ブーゲンビリアの引鉄
カーキ色のホテルは中米グアテマラの山際にある。スペイン瓦の庇の陰影と、少しくすんだ肌のような壁が、萎びているが優しさにあふれていた。建物の内側にはパティオがあり、そのホテルレオンの二階の部屋が上坂健一の常宿である。その部屋の押し出し窓枠一杯に青緑色の海が迫ってくる。ホテルは物静かというか、人の話し声や足音は聞こえない。ホテルは、車がやっとすれ違いできるほどの、橙色の二メートル幅の歩道の付いたレンガ道に面していた。レンガの道に面して、黒ずんで如何にも古めかしいが、親しみのこもったアーチ型葡萄モチーフのロートアイアンの門を潜ると、静寂に満ち溢れた仲庭がある。聞き耳を立てると、微かに噴水から水が流れ落ちる音が鼓膜を揺する。
その仲庭には、まさしく燦々と中米特有の匂いを含んだ陽光が注がれている。日本と比べたら上坂健一にとっては別世界である。異国の世界に溢れた大地には、パパイヤ、メロン、マンゴーなどが豊富にある。空気は果物の花の香りや、南国の真紅は透き通る青のブーゲンビリヤの香りを一杯に含んでいた。そんな大地に浮かぶホテルはスパニッシュリヴァイバル様式で、屋根はスペイン瓦の赤味がかったレンガ色である。建物の壁は少しクリーム色が入った暖かな感じの乳白である。客室に面して回廊がある。ブーゲンビリアが咲いてる仲庭に面した側はコロニアル風の支柱が優雅に並んでいた。植民地時代の中米の建物の懐に健一は包まれて、生きるということ、過去の凄惨な現場を何度も何度も思い出すのであった。彼の背格好は肩幅が広く日本人としては背が高く、孤高のイメージを醸し出していた。雁高は高く聳えるようで瞳は長いまつ毛に囲まれていた。頬はいくらかこけていたが、不精髭が目立たなくしていた。髪は長めにカットして耳たぶの裾がわずかに出ていた。
ベッドには十歳ほどのインディオ系の男の子が寝ている。女はチーノと呼んでいる。女に中米の戦乱で必死でしがみついていた少年だ。
戦場を走り続けた女。足にまとわりつく幼い子供の顏には、銃創の痕が左頬に横にはしる。小さな手で必死に若い女性兵士にしがみつくのだった。幼子は痩せていた。碌なものを食べずに銃弾やら迫撃砲弾行き交う戦場を生き延びて来たようだ。足にしがみつき見上げて女の瞳に精一杯助けを求めていた。服は裂けて汚れ、顔は汚れて浅黒く、目だけが煌々と輝いていた。
女はしゃがんで幼子の瞳を覗き込んで頷いた。食料袋から缶詰を開けて食べさせた。
「そんなガキを拾ってどうするんだ。どっちみち死ぬ運命なんだ」
仲間の兵士が吐き捨てるように女に言った。女性兵士はその兵士を睨みつけた。もう一度言ったら回し蹴りを浴びせるところだった。足手まといになるのは分かっていたが、自分の分身のような気がした。家族と別れ一人ぼっちになった自分を見てるようだった。
「いや、死なせやしない」
「バカな女だ。後で後悔するぞ!」
「バカでもかまわないわ!私は連れて行きます」
「そうかい、わかった勝手にしろ!」
健一はゆっくりとステップを踏んで、時折、女の表情を見ていた。
「肉体が際限もなく、永遠に広がっていく!無限だ!夢の世界だ!」
外面の肉体の寸法はわかっていた。肩幅や身長に腰の厚み、臀の深みや腿の直径も知っている。計ったわけではないが目測である。健一は空間設計や家具づくりが趣味である。空間や物の寸法は一見したら、おおよそ掴めるのだった。今は精神の空間でのものだ。手首から女の意志と関係なく血の脈流が男の筋肉に伝わるのだ。夢ではなく現実であるが、男には夢と現実との境目がなかった。
「誰の肉体なの?」
「お前の肉体だから俺は言えるんだ。何か無限に広がって行くんだ。血液が自由奔放にあふれ出るように肉体の隅々に、いや、この空間になんだ」
「そんなことないじゃない。だって、私の体はいまここにあるだけなのよ。ガンホルダーに潜んでいるメタルのことなの?」
「いや、違う。生きているものだ。お前の肉体はどんどん広がり、俺の世界を超えていくんだ。お前は確かに鍛えられた筋肉に包まれている。その脈動は俺に伝わり、レイナにも伝わらなければならなかった」
男は唇を震わせて唸っていたが、喚いているわけでなく己に言い聞かせていた。微かな優しい視線を、女の襟筋のウエーブのかかった産毛に流した。三つ編みの細い肩ひもに吊るされた、シルクのキャミが胸の突起で張り裂けそうになっていた。スパニッシュ様式の建物には似つかわしくない、ナット・キング・コールの『too young』が板の間を這って皮膚の表面を伝わる。 女のキャミに隠れた右の腰から腿にかけて、ガンフォルダーが巻き付いて髪にはブーゲンビリアの花が飾ってある。男はそんな得体の知れない体を抱いて踊っていた。
「どうしたの?休むの?」
と、女は上半身を逸らし、顔を傾けて、動きを止めずに健一に尋ねた。
青緑色の海を瞳の奥深く湛えながら健一を見詰めていた。女の肉体は波のように寄せてきて、腿から下腹部、ウエストそして胸と一瞬に一体となり、潮が引くように健一の肉体を別の世界の彼方に運ぶように剥がしてゆく。剥がされても健一の精神はここに残っているのだった。
健一が日本を飛び出してきて月日が何回まわっただろう。夕日は北北西に沈みながら囁くのであった。『真西に沈んでいたのに、今は北に近いの。だから、あなたも半年の年齢が重なったのね』。人に言われぬ訳があってこの地に来た。ひたすらに日本人の少ないところに来たかった。倉田タツヒトとコンタクトするにはこのオテルが便利であった。中南米から米国に上がっていくにはこの道を通る。バックパッカーや米国の学生、それに売春婦も常宿にしている。旅行者仲間の情報が集まりお互いに旅行先の女や知人を紹介しあったりするオテルだった。仲庭の三段重ねの噴水は白くキラキラと陽光を乱反射している。噴水の上にはパイナップルやマンゴーが一杯に積まれ、噴水を浴びていた。その冷えた果物を、黒髪でスペイン人とインディオの混血の焦げ茶肌の可愛いホテルスタッフが無料で客室に配ってくれる。
「ねえ、どうしたの、日本でのことを思い出したのね」
健一はちらっと女の顏を見て、
「お前、俺が何を故郷でやったのか知っているのか?」
「馬鹿言わないで、知るわけないでしょ!この街で初めて知り合った仲じゃないの」
「極々普通にというか、外国に出てみたかったということで抜け出した」
「ここら辺でふらつく日本人はみなそうよ」
「そうか……」
本心はこの女にも言えない。どうせ名前を聞いても偽りの名前しか言わない。グラスの淵に岩塩をぬり、メキシコ産のテキーラを小さなグラスに注いで女に渡した。右利きの女は左手で受け取り一気に飲み干した。カーッと熱い液体が喉を駆け下り胃に広がる。顔を傾げて眉間に皺を寄せたが、健一にグラスを突き出して、もう一杯注げという仕草でグラスを傾けた。女は右手はブラブラさせていつでも右太もものメタルを抜ける格好をしていた。
窓枠から打ち寄せる太平洋の波頭を、見るともなしに眺めながら呟いた。
面倒くさそうに微かに言葉が口からもれた。
「あたしにわかるかって?分らないわ。あたしに分かるのは相手が引鉄を引くかどうかよ」
「何て説明すればいいのか、俺には分らないんだ」
女の素性を健一は知らない。危険な女かもしれないが深みのある瞳に惹かれるものがあった。スパニッシュ系の風貌であった。その女と最初に出会ったのはグアテマラ市の郊外の古びた、そして、薄汚れたような家の壁が並んだ通りなのだ。それは坂の中腹で、たいして広くない四人がやっとすれ違いできるほどの歩道である。その女は牛革のカウボーイハットを被り、バストまでの髪はブーゲンビリアの花を付け、ランダムに亜麻色とキタキツネ色が混ざっていた。坂下からのぬるま湯のような風が、警戒しながら歩く女の髪を泳がせていた。
健一は女が米軍の秘密諜報員か、特殊部隊レンジャーに似ているなと感じた。こいつはメタル人間かもしれない。メタル人間といってもロボットではない。 どんなメタルで出来ているのか?思考は人間と同じようにできているが、金属のようなハートを持ち血液は流れているが、冷却された肉体を持っていた。ガン捌きが早く、過去に何人もの敵を抹消してきた女のようだ。精神は機械のように冷たく歯車のようだ。それでも、表情や言葉には温かみがある。ダンスの肉体でもいつでも身体は柔らかく包み込んでくる。
「お前には取換え部品があるのか?」
そう言うと女は笑ってガンを瞬時に抜き、豹のような素早さで引鉄を引く。
「自分が取替部品ならどれだけ長持ちするのかを、知っているはずだが知らないの」
「それじゃ~何時までそのガンと行動を共にするの?」
「取換えが効かない唯一の部品、それが私なのよ。だから、いつまでもこのガンは私と行動を共にするの」
そう言って、笑いを浮かべながら、銃口にキスをするのだった。
「能力が劣る部品となれば不要ね。しかし、そうはならないわ。あなたは私のことを血も涙もない殺し屋とでも」
「いや、そんなこと爪の先ほども思っていないのはお前も知っているね。しかし、俺にはお前が何の為に生きているのか知りたいんだ」
「そんなこと知ってどうするの?ただ、ここにいてあなたの生きる証を見てみたいの」
「俺の~?そんなこと知ってどうするの」
「あなたに向かって引鉄が引けるかな?と考えたのよ」
そう言うと、キャミの下のガンを瞬時に抜き、健一に向かってガンが火を噴いた。銃声が聞こえた時には銃弾は彼の肩越しに飛び、窓の右隅の拳銃を握った男の顔面を貫いていた。
「ギャーッ」
ドサッと砂浜に倒れる音が聞こえた時には女は、健一の足を払っていた。油断していた彼は板の間に横倒しになっていた。既に女は一回転しながらドア横の壁に身を隠し、廊下からドアをけり倒し、侵入してきた殺し屋を床に転がりながら引鉄を二度引いた。太腿と拳銃を持った腕を撃ち抜かれた男は「ワッー」と言いながら銃を離し転がり倒れた。仰向けに倒れた男の両腕を膝で押さえ馬乗りになって銃口を殺し屋の顎にねじ込ませた。
「誰に頼まれたか言いな!」
女は何事もなかったように優しく微笑みながら言った。その態度が殺し屋にとっては恐怖をつのらせた。いつ引鉄を引くかわからない女と感じていた。
「ウウウーッ」
痛みのために声がでない。女がなおも銃口を捻じ込むと、
「苦し紛れにアルフォンソ大尉だ」
女に促されて殺し屋は這いずって窓から砂浜に転げ落ちた。それに向かって銃口は火を噴いた。女も窓から砂浜に飛び降りると死体を海の中に引きずって行った。
「巧いこと流されるかな?」
ベッド下からチーノと健一が出てきた。健一が呟いた。女がチーノも戦場で助けてから三年になる。すっかりハンサムな少年になった。
「今は引き潮だから沖合に流されサメの餌食だろね」
謎に包まれた澄ました顔をして女は微笑んで言った。健一はこの謎の女は二重人格と思ったがそのことは億尾にもださない。
上坂健一は日本でのことを辿っていたのだった。あの夕陽に覆われた町を思いだしていた。素直に女の問いかけに答えづらかった。
健一が、川の簗場の修理をしていたところに、転がるように向日葵の大きく咲いたワンピースにセーターを着た、妹の彩愛が、素足のままで転がるように土手を駆け下りて来た。
「彩っーしみるのに靴もはかずにどうした」
彩愛は震えて言葉がでない。一生懸命に健一に伝えようと、もがけばもがくほど顎がアグアグしてはっきりした声が出ない。咄嗟に健一は簗場の修理道具を発哺り出して、土手を駆け上がった。畑越しに藁葺屋根の入母屋の粗末な家が震えていた。
「彩っ、そこで待っとき!兄ちゃんはすぐ戻るから」
畦道を通らずに畑の真ん中を突っ切って、障子が半開きの縁側から家の中に飛び込んだ。
襖は無残に蹴り倒されて、骨は木っ端微塵になっていた。畳には血のりがべっとりとして健一の足裏に糊のように付いてきた。
「おとうっー」
「おとうっー」
町会議員の正義感の強い父親を揺するがすでに反応はなかった。
「おかん!どこにいるんだ!」
微かにうめく声がする水屋に転がり込んでいく。すると竈の隅で、おかんが血まみれで
「あぁー健ちゃん!」
「おかん!こ、こんなこと誰がやったんだ!」
母親は思案していたが、いき絶え絶えに微かに言った。
「ぼ、牡丹組の連中が切り込んできた!」
「何というやつだ!」
母親はぜいぜい息を吐きながら苦しそうに健一の耳元に呟いた。
「おかん、しっかりしろ!すぐ医者を呼ぶから」
「仲間が山西と言ってたわ!もう無理よ!彩を連れて裏山から千葉県の成田市に逃げなさい。お前も小さいときに会った倉田の姉さんが今、用事でアメリカから帰っている。アメリカの伝手はきっとあるから、電話台の引出しに住所録とお金があるからね」
牡丹組のことはおとうから聞いていた。千曲川の支流のダム工事の土建工事の利権に牡丹組が絡んでいた。それを阻止して競争入札で業者を決めるべきと父親が譲らなかった。
「おかんしっかりしろ!」
「彩も連れて行きなさい!背が高く、左目の横に大きなホクロがあった……」
そう言って、健一の腕の中で動かなくなった。隣村の叔父の倉田洋平に事情を話すと、「後の事は俺たちにまかしてくれ」
「すまないおじさん」
「水臭いぞ!チビの時からの面倒見た仲だ!遠慮するな!ちょっと待て!これを持って行け」
叔父は家の押入れの中に隠してある金庫から、隠してあった現ナマをかき集めて健一の手に握らせた。
「絶対に死ぬんじゃねえぞ!頭使ってな、証拠を残さないでやるんだ」
「分かったオジキ」
「いいか慌てるな!何年かかってもいい。世界に行けばいろんなものがある。成田の姉はアメリカ滞在が長い。大学や院で医学や生物研究していた。きっとお前に役立つ人物を紹介してくれる」
「ありがとう。オジキ」
健一の眼光鋭い瞳からあふれるように涙が頬から流れ落ちた。
「健一、姉は真面目で正義感が強い!」
そう言って、叔父の倉田洋平は力一杯健一を抱きしめた。
健一は後を叔父に頼んで故郷を後にした。峠から町を見下ろし、きっと敵を討ちに来るからな、そう胸に誓って彩愛を連れて失踪した。アメリカに渡ると倉田の叔母に彩愛を預けて、南米に向かったのであった。
「私は歯車ではないのよ、ちゃんとした血も涙もある人間よ。私だってちゃんと人をあいすることもできるのよ」
「はっはっはー、それなら確かに女として価値があるのかな?」
「何で笑うのよ!家族愛はもっと強いのよ。それより、これだけは忘れないで!相手より百分の一秒でも早く撃つのよ」
ガンフォルダーから抜いてベレッタM92をグリップ側から健一に渡した。彼も触った経験があった。
「使い方はわかってるでしょ。米軍で採用の拳銃よ、どうして米軍が利用しているかって」
「一言ならね、信頼ってことかしら。だってジャムしたら自分が死ぬことになるんだから。確実に弾が飛び出すってことね」
「ジャムパンのことかいな」
「そんなストロベリーみたいな、あまっちょろいもんじゃないのよ。でもね、大事なことは相手が何をするか、何をするために来て目の前にいるのかを見極めることね」
「そんなこと俺にできないね、ときにきっと先に相手の弾が飛んできちゃうな」
「どんな風体で殺し屋が来るのかを見極めるのね。それと立つ位置が大事よ」
「夕陽を背にして立つわけだ。宮本武蔵みたいにか?」
「そんなんじゃ、殺されてしまうわ!」
「気の散らない場所に立つのよ。神経が他に行っていると引鉄の引くタイミングが遅くなるの、だから精神が集中できるところよ」
健一は安全フックを外して部屋の中を回って練習をしてみた。
「それよりなんでこんな中米の町にきたの」
「なぜ日本に居られなくなったのかって?」
「……」
「どうして、こんな辺鄙な町に来たのよ」
「ここに、なぜきたのかって?ある人物に会うためさ」
「それビジネスなの?ただの友達をこんなところでは……」
「そうだ!お前が考えているとおりだ。ときにそいつと相談しなきゃこれから先は生きる気力は失せてしまうんだ」
「それどんな男なの。私が惚れるナイスガイかしら?」
「まあね、間違いないね」
二人は笑いあって抱き合った。
「さっき、家族が大事だって言ったね」
「ええそうよ」
「どんな家族なんだ」
「……」
「言いたくなかったら言わなくていいよ」
もし、この時ほんとのことをジーナが話していたら、彼女がグスマン家のアナ・グスマン姉妹と知ったに違いなかった。二人は共通の敵を探していることに気が付いたことだろう。姉のアナ・グスマンはその敵のために米軍のレンジャー部隊に入隊したのだ。
健一もほんとのことを女には言えない。だから答えようがなかった。銃は護身用として持つことにした。女は健一の銃を見ながら、
「私に向かって撃ってみて弾は入ってないのよ」
健一はここで待っている男がいた。倉田の姉さんの紹介で倉田洋平の甥のタツヒトであった。倉田タツヒトは爬虫両生類の研究で毒についての博士号をとっていた。
どうしても手に入れるのはあのコスタリカの森の中にいる毒ガエルの猛毒液だ。コブラの十倍の毒性で神経系統を破壊される。神経毒は一瞬のうちに体内に廻り神経系を犯される コバルトヤ毒ガエル中南米熱帯雨林に生息している。美しく色鮮やかなカエルにして、毒はアルカロイド系神経毒で猛毒中の猛毒バドラコトキシンが含まれている。この神経毒を原住民が猛毒吹き矢に塗り部族間の抗争に利用し、また、動物狩りにも使われている。毒ガエルは皮膚の色は赤、青、黄色やまだら模様などの種類がある。その背中の毒線から猛毒を出す。
倉田洋平の甥にあたる昆虫が趣味の倉田タツヒトに入手を頼んであるけどまだいい返事はない。水辺に生息していると原住民は言うが危険なところだ。毒蛇やアナコンダもいるところだ。タツヒトは原住民に案内してもらい探し回った。現在は原住民も殺人用とは使用してない。
健一は故郷での利権絡みの政争の沙汰で父母を失くす。故郷を出る前に、五軒ほど離れた幼馴染の由梨花に事情を話した。お互いの事情が許す時が来たら結婚しようと約束した仲なのだ。
「ここを出てゆくのね。それにどこに行くか教えてくれないなんて!そんな健ちゃんとは一緒になれないよ」
「その時が来ればきっと迎えに来るから」
「信じたいけどどうしたらいいかわからない」
「俺たちは、愛し合っているんだ。それでもダメなのか」
「なら、どうして私に教えてけれないの。そんな哀しいお話しはないわ!だって!だって」
「もう僕には時間がないんだ。ゆっくり話したいが……」
「どうしたの?何かあったの」
「後で聞いても、何も知らないとだけ言うんだ」
「何か事件でもあったの?健一ちゃんに関係する事件でも」
「どっちみち分かることなんだけど、今は知らない方がいいんだ」
「町会議員のお家とは結婚は絶対に認めない、と母が言うの。二十歳になったらお嫁に行きなさいと強く言うの」
「もう時間がないんだ。ごめんな、手紙書くから、それに議員になる気もないんだ」
「分かったわ。由梨花は海外に留学したいと思っているの」
「それは決まっているのか」
健一の瞳から溢れるほどの涙がボタボタと、健一の両腕を握る由梨花の腕に流れ落ちた。由梨花も泣いた。涙を腕の甲で拭うと健一は、
「待っててくれ俺が帰るまで」
由梨花の手を強く握りながら、
「さようなら!」
と言って走りだした。由梨花は泪をながしながら立ち尽くすのだった。由梨花は黙ったまま川の流れを見つめていた。頬を伝う涙はとまらない。
あれから何度も手紙を出すが由梨花からは返事がこない。
生きるということは何なのか? 愛し続けることは何なのか? 仇をとることはなんなのか?あれから三年の歳月が健一の心の内を飛翔していた。彼が猛毒バドラコトキシンでの復讐を考え付いたのはコスタリカの原住民から聞いたものだ。ほんの少しを針に付けて刺せば復讐は出来るのだ。
倉田タツヒトの右腕の龍の神は牙を出して睨んでいる。その牙は猛毒の針なのだろう。サンホセの海辺の辺鄙な町で、世話になったグスマン家の白人系の娘レイナ十六歳、一年後の十七歳になったら迎えに来るから待っていてという約束だった。
大学卒業後、一年後にこの地に迎えに来ると地域は一変していた。戻った時には、海辺の簡素な半分木造で残りはテント張りのハウスは消えていた。グスマン家の海辺のハウスも、近くの白い木造の小さな家々はすっかりなくなっていた。タツヒトは驚きのあまりそこに立ち尽くした。しかし、すぐに周囲の家を見渡した。グスマン家の周囲の生き残った原住民に聞いたところ、恐怖でほとんど口を開かない。しかたなくタツヒトは、近所の白髪の老人ピエルを探した。彼なら生きていると聞いたからだ。
市内のロメンソ通りに面した教会の清掃員として働いていると、売春婦のシンディーが耳打ちしてくれた。教会は地主派のものが多く右派政権に息がかかっていた。
タツヒトがピエルから聞いたところではアルフォンソ大尉という政権軍の指揮官に革命軍の息が係っていると銃殺されたと言った。ピエルはとても悲壮な顔を覆い、涙を流して仇をとってくれとタツヒト哀願した。ここの国民性は信心深い人々が多くキリスト教が主流だ。
そんな折に、米国の大学院に留学していた叔母から親類の上坂健一という従弟に会ってくれと連絡が来た。どうしてもお前の力を借りたいと言っている。全然知らない仲ではなかった。田舎の川で簗を作って魚を取ったこともあった。一度どんなことなのか会ってみようと思って、半年ほど前に健一に会って事情を聴いてみた。遥かに風の便りで上坂三郎とその妻である小母さんが殺されたと知っていた。世話になったこともある親類だった。
健一の部屋の前の廊下に皮の軍隊靴のブーツの音が聞こえてきた。女が緊張気味にドア横の暗い所に警戒しながら拳銃を抜いて立った。女は油断しないし思い込みもしない。どんな場合でも対処できる構えだ。
「おいおいっ!これは、これはたまげたお出迎えだな」
「やあー、タツヒト無事帰ったか。それにチーノも!すまんなお出迎えがきつかったかな」
「おい、俺は丸腰だし両手をホールドアップだぜ!それに少年連れなんだ」
「チーノごめん!この人初めてだから!わかってるよね!」
と、女は言った。タツヒトも健一からスペイン語が達者だから連れて行った方が役にたつぞ、とだけ聞いてチーノと同行したのだ。
健一が女に拳銃をしまえというと、ゆっくりとキャミの内のホルダーに収めた。しかし、廊下には注意している様子だ。いつでも反撃出来るように腰に手を付けたままだ。
「この髭のオジサン誰なの?」
「俺の友人であり従弟かな。でも内緒だ」
「おい!ブーゲンビリアの髪の女、オジサンはないぞ。ここにいるってことは健一の愛人か」
瞬時に女はガンを抜いてタツヒトに狙いを定めた。健一が慌てて女の腰に手を廻して、
「俺の仲間だ!もうガンはやめてくれ。一杯飲んで仲良くしようや」
それでも女は警戒を緩めなかった。
「俺はタツヒトだ、もちろんこの少年は良く知っているな!チーノのガイドでカエル探しに行ってきた。お前は?」
女はチラッと健一を瞳の端に入れてタツヒトを見ながら、
「ジーナ」
と言った。タツヒトはきっと本名ではないなと感じた。でもそれでいいんだ、彼女も危険に曝されているんだから。三人は少しづつ今までの流れを話し、お互いに協力していきたくなった。それは、女の過去に深く関係していたのだ。グスマン家にいた姉妹のアンはタツヒトには会っていなかった。レニアも叔母のところにいたアンのことを話してなかったのだ。だから ジーナと名乗った女が、レニアを探し父母を銃殺したアルフォンソ大尉を見つけ出してレニアの仇を取るために、銃殺しなければならなかった。そのために厳しいレンジャー部隊に入ってここに来たのだ。
話している最中に一階フロントの横の部屋のシンディーから合図が入った。「ブーッ」と言う船の汽笛のような音だ。女がフロントを窺うと、格好がブラックスーツの殺し屋らしき男が、フロントマネージャーに写真らしきものを見せて確認していた。女はサッーと動いた。窓から砂浜に降りると男たちの背後に回り、物陰から男たちの首実験をして敵と確認した。一人はトカレフ、もう一人はマシンガンをコートの下に隠し持っている。女は素早く走り、砂浜から仲庭にでて噴水を盾に二階の廊下の二人に狙いをつけた。弾は先に飛ばさなければ自分が死ぬんだ。スポーツシューズの女は音もたてずにホルダーからガンを抜いた。銃筒に軽くキスをして噴水の右からマシンガンの男に狙いを定めた。健一の部屋の横に来ると部下の男に合図をして、廊下の窓に回れと指示出した。この指揮している男は、老人のピエルから聞いていた人相の左耳椨が切られている男に間違いなかった。部下が後ろ背に動いた瞬間に、女はすっきり立ち、
「アルフォンソ大尉殿!」
「大きな声で叫んだ」
アルフォンソは振り向きざまマシンガンを発砲しようとしていた。しかし、女の引鉄が先に動いて弾丸が飛び出ていた。
「グシャッ」
とアルフォンソの心臓を弾丸が通過していた。その時には部下のガンから真っ赤な炎が吹いて来た。女もキャミに包まれたしなやかな肉体を欲しげもなく一回転しながら撃ち返していた。男の弾丸がジーナの肩を掠りながら、床の青い柄タイルをパッシーと割って跳ねかえった。ジーナの弾丸が二階手摺の隙間をぬって、がっしりした男の股間を貫通していた。「ギャーッ」と言いながらもんどりうって、男はブーゲンビリアの花に埋もれた仲庭に転がり落ちた。激痛に苦しみながら目をむいて睨む男の額に拳銃を突き付け、
「一緒に来た二階の男はアルフォンソ大尉か?素直に言いな!」
「ウウウーッ」
「最後だよ、もう一度言う。命が欲しくないか?」
「アルフォンソか?」
「ウウウーッ、そ、う、だ!」
外からフロント前をバタバターッと見張りの背の高い金髪の男が拳銃を片手に突進してきた。パンパンパンーと乾いた爆発音に包まれた仲庭で、ジーナは転がりながら噴水に身を隠して応射した。相手の方が有利な位置にいるのを知ったジーナは、噴水で冷やしていた黄色いパパイヤを男に向かってなげた。パパイヤは不規則に回転しながらランダムな転がり方をしていた。一瞬気を取られた男に対して健一は二階からジーナから渡された拳銃で弾が尽きるまで男に向かって撃ちまくった。
ジーナはすくっと肩を抑えながら立ち上がった。キャミに包まれたジーナの豊かな胸は赤く染まっていた。二階の突き出た床板をジャンプして掴みながらそれを梃に二階の廊下に着地した。そこに倒れているアルフォンソ大尉に髪のブーゲンビリアを口に刺した。呆然と立ちすくむ健一に微笑みながら近づき抱き合った。
「愛している!深くよ!」
「分かっている!愛している!」
タツヒトはデープキスを交わしている健一の尻をポンと叩いて、
「ここを直ぐ脱出だ!軍隊がきたらお終いだ!健一早くしろ!」
既にバックパッカーを背負っていたタツヒトは一刻をほしんで脱出をもくろんでいた。
「例の物もバッグに入っているぞ!詳しいことは後でだ!」
「この古くて傷だらけの払い下げアメのジープは助かるのよ!」
「何かついてるのか?」
「ついているも何も、米軍のアーミーの証明付きさ。それに」
「それにって!なんだわかったぞ!世界共通袖の下」
三人でドライブ気分で、高地からサンホセ港に向かって疾走した。途中に軍隊の検問が二カ所ほどあったが、米軍の支援を受けている政府軍はうるさい検問はなかった。のんびりした国だからまだ殺し屋射殺の手配はなかった。サンホセ港でメキシコの漁船に乗り換え南カルフォルニア半島最南端のラパス港に入った。ここは風光明媚なところでホエールウオッチングやカジキのスポーツフィッシングも盛んだ。ここのラパスフィッシュレストランのオーナーをタツヒトは米国在住の叔母から紹介されていた。日本人である有名大学卒の元総理と同期だと古い話を聞かされた。レストランのオーナーは、叔母に特別世話になったらしく三人に刺身のご馳走を振る舞ってくれたり、カジキスポーツフィッシングを楽しませてくれたりした。そこには優しそうなハーフの息子さんもおったのでチーノを預かってもらうことにした。レストランが忙しいので喜んで引き受けてくれた。車も貸してくれたので長旅の買い出しの準備ができた。オーナーはマグロ冷凍倉庫のマネージャーと交渉して、二日後の冷凍運搬船に乗せてもらえることになった。空港は税関が厳しいから、毒液がみつかったら没収されてしまう。
長い船旅の間、何度も作戦計画を立てた。
「田舎町の夏祭りがいい。きっとシノギにくるだろう」
「いや、あの組は土木建築のピンハネが主なシノギじゃないか?」
「それにしても縄張り内での祭りだから、何某らのシノギをやるよ」
「親分には子分が付いているから近づくのはどうかな?吹き矢使うか?」
「親分と、手を下した左目の横に大きなホクロの男だ」
「この二人ともう一人は政商の黒沢時次郎議員だ。今回の事件のバックにはこの男が糸を引いている。実行した後の証拠を残さないようにするのがブーゲンビリアの仕事だ」
三人は吹き矢と幼児用の細い注射針を使うことにした。酒を飲んで居たら気が付かないほどのものだ。徐々に効いてきたらいいのだが」当分の間ペアーを装ってタツヒトとジーナが実行することになった。健一は顔が割れていたから情報集めをすることにした。
すでに、桜の季節は過ぎ去りそろそろ紫陽花の咲くころだ。船は東京港の冷凍倉庫の横の岸壁に接岸した。入国する時はサンホセ港でパスポートに出国スタンプを押してもらっていたから特に問題はなかった。
入国したその日から、急いで彼ら三人の情報を集めることにした。信州上田まで北陸新幹線で上野から一時間三十一分だ。週2回ほど新幹線で情報集めることにした。七月には上田祇園祭がある。
「オジキの話では牡丹組の若衆は毎年レンガ柄の「祭り」と書き込まれた法被を着るそうだ」
「オーッ!神輿を担ぐんだな」
せき込んで健一は聞いた。目はキラキラしてこれから何年も掛かった復讐のチャンスが来るんだ、と興奮してきた。
「そうだ昨年もその背の高いホクロのある組のものは担いだそうだ。ねじり鉢巻きで化粧も濃くするそうだ」
タツヒトは間違いないという顔をして頷いた。
「そいつの名前は何というんだ」
「山西だ」
「お袋がそう言っていた。そいつだ」
知人のクリニックから、分けてもらった幼児用注射器がある。柔らかな食肉で健一は練習した。簡単に片手で注せるようになっていた。
祭りの夜は町の商店街は幾つもの神輿を見ようと人出で一杯だ。神輿が拍子木に合わせて「ワッショイ!ワッショイ!」と掛け声合わせて進んできた。商店街のクライマックスの盛りで山西の後ろで神輿を担いでいた男の手が、ゆっくりと山西組員の首に軽く触れた。
彼が蚊に刺されたような違和感を感じて首に手を廻した時にはすでに注射針は抜かれてセーフティーキャップに収められていた。刺した男はゆっくりと担ぎ手から離れて行った。
町名を書いた白いテント内には、法被を着た牡丹組の組長金田孝蔵と、本部長補佐の息子の金田龍平が組長の後ろにボディーガードのように控えていた。政商黒沢時次郎議員も、組長の隣席に胸にバラの花と議員の名前が書かれた赤い短冊を付けて、酒を酌み交わしながら上機嫌で出席の商店街の役員らと談笑していた。
大分祭りも進んだころ、黒沢の秘書の大竹が祭りだというのに黒いスーツネクタイで腰を低くして入ってきた。何やら用事が出来たらしく組長の金田は近辺の役員らに挨拶して退席して行った。ビールをたらふく飲んだのか、商店街のトイレに入った。秘書は表で畏まって控えていた。健一はチャンスとばかりに男子小便器で、用をたしていた黒沢の首に毒液を注入して素早く顔を見られないように立ち去った。
ウイッグで変装したタツヒトとジーナが健一にそっと寄って来て、金田が今動き出して息のかかった屋台を見て回っているところだと、伝えてきた。素早く人波を潜り抜けて屋台が並んでいる通りに入った。群衆に紛れて組長に近づくもガードきつかった。健一は躓いたふりをして
吹き矢用の毒針を組長の脇腹に刺した。
「イタッ」組長は振り返りざま、お前!見たことある面だ。上坂の息子でないのか?」
「いや違います」
「この野郎、何かしただろう」
健一は、息子の本部長補佐と、二人のボディーガードの組員に暗がりに連れ込まれた。
「お前さっき親方に何かしたな」
そういうなり腕力の強そうな組員が殴り掛かってきた。健一は顔と腹を思い切り殴られた。
「この野郎、いつも仕事の邪魔をする上坂三郎の息子か」
そういうなり金田龍平はガンを抜き構えようとした。いち早く動きを察知した健一はジーナ仕込みのガン捌きで龍平より早く撃っていた。龍平は黙ったままばったりと倒れた。しかし後ろに隠れていた龍平の妻の由梨花が発砲してきた。胸を撃ち抜かれた健一は血を口から出しながらよろめいて振り返った。その時にはウイッグが飛んでしまい由梨花は撃った男が健一と知った。
「何で健ちゃんなのよー!健ちゃん!健ちゃん!」
由梨花は走り寄って、必死で健一を抱きかかえていた。胸から溢れる血で地面を染めていた。アメリカ留学中にいくら探しても会えなかった。日本領事館に行ったが捜せなかった。三年目の春に帰国して留学中に知合った龍平と結婚したのであった。由梨花には健一を失った心に埋める人が欲しかったのだ。ぽっかりと空いた心の傷を埋める心理が働いたのだ。それは愛でなくても、恋でなくてもいいのだ。ただ、夢遊病者のような自分を落ち着かせてあげたかったのだ。健一に顧みられなくなった自分が、振られたと思ってしまったのだ。その寂しさに猛烈にアプローチした第三者の男の龍平と結婚してしまうことになった。
「健ちゃんすぐに帰ると言ったのに」
「由梨花、ご・め・ん!あ・い……」
「健ちゃん今も、ずっとよ!永遠によ!愛しているからね!聞こえるわね!」
すでに健一には力がなかった。最後の力を振り絞って、
「タツヒト、ジーナすぐに帰国しろ!由梨花もういいんだ!」
幼馴染の由梨花は健一を抱きしめ彼の耳元に口を近づけて、
「一緒になりたかったの!」
息の途絶えた健一を抱えて由梨花は、
「ごめんね!ごめんね!」と耳元にささやくのだった。ジーノは由梨花の足元に見捨てられた拳銃を皮を巻いて空撃ちし、その硝煙を健一の胸の貫通部分周りに塗りつけて、
彼の右手に拳銃を持たせた。そして、ブーゲンビリアの花を胸に差した。ジーナにとってはお別れの標だった。
「由梨花さん!健一さんを頼みますね!健一さんは自殺したと言うんですよ。必ずよ。あなたが刑務所にはいったら健一さんを見守ってあげられないでしょ!」
タツヒトが由梨花と健一を抱きかかえながら、
「倉田のおじさんに頼んでおくから、相談して優秀な弁護士を付けてもらってな!」
そういうと足早にタツヒトとジーナはその場を去った。
他のボディーガードは、ジーナの顎への廻しけりで意識が無くなって倒れていた。
愛することと、仇を打つことはこんなに難しいのか。
タツヒトはジーナの手を握って足早に去って行った。チーノが待っているラパスに行こう。あのブーゲンビリアの仲庭に帰ろう。
きっと、ジーナはグスマン家の娘のアナ・グスマンに戻れるだろう。
了