香紙が1枚、指の間から滑り落ちた。


 何も言えなかった。涙が止まらなかった。


 ヴィクトルの指が、リーネの涙を1つだけ拭った。不器用な手つきだった。白樺の樹液を採ると言った手。調香師のために7度の朝を覚えると言った手。


 リーネは、その手の甲に鼻を寄せた。


「……定着剤、要りませんね」


「何の話だ」


「この香りは——消えませんから」


 ◇


 ノルデンに戻った朝。調香室に、春の光が差し込んでいた。


 リーネは小さな瓶に、来賓用の室内香を注ぎ直した。あの日外したネロリを、もう一度加えた。針の先ほど。


 手書きのラベルを貼った。——『調香師リーネ』。


 窓から入った風が、ネロリの匂いを森の向こうへ運んでいった。


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