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 地位は前より落ちたとはいえ、中央へ戻ったのもつかの間、長安にいたのは数か月で、同年八月、顔真卿は蓬州ほうしゅう[四川省]の長史(次長)におとされた。

 二度目の左遷は、粛宗の恩寵を得ていた宦官の李輔国りほこくの機嫌を損じたためである。

 玄宗皇帝の時代、豪奢な宮廷生活を支えるため、宦官の数を大幅に増やした。玄宗の頃はまだ、陰の存在だったのだが、粛宗の頃から権臣・寵臣と結び、宦官たちは表に出て権力をふるうようになった。

 李輔国はその最初の宦官で、張皇后と手を組んで、粛宗の次男・建寧王倓けんねいおうたんを讒言して陥れ、皇帝から死を賜らせるようにさせ、粛宗の信頼が厚かった李泌りひつを遠ざけるように仕向けて、自らは宦官の身でありながら判元帥府司馬事となって、兵権を掌握した。

 李輔国は、自分の権力保持のために、蜀から戻ってきた玄宗上皇と粛宗の間を割こうとした。

 その策動をしているとき、顔真卿が百官を率いて上皇のご機嫌をうかがったので、彼は上皇派だとみなされたらしい。

 大権を握った李輔国に睨まれた顔真卿は、これまでよりずっと地位が低い蓬州司馬となって、二度目の地方回りを始める。

 彼が蜀の蓬州に在任中、史思明の乱は父を殺して立った息子の朝義によって引き継がれ、都では上元三年(七六二)に玄宗、粛宗が相次いで亡くなった。皇帝の地位は、粛宗の長男・広平王俶が即位して、代宗皇帝となった。

 新皇帝が即位した翌月の五月、顔真卿は蓬州の北にある利州(四川省)の刺史となったのだが、任地に赴くとチベット系部族が城市を囲んでおり、彼は戻って長安に上京した。そして、宝応元年となったこの年の十二月、二年数か月ぶりに戸部侍郎とべじろう[大蔵省次官]として中央の官界に戻ることができた。




 顔真卿が中央で官につけたのは、財政関係の仕事を統括していた劉晏りゅうあんが彼に自分が持っていた役職の戸部侍郎を譲ったからだった。

 劉晏は党派作りのつもりでしたようだが、真卿はおもねることはなく、相変わらずであった。

 彼が長安に戻って間もなく、史朝義が河北平州のあたりで自滅し、乱がやっと平定された。

 これが宝応二年(七六三)の正月のことで、三月に真卿は吏部侍郎りぶじろう[人事院次官]という栄誉な部署に任じられた。真卿、五十五歳のときのことである。

 乱が治まり、久しぶりに落ち着いた日々が戻ってきたとはいえ、長安の官界は不穏な空気が漂っていた。

 これより前、李輔国は皇后と仲たがいし、宦官の弓隊長を務める程元振ていげんしんと結んで、権力を握っていた。そこで粛宗の危篤に乗じ、張皇后は太子に、この二人を誅殺するよう命じたのだが、太子は従わず、業を煮やした皇后は太子の弟・越王係に命じて、太子を捕らえ、二人の宦官を殺そうとしたが、それを知った李輔国に先手を打たれ、張皇后と越王は殺され、太子が帝位についたのであった。

 このことによって代宗は李輔国に頭が上がらず、「尚父」と呼んで尊重したが、専横がますますひどくなったので、代宗は程元振を利用し、李輔国を宮廷外に出すことに成功し、刺客を送って殺したのだった。おおやけには、盗賊のしわざだと発表された。

 李輔国がいなくなったら、次は程元振が権力を振るい出した。彼は乱の平定に戦功のあった武将たちが勢力を得ることを恐れて、讒言によって陥れ、殺していった。辺境からの報告も握りつぶし、代宗に奏上しなかった。そのため、吐蕃とばん[古代チベットの王国]の来襲があったとき、皇帝が知るのが遅く、長安から一時、代宗が逃れる事態となった。

 これは名将・郭子儀かくしぎによってすぐに撃退された。しかし、報告を怠った程元振を非難する声が高まり、失脚して放逐されたが、代宗の温情にすがろうとして長安へ戻る途中、捕らえられて死んだ。

 程元振に続いて権力を握ったのは、いくさ目付をしていた宦官の魚朝恩ぎょちょうおんである。彼は神策軍という一地方軍に属していたが、代宗が長安へ帰る際にそれが禁軍となったことから、軍事と政治に口出しするようになった。

 顔真卿は宦官の専横をおもしろくは思っていなかったが、程元振と魚朝恩とは、直接ぶつかるようなことはなかった。彼が我慢ならなかったのは、官僚の元載げんさいである。




 元載は粛宗に信任されて財政担当の官に任じられ、宦官・李輔国の縁から、その力によって、上元三年(七六二)に宰相となった。代宗の即位後も、その地位を保つほど、頭の切れる男だった。李輔国が失脚した後も宦官とよしみを通じて皇帝の機嫌を探り、気に入られるような言動をとった。

 人の道や儒学の論理を重んずる顔真卿とは、水と油ほど合わない相手だった。

 広徳元年(七六三)に顔真卿は荊南節度使に任じられた。任地は荊州けいしゅう[湖北省]であったが吐蕃の侵入があり、代宗が避難したので、真卿もそれに従った。そしてそこで、前令を取り消して、尚書右丞しょうしょうじょう[尚書省次官]に任ぜられた。

 この吐蕃侵入がことなきを得、代宗が長安の宮廷へ戻るとき、顔真卿は「まず陵廟に謁してから後に、宮廷へ帰っていただきたい」と願った。これは受け入れられなかったが、このとき、元載が真卿へ言った。

「貴公の意見はけっこうだが、時宜にあわないようだ」

 礼を尊重する顔真卿は憤慨し、進み出て反論した。

「下僚の意見を採用するかしないかは、宰相の自由です。意見を出した者に何の罪がありますか。しかし、朝廷の紀綱を宰相のためにもう一度つぶされてはたまらない」

 この答えに、元載はふくむところがあったという。

 翌、広徳二年(七六四)正月、顔真卿は検校刑部尚書兼御史大夫に任ぜられ、三月には魯郡開国公ろぐんかいこくこうに封ぜられた。

 彼を顔魯公と呼ぶのは、ここからきている。

 この年に、名将・郭子儀の父・敬之の廟の碑を書いた。この『郭氏家廟碑かくしかびょうのひ』は、代宗皇帝御筆による額がついており、書と文は顔真卿がかき、武勲比類ない郭将軍の家廟にふさわしい、格式の高いものであった。

 同じ年、宦官・魚朝恩に配慮した席次について、抗議の意見書『争坐位帖』を提出するが、取り上げられることはなかった。

 宰相の元載は、自分のことを弾劾する者が現れるのをおそれ、代宗に請うて「報告はまず長官、そして宰相を通すように」という言葉を引き出した。

 それに対して、顔真卿は意見書を差し出す。

「郎官(尚書省各部局の役人)と御史は、陛下の耳目であります。今、事を論ずるものに、まず宰相へ言上するようおおせられますが、これでは陛下の耳目を奪うことになります」

「言葉が空しく偽りあるものは、つまり讒人ざんじんです。だから、これを根絶されるほうがよろしい。言葉に偽りがないものは、つまり正人です。だから、これを奨励されたほうがよろしい。このことを実行しなければ、陛下は省察できず、世の中の様子を見聞きなさることに飽きた、と人々に思わせてしまいます」

「現在、天下の傷跡は平癒せず、戦いは日々増えています。陛下はどうして正しい言葉を聞いて、視界を広めようとなさらず、忠義の諫めをふさいでしまいなさるのか」

 と言上し、玄宗皇帝時代に李林輔が言路をふさいだことに弊害が大きかったことを論じた。

 これは、元載に対しての真正面からの反対だった。

 宰相である元載は、顔真卿が自分を誹謗する敵だと認定し、彼を峽州きょうしゅう[湖北省]の別駕べつが[次長]におとした。

 永泰二年(七六六)、二月のことである。

 このときから、十一年数か月にわたる三回目の地方回りが始まる。顔真卿、五十八歳であった。





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