カピバラの憂鬱
唐突に妹が私の部屋にやってきた。
「お姉様、お疲れみたいですけど……そのような仕事は誰かに任せてはどうなのですか?」
近頃のわたしは妙に忙しい。
登山靴を作ることから始まって、レインウェアを仕立てたり、ザックやちょっとした道具を調達して改造したり、まるでオコジョの専属の職人のごとく働かされている。
……ていうか、登山による筋肉痛はまだ体に残っている。坂道を歩き続けるとスネが筋肉痛になるなんて、今まで知らなかった。
更には、タタラ山から戻った後にオコジョから依頼されたヘンテコな道具にも悩んでいる。
果たしてこれを完成させられるのか、そもそも完成させてよいものかどうか。使い方によってはとても危険なものだ。
大叔父様も「これは方針から練り直した方がよい」と言って、二人で色々と作戦を練っている。だがそのおかげで、オコジョをあっと驚かせるものが出来上がりそうだ。
忙しくて大変だけど……不思議と、楽しい。
楽しさに邁進する自分に罪悪感を抱くくらいには。
「ていうか、色々あった割には、なーんかお気楽そうですね」
そして妹のフィーネは私の様子に薄々気付いている。
妹の皮肉の一つや二つを受け止める義務は私にはある。
「……あなたには迷惑をかけるわ。ごめんなさい」
「いやそうじゃなくて。変ですねって話をしてるんです。嫌味を言いに来たんじゃありません」
……と思ったが、フィーネは皮肉を言ったというより、純粋な疑問の表情を浮かべていた。
「え、あれ? そうなの?」
「バートン様と別れるのは理解できますわ。婚約者など放っておいて浮名を馳せているんですもの。ほんと、渋々で形だけの結婚ですよって本音が漏れてましたし」
バートンとは私の元婚約者の名である。
初めて会ったのは10年前で、そのとき彼が婚約者だと父から紹介された。
だが彼と会えるのは年に一度あるかないかで、それも彼の都合のよいときだけ。私の誕生日に贈り物を贈ってきてはいたが、すべて彼の侍女が手配していたものだと後から判明した。彼は自分の名義で何を贈っていたかも把握していなかったし、彼が執心しているどこぞの奥方との逢瀬の方が遥かに大事だった。というか侍女との仲も少々怪しかった。
だから私が浮気したところで、彼は別に不義や不誠実を理由に責めることはなかった。
むしろ彼は好都合とばかりにほくそ笑んだ。
結婚に絡む条件で優位に立てるぞと。
彼も、父も、私の結婚など利益を得るための交渉カードの一つに過ぎず、そして交渉の結果として私ではなくフィーネがバートンのところに嫁ぐこととなった。
「えっと……フィーネはバートンとの婚約を怒ってるんじゃないの?」
「それは別に構いませんけど。下手に好かれて束縛されるよりは、適度に外で遊んでもらう方が私としては気楽です。本気で嫌だったらお金持ちがお好みな子を見つけて養子にして妹を作ればいい話ですし?」
妹のフィーネは現実主義だ。
私も自分をそういう風だと思っていたけれど、妹ほど達観はしていない。
我が妹ながら、ちょっと怖い。
「あ、あなたがいいならいいんだけど……」
「お姉様だって、遊ぶならもう少し慎重にやったほうが楽しかったでしょうに。好きな人がいるならその方が燃えますわよ。多分」
「あなた、もしかして……」
誰かと付き合ってるの? と尋ねようとしたが、それを察したフィーネは鼻で笑った。
「いませんわよ。野暮なことは聞かないでください……というより、いたとしたら家族にだって秘密にするものじゃないかしら。外の友達よりも一族の方が信用できないのが貴族ってものでしょう」
フィーネの言葉は正しい。
成績はほどほど、家のこともほどほどだが、すべてにソツがない。父からも母からも怒られないラインをしっかり見極めているし、学校でも、落としてはいけない単位はしっかり取っている。
友達はそんなにいる様子はないが、関係は密だ。恐らく、家族にも言えない秘密を共有できる友達がいる。
薄く広く「知り合い以上友達以下」ばかりの私とは違って、なんていうか、妹は世界を生きる適性がある。
私のように無駄に消耗したり、その挙句に暴挙に走って失敗するような愚かさがない。同時に、オコジョのような情熱で生きるタイプでもない。人生二周目じゃないかってくらい世慣れしている。だからずっと妹のことは苦手だった。
珍しく私の部屋に来て雑談しに来たものだから、どうせ私を笑うのだろうと思っていたし、私は笑われても当然のことをした。せいぜい笑われてやろうと思った。
「自分が馬鹿なことしたってくらいわかってるわよ」
「一番馬鹿なのは浮気したことよりも、婚約者のいる男を選んで他人の縁談を潰したことじゃないかしら?」
「うっ」
「ま、気持ちはわからなくもないですけれど。ちゃんと向こうの浮気の証拠を取っておけばよかったのに」
「……無理よ。相手はユースティア侯爵夫人だったもの。お父様でさえ諫められないわ」
貴族が道ならぬ恋をするために出入りする秘密のバーラウンジの噂。
繁華街の片隅にできた、看板さえない何気ない扉。そこを、このあたりでは見かけない伊達男の商人や書生が、これまた見かけない風体の美貌の女魔法使いや女商人を伴ってそこを出入りしている。
そのうち通行人の誰かが扉を開く人の顔に思い当たり、少しずつ噂が流れていく。男女の正体は高い身分の人々であり、秘密の逢瀬を重ねるために秘密のバーラウンジに出入りしているのだと。
大人の恋の憧れ、不義への誘惑、怖いもの見たさ……そんな興味関心に惹かれた同級生が、「あのあたりに出入りする人の顔を見てみないか」と言い出した。行かなければよかったとしみじみ思う。その扉に出入りしていたのは確かに私の婚約者、バートンだったのだから。
幸いにも友達に気付かれることはなかった。婚約者を紹介したこともない。ショックを受けたのを取り繕って友達と別れ、一人、通りの片隅で涙がこぼれたとき、それを慰めてくれた人がいた。ケヴィンだった。
「お父様は諫められないんじゃなくて、仕事にしか興味ないんじゃないかしら」
「そうね……」
そこからケヴィンとの逢瀬が始まった。
本来、私の世代がする恋愛ってこういうものなのだと思った。夢中になった。私とケヴィンが通じ合ってるのを知って、密かに祝福してくれる人もいた。
しかし一番意外だったのは、お父様がケヴィンを気に入ったことだ。
「むしろお姉様が浮気したのだって、若い男を鍛えられるチャンスとしか思ってないんじゃないわよ」
「……困ったことにね」
バートンとの婚約を破棄してケヴィンと婚約すると言ったところ、父は妙にケヴィンを気に入った様子だった。あるいはバートンに面白味を感じていなかったのかもしれない。
お父様は私たちの婚約を認め、そしてケヴィンを「義息子として鍛えてやる」と言って騎士団の長期訓練へと連れて行ってしまった。あまりに強引な展開に私も混乱している。私が嫁に行くのではなくケヴィンが婿に来るかのような可愛がり方だ。
「お父様に何か期待するのやめたらどうかしら? お父様なんてこっちのことなんて駒とかお人形とか、そのくらいにしか考えてないじゃない」
「そんなことは……」
私は言葉に詰まった。
そんな私に、呆れたとばかりにフィーネが肩をすくめる。
まだそんな希望に縋っているんですかとばかりに。
だが私が黙った理由は違う。
オコジョに怒られたばっかりだったのに、妹にまで言われたのが面白かったからだ。
「……なんでにやにやしてるんです?」
「なんでもない。あなたの言う通りよ」
「わかってるならけっこうです。ならついでにもう一つ。お姉様が今、一番謝ったり考えたりしなきゃいけないのって、お父様とかバートンとかよりもケヴィンさんの元婚約者なんじゃないんですか? バートンみたいな浮気者とかじゃなかったんでしょう?」
私は、ケヴィンの婚約者……オコジョのことを憎く思っていた。
ケヴィンが私に共感してくれたということは、彼もまた私と同じように苦しんでいるのだと思ってしまった。もうちょっと冷静に話を聞いておけばよかった。関係が冷めていたのは事実だったにしても、こんな騙し討ちをするべきではなかった。
「お金と話し合いで済むならともかく、それで済まない恨みつらみもあるんだろうなって心配してあげたんだけど……どうなってるんです?」
「今やってるところよ」
「今って……え、それ、騎士の道具を作ってるとかじゃなくて?」
「ケヴィンの元婚約者が、賠償のかわりに、巡礼の装備を頼んできたの。色々作ったわよ。登山靴とかザックとか」
「……で、今は何を?」
「ロープとカラビナとクライミングシューズ。あと……プロテクションとかいう、岩に突き刺す金具? まあでも、ちょっと問題が多いから大叔父様と相談して設計を変える予定だけど」
「うん……うん?」
フィーネに、オコジョから預かった図面やラフスケッチを見せる。
私ほどではないがフィーネも騎士の扱う道具類についてはそれなりに学んでいるので、絵を見せて現物を想像するくらいはできる。
だが根本的な謎は解き明かせなかったようだ。
だってわたしにもわからないもの。
「なんで?」
「なんでって言われても……」
「いや色々と意味わかんないんですけど!? こんなものが必要な巡礼ってどういうことですか!?」
「わたしだってわからないわよ!」
フィーネが妙に疲れた顔で溜め息をついた。
「まあ……別に恨まれて厄介なことになってるわけじゃないならどうでもいいです。怨恨沙汰に私が巻き込まれないかだけが心配だったので」
「そこは大丈夫よ。いきなり脇腹を刺してくるような女じゃないわ」
「人によってはわき腹を刺してくることもありえるってわかってるなら結構です」
「そこは本当ごめん」
やれやれとフィーネがため息を吐く。
「一応、忠告しておきますけど。お母様は気付いてないけど侍女や執事は様子が変だって気付いてますわよ。余計なことを言わないよう釘を刺しておきましたが、いずれお父様やケヴィンにも気付かれるんじゃないかしら」
「別に、何か悪いことをしているわけじゃ……」
「悪いかどうかの問題じゃありません」
私の反論を、ぴしゃりとフィーネが遮る。
「ちょっとくらい悪いことしたってお父様はお許しになります。お父様って、もめ事をもみ消して恩に着せるの、好きな人ですから。むしろ出しゃばったり功績を上げたりする方が怒られますわよ」
「私は功績を上げるようなことはしていないわよ」
「……昔、式典で大叔父様の作った靴が他の騎士に誉められたとき、つまらなさそうな顔してたもの。内心ではすごくイライラしてたと思いますわ。お姉様は気付いてらした?」
全然気付いてなかった。
基本的に、お父様は自分が話題の中心でいたい性格なので、いつものことと思って流していた。
大叔父様を妬むという特別な感情は、果たしてあったのだろうか。
だがなんであれ、自分よりも目立つ人間を好まない性格であることは事実だ。
そして私が作った道具はさておき、大叔父様が作った靴は本物だ。その価値をしっかりと体感している。私があれだけ歩き回って膝や腰を壊すことなく筋肉痛だけで済んでいるのだから。
そして道具を得たオコジョはきっと、何かをする。
世の人があっと驚くような偉業を。
「面白そうなことに没頭するのは構いませんけど、周りには注意してくださいまし。特にお父様に気取られないようにしてくれないと、お母様もわたくしもまとめて怒られちゃいますから」
「……あなた、けっこういい子ね」
「はぁ!? 何を仰るんです?」
「何って、そりゃお礼だけど……」
さも面白がるかのような顔をしていながら、言っていることは私にとって有益なことばかりで、しかもメイドに口止めをしてくれるのだ。感謝以外のどういう言葉が出ると思ったのだろうか。
「と、ともかく! その仕事を止めるとか、止められないならもっとこっそりやるとか、考えておいた方がいいですからね。話はそれだけです!」
ぴしゃりと言って、フィーネは乱暴な足取りで私の部屋から去っていく。
こんな忠告を受けて、わたしの心は不安にさいなまれるどころか胸が高鳴っていた。
そっか、お父様みたいな恐ろしい人を、怒らせる何かをやっているんだと。
「……屋敷や大叔父様のところじゃなくて、どこかこっそり作業できる工房がほしいわね。探しておかなきゃ」
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