1. 戻った記憶とシズクの決意
シズクは朝からうだるような暑さで目が覚めた。昨夜は雨が降っていたようで湿度が高く不快だ。髪の毛が汗で顔に貼りつき気持ちが悪い。シズクはシャワーを浴びようと起き上がった。
シズクには記憶がない。5年前は名前も何も覚えていなかった。今でも12,3歳のころの記憶までなら断片的に思い出すことができる程度だ。
5年前、この国は厄災に襲われた。軍は大きな犠牲を払い撃退に至ったという。
シズクは厄災の時、魔剣隊の第5部隊で副隊長補佐をしていたらしい。第5部隊、第6部隊はほぼ壊滅状態になったため、解体されたと聞いた。
シズクも厄災で負傷し、何かしらのショックで記憶を無くしたのだろうと医官から言われた。事実シズクの両腕には手の甲から肘にかけて、焼けただれたような跡が残っている。
シャワーを浴びて少しすっきりするが、妙な胸騒ぎがして落ち着かない。肩にかかる長さの暗いブルーアッシュの髪を乾かし後ろでまとめる。
まだ時間は早かったが部屋にいても落ち着かないため、シズクは医務室に向かった。シズクが働いている、救護院の軍属救護班の医務室だ。
救護院とは元々軍の救護隊が成り立ちで、国の医療レベルを上げる目的で国立の医療機関として設立された。
シズクは記憶を無くして目覚めた時から、救護院の世話になっていた。リハビリの一環で魔力制御の練習をしていたところ、筋が良いので治癒師の試験を受けるよう勧められ合格した。身体が回復してからは治癒師としてそのまま働かせて貰っている。
何度かシズクのことを知っている魔剣隊の人達と会い、戻ってくるかと聞かれたが、記憶が無いのに戻る気になれなかったのもある。
「おはよう、シズク。早いのね」
「エマ、おはよう。何だか早く目が覚めちゃって」
「顔色があまり良くないわ。少し寝た方がいいんじゃないかしら」
「大丈夫。それに全然寝られる気がしないから」
緩やかなウェーブのかかった金髪をシニヨンにし白衣を着た、軍では珍しい女性医師である。著名な医師や研究者を輩出している一族であるプロムニッツ伯爵家の御令嬢だ。
シズクはエマが研修医の頃から親しくしていた。今ではシズクの主治医であるが、気のおけない親友でもある。
「そう。でも無理はしないのよ」
わかってると言ってシズクは頷いた。
昼を過ぎてもどんよりとした厚い雲が空を覆っていた。
空調の効いた医務室に戻ってきたシズクは外のじっとりとした空気から解放されてほっと一息つく。
ガヤガヤと廊下から騒がしい音が近付いてきた。
訓練中の剣技隊員が熱中症で倒れて運ばれてきたようだ。
「エマ、氷持ってきたよ」
「ありがとう。意識はあるけれど熱疲労の状態だわ。点滴の用意をお願い」
すぐにシズクが氷嚢を作って持っていくと、エマが手早く患者の首や両脇を冷やしながら指示を出す。
エマによる処置が終わったところで、シズクは手をかざして治癒魔術を始めた。
治癒魔術といっても患者の自己治癒力や免疫力を高めて治りを早くするといったものだ。また、治癒師の技量や患者の魔力量によって効果は様々である。シズクは浅い切り傷であればすぐに治せる中レベルの治癒師である。
3時間ほどして隊員はだいぶ回復したようで、エマが今日は経口補水液をしっかり飲んで安静にするように言って見送る。
外は相変わらずの曇天だが、たまに雲の切れ目から陽が差すようになってきた。外はまだじめじめしていて暑い。
「今日はこれで終わりかなあ」
「そういう事言ってると、緊急案件が入ってくるわよ」
シズクがのほほんと呟くと、エマが軽口を叩いた。
すると警報音が医務室に鳴り響く。緊急案件だ。他の医師が通信機を取ると魔物に襲われ複数人怪我をしているという。
シズクとエマは顔を見合わせ肩を竦めると、気持ちを切り替えすぐに荷物を持って飛び出して行った。
現場に急行すると数名の医師や治癒師が簡易治療所のテントを設営し始めた。
エマは怪我人の負傷度合いを見て治療のレベルを判断し、治癒師や搬送班に指示を出す。重傷者はすぐに救護院に運ばれ、軽傷者は簡易治療所で応急処置をされる。
シズクは簡易治療所で魔力治癒を行いながらも周りを鋭く観察していた。先程から何か嫌な気配を感じる。
魔物は魔剣隊が既に討伐した後で、魔術隊が魔物の発生場所について調査を始めたところだった。
シズクは考え過ぎだろうかと思い直す。
西の空はピンク色に染まった薄い雲が所々浮かんでおり、真っ赤な太陽は地平線に沈もうとしていた。この季節は夕暮れの時間が長い。
シズクは夕焼けが苦手だった。訳もなく押し潰されそうな苦しみや悲しみが襲ってくるのだ。
シズクはしばらく治癒魔術に集中していたが、嫌な気配が強くなりバッと立ち上がる。同時に悲鳴が聞こえシズクは走り出した。2メートルほどの黒い塊が動いているのがみえる。魔物が発生したのだ。
魔物が迫ってきている場所にはまだ怪我人がいる。
シズクの視界の中にエマがいるのが見えた。
魔術隊が応戦しようと陣営を組み始めるが、魔物は猛烈なスピードで近づいている。
魔物までの距離は10メートル先。
シズクはふと、怪我をして座り込んでいる隊員が魔剣を持っていることに目を留めた。
半分ほど沈んだ太陽の不気味なほどに赤い夕焼けに照らされる。
その瞬間、シズクは無意識に座り込んでいた隊員から魔剣を奪うように取ると魔物の前に飛び出した。
「シズク⁉︎ 危ないわよ!」
エマが叫ぶ声が聞こえた気がしたが、シズクの目にはもう迫りくる魔物しか映っていない。
シズクは手に魔力を込めて詠唱する。
「トラゲアイヌフランメ」
シズクは魔剣に炎を纏い魔物に斬りかかる。
そのまま魔剣を振り下ろし今度は横に一閃。炎が魔物を焼き尽くし、そのまま燃え尽きた。
その間、シズクの頭の中には無くした記憶の映像がフラッシュバックして蘇っていた。急激な情報量に激しい頭痛と目眩が襲ってきた。シズクはその場にうずくまる。
「シズク! 大丈夫⁈」
「う……エマ、無事で良かった」
「ええ、この通り大丈夫よ。
それよりもシズク、顔色が真っ青よ。すぐに簡易テントにーー」
「記憶が、戻ったの」
シズクに肩を貸そうとかがもうとしていたエマがはっとして息を呑んだ。
「あ、でも……腕が、痛い」
先程から両腕に熱を持った鈍い痛みを感じていた。
我に返ったエマにすぐ冷やすように言われ、簡易テントに戻った。
氷水の入った桶に腕を浸したところで、自分の手が震えていることに気付いた。
あの日もこんな夕焼け空だった。
「いや、違う……もっと、闇の中にある赤だった……」
目の前がどす黒い赤に染まったような錯覚に襲われる。
シズクが記憶に飲み込まれそうになったとき、後ろから声をかけられた。
「アラニシ殿、失礼する」
魔剣隊第4部隊の隊長と副隊長だった。
シズクは思い出した記憶の中にある、額に傷のある厳つい顔を見て咄嗟に謝罪する。
「ハーシェル隊長。ご迷惑をおかけしました」
ハーシェルは驚愕に目を見開いた。
「私のことを覚えているのか⁈」
「はい。先程、思い出しました。全て」
「そうか。それは……あまり無理はするなよ」
「ありがとうございます。ですが大丈夫です」
ハーシェルは心配そうな面持ちでシズクを気遣うが、シズクは軽く微笑んで見せた。そして、ハーシェルの横にいた副隊長の方に目を向け言う。
「リアンも、心配をかけた」
「いえ。……その、安心しました」
リアンは言葉を探すように口籠っていたが、結局見つからなかったのか無難な言葉を口にした。シズクの記憶が戻ってもそれが良い記憶でないことをわかっているからだろう。
リアン・フォーサイスは5年前までシズクと同じ第5部隊の所属だったのだ。
重苦しい雰囲気が漂った瞬間、ハーシェルは思い出したように言う。
「先程、魔物を倒したのは君だと聞いてな。礼を言う。我々の隊の討伐洩れの可能性がある。すまなかった」
「いえ。こちらこそ勝手に魔剣を使ったので、すみませんでした」
「いや、魔剣の所有資格があるから問題ないだろう。そういえば君の魔剣は部隊長が預かっていると聞いた。帯剣したいのであれば伝えておくが」
シズクはハーシェルの言葉の意味に思い至り返答に躊躇した。魔剣隊に戻るのかを言外に示しているのだ。
「……少し考えさせて下さい」
「そうだな。どちらにせよ今回のことを報告したら、部隊長から君に連絡が行くことになる。どうする?」
記憶が戻ったことを報告するかシズクに委ねてくれているのだろう。
しかし、シズクはしっかりと頷いて言った。
「私は大丈夫です。そのまま報告をして下さい」
ハーシェルは了解したと言って出て行く。リアンもシズクに会釈をしてハーシェル隊について行った。
シズクは2人を黙って見送った。
怪我人の処置がある程度終わったところで、もう一度エマに腕を診てもらった。
急激に魔力を使ったことによって反動がきているのだろうという見立てだった。
「頭痛や目眩は大丈夫なの?」
「もう落ち着いたよ」
「全部、思い出したのね」
「うん。エマも今までありがとう。これからもよろしく」
「シズクの主治医だもの。当然よ」
ずっと心配気な表情をしていたエマはにっこりと微笑んだ。
次の日は大事を取って仕事は休みになった。
シズクはベッドに寝転がったまま記憶を整理する。
10歳まで隣国で暮らしていたが、母が亡くなり大伯父を頼ってこの国に来た。大伯父はこの国の前魔術院長であり、シズクもその血を受継ぎ魔術が得意だったため、そのまま軍の魔術隊に入隊した。大伯父亡き後は魔剣隊から引き抜きがあり転属した。
当時の第5部隊のカウンティ隊長から副隊長補佐として引き抜かれたのだ。
魔剣隊の各部隊構成は隊長1名、副隊長2名または副隊長1名+副隊長補佐1名、平隊員20名程度である。
副隊長になる為には全隊長の承認が必要であるが、副隊長が1名の場合はその隊の隊長権限で副隊長補佐が指名できる。
通常は次期副隊長が指名されるため、わずか13歳でその座についたシズクには反感が多かった。
あの頃はまだ子供で負けん気が強かったこともあり、売られた喧嘩を買ってはすぐ返り討ちにしていた。おかげで実力が認められ、無事に仲間として受け入れてもらえたが。
その仲間たちを厄災で半数以上失った。隊長も、副隊長も。
シズクは目を瞑って拳を握り込んだ。
涙は全く出ない。悲しみよりも憎しみや悔しさが強い。
次に目を開いた時、シズクのブルーアッシュの瞳には強い光が浮かんでいた。
記憶が戻って1週間経った頃、医務室で休憩をしていると、魔剣隊からシズクに客が来ていると言われた。遂に来たかと覚悟を決めて行ってみると、懐かしい顔がいた。魔剣隊第3部隊の副隊長グルーバーだった。彼は旧第6部隊の副隊長でもあった。
グルーバーはシズクを見ると立ち上がり、目尻の笑い皺を深くした笑顔で迎えてくれた。シズクより頭ふたつ分背が高く恰幅の良い体は威圧感があるが、柔和な顔により穏やかな雰囲気を感じさせる。
「グルーバー隊長! お久しぶりです」
「シズク嬢、元気そうでよかった。すっかり大人の女性になったな。私も歳を取るわけだ」
部隊長が来ると思い構えていたシズクはかなりほっとし安心したような笑顔になる。
「おじさんみたいなこと言わないでくださいよ」
グルーバーから挨拶もそこそこに要件を伝えられた。
「近いうちに国軍元帥から呼び出しがあり、魔剣隊への復帰を打診されるだろう。5年前の厄災はあくまで撃退しただけであり、殲滅ではなかった。魔術院の調査では5,6年以内に厄災が再度発生する可能性が高いという。
君の力を貸して欲しいというお願いだ。だが、わかっているとは思うが元帥に呼び出されたら断る事が難しいだろう。断るのなら今のうちだ」
グルーバーは気遣わしげに無理することはないと言ってシズクの返答を待った。
じっと話を聞いていたシズクはそれほど間を空けずに口を開いた。
「お受けします。殲滅できなかったのは私が1番悔やんでいることです。私は犠牲になったみんなの仇を取りたい」
言いながらシズクは自分の両手を強く握った。
「わかった。上にはそのように伝えておく」
グルーバーはゆっくりと頷くと、一旦間を空けて言いづらそうに続けた。
「それから5年前の話だが、君が禁術を使ったことについては、非常事態だったということで処罰はない。この件に関しては箝口令が敷かれているから、知っている者もごく僅かだ。しかし、魔術院からは調査協力があるはずだ。君には酷なことかもしれないが……」
「いえ、調査協力は当然の義務ですので大丈夫です」
シズクは毅然とした態度で受け入れる。とうに覚悟はできていた。
「何かあったら私のところに相談に来なさい。出来るだけ力になろう」
「ありがとうございます」
シズクを気遣うグルーバーにシズクは深く頭を下げて感謝した。
数日後、魔術院からの調査協力があったが、グルーバーが心配していたよりもあっさりと終わった。調査員が、シズクと顔見知りで当時現場にも居合わせていたということもあるだろう。その時の様子を詳細に語ることはなかった。
そして2週間後、遂に元帥から呼び出しがあった。
「失礼致します。アラニシです」
シズクは緊張しながら部屋に入る。
執務机の椅子に座った元帥と傍に立つ部隊長がいた。
元帥と顔を合わせるのは魔剣隊に移動してきた以来である。相変わらず美しい端正な顔立ちに冷たい微笑みを浮かべている。
シズクは自然と背筋が伸びる。元帥の前に立ち敬礼する。
「元帥閣下。お呼びと伺い参りました」
「呼び立ててすまないな。
まずは5年前のこと、自らの命をかけこの国を守った第5部隊を誇りに思う。厄災を撃退したアラニシ殿の功績を称えよう」
「……勿体無いお言葉です」
シズクは元帥の言葉の重さを噛み締める。自分ひとりで撃退出来たわけではないが、犠牲になった仲間の分も元帥の言葉を受け取った。
「さて、アラニシ殿の魔剣隊への復帰についてだが、貴殿には第5部隊を隊長として率いて欲しい」
まさかとシズクは目を見開いて元帥を見る。グルーバーは復帰の打診と言っていたが、グルーバーがシズクの返事を持ち帰った後、シズクを隊長として復帰させる案が上がったらしい。シズクが考えるよりも事態は動いていたようだ。
元帥の話をまとめると、厄災の再発までに遅くとも2年以内に魔剣隊の体制を整えたい。そのために第5部隊、第6部隊を復活させる。
第5部隊の隊長としてリアン・フォーサイスを候補に挙げていたが、本人はシズクの隊長就任を望んでいるという。
軍の規定では隊長昇格のためには副隊長を1年以上は勤めなければならないので、第6部隊を先に復活させ副隊長として1年務め、その後第5部隊復活と同時に隊長就任とする。
シズクは黙って聞いていたが、その間に覚悟は決まっていた。
「承知しました。ただし、復帰するまでに3ヶ月、魔剣の訓練をする時間を頂きたく存じます」
「いいだろう。ブランクが長い分、勘を取り戻す時間が必要だろう」
シズクはひっそりと深呼吸をしてから続ける。
「もう一つ。厄災を殲滅した暁には隊長職を退任させて頂きたいです」
「何か理由でも?」
「……」
元帥は怪訝そうな顔をしてシズクを見た。シズクは元帥の目を見たまま口を閉ざした。理由を話す気は無かった。
「まあ、いい。それは内々の話として心に留めておこう」
元帥はシズクが沈黙を貫こうとしているのを察すると話を切り上げ、部隊長に合図する。部隊長はシズクの前まで来ると一振りの魔剣をシズクに差し出した。
「魔剣を君に託そう。期待しているぞ、アラニシ殿」
「はい。身命を賭して民を守ることを誓います」
シズクは魔剣を両手で恭しく受け取り、魔剣隊に入隊する時に誰もが宣誓する言葉を述べた。