十
宰相の崔祐甫は病弱だったので、政治をみないことが多くなると、楊炎は大胆に振る舞うようになっていく。
元載を処罰し、経済官僚として力を持っていた劉晏を復讐のため、冤罪で失脚させて殺した。
劉晏が冤罪であったことはみな、どこかで分かっていたから、隠れて悪事をしていた者たち、特に節度使の間に動揺が広がった。罪なくしても殺されるのなら、自分たちは何をされるか分からない、と。
こうしているうちに、自分よりも教養・才能がある楊炎がときに威圧的な態度をとることを面白く思っていなかった徳宗が、楊炎を除こうと考え出した。
徳宗は楊炎に対抗する者として、盧杞を宰相にした。
盧杞は玄宗皇帝のときの名宰相・盧懐慎を祖父に、安禄山が洛陽に攻め込んだとき殺された御史中丞・盧奕を父に持つ。その蔭位によって、試験を受けずに官僚となり、虢州[江南省霊宝県]の刺史になった。このとき、政府所有の豚、三千匹が民に害を与えていると、報告した。徳宗は、それならば、他の州の牧場へ移せばよい、と言ったのに対し、盧杞は、それではその州の民に迷惑をかけるから「食用に窮したほうがいい」と意見を述べたので、徳宗は豚を貧民に分け与えた。
他の州のことまで考えるのは宰相の器であるとして、徳宗は盧杞を召して御史中丞にし、考えが徳宗の意と同じなので翌年には御史大夫にすすめ、数日のうちに宰相とした。建中二年(七八一)二月のことである。
盧杞は容貌が貧しく風采があがらず、けちでじじむさく、性格は陰険だったが、祖父と父が賢臣・忠臣であったため、何をしても人びとは好意的にとった。けれども、名将軍の郭子儀だけは騙されることなく、注意深く彼に接した。
徳宗の意向もあったが、盧杞は楊炎を陥れ、顔真卿が楊炎のために太子少師へうつされた年の十月、左遷され、そこで殺された。
楊炎を失脚させてから、盧杞は次々と自分に邪魔な者たちを陥れ、殺していく。彼は教養がなく、官僚としては無能だったが、徳宗の意をくむことにたけ、また口がうまかった。
盧杞は顔真卿を長安に置きたくないと考え、たびたび節度使として地方へ行くよう言ったが、真卿は彼に直接会い、「老いぼれた今、都から離れたくない」ということを婉曲に言い、盧杞の父の遺体を引き取って、葬った昔のことを話した。
それを言われると、彼には何もできなかった。だが、恩があるぶん、「宰相であるわしが、なぜ頭が上がらないのだ」と反感を持ち、恨む心がもたげた。ようは、自分に邪魔な者なのだ。
そのころ、節度使の李希烈が河南で反乱を起こした。建中三年(七八二)のことであった。
このとき盧杞は徳宗に、顔真卿を李季烈の説得に行かせようと上奏した。
徳宗はその意見をいれ、「汝州に赴いて李希烈を宣慰せよ」との詔を下した。
これに廷臣たちは色を失った。『死ね』という命令と同じだったからだ。
しかし、顔真卿は畏まって、この命令を受けた。
家族はもとより、親戚・友人は、「病気だと言って辞退するように」と説得したが、真卿は従わなかった。
齢七十五。人生の終着点が見えていた。であるならば、顔氏の者らしく死ぬ、というのが自分の最後の仕事であろう。
息子たちに後のことをこまごまと指図し、遺言も残して、急務であるから、駅馬を利用して出発した。
東都・洛陽に着くと、李希烈の来襲にそなえて緊張しており、これを統括する東京留守の鄭叔則は、
「行けば必ず命が危ういから、しばらくここに留まって、のちの命を待ったほうがよかろう」
と勧めた。
しかし、顔真卿は、
「君命だから、避けることはできない」
と、答えて出発した。
同じころ、汴州[河南省開封]を護っていたのは、汴宋節度使で宰相も兼ねていた李勉という気骨のある人物で、徳宗に「いち元老を失って、朝廷に羞を残すことになるから、どうか真卿を引き留めていただきたい」と上奏し、人を遣わして真卿を押しとどめようとしたのだが、一足違いで叶わなかった。
こうして汝州に到着した顔真卿は、宣慰使として李季烈の陣へ乗り込んで、詔を宣べた。
李季烈は示威の目的で千人余りを武装させて取り囲ませた。
兵たちは顔真卿をののしり、白刃をつきつけたが、彼は少しもたじろがず、顔色も変えなかった。
そこで李季烈は礼遇を加え、官舎へ導いた。彼は当初、真卿を拘留するつもりはなかったが、側近の意見をいれて留め、自分が皇帝を称したときには、宰相になってほしい、と望んだ。
李季烈の側近たちから、そのことを聞いた顔真卿はしかり飛ばして答えた。
「宰相などと怪しからんことを言う。汝らは安禄山を罵って死んだ顔杲卿という者のあることを知っているだろう。それは私の兄である。われは齢八十、節を守って死することを知るのみである。どうして汝らの誘脅を受けようか」
困った李季烈たちは、官舎の庭に穴を掘って、「命令をきかないのなら、この穴に埋めるぞ」と脅したが、真卿は少しも騒がず、言い返した。
「死生はすでに定まっておる。まわりくどい事をするのは無駄である。一本の剣さえ与えてくれれば、貴公に念の残らぬようにしてあげよう」
李季烈はもう、顔真卿を放っておくことにした。
李季烈が顔真卿の説得を聞き入れないことは唐の側にも分かり、諸道に詔を下して、李季烈を南と北から攻めさせた。
汝州は唐軍に落ち、李季烈は蔡州に引き上げ、表面上は過ちを悔いて従順な態度をとっていたが、実は時間稼ぎをしており、幽州で反乱を起こした朱滔の援軍を待っていた。
李季烈が蔡州に引き上げたとき、顔真卿もそこに送られ、その地の龍興寺の勾留されたのだった。
顔真卿が龍興寺に囚われてから、彼は唐王朝から忘れ去られた。それというのも、皇帝が都落ちするという大事件が起こったからだ。
唐軍では、李勉を淮西招討使として李季烈に当たらせることにした。しかし、軍事費がない。そこで臨時税として、家屋や取引に税をかけたのだが、それが人びとの生活をさらに圧迫し、怨嗟の声が上がった。
また、前線にいる李勉の意見を徳宗はことごとく退けるので、作戦に狂いが生じ、敵軍が迫って、洛陽が危うくなった。
そこで徳宗は長安の西北で吐蕃の侵入に備えていた軍を使うために呼び寄せた。
雨の中、節度使に率いられてきた兵士たちは食べ物と賜り物を期待してきたのだが、到着したら何一つくれず、食事は粗飯は菜っ葉だけ。怒った兵士たちはたちまち反乱軍となり、将官を殺して長安の宮城にまで迫った。
徳宗は禁軍を差し向けようとしたが、一人も集まらなかった。
それより前、禁軍の募集を担当していた官が賄賂をもらって報告を怠り、名簿だけ作って実態のない軍となっていたのだった。
徳宗は、妃や太子、諸王、公主たちと共に、宮の北門から脱出した。従ったのは、宦官百人ばかりと少数の臣だけだった。
徳宗は長安城の西方、渭水を北に渡った咸陽を経て、奉天へ向かった。
一方で反乱軍は朱滔を擁立し、皇帝を名乗った。そして奉天城へ攻め寄せた。
しかし、金吾将軍や郭子儀の部下の奮戦で奉天を守り切り、朱滔は長安へ逃げ帰った。
このころから宰相・盧杞に対する非難の声が高まり、軍の作戦にまで口出しして大敗を招いたことにより、徳宗もかばいきれなくなった。しかたなく、十二月十九日に盧杞をおとして、田舎町の新州(広東省)の司馬とした。
顔真卿が李季烈に囚われた、同じ年のことである。
こののち、盧杞は下級官吏におとされたものの徳宗がおりをみて引き上げようとし、また盧杞自身も中央に戻るつもりだったのだが、李勉をはじめとする廷臣に反対され、結局、澧州[湖南省]の別駕[次長」で生涯を終えた。
そして徳宗は事態を収拾するために、翌年(七八四)の正月に「己を罪する詔」を発した。そして興元と改元し、悪税をやめ、反乱をおこした節度使を許したので、彼らのほとんどは罪を謝って、帰順した。
けれども、李季烈は応じなかった。
李季烈は皇帝として立ち、顔真卿に迫った。
「節を曲げることができないのなら、自分で焚け死ね」
と、庭に薪を積み、それに油をまいて火をつけた。
すると真卿は、走って行って火の中に飛び込もうとするので、周囲にいるものが引き留めた。
また、顔真卿は自分の墓碑銘を作り、寝室の西の壁の下を指さし、
「私の仮もがりの場所だ」
と言った。
貞元元年(七八五)、河南で唐軍が勢いを取り戻し、蔡州もどうなるかわからなくなった。李季烈は顔真卿のような唐王朝の元老を生かしておいて不測の事態が起きては困ると考え、使者を遣わして殺した。八月十三日のことであった。
李季烈からの使者、辛という者が召し使っている宦官が、「勅あり」と顔真卿のいる龍興寺へやってきた。
真卿は長安から来た者だと勘違いして再拝した。
「あなたに死を賜る」
宦官は言った。
それに答えて真卿が問う。
「老臣は何の役にも立たない。その罪は死に当たるでしょう。しかし、あなたはいつ、長安をお発ちになられましたか」
「大梁から来たのだ。長安ではない」
その答えに、真卿は顔色を変え、怒った。
「それでは賊ではないか。どうして勅などと言えるか!」
と、罵った。
そこで顔真卿は絞殺された。七十七歳であった。
このあと、李季烈は他の節度使たちが徳宗皇帝の「己を罪する詔」によって恭順の意を表し、また頼りとしていた朱滔が病死したため、孤立無援となったあげく自らも病気となり、部下の陳仙奇が寄越した医者によって殺された。
李季烈を殺した陳仙奇は、唐へ帰順の意を示し、顔真卿の遺骸を長安へ送りつけた。彼の死の翌年、貞元二年(七八六)十一月、彼の嫡子の頵と次男の碩が襄城県[河南省]まで出向いて父の遺骸を迎え、万年県鳳棲原の先祖の墓に合わせ葬った。
徳宗は顔真卿に司徒という官を贈り、文忠と謚して、その功に酬いた。
顔真卿の遺骸については、不思議な話が伝わっている。賊軍が降伏して仮の埋葬所から掘り出してみると、彼の遺骸は生きているごとくであった。ところが棺に納めて途中まで来ると次第に軽くなり、葬所へ着いてみると、棺はからになっていたという。
仙人には、天仙、地仙、尸解仙があり、真卿は尸解仙になったというのだ。
非業の最後を遂げた剛直の士を悼んで、当時の人びとはその精神世界で生き続けさせたのであろう。
けれども、長い年月の果て、時代も生活も価値観も変わり、顔真卿が何を考え、その志を貫いたのか、理解できるものも少なくなった。
ただ、彼の書だけが、生きた証として存在している。
終
【主要参考文献】
『顔真卿――剛直の生涯――』外山軍治著、創元社
『書聖名品選集12 顔真卿 顔氏家廟碑』マール社
『新唐書12』(宋)欧陽修・宋郭 撰 中華書局
『中国書人名鑑』二玄社
お読みくださり、ありがとうございました。