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約束の翼

 見渡せど、見渡せど、広がるのは荒涼たる大地のみ。暗灰色と黄褐色の岩肌が織り成す光景は実に単調であり、感動に乏しい。痩せ枯れて死にかけた細い野草の葉先を、男の足がかすめた。生気を失くしつつある草はそれに文句の一つも言わず、男もまた無言であった。

 人影などあるはずもない乾いた荒野を、男はただ一人歩き続ける。外套の衣は擦り切れ、ぼろ布としか呼べぬ有り様。足もとはふらつき、青い瞳は在らぬ方向に向いている。何故、歩き続けるのか。彼はそのような些事を考えることすらやめていた。ただ、歩く。叩き折られた左腕と矢を射られた左肩を右腕でかばいながら、無傷の両足をひたすらに動かし続ける。

 確証はなく、目指すべき方向が合っているのかさえ分からない。それでも、交わした約束を果たすため、彼は荒野をあてもなく進み続けた。あの日、運命によって別れてしまった最愛の者のために。



 ある王国の誰もが恐れていたこと。それは長きに渡り国を治め、安定と仮初めの平和をもたらしてきた賢王の崩御だった。周囲の大国との均衡を保ち続けた老王の死は、虚構の平和の崩壊と愚鈍な王子の治世の始まりを意味するからであった。悪夢の始まり。口には出せずとも、誰も皆思ったことだ。

 外れてしまえばよかったものを、その予想は的中する。若き新王は父に似ず、無能であった。無能であるだけならまだしも、彼は並外れた自信家であり、また冷酷な野心家でもあった。

 王国の平和は瞬く間に人々の前から走り去ってしまった。愚昧な王は隣国に戦争を仕掛け、複数の大国を巻き込んだ大戦へと、その身を投じた。略奪、殺人、飢餓。ありとあらゆる惨事が大陸に伝染病のごとく広まり、国は荒れ果てた。一人の愚者の蛮行がきっかけとなり、大陸は死んだ。



 男はそんな王国の兵士の一人だった。もはや新兵と呼べる歳ではなく、だからと言って年長の者には頭の上がらない中堅の兵士だった。生まれながらのくすんだ灰色の毛髪は癖が強く、常に跳ね回っており、怠惰な性分のために口回りの無精ひげはいついかなる時でも綺麗に剃られていることはない。国の兵士を務めているだけあって身体は肥えてはいないが、やはり生来のずぼらな性格が響いてか、いまだ独り身でいた。

 良いところがなかなか見当たらない、そんな男の唯一誇ることができるもの。それは彼が軍隊の中でも花形とされる騎竜兵士団に属しているという事実だった。人語を解し、人智を超えた力を持つ竜の背に跨り、空から敵軍を襲撃する華やかな騎士の集まり。それが選ばれし騎竜兵士団だ。……だが、そういった集団の中にも、やはり人とは違った変わり者はいる。男は、まさにそれだった。その素性を知らぬ者が見れば、男はどこからどう見ても場末の酒場で安酒を啜っているような頼りない職なし男でしかないだろう。



「マティク! お前、そろそろ髭でも剃ったらどうだ? ひでえ有り様だぞ」

 男は思い出す。随分と前のことだが、記憶は未だに鮮明に残っていた。団の同僚にもらった何度目か分からない、呆れ混じりの注意。周りでは他の仲間たちが笑いながら自分の名を呼んでいる。男……マティクはいつもその笑いの中心にいた。決して嘲笑ではない暖かな笑い声。無口だったマティクは戦友たちから呆れられながらも愛され、それなりに満ち足りた日々を送っていた。

「それにしても戦局はどんどんと厳しくなっていくな。俺たちの相棒の疲労も限界に近いぜ」

「……まったくだ。こんなこと言いたかないが、新王はやはり愚かだ。このままではいつ我らが命を落とすか分かったものじゃない」

 八方に広がった戦地のあちこちへと飛び、自国の軍の支援と敵軍の掃討に追われる日々。王国の誇る騎竜兵士団は文句のひとつも言えぬまま、その身に許容量を超えた苦しみを溜め続けていた。そんな中で自国の陣地に帰還し、束の間の休息を得ている時にこうして常々の不満が漏れ出すことは致し方ないことと言えよう。

「今夜は自宅に戻るのか、ヤーレイ?」

 会話の輪の中にいたヤーレイはそう聞かれるなり、嬉しそうに頷いた。

「ああ、当たり前だろう。しばらくの間、妻と息子の顔を見ることが出来ていなかったからな。今夜は家族皆で夕食を摂りたいんだ」

「子供がいると楽しそうでいいな。俺も久方ぶりに妻に会いに行こう」

「お前が奥さんに逃げられていないことを今から祈っておくよ、リッジス」

「おいおい、恐ろしいこと言うんじゃねえよ」

 他愛無い会話が続き、笑いが生まれる。マティクはその光景を静かに眺めていた。彼は竜騎士団が好きだった。幼少の頃からの憧れであった竜に乗ることもそうだが、何より団の仲間と雰囲気を愛していた。気取らず、粗野でありながらも優しい男たちの集まり。そんな仲間たちのことが好きだったのだ。

「なあ、マティク。お前、この後はどうする? 酒でも飲みに行かないか?」

 そこで初めてマティクは口を開いた。

「……いや、すまないが俺はやめておくよ」

 にべもなく断りを入れた彼を前に、同僚たちはやっぱり笑った。苦笑いだった。

「だよな。お前は彼女にぞっこんだもんな」

「しゃあない、しゃあない。まあ、また今度、落ち着いたら飲もう」

 誰かが手を叩いた。乾いた音が響き、お開きを告げた。一人、そしてまた一人と竜騎士たちは腰を上げ、各々の目的地へと向かい出す。ある者は愛する家族の待つ自宅へ、そしてまたある者は仲間とともに繁華街の盛り場へ。だが、マティクは最後まで動かなかった。仲間たちの背中を見送った空は、既に濃い橙色に染まっていた。



 空が深い紫紺色に染まり始めた頃、のそのそとした動きでマティクは竜舎に向かった。竜騎士はおろか世話係もいない。既に船を漕いでいる竜たちに目を走らせながら、マティクは最愛の者のもとへと小走りを続けた。

 檻も鎖も置かず、自然に近い形で整備された竜舎の中、人間用の細い小道の先にマティクの愛する者の就寝場所はあった。木材で拵えた柵と雨風を防ぐ大きな屋根。しかし、その下には何者もいなかった。ならば、と思いマティクは足を小道の先に向ける。小高い丘の上、ちょうど月明かりに照らされたその場所に大きな影があった。

「……シェルファ。駄目じゃないか、大人しくしていないと……」

 丘を駆け上がったマティクの声に振り向く、大きな竜。艶やかな漆黒一色の身体に唯一混じる黄金色の双眸が騎士をじっと見つめた。

『マティク……貴方こそ休まなくて良いのかしら?』

 マティクの誇る相棒であり、愛する者でもある漆黒の竜、シェルファ。彼女は竜騎士団の竜の中でも、最も戦闘経験が豊富な竜だ。だが、今はある事情で軍の任務からは外れている。

「……俺は大丈夫。けど、シェルファ。君は身重の身体だろう。……子供のためにもじっとしていてくれ……」

『ふふ、心配性ね。マティクは』

 柔らかく笑って、シェルファは己の腹を見た。そこにはこれから生まれてくる我が子が宿っている。

『戦に出るわけでもないのだし、平気よ。それより今回も皆が無事で帰ってきてくれて良かった』

「……ああ、本当にその通りだ。しかし、この先、何が起こるかは分からない。……言い方は悪いが、俺たちが出ることになる前に終わって欲しいものだな……」

『……そうね。本音を言うなら私もそうよ』

 憂いを帯びた両者の視線がぶつかり合う。竜の眼には騎士が映り、騎士の眼には竜が映る。無言の時がしばし続いた。

「……俺はこのまま逃げてしまいたい。君とともに」

『ええ……それが許されるなら、ね』

 既に星々がうっすらと輝きを放ち始めた、夜空。それをただ眺めるシェルファの声色は寂しげだった。



 ヤーレイが死んだ。


 そんな凶報が飛び込んできたのは、戦局が著しく悪化してきた最中だった。出産を控えているため、出撃することのできないシェルファの身体を竜舎で洗っていた時、マティクは信じられない思いでその知らせを聞いた。まさか、あのヤーレイが。焼けるような焦燥を胸に感じ、彼は走った。

 竜舎の入り口に、帰還した騎士と竜たちが集まっていた。皆一様に暗い顔をしてうつむき、一言も言葉を発しようとしない。その中にヤーレイの姿はない。何が起こったのかは明らかだった。

「……ヤーレイは……」

 マティクがその先を言う前にリッジスが黙って首を振る。戦友が死んだ。あまりに辛い現実を受け止めきれず、彼は膝から崩れ落ちた。



 家族思いのヤーレイが愛竜とともに戦場で命を散らせてから、二週間が経った。戦況は相変わらずどころか、むしろどんどん悪くなっていた。敗色が濃厚。王国の都に住まう市民たちの間ではそんな噂が飛び交い、街の空気は異様なものだった。次第に陸軍の兵士の中からも「王国は終わった」などという声が聞こえ出し、国は急な坂を止まることなく転げ落ちる小石のごとく、崩壊へと進んでいた。大声で文句を叫ぶことなく、ただ耐え忍びながら戦闘を続けていた竜騎士団では、ヤーレイが死んだ後、まるで彼を追うように戦死者がぽつぽつと出始めていた。王国はもはや限界。それにも関わらず、若き愚王が自らの蛮行を止めることはなかった。そう、最後までなかったのだ。

 国中が疲弊していた、そんなある日のこと。広々とした竜舎の中で、マティクとシェルファは身体を寄せ合いながら暖かい陽光を浴びていた。けれど、彼らの心の中は冷たく、まるで溶けることのない霜に冒されているようだった。マティクは死んでいった仲間たちに思いを寄せ、一方のシェルファは身重のために出撃もできず、同じ竜たちが命を落とす中、何もできない自分に苛立ちを覚えていた。

『ねえ、マティク……ごめんなさい。私はただの役立たずね』

「……役立たず、だって?」

 自嘲気味に呟いたシェルファはマティクの顔を見るなり、驚きのあまり一瞬呼吸を忘れた。騎士は怒っていた。そして泣いていた。怒りながら、涙を流していた。

「……自分のことを役立たず、だなんて二度と言うな! 俺はそんな言葉を君の口から聞きたくない。そして、それは死んだ皆も同じ気持ちのはずだ……」

 漆黒の竜は黙った。ああ、自分よりも遥かに小さな人間にこんな風にして怒られるなんて。自分はなんて情けないのだろう。なんて未熟なのだろう。

 シェルファは恥ずかしくなった。己は強い竜だと思っていたが、そんなことはなかった。相棒のマティクの方が周りのことをよく分かっているし、ずっと強いじゃないか。自分はただの独りよがりな竜だった。

『……ごめんなさい、マティク』

「……ああ」

 マティクの涙はいまだ止まらない。流れ続ける雫を拭うこともせず、彼は愛竜の鼻先に触れた。シェルファはその感触に目を細める。温かく、柔らかい手だった。その手はとても安心できる手だった。ずっと、この時間が続けばいい。一人と一頭の気持ちは同じだった。だが、世界というものは時に非情だ。永遠に続いてほしい。そう感じることほど、あっさりとあまりにも呆気なく消え去っていく。

 幸福の時間を粉々に打ち砕く、絶望の爆発音。突如として王都に響き渡ったその音は一発で終わらず、何発も何発も少しの間を置くこともなく鳴り続けた。黒竜と騎士はただ唖然としていた。人間より遥かに優れた竜の耳は爆音の合間に消えて飲み込まれていく、人間の悲鳴もしっかりと拾っていた。非常事態。そんなことはお互いに分かっていた。それでも彼らはしばらくの間、動くことができなかった。

 マティクは不意に空を見上げた。いつも通りの王都の空。いつも通りの竜舎の空。そこにいくつもの戦艦が浮かんでいた。何だろう、あれらの飛行船団は。小さく揺れているあの旗はどこの国のものだっただろうか。隣国? いや、そのさらに隣の大国のものだったか? 

 あまりの衝撃に、騎士の頭はしばしの間、上手く働かなかった。けれども、彼と愛竜しかいないはずの竜舎の入り口の方から兵士たちの雄叫びと足音が聞こえてきた時、彼は正気を取り戻した。まだ帰ってきていない仲間たちはいったいどうなってしまったのか。痛いほど気になったが今は考えない。今この時ばかりは、ただ生き残ることだけを考えなければいけなかった。

「……シェルファ! 王都はもう駄目だろう。このままだと、もうじき確実に陥落する! ……逃げるぞ、飛べるか!?」

 絶望的な状況にあっても、マティクは希望を失っていなかった。そんな相棒のことを見て、シェルファも覚悟を決めた。

『正直なところ、きついけれど。泣き言は言えないわね。全力で飛ぶわ!』

 飛行時に必ず着ける装具など用意している時間はない。生身のまま、マティクは愛竜の背に飛び乗った。身体をできるだけ平たくし、黒い鱗にしがみつくように密着する。

『ちょっと、マティク! 大丈夫なの?』

「……大丈夫だから、早く飛ぶんだ!」

 既に大人数の敵兵たちが迫ってきていた。全員が武装し、鬼気迫る表情を見せながら突っ込んでくる。意を決してシェルファは飛んだ。いつもより身体が重い。当たり前だ。腹の中に子がいるのだから。

 矢で狙いを定めてくる地上の兵士たちに向けて炎を吐き、地を舐めるように飛ぶ。おおかたの敵兵を蹴散らした後、黒竜は空に向けて大きく飛び上がった。空の上からだとよく見える。もはや王都は壊滅状態だった。あちこちから黒煙と火の手が上がり、遺骸が無造作に転がっている。そして、その状況を作り出した飛行戦艦が黒竜の目の前にまでやってきていた。

 砲口が向けられ、大音量の発射音が空に響く。竜は必死でそれを避けた。身重の竜とはとても思えないほどの俊敏さで。しかし、運命は彼女に微笑まない。戦艦たちは一頭の竜を早々に仕留めようと、彼女を囲む。竜が牙を剥き出しにして、苛立たし気に唸った。そして一斉射撃が始まる。

 ……結果として、黒竜は片翼と頭部の側面に浅くない傷を負いながらも、砲弾の雨の中から抜け出した。その圧倒的な身体能力の高さで。だが、代償は大きかった。竜はすぐにそのことに気付いたのだ。背にあるはずの温かい感触がない。見れば戦艦どもの下の方、中空を一人の男が今まさに落下している最中であった。

《……シェルファ! そのまま遠くへ逃げろ! 二度と……二度と戻っては来るなっ!》

 相棒を助けに行かなければと、急降下を始める寸前だった竜の脳裏に、愛する騎士の言葉が響いた。念話だ。有無を言わせぬ口調の念話を受け、シェルファの動きがわずかに止まった。遥か眼下、騎士は、マティクは笑っていた。その笑みを遮るかのように戦艦が動き始める。シェルファは黄金の双眸に涙を浮かべ、背を向けた。そして、出せる限りの速度を出して空の彼方へと飛び去った。去り際、ある場所の名を念話で強く、強く叫びながら。

 ……地に落ちた後、マティクは力の限り戦った。誰も助けに来ない中、一人きりで剣を握り、戦い続けた。だが、多勢に無勢という言葉通り、彼は大地に膝と手のひらを付けることになった。死ぬわけにはいかない彼は白刃を突きつけられ、屈辱に飲まれながら戦争捕虜の身に落ちた。

 マティクが敗れたその日、彼の祖国も同じようにして敗北した。愚か者の無知と蛮行が招いた、あまりにも自滅的な敗戦だった。



 そして今、男は王都から遠く離れた不毛の大地を歩き続けていた。囚われの身となったあの日から、既に一年以上が過ぎていた。彼は反抗的な目つきをしていたが故に、敵兵たちの遊びを兼ねた拷問に掛けられ、何度も行き過ぎた暴力を受けた。止める者などなく、肩には面白半分で矢を射られ、片腕を折られた。

 そんな暴力と恥辱の日々の中、マティクは油断していた看守を殺し、奇跡的な脱獄を果たした後、最後に愛竜が教えてくれた場所に向かって、ひたすら歩みを進めていた。折れた腕の治療など、応急処置をしただけであとはろくに治療もしなかった。そんなことよりも、一秒でも早くシェルファに会いたかったのだ。

 ただただ歩き続け、彼はようやく長い旅路を終えようとしていた。荒野を抜け出た先、そこに存在自体が奇跡のような一つのオアシスがあった。広大な岩の荒野に根付く一輪の花の如きオアシス。清らかな泉とその周りを囲む小さいながらも豊かな森で形作られたその奇跡の地。そこはまだ年若かった頃、あちこちに馬を走らせては若さゆえの無謀な冒険を楽しんでいたマティクが初めてシェルファと出会った場所だった。

 その泉こそが、あの別離の日、騎士と竜が再会を約束した場所だった。マティクは左腕の痛みに顔をしかめながら、小さな森を抜けた。目の前には透き通る泉があり、そして。

「……シェルファ」

 翼を畳んだ竜の形をした、黒く輝く巨大な宝石。陽光を反射し、虹色に煌めくものが何も言わぬまま、泉のほとりに静かにそびえていた。

 竜は自ら死を選ぶ時、その身を鱗と同じ色の宝石に変える。それは強力な魔力の塊となり、その周囲に害意を持つあらゆる敵を寄せ付けない。竜が、神が天から遣わした生き物とまことしやかに言われる所以の一つだった。

 そんな言い伝え通りの、美しく神々しい竜岩の前でマティクは立ち尽くした。言葉は出なかった。ただ涙ばかりが出て、枯れることを知らない。

 俺は遅かったのだ。深い傷を負っていた彼女は己の限界を悟って、自ら死を選んだのだろう。肉体を腐らせ、惨めな姿を晒すよりもずっと良い、と考えて。

 ああ、なんて情けないのだろうか。愛する者を助けることができなかった。最後に言葉を交わすことも、それどころかあの心地よい鼻先に触れてやることさえも叶わなかった。ああ、なんだ。なんということはない。そうだ、俺はただの……。

 キュイッ。

 小さく、そして高い何かの鳴き声が耳に入り、騎士の思考がそこで止まった。鳥か、何かだろうか? 顔を向けた方向、泉の岸辺に茂った低木林の中から子犬ほどの大きさの何かが這い出てきた。

 それは小さな幼竜だった。深い闇を想起させる、混じり気のない漆黒の鱗で身体を覆ったその幼い竜の双眼は、鮮やかな黄金色だった。

 小さな黒竜は騎士の姿を視界に認めると、高い鳴き声を奏でながら嬉しそうに近づいてきた。まだまだ小ぶりな翼を懸命に羽ばたかせ、お世辞にも上手いとは言えない小飛行を見せて、騎士の胸元に飛び込んだ。片腕の骨が折れていることなど忘れて、騎士はその腕で小さき黒竜を胸にそっと抱いた。冷たかった涙が温かい涙に変わったような気がした。

 ……ほらな、シェルファ。やっぱり君は役立たずなんかじゃなかった。だって、こんなにも愛らしい君の子供を俺に残してくれたのだから。

 いつの間にか涙は止まっていた。そして彼は気付いていた。彼自身もやはりこれからは役立たずなどではない、と。何故なら、胸で甘えた声を出す幼竜を育て上げるという役目ができたから。

 約束の翼は、次の世代へと確かに受け継がれていくのだ。


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