六
杲卿は真卿の伯父・元孫の子で、真卿は幼時、この伯父からも教育を受けていた。杲卿とは兄弟同然の間柄だった。
顔杲卿は江州(江西省)の司法(刑務部長)を初めに、地方官を歴任し、范陽郡の戸曹参軍(民政部長)となったとき、范陽節度使だった安禄山の知遇を得て、その推薦で節度判官(節度使の属官)となり、常山の太守を兼ねることになった。
安禄山が洛陽に向かう直前、常山郡の管轄地域・藁城を通過した。顔杲卿は副官の袁履謙と共に彼を出迎えたのだが、安禄山はすでに皇帝気取りで、杲卿に紫の、副官には緋の礼服を与えて、常山を今まで通り守るように命じた。帰路、杲卿はもらった礼服をさし、「こんなものを着られるか」と言ったので、副官もその心を了解し、二人は安禄山討伐の機をうかがうことになった。
山西地区を掌握することに失敗した安禄山は、山西地区から皇帝の軍が河北地区へ出てくるのではないかと危惧した。そうなると、本隊と留守部隊の連絡が断たれるからである。そこで彼は、部下に常山の西方を固めさせることにした。そして兵粮補給地である常山は、禄山が恩恵をかけていた顔杲卿にまかせてあるから、大丈夫だと安心していた。
顔真卿は自分の許にいた盧逖という青年を顔杲卿のところへ連絡役として向かわせた。盧逖は、杲卿の外曾孫であった。
真卿が盧逖に言わせたのは、「兵を連ねて安禄山の退路を断ち、長安に攻め込もうとする禄山の謀を妨げる」というものだった。
杲卿に否やはない。
この後、杲卿の次男・季明が常山と平原の間を往復して連絡にあたった。およそ三百キロの距離を馬で数日かけた。
顔杲卿は、常山の西方にいる賊軍の守備部隊を打ち破って、山西方面からの交通路を確保し、山西方面の官軍を河北へ迎え入れる、という作戦を立てた。
安禄山の部下を甘言によっておびき出して殺し、その計画はやすやすと成った。
すると河北諸郡のうち、十七郡が唐朝側につき、安禄山に味方するのは、范陽を含めた北部の六郡だけとなってしまった。
これを知った安禄山は、反転し、常山城に向かった。
顔杲卿はそれより前、長男の泉明と腹心の部下を賊軍の将の首と共に長安へ報告のため、送った。彼らが出発して日を置かずして、常山城は安禄山の軍に攻められることとなり、杲卿は以前から約束していた太原の長官・王承業に援軍を求めた。
けれども王承業は裏切り、太原にやってきた泉明一行を捕えて首級を横取りし、自分の手柄として長安へ報せ、援軍を送らず、見殺しにした。
孤立無援となった常山城は昼夜にわたって応戦したが、兵粮・矢玉も尽きて、一万余の城兵は惨殺された。
賊軍は杲卿の次男の季明を捕え、白刃をつきつけて「降伏せよ」と迫ったが、杲卿は応じず、季明は殺され、杲卿と副官の袁は捕えられて、安禄山のいる洛陽へ送られた。
洛陽に着いた顔杲卿は、安禄山の前に引き据えられた。
安禄山は、恩を仇で返されたと怒っていた。
「きさまは、范陽の戸曹参軍であったのを、わしが奏薦して判官にしてやり、数年もたたないうちに太守へ抜擢してやった。それなのに、叛くとは何事だ!」
これに対して、杲卿は目をいからせて罵り返した。
「きさまは、もと営州の羊飼いの野蛮人ではないか。陛下はそのきさまを抜擢して、三度も節度使になされたのだぞ。この上もない恩幸だ。それなのに、陛下に叛くとは、何事だ。我は世々、唐の臣である。禄位はすべて唐のものだ。きさまが奏薦してくれたからといって、きさまに従って叛いたりなどするものか。我は国のために奮戦したが、きさまを斬ることができないで、いかにも口惜しい。それを、叛いたとぬかすのか。血なまぐさい野蛮人め、どうしてはやく我を殺さないのだ!」
この返答に烈火のごとく怒った安禄山は、洛陽城内に流れる洛水に架かる橋の柱に顔杲卿と袁履謙を縛りつけ、胴体と手足をバラバラにして惨殺した。その間、杲卿と履謙は安禄山を罵り続け、息絶えた。このとき、顔氏一門で処刑された者は、三十余人にのぼった。
多くの犠牲を出しながらも、杲卿の功績は王承業に盗られ、報いられることはなかった。
顔杲卿一家の悲惨な最期の前後、この年の正月十五日、顔真卿は平原太守に加えて、戸部侍郎[財務省次官]に任じられ、平原郡の防御使も兼ねることになった。地方官在任のまま中央での地位を与えられることは優遇を示す。これは河北における義軍の中心としての真卿を期待するもので、彼もそれに応えて、よく戦った。
近隣の清河・博平郡の兵をあわせて、魏郡の賊軍を大破し、一時、魏郡を攻め取るほどの大勝利を得た。
ちょうどそのころ、北海の太守・賀蘭進明も義兵を起こし、顔真卿は彼とも協力しようと考えて、書面でもって招いたところ、進明は五千の兵を率いて合流した。真卿は進明になにかと相談したので、軍権はしだいに進明に移ったのだが、顔真卿は少しも嫌な顔をしなかったという。それどころか、河北での戦功を進明に譲ってしまったため、顔真卿とその部下への褒賞は薄く、清河と博平の義軍の将士にはまったくその功績が認められなかった。
これは名利に無頓着な剛直の士としての顔真卿の、悪い面が出たといえる。自らの志を貫くのは良いが、多少なりとも名利と安楽を求める他人の気持ちを十分に察しえない、彼のというか、儒者としての顔氏の、世渡り下手の部分なのだろう。そのため、この後、官界で彼は孤立しがちで、まとまった勢力をもちえなかった。それが幸いなのか、そうでなかったのか、は分からないが。
顔真卿を盟主とする河北諸郡が奮闘している間、各地でも戦いが続き、江南では張巡、許遠の二人の奮戦で、賊軍が南方に進出するのをくいとめていた。そして常山陥落後、賊軍が勢力を盛り返したが、新任の河東節度使・李光弼が太原から精兵を連れてやってき、常山を奪還したことで、形勢が一変した。そして朔方節度使の郭子儀が常山に兵を率いて到着し、光弼と共に安禄山の部下・史思明と戦い、勝利したため、思明は敗走した。
このように、各地で唐軍・義軍が戦っていたとき、中央では不穏な空気が漂い始める。洛陽と長安の間にある関・潼関を、大軍を擁して守備していた将軍の哥舒翰と宰相の楊国忠の間がぎくしゃくしてきたのだ。
将軍に対しては、「楊国忠を誅するよう皇帝に上奏しては」とそそのかす者、宰相には「将軍が叛意を持っているので、中央から遠ざけては」と進言する者などがいて、そのうちに、「潼関の東、陝州にいる賊軍の兵力が微弱だ」という報せが届いた。
これは安禄山の放った間諜の口から出たものであったが、玄宗皇帝はその誘導に乗せられたのだった。
そのため、哥将軍に対して、「陝州、洛陽を奪回せよ」との勅命を下した。
将軍は、「それは、敵の術策におちるだけであります」と反対したのだが、皇帝は「早く出立せよ」とせきたてるので、仕方なく兵を率いて皇帝の許を去ったのだが、賊軍の伏兵に遭って大敗し、自分の部下の将によって捕えられて、哥将軍は安禄山のもとへ送られたのだった。
潼関という天然の険によって首都・長安は護られていたものの、それも敵の手に落ち、近隣諸郡の兵も逃げ去ってしまった。手の打ちようがなくなったとき、楊国忠の発案で、蜀に逃げ込むことになった。そこは内陸で、山々に囲まれ、自然が作った要塞のような土地であり、漢の高祖・劉邦が一時、蜀に入り、そこから出て、天下をとった土地でもあった。
蜀へ行くにあたって、楊国忠はこう、うそぶいた。
「安禄山が叛くかもしれないという噂が立つようになって、十年にもなりますが、陛下は一向にこれをお信じになられませんでした。それで今日の大事に至ったのです。これは、宰相であるわたくしの過失ではありません」
恥知らずな言葉だが、楊国忠という男は、不良少年あがりで、権力欲ばかりが強く、無能であった。これを貴妃の血縁であるからと、重用した皇帝にも責があるといえよう。
玄宗皇帝が長安をあとにして、密かに西へ向かったのは、天宝十五年(七五六)六月のことである。
従行したのは、楊貴妃、貴妃の姉妹、皇太子、他の皇子、妃、公主、皇孫、宰相・楊国忠、他の高官たち、宦官、宮人などで、禁軍の龍武大将軍・陳玄礼が部下を率いて護衛した。
蜀へ向かう途中、馬嵬駅に着いたとき、殺気立った兵たちが楊国忠に襲いかかって惨殺した。さらに彼らは、
「奸臣・楊国忠の縁につながる楊貴妃を陛下の左右に置くことはできない」
と、貴妃も殺すことを要求した。
皇帝といえども、彼らを抑えることはできなかったので、宦官・高力士は馬嵬駅にある仏堂の中で楊貴妃を縊り殺し、兵士たちを鎮まらせた。
このとき、楊貴妃の姉妹をはじめ、楊氏の一族は残らず兵士たちによって殺されたのだった。
兵たちはこれによって納得し、皇帝を警護して西へ向かった。しかし随行していた皇太子の亨は、土地の父老たちに馬をさえぎられた。
「殿下まで、陛下と共に蜀へ行ってしまわれたなら、中原の民はなんぴとを主として仰げばよいのでしょう.あとに残って、回復の業を達成していただきたい」
と、懇願され、皇太子はそれを無視できない気持ちになった。
さらに長男の広平王・俶、次男の建寧王・倓らも轡をとって、同じことをすすめたので、皇太子は父・皇帝と別行動をとることを決意し、かつて自らが大使を務めた北西の辺境、朔方地方の霊武へ向かったのだった。そこは、朔方節度使・郭子儀の本拠地であり、騎馬民族・タングート系の精兵がいる土地でもあった。
そして、あらかじめ父の玄宗皇帝から譲位の意をしめされていたこともあり、群臣の勧めで、皇太子は即位し、唐の第七代皇帝・粛宗となった。