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 皇帝一家が長安から逃走したことによって、賊軍の勢いは再び盛んになる。

 安禄山自身は長安に来なかったが、腹心の部下を送り込んで主のいなくなった長安を治めさせた。

 一方、長安を護る関・潼関どうかんが破れたと聞き、郭子儀と李光弼の二人の将は、河北方面の経略を断念し、兵を率いて山西に引き上げ、李光弼は太原に留まり、郭子儀は霊武の粛宗皇帝の許に参じた。

 二人の猛将が去ったのちも、河北の諸郡は持ちこたえていたが、史思明たちの軍勢に圧迫されて、しだいに落城していった。

 顔真卿は、蝋丸ろうがんという密書を送る方法で霊武の朝廷に状況を報告していた。

 粛宗は顔真卿に対し、「工部尚書こうぶしょうしょ[建設大臣]兼御史大夫とし、河北招討採訪処置使とする」という辞令書を送って、その労に報いた。

 真卿は感激し、河北の官軍の中心として防衛にあたったものの、賊軍の勢力はますます盛んで、平原郡の近くの諸郡は次々と落とされ、もしくは降伏した。平原城は孤立無援の状態で、史思明の部将の攻撃にさらされる。

 もはや防げないと予測した真卿は、旗下の諸将に言った。

「賊軍は非常に強く、抗戦はできない。ここで命を捨てて、お国を辱めるのは、よい考えではなかろう。すぐ陛下のもとへ行くのが最上だ。それで朝廷が私の罪を問題にしたら、私は死んでも恨みに思わない」

 と、説得し、平原郡を捨てて黄河を渡り、粛宗帝の許へ戻ることにした。

 顔真卿が平原城に立てこもって、一年ほど経たときのことである。

 彼は部下と家族を連れ、平原城を放棄して、逃走した。

 この退却によって、河北諸郡は残らず敵将・史思明の支配下に入り、李光弼が護っていた太原までもが史思明の軍に包囲されてしまった。




 この間、辺境の霊武にいる粛宗皇帝の下では、行政機構がなんとか整い、郭子儀によって軍備もやっと充実して、財政的な裏付けもめどがついた。そのため、粛宗は十月の初めに霊武を発ち、東南に向かって彭原ほうげん[甘粛省寧県]に移った。年が明けて至徳二年(七五六)一月に安禄山が息子の慶緒に殺されるという賊軍の内紛があったことから、二月には長安の西方、鳳翔ほうしょうまで帰って来ることができた。

 安禄山は洛陽に乗り込んだ頃から視力が衰え、[悪性の種物]を病んで狂躁となり、周囲の者を鞭打ったり、殺したりするようになり、また、妾の段氏が産んだ幼児を溺愛したため、次男の慶緒が父に殺されるのではないかと疑心暗鬼になり、殺してしまったのだった。とはいえ、慶緒は愚物で人の上に立ち器量はなく、賊軍の諸将は彼の言うことなど聞くわけもない。

 太原を包囲していた史思明は、慶緒の指令によって范陽に引き上げたが、彼も慶緒を軽侮して、命令をきかなくなり、唐に降伏したのだった。




 平原城を去った顔真卿は、粛宗の許へ行こうと急いだが、道中は賊軍がはばんでなかなか進まない。ずっと南方を迂回して、半年かけて鳳翔までたどりついた。

 拝謁を許された真卿は皇帝に、平原城を守り通すことができず、陛下の信頼にそむいた罪を請うた。

 それに対して粛宗は、顔真卿の奮戦をねぎらい、彼を憲部尚書けんぶしょうしょ[法務大臣]兼御史大夫に任じた。

 唐の中央政府は、三省六部さんしょうりくぶが中心となり、三省というのは中書省ちゅうしょしょう[皇帝の秘書のような役目をする官庁]、門下省もんかしょう[中書省でつくった詔勅の草案を審議する官庁]、尚書省しょうしょしょう[門下省の審議を経た詔勅を施行する官庁]のことで、六部というのは、尚書省に属する官庁、すなわち吏部りぶ[人事]、戸部こぶ[財政]、礼部れいぶ[文教]、兵部へいぶ[軍事]、刑部けいぶ[司法]、工部こうぶ[土木]の六つをいう。

 顔真卿が任命された憲部尚書、憲部は刑部のことで、尚書は大臣に相当する。平原太守という地方官から、その功により、真卿は中央政府の正三品・憲部尚書に列せられた。彼が四十九歳のときのことである。

 それまでの労が報われ、もっとも幸福な瞬間であっただろう。

 しかし顔真卿は、自身の褒贈だけで終わらせなかった。

 悲惨な最期を遂げ、手柄さえも横取りされた従父兄の杲卿のことを、粛宗に泣いて訴えた。

 粛宗はそれを聞き入れ、父の玄宗皇帝の治世に起こったことであるので、蜀にいる玄宗上皇に連絡した。

 上皇は顔杲卿を陥れた通幽を杖殺して処分した。

 顔杲卿は太保を追贈されて名誉を回復し、杲卿のおいで賊軍に殺された者八人も、翌乾元元年(七五八)五月に贈官された。

 こうして中央の官吏となり、前途は明るいものとみられた顔真卿だが、平穏無事とはいかなかった。




 至徳二年(七五七)、トルコ系騎馬民族の回紇かいこつ[ウイグル]の援助によって、唐の王朝は九月に洛陽、十月に長安を奪回し、粛宗皇帝は宮廷に戻った。

 顔真卿もそれに従ったのだが、長安に戻ったその月のうちに、馮翊ちょうよく太守に転出させられている。

 至徳二年十月から、翌年二月まで。上元元年(七六〇)八月から宝応元年(七六二)十二月。永泰二年(七六六)二月から大暦十二年(七七七)八月。

 この三回、地方官として左遷され、三たび中央で地位を得ている。

 顔真卿は、儒者として、また能書家として重用されながらも、間違ったことをたださずにおれない性格から時の宰相・権力者に嫌われ、地方に出されたのだった。

 一回目の地方転出は、時の宰相の意に逆らったからで、二回目には宦官・李輔国に憎まれたため、三回目は宰相・元載げんさいを攻撃したことへの報復であった。

 



 至徳二年(七五七)、長安を敵から奪還し、帰ろうとしたとき、顔真卿は、こう上奏した。

「『春秋』に、新宮がけ、魯の成公は三日、こくしたといいます。いま太廟は賊軍にこわされました。請うらくは、野に壇を築き、皇帝は東に向かって哭し、しかるのちに使いを遣わすようにされたい」

 宰相はこの言葉を嫌い、彼を馮翊ひょうよく太守に転出させた。

 そこは長安の東、賊軍に蹂躙され、荒廃していたが、この地の太守であったのも半年に過ぎなかった。翌年の乾元元年(七五八)三月、蒲州刺史ほしゅうししに替えられた。

蒲州もまた長安の東、黄河を渡ったところにあり、長安東面の防御の重要な地点である。

顔真卿は蒲州で半年余りを送った。

 この間、彼は悲惨な最期を遂げた従父兄の顔杲卿の一族やその関係者を尋ね、保護した。

 杲卿の子のうち、長男の泉明は賊軍に捕らえられ、范陽に護送されたが、安碌山の息子・安慶緒が父に代わって立った際の赦令によって解き放たれ、史思明が一時、唐に下ったとき、生還した。

 泉明は洛陽にいて、父・杲卿の屍を収容して長安に埋葬することができた。そして泉明が語るには、杲卿の姉妹、つまり泉明のおばや娘たちが河北で流浪しているという。

 そこで顔真卿は、泉明に命じて一族の人びとを捜し求めることにした。

 泉明はほうぼうを苦心して訪ね歩き、身代金を払って、一人ずつ自由の身にしていった。まず、おばを先にし、娘をあとまわしにした。そのため、彼自身の娘を買い戻そうとしたときには用意した金がつき、工面して戻ってみると、娘は売られて行方が分からなくなっていた。

 このような泉明の非常な努力によって、遠縁にあたる女たちや父・杲卿の部下の袁履謙らの妻子で流落していた者までも、真卿のいる蒲州へ連れられてきた。

 その数、およそ五十余家、三百余人。

 この多くの人びとを、顔真卿は食事の量を公平に減らして、親戚同様に扶養し、のちにはそれぞれ支度をして、落ち着く先へ送り届けたのだった。

 このとき、泉明は常山に赴いて、ここで賊兵の手によって殺された弟の季明の首級を携えて帰ってきた。

 顔真卿は若くして亡くなった甥の季明を祭って、その魂を慰めた。このときの祭文の草稿が『祭姪文稿さいてつぶんこう』、真卿の書のなかで、もっともすぐれたものとして高く評価されるものである。

「天、わざわひを悔いずして、誰か荼毒とどくを為す。なんじざんに遭へるをおもへば、百身ひゃくしんも何ぞあがなはん。嗚呼ああ哀しいかな」

 乾元元年の日付から始まり、季明がいかに生き、死んだかを述べたのち、顔真卿の悲しみの記述が続く。そして、季明の魂に呼びかけ、「嗚呼哀しいかな」と再び、いう。

 真卿の慟哭が伝わってくるような文章と書である。

 この蒲州刺史在任も数か月で、讒言によって彼はその年の十月、南方の鐃州じょうしゅう刺史におとされた。

 顔真卿は蒲州から鐃州へ赴任する途中、洛陽において伯父の顔元孫の墓に詣でた。このとき、その霊を祭って、安禄山の乱で国のために尽くした一族のことを報告した。

 この祭文の草稿は、『祭伯文稿さいはくぶんこう』といって、『祭姪文稿』と共に、彼の傑作の一つとされている。

 乾元二年(七五九)六月に、真卿は昇州刺史、今の南京の長官になると同時に、浙西節度使となった。そして、翌三年二月、二年余りの地方勤務の後、やっと刑部侍郎(法務省次官)として長安へ召し返された。

 顔真卿が蒲州刺史となった乾元元年から、かつて安禄山の部下であり、唐の王朝に降伏した史思明が乱をおこし、この戦乱は六年続く。

 彼が長安に戻ったのは、史思明が皇帝を名乗った翌年、動乱のさなかであった。





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