赤い靴、灰かぶりの掌、踊る少女は夢を見ない。
選ばなかった人生を、夢に見る。
選ばれなかった自分を棚に上げて。
赤い口紅で唇を覆い、派手な衣服を身に纏って、夜の街を歩く。
飲めない酒を飲み干して、見知らぬ男と指を絡める私だけが、本当の私であったならよかったのに。
――分不相応な幻想は、いつも明け方には解けて消えた。
「また……やっちゃった……」
鏡の中に残されるのは、厚塗りの化粧が崩れてぐちゃぐちゃになった、みすぼらしい女の素顔。
すぐ側にある、もう一人の人間の気配と耳障りないびきが、抜け落ちた記憶の答えを容易に推測させた。汗ばむほど暖房がきいた室内で、鳥肌の立った二の腕を抱く。
――ああ、気色わるい。
シーツを共有して眠る男の存在を視界に入れないようにしながら、乱れたベッドからそっと抜け出した。
床に脱ぎ捨てられた抜け殻を拾い集め、汚れた下着と衣服を身につける。着替えを用意する理性が残っていたのなら、私はこんな場所にいない。
ヒールの折れたパンプスを履くことは諦めて、客室に用意されていた薄っぺらい使い捨てのスリッパで外に出る。10cmほどの上げ底を失って、目新しさのカケラもない視点から、ネオンの消えたホテル街を振り返った。もう、つま先立ちでは歩けない。
表通りまで出ることなく、すぐにタクシーはつかまった。始発は動き出しているのに、こんな有様では電車に乗れないと――行動を支配する羞恥心が、また私のもとに帰ってきていた。
彼は、まだ帰っていないだろうか。汚れた服や壊れた靴を捨て、昨夜の痕跡をすべて洗い流す時間は、残されているだろうか。
新聞配達、ランニング、犬の散歩……タクシーの車窓を流れていく健全な朝の風景をぼんやりと眺めながら、同棲中のマンションに到着したらすべきことを、ひとつずつ頭の中で整理していく。
昨夜のうちは気づかなかった踵の靴擦れが、ズキズキと傷んだ。
§
荒れた顔面にクレンジングオイルを塗りたくり、温水に切り替わる時間も惜しんで、冷たいシャワーを頭から被る。腐りかけた脳味噌も、少しは冷えただろう。
曖昧にぼやけた記憶を信じるのであれば、こんな朝を迎えるのは3回目だった。
獣たちは綺麗に遊んだらしい。いっそ噛み跡のひとつでも残してくれればと――ネイルの剥がれた爪を立てて力強く引いてみたところで、乾いた肌に白く浮かぶ筋は、1分と間を置かずに消えていく。
分厚く全身を覆う皮膚を突き破る覚悟もなく、傲慢な理性に縛られた臆病者が手にするのは、存在の証明にもならない、微かな痛みだけだった。
ざっと乾かした生乾きの髪をクリップで雑にまとめ上げて、くたびれたスウェットに着替える。
――どうせ、気づかれはしないのに。
洗面台の鏡に映る、化粧っ気のない薄い顔を、嗤った。
淹れた覚えのないコーヒーの香りに気づいたのは、一通りの家事を終えて、洗濯乾燥機が停まる頃だった。
香りの元を辿り、震える脚をごまかしてキッチンの扉を開く。
見慣れた二人がけのダイニングテーブルの上には、バターが塗られた焼きたてのトーストをのせた百均の木製プレートと、不釣り合いに上品な金縁のコーヒーカップが並んで置かれていた。
同棲を始めた記念に買ったペアカップの片割れは、随分前に割れてしまい、彼が使うその一客しか残っていない。
「おはよう」
無精髭を生やした中肉中背の冴えない男が、戸口で立ち尽くす私に向けて、柔らかく微笑む。
5年前のデートで一緒に選んだ流行遅れの眼鏡の奥――いくつになっても純朴そうな丸い瞳を細める、いつもの彼の笑い方だった。
「お、はよう。起きてたの? 晴喜さん」
正木晴喜。清く正しく善良な理性が服を着て歩いているような男には、ぴったりの名前だった。私には、とても名乗れない。
「うん。なんだか今朝は、きみの顔を見たくて」
「言ってくれたら、卵くらい焼いたのに」
「いいよ、疲れてるでしょ。いつも任せきりでごめんね」
彼はときどき、家を空ける。どこに行くとも、誰に会うとも告げずに。明け方に帰ってきて、死んだように眠って。やがて何事もなかったかのように、いつもの日常に戻ってくる。
「……お義母さんは、お元気?」
ふらりと出かけた彼の行き先が実家であることを、私は知っている。
疑うことすら馬鹿らしいけれど、いっそ彼が私を裏切っていてくれたのならと願って、確かめようとしたことがあるからだ。ただ、一度きり。我が身の浅ましさに耐えきれず、途中で通話を切った。そんなこと、ありえるわけがなかったのに。
「どうかな。頭はしっかりしてるみたいだけど」
晴喜さんは、出会った当時から変わらず穏やかで、不機嫌そうな顔を一度も見せたことがない。
――結婚するなら、こんな人としたいと思った。
私の生涯の伴侶には、あるいは、いつか生まれる我が子の父親には、きっとこんな人が相応しい。目の前に並べられた選択肢の中から、たったひとつの正解を選ぶように、打算的な恋をした。
決定的な言葉を告げられないまま、ズルズルと。
不確かな関係を重ねて、もう何年になるだろう。
きっと私たちには、子供が生まれない。どちらに原因があるのか調べることも恐ろしくて、いつのまにか将来の話を口にすることもなくなっていった。
「今日、仕事は?」
「午後から行くわ」
「ああ、泊まりだったんだっけ」
「……ええ」
彼の中では、そういうことになっている。まだ、嘘ではない。それ以上の言葉を続けることができなくて、曖昧に微笑んでごまかす。
どこに行くとも誰と会うとも告げることなく、仕事の都合という魔法の一言で、私もまた外泊を許される身だった。手放しの信頼が、ずっしりと胸を押し潰すようだった。
完璧な旦那の前でだけは、完璧な妻でいたかった。
たとえ籍を入れることを許されなくても。
「コーヒー、きみの分も淹れようか?」
「さっき一人で飲んでしまったところなの」
これ以上の嘘は重ねたくないと思いながら、血色の悪い剥き出しの唇は、流れるように言い訳を述べる。シンクの横には洗い立てのマグカップがひとつ。大丈夫、なにもおかしくはない。そんな小さなことで胸を撫で下ろす自分に、また嫌気がさした。
すこし仮眠をとってから身支度をするつもりだったけれど、このまま寝室に戻っては怪しまれるだろうか。
あと数時間もすれば、私は数年前に買った窮屈なスーツに身体を押し込んで、理知的な女上司の仮面をかぶり、オフィスビルの一角で下世話な噂話に興じる若者を窘めなければならないのだ。……どの口で。
歪みかけた口もとを手で覆って、踵を返す。
これ以上は、もう。
「ごめんなさい、やっぱりちょっと疲れてるみたい。部屋ですこし休んでくるわ」
「顔色よくないよ、あまり無理はしないで」
晴喜さんは、彼専用の上品なコーヒーカップを片手に、冷めかけたトーストを齧りながら、滑稽な私を慈しむような目でじっと見つめていた。
§
ルブタンの似合う女になりたかった。
誰もが一目でそれとわかる、赤いマニキュアに塗りつぶされたような鮮やかな靴底。
細く尖ったポインテッドトゥ。スラリと伸びたピンヒール。
女性の足を美しく魅せるために磨き上げられた、非日常的な造形美。
一歩、一歩、颯爽と闊歩するたびに艶やかな黒の下からチラリと覗き、凛とした後ろ姿を彩る、特別な赤。
愛と熱狂、血と生命、情熱と危険を意味する色。
――なにひとつとして、私らしくない、言葉。
通勤経路の街頭ビジョンに映る、浮世離れしたスタイルの芸能人の足元から目を逸らす。
とっくに燃えるゴミとして回収されていったにちがいない、壊れたパンプスを思い浮かべる。いつどこで買ったのかも覚えていない。ほとんど履かないうちに寿命を迎えた模造品すら、私には分不相応なものだった。
若さと引き換えに身につけた分別は、私から選択の自由を奪っていった。
そんなものを言い訳にしなくとも、素面の私に、見ず知らずの他人から「みっともない」と囁かれながら、身の丈に合わないものを堂々と身につけて街中を歩けるような度胸は、一度だってなかった。
いっそ戻ってこられないほど、めちゃくちゃに壊れてしまえたなら。
常識人ぶった分厚い面の皮を剥いで、獣のような本性を剥き出しにして。
ルブタンの靴底のように、誰の目にも一目でそれとわかる目印を掲げて。
私はこんなに危ないのよ、どうかしてるのよと――今ここで叫びだしてしまえたのなら、すこしは呼吸がしやすくなるだろうか。
できるわけもないことを夢想する。
職場でも自宅でもない路上。
行きずりの他人であふれた曖昧なこの場所だけが、私を私の枠に当て嵌めない。
居場所と居場所の間をさまよう今ですら、私は私の殻を脱ぎ捨てられない。
押し込めて、押し込めて、かたくなに蓋をしようとする理性が、高純度のアルコールに溶かされて蒸発する瞬間まで、本当の私ではない何者かが、よくできた歯車として、正しい世界の隙間を埋めている。
一体、いつまでこんなことを、繰り返せばいいのだろう。
§
衝動的な定時上がりと半休の代償に溜まった仕事を黙々と捌きながら、「お先に失礼します」と上がっていく同僚を、ひとりふたりと見送った。ぽつりと残されたオフィスの窓から、ビル群の向こうに沈んでいく夕陽を目にした途端、とつぜん吐き気に襲われた。
トイレの個室に駆け込んで、胃から迫り上がってきた酸が定位置に戻るまで、ヒリつく喉の不快感をやり過ごす。
ああ。そういえば、昨日の夜から何も口にしていない。今の私の中身は空っぽだ。
また一から満たさなければ。美しいもので。正しいもので。私が私であるための輪郭線をはみ出さないように、細心の注意を払って。砕け散ったカケラを繋ぎ合わせて、あるべき私を組み上げていかなければ。
――そうでなければ、私は、正木晴喜の前には立てない。
彼の正しさに応えようとすればするほど、なぜだか息が詰まった。最も理想的な人生のパートナーとして彼を選んだはずなのに。
自分の中にあんなおぞましい一面があるなんて知りたくなかった。知らない誰かの熱に縋りついて、生きている実感を確かめて、気持ち悪いと感じられることに安堵する。
こんなことは間違っている。わかっている。どこで間違えたのだろう。いつから間違えたのだろう。どうして間違えたのだろう。いっそすべて打ち明けて楽になりたい。そんなことは許せない。それだけは絶対に、許されない。
何よりも耐えがたいのは、現在の生活を壊して彼に別れを告げられることではなく、私の愚かしさを彼に知られること、曇りのない純粋な善人である正木晴喜の人生に汚点を残すことだった。どうかしている。彼の信頼を裏切り、汚しているのは、まぎれもなく私自身の行いなのに。
私は、彼を傷つけることが恐ろしい。自分が傷つくことの何倍も恐ろしい。
けれど、秘密を守り通し、素知らぬ顔で彼と同じ墓に収まる未来も、同じくらい恐ろしくてたまらなかった。
手が、汚れている。
洗っても、洗っても、黒く染まった指先の汚れが落ちない。
ボールペンのインクでも漏れていたのだろうか。
ふと目を上げると、手洗い場の鏡の中に、血の気の引いた青白い顔が映っていた。コンシーラーを重ねても隠し切れなかった目の下の隈が、切れかけて明滅する蛍光灯の下で、一層不気味に見えた。だめだ。こんな顔では人前に出られない。
戻らなくてはいけないのに。普段通りの私を取り繕って、また、彼の前に。
§
青ざめた肌の血色をチークでごまかして自席に戻り、残りの仕事を片付け終えた頃には、すっかり外は暗くなっていた。
いつのまにか降り出した雨が、窓ガラスを濡らしている。近くのコンビニまで走ってビニール傘を買うべきだろうかと――ブラインドの隙間からオフィスビルの前の通りを見下ろした瞬間、見覚えのある傘が視界に入って、心臓が跳ねた。
和傘に似た24本骨の丸いシルエット。うっすらと透かし柄の浮かぶ藍色は、それほど珍しいものではない、けれど。あの色を好む人を、私はよく知っていた。
急いで帰り支度をしながら鞄から取り出したスマートフォンのロック画面には、既読をつけられないまま見ないフリをしたメッセージが1件。
――――――――
正木晴喜
体調、大丈夫?
――――――――
返信、しなければ。
いや、その前に下に降りて、確かめる?
あれが彼かどうか、確かめてどうするの?
凍りついた手の中で、スマートフォンが震える。
着信。
ワンコール。
ツーコール。
……覚悟を決めて、通話アイコンをタップした。
「もしもし? 晴喜さん?」
「あ、よかった。近くまで通りがかったから寄ってみたんだけど、出てこれる?」
「……すぐ行くわ」
ふたたび迫り上がる吐き気をこらえて、通話を切る。足早に駆け込んだエレベーターが、永遠に地上まで着かなければいいと思った。
「はいこれ。傘持っていかなかったでしょう」
「ありがとう。……わざわざ届けに来てくれたの」
傘を受け取る手に、ピチャリと冷たい雫が落ちる。雨足は徐々に強まり、私たちの間で跳ね上がる大粒の雫が、オフィスの外で待ち続けていたであろう晴喜さんの足元を濡らしていた。
「ついでだからね」
晴喜さんは、白い紙箱の入ったビニール袋を掲げて微笑む。体調の優れない私を雨に濡れさせるのは忍びないと、わざわざ傘を持って迎えに来たにちがいないのに。
雨の中、部屋着のような服装のまま、ふらりとオフィス街に立ち寄れる。この人は、こういう人なのだ。
「メッセージ返信できなくてごめんなさい。帰りがけに、あなたからの通話で気づいたの」
「仕事はもう終わり? 荷物持とうか?」
「ええ。あなたは両手埋まってるじゃない。気にしないで」
雨音にまぎれて、とつとつと。当たり障りのない会話を重ねながら、晴喜さんと並んで歩く。足を踏み出すたびにズキズキと痛む踵の靴擦れの存在を気取られないように、しっかりとした足取りを装って。
これ以上ないほどに穏やかな時間。おかしい。吐き出せるものなんて何もなかったはずなのに。どうしてこんなに喉が詰まるの。芯から凍えた身体の奥底に、決して消化することのできない、なにか醜悪な重石がズッシリと積み重なっていくような心地がした。
§
「ただいまー」
「おかえりなさい」
ひと足先に玄関の戸口をくぐった背中に声をかける。儀式じみたやり取りを介して、外向きの着ぐるみを脱ぎ捨てて、内向きの仮面を被りなおす。
濡れた傘の雫を振り払って、彼の傘の隣にそっと立てかけたとき――私の目に、そこにあるはずのないものが飛び込んできた。
ヒールの折れた、パンプス。
昨夜、きっとどこかで、踏み外した。
歪んだフォルムと安っぽい光沢が、履き古されたスニーカーの横で、異質な存在を主張する。
思わず、ヒュッと喉を鳴らした。どうしてここに。燃えるゴミの回収日は、今日のはずだ。今朝、たしかに私は。あの靴を、指定袋に入れて、回収場所に――。
「おかえり」
振り向いた晴喜さんが笑う。いつも通りの顔で。やぼったい眼鏡の奥で、いくつになっても純朴そうな丸い瞳を細めて。穏やかに。
「ただい、ま……」
どうして何も言わないの。どうして何も聞かないの。
気づいていないはずがない。彼以外にありえない。
たしかに私は、この靴を。捨てただろうか。本当に? 慌ただしい朝の支度の中で、もしかしたら。いいえ、そんなことは問題ではない。逃れられない事実として、この靴は目の前にある。
「寒いでしょ、早く上がって」
何も聞いてこない彼に、何も言えるわけがない。
たかが靴一足。彼が見たことのない、私の靴。いつもの私には似合わない靴。きっと私が置き残したのだ。あるいは、間違えて捨てたと思ったのかもしれない。晴喜さんは、ファッションに無頓着な人なのだから。
胸が苦しい。息を吸わなければ。もっと深く。
もしかしたら。
もしかしたらついに。
眩暈と吐き気。クラクラする視界。ズキズキと痛む足。
――あなたが決定的な言葉を告げないから、私は。
壁に手をつきながら、おぼつかない足取りで、晴喜さんの背中を追ってダイニングへ向かう。気分はまるで裁きを待つ罪人のようだった。
「大丈夫?」
気遣わないで。振り向かないで。私を見ないで。
「大事な話があるんだけど――」
お願いだから、何も言わないで。
口にするのなら、せめて一思いに殺して。
「まずは、こっちからかな」
晴喜さんが手に提げていたビニール袋を机に置いて、正方形の紙箱を取り出したとき、ようやく有名なケーキ店のロゴに気づいた。
生クリームが苦手な私が好んで食べていた、フルーツタルト。
Happy Birthday――チョコレートプレートの上に並ぶ文字列を見て、肩の力が抜けた。
「たん、じょう……び」
「35歳、おめでとう」
立ち尽くす私の目の前で、晴喜さんは、タルトを大皿の上に移し、机の上を整えていく。
「驚いたでしょ? すっかり忘れてるみたいだから、サプライズしたくなってね。これを受け取りに行くついでに、きみの会社に寄ったんだよ」
プレートの奥に寄り添うように立てられた蝋燭は、3本。
ゆらゆら、揺れる、ちいさな火。
歳の数だけ蝋燭を立てるような年齢ではない、けれど。
――3本、という数字に、ざわりと胸が騒いだ。
§
私たちは、食事中に会話しない。晴喜さんと向かい合って黙々と箸を進めた夕食は、ほとんど味がしなかった。好物のフルーツタルトですら、砂を噛むような心地で流し込んだ。
いつまで、こんなことを。
唇の裏側を噛みながら、ダイニングテーブルの上を片付ける。すべて終わったつもりで椅子に座り、肘を立てて組んだ両手の上に額を預け、項垂れるようにして俯いていた私の元に、晴喜さんは戻ってきて言った。
「大事な話っていうのはね」
ドクリと鼓動が跳ねる。
もうやめて。もう許して。
「――結婚してほしい」
予想もしなかった言葉に、頭が真っ白になった。
どうして今なの。どうして私なの。
「だって、お義母さん、は」
「いい加減に挨拶に来いって言ってる。身体にガタが来て、すこし心境の変化もあったんじゃないかな」
言葉が出ない。うそだ。今さら、そんなこと。正木家は、裕福ではないけれど、歴史の長い家だった。孫の誕生を心待ちにする義母に合わせる顔がなくて、私は何かと理由をつけて――。
逃げて、いたのだ。
私はずっと。
彼と向き合うことを恐れて。
現実を変えようともせずに。
淀んだ憧れを煮詰めたような幻想に溺れて。
「うそ……」
「何年も待たせて、ごめんね」
「ちがうの、私は――!」
あなたが思っているような女ではない。
私は勢いよく立ち上がり、感情のまま、すべてを明かして楽になろうとした。それだけは絶対にしまいと戒めていたのに。晴喜さんのためではなく自分のために、罪を告白して裁かれることを望んだ。
そんな愚かな私に、天罰が下ったのだろう。
「だからこれは指輪の代わりに受け取ってよ」
晴喜さんが差し出したものを見て、身動きが取れなくなる。口の中が乾いて、なにも言葉が出てこない。
真紅の布に踊る、流麗な筆致のアルファベット。
私はそのロゴマークをよく知っている。
あなたが知るはずがない。
きっと、あなたは名前すらも知らない。
うそだ。
こんなことはありえない。
ありえないのに。
晴喜さんは私の手をとって、袋を開けるように促す。
あなたの目が怖い。いつも通りに、穏やかで、優しい、その目が、私の自由を奪う。
震える指先で、紐で閉じられた口を開き、黄土色の靴箱を取り出す。
怖い。見たくない。けれどその目に、逆らえない。
蓋を開けて、その造形美を目にした途端、私は悲鳴を上げた。
細く尖ったポインテッドトゥ。
スラリと伸びたピンヒール。
それは一目見てそれとわかるほどに華やかで美しい、赤いマニキュアに塗りつぶされたような鮮やかな靴底を持つ、艶やかな黒いパンプスだった。
クリスチャン・ルブタンの名品、ケイト。
愛と熱狂、血と生命、情熱と危険を意味する色。
――彼の知る私には似合うはずもない靴。
この靴に相応しい服なんて、私のクローゼットには一つも吊るされていない。似たような靴を履いて見せたことはおろか、憧れを口にしたことすらない。
晴喜さんが、これを私に差し出すことの意味を痛感して、身動き一つ取れなくなる。
「どうし、て……」
私の目につくように玄関に置かれていた、壊れたパンプス。
知っていたの? いつから?
3回の浮気。3本の蝋燭。
――すべて?
答えに辿り着いた途端、両膝から力が抜けて、床に崩れ落ちる。手の中には、鮮やかな赤を纏うパンプスを抱えたまま。凍りついた指先は思うように動かず、淀んだ憧れの結晶を、投げ捨てることもできない。
「ぜんぶ、知って、いたのなら」
「結婚してほしいって、言ったでしょう」
震えつづける私の手を、晴喜さんが上から包み込む。彼が口を開くたびに、鈍器で殴られたかのように頭が揺れる。正常な思考が回らない。何が起きているの。
――そうだ、この人はさっき、私になんと言った? プロポーズを? 浅ましい私のすべてを知った上で?
はくはく、と酸素を求める金魚のように口を開け閉めしながら粗く息を吸う。吸っても吸っても足りない。苦しい。苦しい。苦しい。
「玄関のサプライズは気に入ってくれた?」
「サプ、ライズ? ……まさか。あの、パンプス、わざと」
晴喜さんは、見開いた私の瞳を正面からじっと覗き込んで、満足げにうなずいた。
「それだよ。そういう顔が見たくてね。罪悪感を押し殺して、なんでもないフリをして、悩み苦しんで――僕は、そういうきみが誰よりも美しいと思ってるんだ」
いつも通りの、穏やかなまなざし。
愚かしく醜悪な私を包み込む、甘く優しい言葉。
これが悪い夢であったなら、どれだけよかっただろう。
「どうか――これからも"きみらしく"生きてほしい」
正木晴喜は微笑む。すべてを受け入れて。
これまでも、これからも。私の心を罪悪感で磔にして。
――どこにも、逃げられない。
私は、この人の手のひらの上で、ずっと踊りつづけるしかないのだと――理解した瞬間。
背筋を、ゾッと冷たいものが這っていった。
いつも私は、人目ばかりを気にして、身の丈に合うものにこだわっていた。心の片隅で、常識の殻を破って憧れに手を伸ばそうとする他人の努力を、みっともないと嘲笑っていた。
これは、その報いなのだろうか。
分不相応な夢に逃げつづけた、賢者のフリをした愚者の末路。
私が選んだ、私に最も相応しい、自己嫌悪にまみれた檻の中。
それでも彼の手を振り払うことのできない自分自身を、嗤った。