4 呪文の訓練
わたしは夢で見た出来事を、先生たちに事細かに話した。鈴を付けた黒猫のことや、何もない草原の風景。話しながら、まるでその場に本当にいたかのように、精細に覚えていることに自分で驚いていた。
「あっちに生き物がいたと言うのじゃな? 確かか?」
「そう……だと思うんですが」
あの黒猫が生き物じゃないなら、化け物の類だろうか。そもそもあの空間とは何なのか。
「どう思う?」
先生がエスティガさんの顔を見た。
「この娘の事だから見間違えでは」
「違いますっ。間違いなく見た……可能性も無きにしもあらずですが」
「どっちだよ」
改めて聞かれると自信がなくなってしまう。
「あの場所は何なんですか?」
「魂が在るべき場所じゃ。俗に言うあの世じゃな」
急にオカルトじみた話になって背筋が寒くなる。
「じゃあ、あれは黒猫の幽霊……」
「幽霊はこっちで見るものだ。その理屈だと、お前も幽霊だった事になるだろ」
「向こうの世界は形が定まっておらぬ。見るものの認知でどんな姿にもなり得るのじゃ。その黒猫と出逢ったのが偶然か、それとも向こうからお主に干渉してきたのかは分からぬがな」
「あの世なら、亡くなった他の魂に出会うこともあるんじゃないですか?」
「向こうに場所や広さの概念はない。魂同士が向こうで接触するには、お互いの魂を認知する必要があるのじゃ」
また小難しい話になってきて、わたしは頭がこんがらがってくる。
「よいよい、無事に向こうを認知出来たなら、呪文が使えるようになったはずじゃ」
先生が空間から例の入門書を取り出して広げた。
「魔法の原理とは、向こう側からこちらの世界に干渉することなのじゃ。それを手っ取り早く実現する方法が呪文じゃ」
空中に浮かんだ本の頁がパラパラとめくられていく。
「そこのコップを指差して、星印が付いている呪文を唱えてみよ」
わたしの膝元に入門書が降りてくる。その頁にはいくつか呪文が並んでいて、それぞれ解説と印が併記してある。星の印がついている呪文の解説には「念動の呪文」とある。
『メイズテリマール フルー ジェンフィル』
言われた通りに呪文を唱えると、人差し指で指したコップがテーブルの上でガタガタ音を立て始めた。
「ゆっくり指の指す高さを水平まで上げるのじゃ」
わたしの人差し指の動きに連動して、コップがゆらゆらと空中に浮かび上がる。
「わ、これ、わたしがやってるんですよね」
「うむ、魔法の効果自体はお主の力ではないがの」
指を右に動かすと右動くといった具合で、コップがぴったりついてくる。
「そんな呪文もありましたね。もう忘れてましたよ」
エスティガさんが指を振ってピザを一枚すくい上げる。
「ほう、あれ程苦労してお主に叩き込んだ呪文を忘れたと申すか」
エスティガさんがピザをかじる瞬間を狙って先生が指を振った。赤い液体がその口に飛び込む。
「辛っ!」エスティガさんが叫んで、慌てて水をがぶ飲みしている。
「どうじゃ、特製五十倍チリソースの味は。忘れた呪文も思い出す刺激じゃろ」
「……逆に記憶がぶっ飛びそうでしたよ」
エスティガさんは魔法で作った氷で舌を冷やしながら呟いた。
「あの、これどうやって止めるんですか?」
一方で、わたしは指についてくるコップの扱いに困っていた。空中を飛び回るコップがエスティガさんの頭に衝突しそうになる。
「危ないなっ、指を握ればいいんだ」
コップを指していた人差し指を握ると、コップが意思を失ったように落下し、エスティガさんの手に収まった。
「結構難しいですね」
「簡易的に魔法を扱えるようになる反面、操作が難しいところがあるからの。まずは慣れるのじゃ。訓練を積んでいけば、そのうち、本物の魔法への道が見えてこよう」
何日かかけて基礎的な訓練を受けたわたしは、大樹の下で空を飛ぶ訓練を始めた。空を飛ぶ為に必要な呪文は二つ。自身を重力から開放する呪文と、空中で自身の姿勢を制御する呪文。
『デルケアスーア レワ ム ノクテック』
呪文を唱えると、わたしの両足が地面からゆっくりと離れる。
「よし、そのまま次の呪文だ」
『メイズリア フルー…』
エスティガさんに見守られながらそこまで唱えたところで、わたしは首を傾げた。
「次、何でしたっけ」
「俺に聞くか?」
エスティガさんが呆れる間もなく、突風に煽られてあらぬ方向へ飛ばされそうになる。エスティガさんがわたしの手を掴んでくれたので事なきを得る。
「面目ごさいません……」
「早く次を唱えろ。このままじゃ、糸の切れた風船だ」
片手を掴まれたままのわたしは、エスティガさんに入門書を開いてもらった。
『メイズリア フルー ミブルス』
四肢から風が吹き出し、わたしの体を持ち上げる。
「そのまま風向きをコントロールしろ」
「えっ、どうやるんですかっ」
手足から勢いよく風が吹き出し、ジェットエンジンのようになって、上空へ飛び上がっていってしまう。見かねたエスティガさんが魔法でその勢いを相殺してくれた。
「入門書に書いてあっただろう。気流の呪文は、指を握って強さをコントロール、手足の向きで方向調整だ」
「そんな器用なこと出来ませんよっ」
「とりあえず、全部の指を握れ」
言われるまま手足の指に力を込めると、吹き出す風が止まった。
「そのままでいろよ」
エスティガさんがゆっくり魔法の支えを緩めていく。わたしの体は空中に漂う状態となった。
「両足を揃えたまま、ゆっくり、足の指を開いていけ。少しずつ上昇を始めるから、膝を曲げながら体を横向きに調整するんだ」
口で言うのとやるのとでは勝手が違う。わたしは斜め四十五度の角度で勢いよく空に打ち上げられた。
「一回死んだと思いました……」
空高く打ち上げられて、もう一度あの世を垣間見たわたしは、エスティガさんに救助された。恐怖で足腰が立たず、芝生の上に座り込んだ。
「まあ、初めてにしては、上々じゃないか」
「上々とは」
「高度的な意味でな」
「殴りますよ」
この人は何かというと茶化すので、どこまで本気か分からない。
「なあに、つい最近まで素人だったお前が、あんなパワーを出せた訳だし、大したものだろう」
「それ、褒めてます?」
もはや言葉が薄っぺらい。というか、絶対バカにしている。
「空中飛行は二輪車の練習と同じさ。二輪車にいきなり乗れる奴なんてそうはいないだろ」
わたしが睨んでいると、エスティガさんがフォローを入れてきた。二輪車と言えば、子供の頃、父親と二輪車の練習をしていたことを思い出す。何度も転びそうになる度に、怪我をしないように父親が支えてくれていた。丸三日かかって、ようやく真っ直ぐ走れるようになった時、我が事のように喜び、よく頑張ったなと褒めてくれた。
感傷に浸っていると、エスティガさんがわたしの頭にポンと手を載せた。
「あまりそういう顔をするな。お前はドジをやって照れているぐらいで丁度いい」
「……なんで急にイケメンな事を言うんですか」
やっぱりこの人はよく分からない。わたしは平静を装いながら、そっぽを向いた。