二
唐という王朝は、隋の恭帝から、太原の留守であり、八柱国の一人、唐国公の李淵が禅譲を受けて帝位についた、とされている。
李淵の母は独孤氏で、隋の二代皇帝・煬帝の母、独弧皇后とは姉妹であり、留守という官職は皇帝の代行として、その地方のことを取り仕切る総監督のようなものであったので、母方のいとこの子から「禅譲」されても、おかしくはないが、実際は度重なる大土木工事と遠征の失敗によって乱れた隋の情勢の中、力づくで成立した王朝である。
李淵は好色で優柔不断な人物だったのだが、その息子たちが傑物だった。長男の建成、次男の世民。群雄割拠した隋末を彼らは戦い抜き、唐を建国したのだった。
その後、「玄武門の変」と呼ばれるクーデターで、高祖・李淵の次男、秦王・李世民が、同母の兄である皇太子・李建成と同母弟の李元吉を殺し、父を退位させ、自ら帝位に就いて二代皇帝・太宗となった。
太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれる。賢臣・名将を用いて、律令の制定、軍制の整備、学芸の奨励、領土の拡大に力を尽くし、唐という帝国を築いた。
漢代には、地方長官が郷里の評判を聞いて候補者を推挙する郷挙里選という官吏登用制度があったのだが、長官が結びついた地方豪族の子弟が多く推挙されるという弊害が生じたため、西暦二百二十年、魏の文帝のときから、地方官とは別に中正の官を置き、官吏志望者を一品から九品の等級に分けて中央に報告させ、それに応じて官職に任じるという九品官人法が行われた。しかしこれは、中正官と結びついた地方豪族の子弟が中央の上級官職を独占することになり、魏晋南北朝まで続いたものの、隋で科挙が始まると、この制度は廃止された。
隋に続いた唐も官吏の登用に科挙を採用した。後世の宋代ほど完全に試験のみの採用ではなく、試験を受けない門閥貴族も同時並行で官吏となるものだった。
唐の試験は三段階からなり、地方の予備試験・郷試、上京しての礼部の試験・貢挙、最後に吏部の行う試験に合格して任用された。科目は、秀才、明経、進士などがあった。
官吏登用には、身・言・書・判が採否の条件となった。
「身」は肉体的条件で、体躯堂々としていること、「言」は言語で、それが明晰なこと、「書」は楷書で、正しい楷書が書けること、「判」は断罪報告書で、これが立派に作れること。
顔氏の一族は、書と判に優れた者が多く、顔真卿も開元二十二年(七三四)に、進士に及第している。
唐が滅びたあと、後世、五代十国と呼ばれる短命な王朝が多く林立したのち、宋(北宋)王朝が起こる。その王朝に仕えた有名な文筆家の蘇軾は言う。
『詩は杜子美(杜甫)に至り、文は韓退之(韓愈)に至り、書は顔魯公(顔真卿)に至り、畫は呉道子(呉道玄)に至って、古今の變と天下の能事とが畢くされた』と。
このように初唐から盛唐にかけては、さまざまな分野の才能が集った時代であった。
書については、太宗自身が好み、また能書家で、東晋の王羲之の書を酷愛して、『蘭亭序』の真筆を苦労して手に入れると、殉葬させた。
また太宗は、皇族・外戚・高官の子弟を学ばせた弘文館で、欧陽詢、虞世南に書法を指導させた。
欧陽詢、虞世南ともに、南朝の陳の時代に生まれ、隋に仕え、それから唐に仕えた一流の文化人である。
『初唐の三大家』のうち、褚遂良は二人より四十年離れており、唐の太宗・高宗に仕えた。太宗の治世、宰相を務めたが、あとを継いだ高宗が皇后・王氏を廃して寵愛する武氏(のちの則天武后)を皇后にしようとしたとき、諫言をして高宗の怒りをかい、宰相の座を追われ、愛州(現在の北ベトナム)の刺史に左遷され、そこで客死している。
顔真卿が生まれたのは、中宗の二度めの治世、景龍三年(七○九)年、長安においてである。父は顔惟貞、母は殷氏、兄が五人いた。
闕疑・允南・喬卿・真長・幼輿である。翌年に、弟の允臧が生まれた。
それより少し前、唐の帝室は、混迷を極めていた。
太宗の正妃・文徳皇后の子である李治が皇后の兄・長孫無忌によって皇太子に立てられ、太宗の死後、即位して三代皇帝・高宗となった。
高宗は、太宗の後宮にいて太宗の死後、尼となっていた武氏(則天武后)を召して寵愛し、立后に反対した外戚の長孫無忌と宰相の褚遂良を左遷、殺害し、武氏を皇后としたが、武后は皇后になると高宗の意思を制して実権を握り、政務に口出しするようになる。
傀儡となった高宗が病没すると、第七子で武后の子・李顕が即位して中宗となったが、自分の意思を尊重しない息子を武后はすぐに廃し、同母弟の李旦が五代皇帝・睿宗となる。しかし、睿宗は政治に預からず、実権は母の則天武后が握っていた。
これに対して、不満を持った者たちが武力抵抗を起こすが鎮圧され、疑い深くなった武后は密告を奨励して、唐の宗室・貴族の数百人を殺して、唐室を壊滅させてしまった。
武后は唐に代わって国号を周とし、自ら聖神皇帝と称して、睿宗を廃位させて皇嗣とし、姓を李氏から武氏にして、武氏一族を王とした。このとき武則天は六十四歳。在位期間は十五年で、武則天は病となり、盧陵に流されていた中宗を召して皇太子とした。
武則天の病が重くなると中宗は譲位されて国号を唐に復し、制度はすべて高宗の在世中のものに戻した。
武后が亡くなると、今度は中宗の皇后・韋氏の一族が政権を握り、韋皇后と娘の安楽公主によって中宗は毒殺される。
韋氏一族が専横を極めるに及んで、睿宗の第三子・李隆基が韋后を殺し、父の睿宗を復位させた。睿宗は在位二年で皇太子の李隆基に譲位し、自分は太上皇となって、四年後に没した。
第六代皇帝となった李隆基は、二十八歳。玄宗である。
顔真卿、四歳のとき、玄宗が即位し、「開元の治」という唐が一番華やかな時期に、彼は成長したのだった。
日本では、奈良時代にあたる。
顔真卿は幼くして、父・惟貞を喪い、母と共にその実家に身を寄せ、母方の伯父・殷元孫に育てられ、母・殷氏と十五歳年長の兄・允南が彼を世話した。
後年、「剛直」と称された真卿も子どもの頃は、やんちゃだったようで、十歳のとき、家に足を折った鶴がいて、幼い真卿はその背中にいたずら書きをした。
兄の允南は怒って、
「この鶴は飛び立てないが、おまえはその羽を大事にしてやらないとは、なんて思いやりのないことだ!」
と、責めた。
真卿は、その兄の優しい心を終生忘れなかった。
十三歳になると、真卿は外祖父の殷子敬の赴任に従って、母と共に呉県(蘇州)へ行き、学問に励んだ。