ナイトメア・シンドローム
博士からの連絡は、翌日になっても来なかったため、俺はある病室へと足を運んでいた。
俺が施設で働く理由であり、そして俺の妹が眠る部屋だった。妹と会えるのは、月に二度しか許可されていなかった。
厳重に管理されたこのフロアでは、一室まるごと、精密機器と共に貸し切られている。正直、こんなときばかりは実家が金持ちで良かったと、心の底から思う。ツテがなければ、この病室を借りることすらできなかっただろうから。
妹が患ったのは、パラソニウム・シンドロームの中でも特異な症例。世界でわずか三名しか確認されていない、《ナイトメア・シンドローム》。
危険を感知した瞬間、他社を強制的に眠りへと落とし、夢の支配者が解放しない限り、他社も夢の世界へと取り込まれることになる。8時間の制限などないため、こうして隔離されているのだった。
もちろん、有効範囲から離れることで8時間後には目を覚ますことが分かっている。そのため、彼女の部屋を訪れるときは必ずロープの装着が義務付けられていた。
夢から出られるのであれば、ここまで隔離する必要はない。何よりも恐ろしいのは夢の世界が彼女たちの完全な支配下である点、そして悪夢で構成されている点であった。より深い絶望を持つものが、世界に恨みすら持つものが引き起こす現象だった。
心愛も動揺にあのまま絶望をしていたら、ナイトメア・シンドロームにまで発展していた可能性があった。だからこそ、俺は今一度気を引き締めないといけないんだ。
そして、ナイトメア・シンドロームの世界へチームで足を踏み入れるには条件が設定されている。許可されるのは、パラソニウム・シンドロームの患者を五名以上救った者、もしくは、家族だけだ。
つまり、俺が本格的に妹を救うためには、ゆりたちと共に、あと3名救わなければならない。覚悟を決め、俺は病室へと足を踏み入れる。急激な眠気ではなかった。まるで、誰かに静かに手を引かれるような、そんな緩やかで、抗えない眠りだった。
俺は、ベッドの隣へと膝をつき、そのままゆっくりと横になる。
「――兄さん、来てくれたんですね」
微笑みながらそう呟いたのは、義妹、夜宵だった。
「……てっきり、もう来てくれないかと思いましたよ」
「そんなわけないだろ。大事な妹に、会いに来ない兄がいるもんか」
「……それも、そうですね」
夜宵は、俺の一挙手一投足を逃さない。その目には、一体、どんな想いが映っているのだろう。
「兄さんも、計画がうまくいっているようで、何よりです」
「……俺一人だけじゃ、夜宵の心を動かすことは敵わなさそうだからな。仲間たちはちゃんと、成長している」
「最近のお兄様は、愚者を演じることに慣れてきたんですか?前よりも、覇気がなくなってますよ」
「……普通なら、”人間らしくなった”って喜ぶところだろ」
「冗談を。あんなに冷徹だった兄さんが、ですよ?」
皮肉めいた口調で夜宵は笑う。きっと彼女の目には、屋敷で過ごしたときの姿が見えているのだろう。冷静に必要な事を淡々と実行する、目的を叶えるために、どんな手をも使う俺自身の姿を。
「感情ってのは、邪魔じゃないですか?」
「……そうだな。けど、想定以上に力を引き出すこともある?」
「ムラがある方が制御できなくて対策を立てられないんですけどね」
「それに、以前の俺じゃ、お前の心を動かすことはできないだろう」
義妹はニヤッと笑って、俺の深層を探るような視線を向けてくる。何もかも見透かしそうな瞳は綺麗な顔立ちと相まって、恐ろしい雰囲気が出ていた。普通ならそう感じるのだろうな...。
「だから兄さんは変わったのですよね?」
「そうだ」
「あの完璧だった兄さんを私が変えた。私だから変えられた」
彼女は俺を見据えて、笑みを浮かべる。
「愛してます」
きっと彼女は愛憎の感情を抱いているように感じた。自分が唯一敗北を認めた人間、そしてこの世界に囚われることになった元凶に恨むと同時に、自分が認めた人間が自分のために変わってくれた事に喜びを抱いているように感じた。
憶測ではあるけれど、この世界に来ても元の世界に返していることからある程度の好意は持ってくれていると考える。もしくは外界からの情報係くらいにしか思ってないのかもしれないが...。
「兄さん、問題は持ってきてくれましたか?」
「あぁ、もちろん」
彼女のノートを借りて、記憶してきた問題文を書き出していく。この世界に来て4時間はずっと問題文だけを書き出していた。
「いつもありがとうございます」
彼女は今も勉強お続ける。自分を養子にしてくれた俺の父親に認めてもらうために、いやきっと誰かに認めてほしくて勉強を続けているのだろう。――それが、彼女を苦しめる原因になっていたとしても、彼女を認める原因が勉強だから、それ以外の方法を知らないのだろう。
この世界では、時間が早く流れる。今は目的である俺に追いつくために頑張っているのだろう。もしも、彼女が俺を追い越してしまったら。そのとき、きっと夜宵はこの世界から、出られなくなってしまうんじゃないだろうか。
そんな確信めいた予感があった。あまり猶予は残されていないように感じる。なぜなら、彼女の方が、俺よりもずっと、才能があるのだから。
追いつかれるのはそう遠くない未来の様に感じた。