九
峡州の別駕になった翌月の三月に、少し位が上がって、吉州[江西省吉安県]の司馬[地方官の掾・三等官]に遷された。
二年後の六十歳、大暦三年(七六八)五月には近くの撫州[江西省臨川県]の刺史[州の施政官]となった。
しかし翌年にはこれを辞め、四月に長安へかえって、亡き弟を祀った。
大暦七年(七七二)九月、洛陽に至り、湖州[浙江省呉興]の刺史に任命され、十一月に洛陽を出る。翌大暦八年の正月、任地につく。
湖州は長江によってつくられた豊かな土地で、そこの長官となった顔真卿は、在任中、この地方の文人十人を集めて、『韻海鏡原』三百六十巻を編集した。これは今に伝わっておらず、様々な書物から熟語成句を集め、韻によって分類した辞典のようなものだったらしい。
これをつくる協力者の中に、茶道の元祖・陸羽や道士の張志和、釈皎然らがおり、真卿は彼らと会食し、さかんに詩のやり取りをした。
権力者に諫言を恐れない「剛直の士」として知られる顔真卿だが、それは理に合わないことを為す者に対してであって、文才と情のある彼には多くの友人がいたし、また愛妻家でもあった。
六十四歳のとき、湖州刺史に任じられて先に洛陽を発った顔真卿は、手紙『与夫人帖』において、
「きみが来ないとなると、人の道として、一人で出かけるわけにもいきません。だから、こうしてあわてて待ち望んでいる気持ちをくんでほしい」
と、若者のような文を書き、
また、「早く来たれ。早く来たれ」とせかしている。
真卿は湖州では多くの知友を得て、文人としても実りある暮らしを送っていたが、大暦十一年(七七六)、洪水の影響で、暮らしにかなり困るようになった。
翌大暦十二年(七七七)に書かれた、李太保あての手紙『乞米帖』では、
「私の世渡りが下手なせいで、一家みんなで粥をすすって、この数か月をしのいでおります。今ではさらに食べ物が底をつき、心配ばかりが増えてしまいました。そこで、貴方のご厚情にすがって、わざわざお手紙いたしました。少量の米を恵んで下さるようお願いする次第です」
さらに李太保には、『鹿脯帖』で、鹿の干し肉を妻の病気治療のため、送ってほしいと頼んでいる。
生活に瀕していた顔真卿だが、中央では宰相・元載が誅死し、六十九歳のこの年の八月に、刑部尚書[法務大臣]として、長安へ戻ることになった。
顔真卿を地方へ追いやった元載は、代宗の君寵を失った宦官の魚朝恩を策を用いて宮中で縊死し、公には自死と発表した。
権力を握った元載は派閥をつくり、人事は下僚にまかせきりにしたので、賄賂が横行し、つまらない人物が要職を占め、有能な人材が排斥された。
家には財物をため込み、美女を妾として数多く囲い込んだ。妻の王氏も息子たちも賄賂の取り込みに専念し、彼ら一家と取り巻きたちは豪勢な暮らしをし続けた。
宰相を長く続けていると元載も失敗が重なり、代宗に疑忌されるようになった。その横暴も目に余るようになり、代宗も元載を排斥しようと思ったのだが、その一派は広く根を張っていたので、慎重にせざるを得なかった。
代宗は生母の弟にあたる左金吾将軍[近衛の将軍]・呉湊に相談をもちかけ、同じころ、たまたま密告する者がいて、元載と腹心の王縉が夜宴を開いて密談をしているということだったので、皇帝は呉湊に命じて二人を捕らえ、罪状を糾明したところ、罪に伏したので、自尽を賜ることに決まった。
処刑のとき、元載は「楽に死なせてくれ」と処刑人に請うたが、
「相公、少々の恥辱は受けてもらわなくてはなりませんぞ」
と言って、彼は履いていた韈[たび]を脱いで、元載の口へ突っ込み、窒息させて殺した。
彼がいかに人びとから憎まれていたか、が分かる。
妻と息子たちも死を賜り、一味も処刑され、あるいは左遷された。その決着がついたのが、大暦十二年の三月であった。
この二年後の五月に代宗皇帝が没し、皇太子・李适が帝位につく。徳宗である。
顔真卿は、代宗崩御の際、礼制に詳しいということで、礼儀使にも任じられている。
顔真卿を中央へ戻し、刑部尚書に推薦したのは、宰相の楊綰と常袞である。元載があまりにも力を持ちすぎていたが、宰相は数人いて、皇帝の政務を助ける役目を担っていた。それが正常に回りだしたようだった。
翌年に顔真卿は吏部尚書[人事院大臣]にかえって、その力を振るえるようになった。しかし翌年、代宗が崩御して徳宗が皇帝になり、即位二年目に、楊炎が宰相に任じられると、暗転する。
粛宗、代宗の治世は安史の乱の後始末で始終した。唐の第九代皇帝となった徳宗が帝位を継いだとき、税制の改革と力を持ちすぎた節度使の統制、そして回紇への対応という課題が残っていた。
徳宗は宮廷生活を質素にすると共に、唐王朝の権威を大いに高めようという気概を持つ人物だった。そのため、まず宰相の常袞をしりぞけて、崔祐甫を抜擢した。
崔祐甫は就任後、二百日も経たないうちに人事を一新して、徳宗を驚かせた。彼はまた、元載の一派であったために左遷されていた楊炎を推薦して、宰相とした。
楊炎は威風堂々とした体格で教養もあり、大変優れた人物であったので、徳宗も皇太子時代から注目していた。
楊炎は、宰相に任ぜられた翌年の建中元年(七八〇)、両税法を実施した。
安史の乱で国土が荒れて人口が激減し、それまで人にかけていた均田法・租庸調法は機能しなくなっていた。そのため、人ではなく、土地・財産に応じて課税する両税法に切り替えたのだった。
この楊炎は元載の引き立てに恩義を感じていて、そのため、元載の敵であった顔真卿を嫌った。宰相に就任すると、真卿を吏部尚書から太子少師に替え、礼儀使はそのままとした。
吏部尚書は要職であるが、太子少師は皇太子の守り役で従二品という高い地位とはいえ、実権を伴わない。楊炎は、尊敬の形をとりながらもその実、権力を奪ったのだった。
この時期に書かれたのが、『顔氏家廟碑』である。
建中元年七月、七十二歳。まだ彼が吏部尚書のとき、長安において亡き父・惟貞の廟に建てられたこの四面碑は、額を入れて高さ一丈一尺四寸四分(約三メートル五十センチ)という巨大なもので、大きな亀の背に乗っている。
文は四面にあり、正・背両面はそれぞれ幅五尺三寸(約一メートル六十センチ)におのおの二十四行、毎行四十七字。両側はそれぞれ幅一尺二寸(約三十六センチ)におのおの六行、毎行五十二字。正面、左側面、背面、右側面の順序で文字が刻されている。
上部の碑額には、その時代の篆書の名手、李陽冰の手になる『顔氏家廟之碑』の六字が彫られている。李陽冰は詩人・李白の親族でその晩年、世話をした人物であり、顔真卿の親しい友であった。
碑の文・書ともに顔真卿自らの手によるもので、書体は「顔体」と後世の書家から呼ばれる力強い筆法の楷書である。碑文は、春秋時代から顔真卿の子孫まで続く顔氏一族の事績を記す。
後世から見て、顔真卿は書家としての一面ばかりが強調される。しかし彼は、唐の玄宗・粛宗皇宗・徳宗までの第六代から第九代の皇帝に仕えた官僚で、教養ある文人だった。
顔真卿という人間を構成する要素は、儒教・道教。そして儒学を基とする科挙試、漢字が成立してその書法が産み出される過程に、文字を書く道具としての筆・硯・墨・紙の発達、学者の家系・顔氏であること。これらが唐王朝の最盛期、集約されたところに彼の存在がある。
顔真卿は、顔氏の末裔であることを何より誇りに思っていた。自ら文と書をかいた『顔氏家廟碑』は、父・惟貞の碑であること、それを建てたのは第七子の真卿である、と述べることから始まる。そこには先祖たちから、顔真卿の息子・甥の世代までの事績が述べられている。当然、亡き兄弟たちや、非業の死を遂げた杲卿と季明もいる。
儒教の本質が『生命の連続の自覚』というならば、まさのその碑には顔氏一族の命の流れが描かれていた。
この碑を建てた翌月の八月、顔真卿は太子少師に遷された。