8 遊離体験
わたしは、アイレン先生から魔法の原理に関する授業を受けていた。呪文によって魔法がどのように発動するのか。先生は図を交えて説明してくれるのだが、先生の書く字が可愛すぎて集中できない。
「先生、時間を戻す呪文はないんですか? 入門書には載ってないですよね」
わたしが聞くと、先生はチョークを握る手を止めてこちらを見た。
「お主に渡したのは、あくまで入門用じゃからの」
「もしかして、もっと凄い呪文があったりするんですか?」
「原理的には、時間を止めるだけなら呪文でも可能じゃ」
にわかに胸が高鳴ってくる。
「それ、教えてもらうことはできますか」
先生は少し考える素振りを見せた後、空間から入門書と似た装丁の本を取り出した。
「入門書を卒業してから渡す予定の本じゃが、少しだけならよいか」
先生は、その本をわたしに差し出した。タイトルに「よく分かる呪文・中級編」とある。
「七十三頁を開けてみよ」
わたしは手が震えるのを抑えながら、頁をめくる。指定の頁には、呪文が一つだけ記されており、赤文字で注意書きがしてあった。
精神解放の呪文
メイズレワリピッツ ラシール レワオブディ
※この呪文の効果を得た後、呪文の詠唱が不可能となることに留意すべし
「精神解放の呪文って書いてありますけど」
「そうじゃ。肉体から精神を分離する。即ち、この物理世界の影響からも解放されるのじゃ」
「つまり……どういうことでしょう」
それが時間とどう繋がるのか、いまいちピンとこない。
「精神体のみの存在になるということは、向こうの世界に属することになるのじゃ。時間の概念がない世界にな」
何となく、分かった気がしたが、同時に不安を感じた。
「それって死ぬのとは違うんですか」
わたしが聞くと、先生はそっぽを向いて頬を掻いた。
「そこで黙らないでくださいよっ」
「万が一、精神が身体に戻れなくなった場合、しばらくの間は大丈夫じゃが、長くは持たんとだけ言っておこう」
「危なそうなので、やっぱりいいです」
わざわざ朱書きの注意事項まであるとなると、何が起こるか分からない。
「うむ、危険があるからこその『中級』なのじゃ。今のお主には少々早いのう」
先生は人差し指をちょいと曲げて、本を回収した。しかし、時間停止を体験できるチャンスではあった。先生が補助してくれるつもりだったのだろう。ちょっとだけ後ろ髪を引かれる。
「メイズレワリピッツ ラシール レワオブディ……」
「バカっ」
本当に何気なかった。鼻歌感覚で、つい呪文を口ずさんでしまっただけなのだ。
先生の叫ぶ声が聞こえた次の瞬間、静寂に包まれた。目の前で先生が口を開けたまま静止している。声をかけようとするが、声が出ない。背後にはわたしがいて、やはりその身体はピクリとも動かない。前とか後ろとかではなく、周囲の景色全体を同時に見ているような感覚がある。わたしは時が止まった世界にいた。
そそっかしいのは自他共に認めるわたしだが、ここまでやらかしてしまうとは。自分で自分が情けなくなった。何とかこの状況から脱する方法を考えなければ、このまま本物の霊体になってしまう。身体が無いので、呪文は唱えられないし、先生に助けを求めようにも、おそらく今の先生には、わたしが知覚できていない。自分の身体に入れるか試してみるしかない。
しかし、実体がない精神体では、自分がどこにいるのかもよく分からない。そればかりか、周りを探ろうとすればするほど、わたしの意識の中を、物凄い量の情報が通り過ぎていく。意識を保とうとするが、情報の洪水が、わたし自身を押し流してしまいそうだった。そのうち、わたしは自分と世界との境界が分からなくなり、そのまま意識を無くしてしまった。
風が頬を撫でる感覚で、わたしは目を覚ました。青空の中、薄雲がゆっくりと流れているのが見える。身体を起こして辺りを見回すと、そこは見覚えのある草原だった。どこまでも果てしなく続くライトグリーンの大地。前に一度見た、夢と現実の間にある場所だと、咄嗟に認識した。
わたしは自分の顔を触って確かめる。本物なのかは分からないが、自分の身体があるようだ。呪文を唱えて『歪み』から手鏡を取り出そうと思ったが、思い留まる。なぜか、先生がやっているように、手のひらを空間にかざすだけで、『歪み』を開ける確信があったからだ。取り出した手鏡で顔を映してみると、ちゃんと自分の顔が映っていた。呪文なしで魔法が使えるのなら、『扉』を開くことも容易そうだ。わたしはほっとしてその場に座り込んだ。
しばらく休んでいると、どこからか歌声が聞こえていることに気がついた。前に来たときにも聞いた、懐かしさを感じる声だ。わたしは引き寄せられるように、歌声が聞こえる方へ歩いていた。
透けるように白い肌の少女が、空に向かって歌っていた。少女はわたしに気づくと、首を傾げるようにして微笑んだ。
「また会えたね」
そう言って、少女は美しい碧色の瞳で見つめてくる。
「どこかでお会いしましたっけ」
少女はうなずくと、わたしの手を取って、小さな鈴を握らせた。少しピンクの混ざった銀色で、可愛らしいデザインだ。あの時に会った黒猫が付けていた物だ。この子があの黒猫の正体だろうか。
「その鈴を持っていれば、いつでもここに来れるから」
「それってどういう……」
わたしが聞こうとする間もなく、彼女は猫の姿になって、どこかへ去っていく。
「ちょっと待って」
「……待つのはお主じゃ」
不意に先生の声がして我に返る。目の前にアイレン先生がいて、呆れた顔で腕組みしていた。いつの間にか、元の世界に戻ってきていたらしい。
「お主、呪文を唱えたと思ったが、自力で戻ってきたのか?」
「それが、わたしにもよく分からなくて」
「まったく、ここまでそそっかしいとはのう。今度ばかりは助けられんかと思ったぞ」
「はい……不徳の致すところです」
「お主、何か握っておるのか?」
わたしがしょげ返っていると、先生がわたしの右手を見つめて聞いてきた。あの少女から貰った鈴が、右手の中から出てくる。
「先生、向こうの世界から物を持ち帰ったり出来るんですかね」
「その鈴が向こうの物だと申すのか」
先生は鈴を手に取ると、顔を近づけて食い入るように観察を始めた。あまりに真剣なので、声をかけづらい。
「これは……」
先生が唸るように声を漏らした。
「やっぱり特別な物ですか」
先生は顔を上げると、いつになく真剣な顔でわたしを見て、肩に手を置いてきた。
「この鈴、我にくれぬか」
「……だめです」
可愛いもの好きが発動したらしい先生は、検証はそっちのけで駄々をこねだした。
「良いではないか、減るもんじゃあるまいし」
「いやいや、わたしからしたら減ってますよね」
「よし、中級の呪文書と交換でどうじゃ」
「それはだめでしょう。見境なくなってますよっ」
その後、完全に子供と化した先生を落ち着かせるのに、しばらく時間がかかった。