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 中国・陝西省西安市の三学街に、西安碑林博物館がある。そこには北宋の頃から集められた三千以上の石碑などの資料が保存され、顔氏のいしぶみすなわち、『顔氏家廟碑がんしかびょうひ』も、そこに収められている。

 その碑の作者は、顔真卿がんしんけいという唐代に文官として生きた人物である。碑は亡き父・惟貞いていの廟に建てた四面碑で、顔氏の祖先から自分の子ども世代までの一族の事績を記したもの。唐の王朝に仕え、安史の乱にも遭遇し、浮き沈みの多い彼の人生の中で、穏やかな時間を過ごしていた七十二歳のときの作であった。




『顔氏家廟碑』の作者は文官で、生前、書家としても知られていた。

『書』は、文字の芸術。その書の世界で、歴代能書家の双璧そうへきとされるのは、東晋とうしん王羲之おうぎしと盛唐のこの顔真卿がんしんけいである。

 王羲之は漢代以来の名門貴族の出で、字は逸少、官名から王右軍とも。

 若い頃は政治家として活動したが、早くから官をやめ、会稽かいけいで悠々自適な生活を送り、楷書・行書・草書の三書体を完成させ、後世、『書聖』と呼ばれる。書風は優美典雅で、しかも力強い。楷書『楽毅がくき論』、行書『蘭亭序』、草書『十七帖』などが代表作と言われているが、原本は残されていない。

 羲之は日本の書にも、大きな影響を与えた。平安時代の一条朝の四納言の一人で、三蹟さんせきの一・藤原行成ふじわらのゆきなりは王羲之の書法を消化し、小野道風おののみちかぜの書に明るさを加えて、和様書道の一流派・世尊寺流せそんじりゅうの祖となった。

 この王羲之から約四百年のちに生まれた顔真卿は、科挙かきょに合格して文官となり、四代の皇帝に仕えた。その書は力強く、王羲之以来の典雅な書風を一新したもので、楷書『顔氏家廟碑』、草書『祭姪さいてつ文稿』『争坐位帖』が代表作と言われている。

 二人とも「書家」と呼ばれるが、彼らの本質は政治家、もしくは官僚である。その人生の中で、彼らの書体は産み出された。



『ことば』をあらわす文字には、ひとつひとつの字が音のみをしめす表音文字と、一字がある意味を持つ表意文字がある。

『漢字』は象形・指事文字から発達した表意文字で、ときに表音的にも用いられている。紀元前十数世紀の中国・殷の時代に占卜の記録を亀甲・獣骨などに刻んだ甲骨文字がその起源だという。

 漢字には字体があり、それは篆書・隷書・楷書・草書などである。

 篆書てんしょは漢字の中で一番古い書体で、殷王朝の祭祀の際に亀の甲や牛の骨に刻まれた「甲骨文」、殷の後期から西周・春秋戦国期にかけて青銅器に記された「金文」、秦の始皇帝が制定した「小篆しょうてん」の三種類がある。現在では、印章などに用いられる。

 隷書れいしょは、篆書の点画が直線化され、簡略化されて生まれた書体で、漢代の標準書体である。

 行書ぎょうしょは隷書の点画を省略したもので、後漢の頃、生まれた。のちに東晋の王羲之、その息子の王献之おうけんしによって完成された。

 草書そうしょは、隷書を速書きするために行書をさらにくずし、点画を簡略化してできた書体で、漢代から使われたが、後漢の張芝ちょうしが草書を得意とし、以後、発展した。

 そして、こんにち良く使われる楷書かいしょ、唐の頃に「隷」と呼ばれたそれは、成立した時期が他の字体より遅い。一点一画がきちんとした書体で、これは隷書から脱化したもの。漢末・三国時代ごろに芽生え、魏晋ころに形成され、初唐に至って、最も発達した。完成者は、初唐の三大家・欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょう、そして盛唐の顔真卿がんしんけいを加える。

 唐の時代、その最盛期までは、それまでの貴族好みの詩文・書体を革新しようという気風に満ちていた。




 書体の変遷には、それを書く道具の発展も、また関係している。 文房四宝ぶんぼうしほうと呼ばれる、筆・紙・硯・墨のことである。

 筆はすでに殷の時代、もしくはそれよりも早くから存在し、兎の毛が使用された。明・清の頃から羊毛が使われるようになるまで兎毛筆だったので、王羲之や顔真卿もそれを使っていたと思われる。

 紙は後漢の蔡倫さいりんが発明者だと伝えられてきたが、前漢時代の麻紙が出土したことで、改良者であったのだと今では認識されている。それまでは高価な絹、かさばる竹簡ちくかんが多く用いられてきた。しだいに紙が普及していくのだが、まだまだ値段が高く、顔真卿の父と伯父は幼い頃、壁や土に文字を書いて練習したという。宋代に竹を原料とした紙が作られるまで、麻の紙が主流で、隋・唐の頃に制作技術が高まり、広く出回るようになった。

 硯は、現在よく見る長方形のものは宋代から現れ、それまでは円形の硯であった。

 古代から墨はあった痕跡があるのだが、秦代の墓から出土した石硯・磨石が確認される最古のもの。黒鉛が使われていた。やがて改良が進み、後漢の頃には円形の硯に固形墨が使用された。また、漢代の墨は松煙で、宋代まではそれが中心だった。唐代には文人が墨作りに関心を持つようになり、墨匠といわれる職人が次々と世に出るようになった。

 書聖・王羲之の時代では、竹簡と紙が同時に使われ、漢字の書体も現在のように完成されていなかったが、盛唐の顔真卿の頃になると、兎毛の筆、円形の硯に松煙の墨、そして麻紙といった文房四宝になった。

 後世、唐硯とうけん唐墨とうぼく唐筆とうひつ唐紙とうしつと言い慣わせるほど、文房具が充実した時代でもあった。





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