坂東の狂気
和男は黙って坂東の後ろ姿を見つめている。坂東は項垂れている。右手で顔を押さえていようだ。時折、震えている。嗚咽の様な声が漏れる。和男は動揺し、
「どうしたんだ」
坂東は答えない。和男は苦笑いしながら、
「まさか、泣いているわけじゃないんだろ」
坂東は右腕を動かしている。顔を手で拭っているようだ。和男は目を見開いて坂東の後ろ姿を見つめる。手を下ろすと、坂東は大きく一回、深呼吸した。和男は見守る。坂東は暗い声で、
「何故、お前は泣かないんだ」
和男は答えない。坂東は後ろ向きのまま、
「お前、赤ん坊だった時以外は泣いたことが無いんだろ」
和男は首を傾げて、
「さあ。覚えてねえな」
坂東がゆっくりと振り返る。和男が驚きポカンと口を開ける。坂東は無表情だが目元には泣いた跡がある。和男の目が泳ぐ。坂東は、
「お前以上の男はいない」
和男は眉間に皺を寄せて、
「皮肉か?さっきの話を聴いただろ」
坂東は顔を横に向け、
「俺は今でもお前が好きだ」
和男は不思議そうに眉を下げ、
「それってどういう意味だ?高校の時にも言われたけれどよく分からねえ」
坂東は低い声で、
「男として生きたお前も、女であるお前もどちらも好きだ」
和男は腑に落ちない様子で坂東の横顔を見つめる。坂東は振り向く。思い詰めた表情だ。坂東は、
「それがお前への侮辱であることは分かっている」
和男は力無く笑い、
「もう良いんだ。俺はもう、男じゃないんだ。お前が好きな俺はもういない」
坂東は真顔で、
「お前には俺よりも長生きして欲しい」
和男は苦笑いしながら、
「さっきからどうした?泣いたり、そんな事を言ったり」
坂東は、
「お前、今すぐに死にたいんだろ」
和男は俯き、
「ああ」
坂東は和男に歩み寄ると和男の肩に手を置き、
「それじゃあ、俺も一緒に死のうか」
和男は振り向く。坂東がやけに穏やかな表情で和男の顔を覗き込んでいる。和男は、
「今日のお前はどうかしている。いつものお前なら絶対に言わない事を言っている」
坂東は微笑み、
「俺は今さっき泣いた」
和男は俯く。坂東は優しい声で、
「まずはお前が俺を殺せ。その後でお前が自殺すれば良い」
「え?」
和男が声を漏らす。坂東は和男から離れて小さな台所の棚から包丁を持って来た。本能的に和男は身構える。坂東は和男の右手首を掴むと両手で包丁を握らせた。刃先を自分の腹部に当てる。和男は、
「ちょっと待て」
坂東は無表情で、
「今更、怖気づいたか?」
和男は全身が震えている。坂東はしっかりと包丁を握らせたままだ。和男は、
「なんでお前が先に死ぬんだ?」
坂東は微笑みながら穏やかな声で、
「俺はお前の死顔を見たくない」
和男の顔が怯えている。呼吸も荒くなる。身体の震えは止まらない。坂東は微動だにせず、明るい声で、
「お前がそんな顔をするなんて初めて見た」
和男は呻くように、
「もう止めろ」
坂東は楽しそうに、
「死ぬ気が失せたか?」
和男は、
「ああ」
坂東は包丁を取り上げると、何事も無かったかのように元に戻した。和男の身体はまだ震えている。坂東はまた椅子に座って足を組んだ。指を組んだ手を膝に乗せる。そのまま動かずに無表情で和男を見つめている。
和男は俯いて呆然としている。ある程度、落ち着きを取り戻すと、
「お前は狂っている」
坂東は笑いながら、
「そうか?俺は好きだと言っているのに、お前は死にたがってたんだぞ」
和男は立ち上がり、
「帰る」
「この後、どうするつもりなんだ?」
坂東が無表情で尋ねる。和男は宙を睨んで考える。坂東は待っている。和男は、
「今度、俺を抱いてくれ」
坂東は息を飲んだ。だが微笑みながら、
「じゃあ一週間後の今頃、ここに来いよ。すっぽかしてもかまわない」
和男は部屋を出て行った。




