7 薬草茶
夕闇の中、赤々と燃える炎が一行の顔を照らす。
騎士団と聖女の一行は、銘々に焚き火を囲んで夕食をとっていた。
騎士団が準備したのは、ほんのり塩気のあるビスケット、炙った燻製肉、それから数種のドライフルーツといった携帯食。
配られた簡素な食事に、オリヴィアの侍女たちは不満げな表情を浮かべていたが、主であるオリヴィアが、「わたくし、こういったものを頂くのは初めてですの。楽しみですわ」と笑顔で受け取ったものだから、表立って文句を口にした者はいなかった。
そのオリヴィアは、折り畳み式の椅子にウィルと並んで腰掛け、ドライフルーツを一粒ずつ上品に口に運んでいる。
二人の話題はオリヴィアのプライベートなことに及んでいるようだった。
「では、オリヴィア様はまだ婚約者が決まっておられないのですね」
ウィルは主に聞き手に回り、オリヴィアの発言一つ一つに丁寧に頷き、合いの手を入れている。そのおかげもあってか、オリヴィアは上機嫌な様子だった。
「ええ、そうなのです。わたくしももう十六歳ですから、そろそろ、とは……。わたくしの父と母は少し歳が離れておりまして、わたくしも結婚相手には年上の方がいいかしら、と思っているところですの」
ウィルを見つめるオリヴィアの瞳に熱がこもる。
「ねぇ、ウィル様。ウィル様は二十八歳でいらっしゃいましたわよね。十二の歳の差のある女を、どう思われまして?」
「十二、ですか……。そうですね、少し離れてはいますが、いい歳の差だと思います」
「まあ、ウィル様……! ええ、ええ、わたくしも同感ですわ!」
オリヴィアの華やいだ声が辺りに響く。
オリヴィアとウィルは、一行の輪の中心だった。
「オリヴィア様、ビスケットのおかわりはいかがですか?」
「もうけっこうよ、ありがとう」
「オリヴィア様、お水をおつぎしましょう」
「ありがとう、頂くわ」
二十歳前後の若い騎士達が、浮足立った様子で代わる代わるオリヴィアの世話を焼く。オリヴィアはもっぱらウィルと談笑しながらも、そうやって声をかけてくる騎士達にも可憐な微笑みを添えて言葉を返していた。それを受けて若い騎士達はさらに浮足立つ。
野営地には、普段の遠征では考えられないような、緩く華やいだ空気が漂っていた。
その輪の端の方に、ニーナはルイザと並んで腰掛けていた。
「ずいぶんな人気だね」
焚き火の反対側で騎士達に囲まれるオリヴィアに視線をやりながら、ルイザが唇の片端をつり上げた。
ニーナは同じ方向にちらりと目を向け、硬い燻製肉をもぐもぐと咀嚼する。ごくんと飲み込んでから口を開いた。
「そうですね、オリヴィア様が騎士団の皆さんに馴染めたようで安心しました」
「感想はそれだけかい?」
「……それだけですよ」
わざとそっけなく答え、ニーナは手の平に乗せた干しぶどうをまとめて口に放り込んだ。
ルイザの言いたいことはわかっている。
――あの場所は、本来はきみの場所じゃないか。
ルイザはそう言いたいのだ。
これまで、騎士団の遠征での食事どき、ウィルの隣にいたのはいつだってニーナだった。
参加する聖女がニーナ一人だけのときも、複数いるときも。ウィルが隊長になる前も、隊長になってからも。
ニーナが食事をとろうとすると必ず、ウィルが「ニーナ様、ご一緒してもよろしいですか?」と、よく懐いた大型犬のように寄ってくる。ニーナはそれを笑顔で迎え、二人並んで腰を下ろす。ルイザや他の騎士達も交えて、時に楽しく時に真剣な会話を交わしながら食事をとる。それがいつもの光景だった。
けれど今、いつものニーナの場所にはオリヴィアがいる。
ウィルとオリヴィアをぼんやりと見やりながら、奥歯で干しぶどうを噛む。口の中に甘酸っぱい味が広がった。
「そう言うわりに寂しそうなのは、私の気のせいかい?」
「それは……」
寂しい気持ちが全くないと言えば嘘になる。けれどそれを口に出していいものか、ニーナは躊躇した。
「私は少々寂しいよ」
驚いてルイザの横顔を見上げれば、やわらかに細められた緑の瞳がニーナを見つめていた。
ニーナは目を伏せ、ふっと肩の力を抜く。
「……そうですね、私も少しだけ寂しいです」
素直な言葉がすっと口からこぼれた。
「でも、遠征は遊びではありませんから。初めて遠征に参加するオリヴィア様をクレイグ隊長が気にかけるのは当たり前ですし、そのおかげでオリヴィア様も騎士団の皆さんと馴染めた様子。遠征を皆で無事に乗り切るために、隊の結束は大事なこと。クレイグ隊長はすべきことをなさっています」
だから、自分が不満を口にするのはやはり間違っているのだ。ニーナは自分に言い聞かせるようにうなずく。
夕食の残りを無言で平らげ、ニーナは立ち上がった。
「私も、私のすべきことをします」
「そうだね。私も手伝うよ」
にこりとうなずき、ルイザも立ち上がった。
ニーナとルイザが向かったのは、皆が囲む焚き火とは別に、煮炊きのために用意された焚き火だった。
火の番をしながらビスケットを頬張っていた調理当番の騎士が、ニーナ達に気づいて軽く会釈を寄越してきた。
「ニーナ様、ちょうど沸いたところですよ」
「ありがとうございます」
笑顔でお礼を言い、ニーナは火の傍にしゃがみこんだ。
肩に掛けていた布袋の中から、小さな紙の包みを取り出す。中に入っているのはニーナが調合した薬草茶だ。
ニーナは夕食が始まる前に、調理当番の騎士に、二つの薬缶にいっぱいのお湯を沸かすよう頼んでおいたのだ。騎士達に薬草茶をふるまうためで、ニーナが遠征のたびに行っていることだ。
遠征で何度か顔を合わせたことのある丸顔の騎士は、何も説明せずともニーナの意図を汲んで快く引き受けてくれた。
「今回のは、どんな薬草茶なんですか?」
騎士は、ニーナが紙包みの中身を薬缶の中に入れるのを興味津々で見つめている。
「夜ですし、よく眠れる薬草茶を。ラヴァンドラという薬草のおかげで、きれいな紫色になるんですよ」
「あ、それ、いつかの遠征で頂いたことあります。ぐっすり眠れて疲れが取れた覚えがありますよ。いやぁ、ありがたいです」
騎士は嬉しそうに丸顔をほころばせる。
ニーナの薬草茶は、調合によって薬草そのものの効能を引き出すだけでなく、聖魔法による特別な効果を付与してある。今回用意した茶葉にも、疲労回復の効果を付与してあった。
遠征のたびにニーナがふるまう薬草茶は、疲れが取れて気力がみなぎると、騎士達からも歓迎されていた。
ニーナは頃合いを見て薬缶を火から下ろす。
薬缶の一つをルイザに渡し、希望する騎士達に注いで回ってくれるようお願いした。ルイザは頷き、皆の方に戻っていく。
ニーナは調理当番の騎士から未使用のカップを受け取り、もう一つの薬缶から薬草茶を三分の一ほど注いだ。濃い紫色のお茶から独特な香りが立つ。
続いてニーナは、その同じカップにお茶と同じくらいの量の白湯を注いだ。薬草茶は薄紫色になり、香りも穏やかになった。
ニーナは薬草茶の入った薬缶とカップを手に、焚き火を囲む騎士達の中心地――ウィルたちのもとへ足を向けた。
「クレイグ隊長」
声をかけると、談笑していたウィルとオリヴィアが揃って振り返った。
オリヴィアはその柳眉をかすかにしかめ、けれどその次の瞬間にはそれが幻であったかのように可憐な微笑みを浮かべる。
一方のウィルは、ニーナが手にするものに気づき、嬉しそうに立ち上がった。
「ニーナ様! お茶を用意してくださったんですね!」
そのきれいな顔には満面の笑みが浮かんでいて、ニーナはつい、大好物のおやつを前にはしゃぐ大型犬を連想してしまう。ぶんぶんと勢いよく揺れる尻尾の幻覚まで見えるようで、思わず頬がゆるむ。
「はい。よく眠れて疲れが取れる薬草茶を……」
「まあ、ニーナさん。いけませんわ」
薬草茶の入ったカップをウィルに差しだそうとしたニーナは、オリヴィアの言葉に動きを止めた。
オリヴィアは人形のように整った顔に憂いを乗せてニーナを見ている。その青い瞳の奥に非難と嘲りを感じ取り、ニーナは目を瞬いた。
「そのような薄い出涸らしのお茶をウィル様に差し上げるなんて、あんまりですわ」
「え、あの、これは出涸らしというわけでは……」
「ねえ、ウィル様」
説明しようとしたニーナの言葉を最後まで聞かず、オリヴィアは甘えるような顔で隣に立つウィルを見上げた。ウィルの腕に、白魚のような手がそっと重なる。
「わたくし、最高級の紅茶の茶葉を持参しておりますの。すぐに侍女に準備させますのでわたくしのテントで――」
「せっかくのお申し出ですが、遠慮します」
「え?」
きっぱりとしたウィルの断りの言葉に、オリヴィアは美しい笑顔のまま固まった。まさか拒否されるとは思っていなかったのだろう。
「紅茶は寝付きが悪くなるので、夜は飲まないことにしているのです」
「……まあ、そうでしたの。さすがはウィル様ですわ。しっかり自己管理されてらっしゃいますのね」
オリヴィアはゆっくりと目を瞬いてから、気を取り直したように再び美しい笑みを浮かべ、小首を傾げてウィルを見上げた。
「でしたら異国から取り寄せたハーブティーを……」
「それと、ニーナ様が用意してくださったのは出涸らしではありませんよ」
言いながらウィルは、やんわりとした手つきで、自身の腕に添えられたオリヴィアの手を外す。
「俺の好みに合わせて、わざわざ薄めの薬草茶を用意してくださったのです。そうですよね、ニーナ様?」
「え、あ、はい」
笑顔で同意を求められ、ニーナは反射的に頷く。オリヴィアの目がちらりとニーナに向けられた。わずかに眉根が寄っている。
ウィルはそれには気づかなかったらしく、うっとりと懐かしむような顔で続けた。
「初めてニーナ様に淹れて頂いた薬草茶は、まだ子どもだった俺にはものすごく苦くて飲みづらくて。それでも無理をして飲んでいたら、それを見たニーナ様が、わざわざ薄くて飲みやすいお茶を淹れ直してくださったんです。それ以来、ずっと俺の好みに合わせてくださってるんですよ」
ニーナが初めてウィルに特製の薬草茶を淹れたとき。それは十六年前、ニーナがクレイグ子爵家の屋敷に滞在したときのことだ。魔力酔いから回復した後、ニーナは世話になったせめてもの礼に、子爵家の人々に薬草茶をふるまったのである。
薬草茶を一口舐めて泣きそうな顔になったウィル少年や、薄く淹れ直したお茶を飲んで「これなら飲めます!」と嬉しそうに破顔したウィル少年が、ニーナの脳裏に鮮やかによみがえる。
あんな昔のことを覚えてくれていたのかと、ニーナの胸に驚きとともにじんわりと喜びがこみ上げてくる。
「まあ……ウィル様ったら、お噂どおり聖女に親切でいらっしゃいますのね。そのようにニーナさんにお気を遣われて……」
わずかに低い声音で言いながら、オリヴィアは取り出した扇子を開き口元を隠した。
「気を遣っているわけではありませんよ。俺はニーナ様の薬草茶をいつも本当に楽しみにしているんです。……あ、今日のはラヴァンドラのお茶ですね! 俺、好きなんです、これ。ニーナ様、ありがとうございます!」
嬉しそうなウィルの反応に、ニーナも口元をほころばせる。ウィルに話したことはないが、ニーナは遠征に持って行く薬草茶を選ぶとき、過去にウィルに好評だった調合のものを選んでいるのだ。
ウィルが蕩けるように目尻を下げ、ニーナから薬草茶のカップを受け取る。その拍子に、ほんの一瞬ウィルの指先がニーナの手の甲をかすめ、ニーナの心臓がドキリと跳ねた。
(な、な、なんですか私の心臓〜〜〜!? 落ち着いて……落ち着くのです……!)
かぁっと顔が熱くなる。動揺を紛らわせようとウィルから視線を外すと、じっとこちらを見つめるオリヴィアと目が合った。その目は笑みの形に細められているにもかかわらず、凍りつきそうなほど冷ややかな色を浮かべている。ニーナの頭がすぅっと冷えた。
ニーナは手に持った薬缶をおずおずと差し出す。
「あの、オリヴィア様もよろしければ……」
「わたくしは遠慮いたしますわ。飲み物にはこだわりがありますの。疲れたのでもう休みますわ。ウィル様、おやすみなさいませ」
ウィルに可憐に微笑んで見せ、オリヴィアはさっと踵を返す。侍女達とオリヴィアの護衛騎士が慌てた様子でそれに続いた。
作中に出てくるラヴァンドラはラベンダーのことです。