従妹と告白練習
外には抜けるような青空。窓は全開にして、けれど網戸は忘れずに。
肌が焼けるほどの日差しをすり抜けて、涼やかな風が私の部屋を縦断する。
水滴の付いたグラスを傾けると、氷によって冷えた茶色の液体が喉をすとんと落ちていった。
「うむ。五臓六腑に沁み渡るとはまさにこのことだな。うだるような真夏の暑さに火照らされた身体が、芯から冷めていくのが分かる。このような気温の高い日には、煎じた大麦種のお茶をよくよく冷やして飲むのが人体にとって最適であり、最高だ。そうは思わんかね?」
「普通に麦茶おいしいって言えばいいのに。見た目文学少女だからって文人気取りですか? バッカじゃないの」
机に向かいつつ、歯に衣着せぬ物言いをしてくるのは風美那。
彼女は私の父の弟の娘――つまるところ従妹にあたる。
風美那という名は、自由な風のように美しく在れと願いを込めてつけたのだと以前叔父が誇らしげに零していた。
なるほど、名の通り近頃よりをかけて美しくなったが、それにも増して自由過ぎて従姉への尊敬の念を忘れかけているようだ。
私より三歳年下の中学三年生。反抗期、というやつか。
実妹のいない私にとっては、そこもまた可愛いものである。
「ニヤニヤして気持ち悪い。罵倒されて喜ぶ変態さんがイトコなんて最悪」
「なかなかどうして愛する人からの言葉というものはどんなものであれ、掛けられるだけで嬉しいものなのだよ。こうして我が家に風美那が泊まりに来るのは夏休みと冬休みの年二回しかないのだからね。乾ききった砂漠で命の水を渇望するがごとく、それがミネラルウォーターでも泥水でも私は喜んで飲んでしまうのさ」
「愛する人とか、バッカじゃないの」
そう言いながらも風美那は親指で下唇を撫でる。照れている時に出る癖だ。
二年前の事だったか。期末試験で百点満点を三教科も取ったと自慢してきたので、大いに褒めちぎったことがあった。その時も「でへへ~、お姉ちゃんありがとう」と相貌を崩して先程と同じく、親指で下唇を撫で回していたのだった。
「率直に意見を言うというのは、それだけ心を開いている証拠だからな。それに風美那は妹のようなものだから、親愛の情が尽きないわけだよ、姉としては」
「わたしは綾音の妹じゃない!」
私のことを呼び捨てで呼んで威嚇する風美那。『お姉ちゃん』と呼んでくれたのは昨年の冬が最後だったと記憶している。
確かに厳密に言えば妹じゃなくて従妹だけれども。
そんなふしゃーっと毛を逆立てた猫みたいに怒らなくてもいいのに。
反抗期、恐るべし。
箸が転んでもイラつくお年頃。
「綾音のせいで勉強に集中できなくなったんだけど。どうしてくれんの」
そう。現在、重大な試験に向けてお勉強の真っ最中なのである。無論、重大な試験とは高校受験のことだ。
受験生という意味では私も同類だが、私は品行方正をモットーに教師へ媚を売ってきたおかげもあって、指定校推薦を頂く予定である。
夏休みの暇を持て余した私は、風美那の家庭教師的な立ち位置で高みの見物と洒落込んでいるのだ。
「うむ、話しかけた私が悪かったな。少し早めに休憩でもするか?」
「ううん、休憩はいいや。それよりか悪いと思ってるなら相談? っていうか実験台になってほしいんだけど」
「実験台とは、穏やかな響きじゃないね」
「実験って言ってもね、ちょっと告白の練習したいだけから。相手役になってほしいだけだから」
「告白か……いいだろう。引き受けよう」
そうか……恋をしているのか……
恋をすると女は綺麗になると誰かがのたまわっていたが、それは事実だと身を持って知った。頬を染める風美那は女性の私から見ても魅力的である。抱き締めてしまいたいくらい。
伸びそうになる腕をぐっと堪え、行き場の失った手でうなじを擦る。
この表情が相手の前でできれば、告白なんて野暮なものは要らないのではないかとさえ思う。
ついこの間まで子供だと思っていたのに。一年で背丈も私を追い抜かんばかりだし、精神的にも大人に近づいていく。この時期は成長著しいな。
引き出しからヘアピンを取り出し、髪をまとめてアップにして帽子を被る。この髪型にするのは久方振りだ。
「……なにしてんの」
「男装だよ。その方が雰囲気出るでしょう?」
「相手は……女の人なんだけど」
「そ、そうなのか」
動揺してしまった。
小説では同性愛を扱った耽美な作品は多々あるのを読んでいるから偏見などないつもりであったけれど、身内が実際そうだと知れると、戸惑うものなのだな。
「……引いちゃった?」
同性への恋なんて単なる思い込みだ、気まぐれだ、と一蹴して逃げることは簡単。でも、それを今やっちゃいけない。
風美那が縋るような目でこちらを見詰めている。昔、おねしょをしていたのが叔母さんにバレた時の助けを求める表情と一緒だ。
駄目だ。姉として妹にこんな顔させちゃ駄目だ。反省せねば。
私はできるだけ自然な笑顔を貼り付けて風美那に話し掛ける。
「そんなことない。愛の形は人それぞれだからな。女同士、大いに結構じゃないか。私は応援するよ。法律を犯すわけでもあるまいし、言わせたい奴らには言わせておけばいい。私はいつでも風美那の味方だからさ。距離を置くなんてこともないよ。私が守ってやるから風美那は胸張っていればいいんだよ」
フィクションにおいて同性同士の恋愛はしばしばドラマティックに描かれる。互いのすれ違いや周りに反対され、苦難を乗り越えていくのだ。悲恋で終わることも多い。
脚色されている部分もあろうが、現実においてもマイノリティに対して世間の風当たりが冷たいことは重々理解している。
そもそも告白する同性相手と両想いという可能性自体低いのだから、風美那の進む道はイバラの棘でいっぱいだ。私はそれらから守ってやりたいと思う。
「綾音かっこいい……まるでわたしの方が告白されちゃったみたい」
「ふふん。そうだろう、そうだろう」
トロけた顔をした風美那はうんうんと何度か頷いた後ゴホンと咳をし、気を取り直していつもの表情に戻り、私の前に立つ。
練習開始ということだろうか。
「わたしはずっとあなたのことが好きでした。ちょっと抜けたところもあるけど、頼りになって、わたしのことを助けてくれて……最初はお姉ちゃんに対する家族の好きだと思ってたけど、会う度にドキドキして、触れる度に胸が高鳴って……気付いたらもう『お姉ちゃん』って呼べなくなってた」
あれ? これってなんだか……。
「どこが好きとか、なんで好きかとか自分でもまだわからないけど、とにかく好きになっちゃったの。綾音、わたしと付き合ってください」
え? ええー……私?
私のことが好き?
「これって練習かな」
「……それ、本気で言ってる? わたし、怒るよ」
もう怒ってるじゃないか。
風美那はじっと私を見て視線を外さない。
私も視線を外せない。
目線を逸らしたら、風美那の潤んだ瞳が今にも決壊しそうだったから。
――私は風美那のことをどう思っているんだろう?
風美那のことは好きだ。でも、それは姉と妹としての好きなのかもしれない。
しかしながら、風美那とは姉妹のように一緒に暮らしているわけでもないし、一人っ子の私が姉妹愛なんて分かるはずもない。
ただはっきりしているのは、私が風美那を好きだという一点だけ……。
「それで、返事は?」
付き合うって、女同士でどうすればいいんだろう。
叔母さんや叔父さんがこのことを知ったら反対するのかな。私の親はどう思うかな。説得する方法を考えなくちゃ。
将来は二人で住める家を探さないと。子供はできないよね。だから家はあまり大きくなくてもいいのかな。
って、私、風美那と付き合ってからのことしか考えてないじゃないか……。
もう答えは決まっていたんだ。
「綾音、返事は?」
「あ、ああ」
思えば告白に対して了承の返事を返すのは人生で初めてだ。
時計の針のカチカチ動く音がやけに気に障る。
私も好きだ、と言うだけでこんなにも緊張するものなのか。
手汗を拭きたい。一旦仕切り直ししたい。でも、それじゃ駄目だ。風美那の想いに応えなくては。
激しく脈打つ心臓を押さえて口を開く。
「私も風美那のことがす、す……すー、すうううう」
「す?」
「……す、『す』から始まって『き』で終わる二文字の言葉をプレゼントするよ」
「ふふっ、なんだか綾音お姉ちゃんらしい返事だね」
遠回しで情緒もへったくれもない返事に、呆れた様子の風美那はふふっと声を上げる。
先程までの緊張はどこへやら。
まるで一年前の私たちに戻ったような空気が流れる。
と思ったら。
「次は『キ』から始まって『ス』で終わる二文字の言葉をここにプレゼントしてほしいな?」
「っ!?」
風美那は人差し指を口に添える。
それはとても、大変、ひどく刺激的過ぎる提案だ。
ちょっと落ち着いてきた心臓がまたバクバクし始めた。
ああ、やっぱり私は風美那のことが好きなんだ、と否が応にも自覚させられる。
風美那のぷっくりとした唇から目が離せない。
あの唇を私のモノに……ああ! 身体が動かない!
風美那、ごめん。まだ勇気の出ないお姉ちゃんを許して。
心の中でそう告げて、風美那の手を取る。
――そして、親指の腹へと軽く口づけた。
「今はこれで我慢……して?」
「う、うんっ。わたしもいきなり……なんて急すぎだと思うし? 今はこれで満足しておく」
へにゃっとした顔の風美那。ご満悦のようだ。
恥ずかしいのか、また親指で下唇を撫でている。しかし、その指は私の唇が触れたものだ。それを意識したのか、風美那は顔から火が出そうなほど赤くなっている。
これもキスのうちの一つだよね……?
なんだか私も恥ずかしくなってきた。手を頭の後ろにやり、うなじを擦る。
「だから、本番は今度してね?」
本番って一体どれのことだろう。
どれにしても私たちの関係はもう一歩先へ進むに違いない。
すっかり体温の上がってしまった私たちの間を、爽やかな風が蝉の声とともに駆け抜けていった。