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婚約者は愛しの妹を庇い、燃え盛る炎の中で私は完全に見捨てられた

作者: 熾星
掲載日:2026/08/30



 七月七日。私は三年間付き合っている恋人の桐谷拓海と一緒に、大学時代、学生寮で同室だった森川奈緒の結婚式に出席していた。


 ブーケトスの時間になると、司会者が「今日は男女問わず、未婚の方ならどなたでも参加できます」と笑って声をかけた。友人たちに押し出された拓海も輪の中に入り、偶然ブーケを受け取った。


 周囲から歓声が上がり、みんなの視線が一斉に私へ向いた。私も、拓海がそのままブーケを渡してくれるのだと思っていた。


 ところが彼は私の前まで来ると、リボンをほどき、ひとつだったブーケを二つに分けた。


 先に差し出した相手は、妹の佐伯美羽だった。


 残った半分が、ようやく私の手に渡った。


 美羽は二つの花束を見比べ、大きさがほとんど同じだと確認してから満足そうに笑った。


「これならいいかな」


 拓海も笑う。


「お姉ちゃんにあげるもので、美羽の分がなかったことなんてないだろ?」


 私は半分になったブーケを見つめた。さっきまで感じていた期待は、もうどこにも残っていなかった。


 昔から、美羽が欲しがれば私は譲ることになっていた。部屋も、ペットも、進学の予定さえ同じだった。


 今では、私の恋人までそれを当然だと思っている。


「美羽は小さい頃に迷子になったことがあるから、置いていかれるのが怖いんだよ。真帆はお姉ちゃんなんだから、それくらい譲ってやって」


 私は手の中の半分のブーケを見下ろした。


 でもこれは最初から、全部私に渡されるはずだったものだ。


 もう、譲りたくなかった。



1



 披露宴の途中、新郎新婦が各テーブルを回って写真を撮るテーブルフォトが始まった。


 奈緒が夫と一緒に私たちのテーブルへ来たので、立ち上がろうとすると、拓海が先に美羽を呼んだ。


「美羽、こっち」


 美羽はすぐに拓海の隣へ行き、二人で新郎新婦のそばに並んだ。写真を一枚撮り終えてから、拓海はようやく私の存在を思い出したように振り返った。


「真帆も来いよ」


 私と奈緒は、ほとんど同時に動きを止めた。


 奈緒が眉を寄せる一方、美羽は楽しそうに拓海の腕へ絡みつく。


「やっぱり拓海くんは私のこと忘れないよね」


「美羽は順番とか気にするだろ? 真帆を先にしたら、また俺だけ後回しにしたって言うじゃん」


 美羽は頬を赤くして、私の後ろへ隠れるような仕草をした。


「言ってないし。お姉ちゃん、拓海くんどうにかしてよ。いつも私のことからかうんだから」


 後ろへ下がった美羽の肩が私にぶつかり、持っていた飲み物が大きく揺れた。危うく奈緒のドレスへこぼすところだった。


 奈緒の表情が冷たくなる。


「美羽ももう二十五歳でしょう? そろそろ自分の彼氏を作ったら? いつまでも真帆と拓海くんにくっついてないで」


 冗談めいた口調だったが、奈緒の視線は私に向いていた。私を庇ってくれているのだと分かった。


 けれど美羽は気にも留めず、また拓海のそばへ寄った。


「やだ。私はお姉ちゃんと拓海くんと一緒にいるのが好きだもん」


 拓海は笑いながら、美羽の額を軽く指でつついた。


「好きにすれば? どうせそのうち家族になるんだから」


「じゃあ私をいじめたら、お姉ちゃんに結婚やめさせるからね」


「はいはい」


 拓海は完全に美羽を甘やかす声だった。


「美羽姫にはかなわないな」


 同じテーブルにいた何人かが困ったように笑い、視線を逸らした。けれど両親は昔からこの距離感に慣れていて、拓海が美羽の面倒まで見てくれることを「気が利く」と喜んでいた。


 奈緒だけが、心配そうに私を見ていた。


 披露宴が終わる頃、奈緒が同じ包装のプチギフトを二つ持ってきた。


「これは二人に別で用意したの」


 珍しく美羽が前へ出なかった。


「お姉ちゃんから選んで」


 私は適当に一つ手に取った。


 すると美羽は数秒見つめたあと、急に言った。


「待って。やっぱりお姉ちゃんのほうがいい。交換して」


 私は何も言わなかった。


 美羽は私の箱を取り上げ、もう一つも開けると、中の香り物やハンドクリーム、ミニタオルまで並べて比べ始めた。


「本当に同じなんだ」


 奈緒のこめかみが引きつった。


「美羽、あなたね……」


 私は奈緒を止めた。今日は彼女の結婚式だ。私のことで雰囲気を壊したくなかった。


 その時、バッグの中でスマートフォンが震えた。


 会社の上司からだった。


【以前話していたヴェルディア現地法人への長期赴任が正式に決まりました。セレノ市に長期滞在することになりますが、会社で就労ビザと引っ越しをサポートします。真帆、滅多にない機会だから、今週中に返事をください】


 ずっと迷っていた話だった。


 ヴェルディアは遠い。霞森市も、家族も、拓海も捨てきれずにいた。


 けれど今は、テーブルに置かれた半分のブーケを見ても、以前と同じ気持ちは湧かなかった。


 指を二秒ほど止めたあと、返信する。


【お受けします】


 送信した瞬間、披露宴のざわめきが少し遠くなった気がした。


 顔を上げると、奈緒と目が合った。彼女は少し目を赤くしていた。


 私はようやく、ちゃんと笑えた。



2



 式が終わり、招待客たちが帰り始めても、私はしばらく席に残っていた。


 拓海は美羽の肩を守るように人混みを抜け、酔った客から彼女を庇いながら先に出口へ向かった。私のことを一度も振り返らなかった。


 着替えを終えた奈緒が戻ってきて、私の隣に座る。


 バッグから一枚の名刺を取り出した。


「夫の友達がヴェルディアの研究機関で働いてるの。今、プロジェクトコーディネーターを探してる」


「採用が決まってるわけじゃないけど、履歴書を直接担当者に回してもらうことはできるよ。真帆、前から海外で働いてみたいって言ってたでしょう?」


 私は名刺を受け取った。


「ありがとう」


 奈緒が手の甲を軽く叩く。


「いつも誰かのことばかり考えないで」


「たまには、自分のことだけ考えていいんだから」


 私は名刺を大切にバッグへしまった。


 家に帰ったのはかなり遅い時間だった。


 玄関を開けた直後、硬いものが額にぶつかった。


 鋭い痛みが走り、床へ落ちたものを見る。


 私のパスポートだった。


 母が険しい顔で立っている。


「真帆、何を隠してるの?」


「部屋を片づけていたら、パスポートと海外関係の書類が出てきたわ。海外へ行く話があるなら、どうして私たちに言わなかったの?」


 額から温かいものが流れた。触れてみると、指先に血がつく。


 けれど誰も気づかなかった。


 美羽が私のバッグを奪い、そのまま中身を床へぶちまけた。香水が割れ、財布や鍵、書類が散らばる。


 その中から、奈緒にもらった名刺が落ちた。


「お母さん、見て!」


「お姉ちゃん、自分はもう海外赴任の話があるのに、別の紹介まで隠してたんだよ!」


 母は名刺を取り上げた。


「今の会社でも順調にやってるでしょう? 海外へ行く話だってもうあるのに、この紹介まで必要なの?」


「美羽は卒業してから、まだ安定した仕事が見つかってないのよ。奈緒ちゃんに頼んで、美羽の履歴書も先方へ回してもらえばいいでしょう」


 私は父を見た。


 ソファに座っていた父も、しばらくして口を開く。


「どうせお前はヴェルディアへ行くんだろう」


「その紹介を使わないなら、美羽にも面接の機会くらい譲ってやれ」


 拓海までいた。


「真帆、奈緒がお前を紹介してくれるなら、美羽のことも頼めばいいだろ」


「それくらい譲ってやってもいいじゃないか」


 あまりにも見慣れた光景で、怒りより先に疲れが押し寄せた。


 美羽が犬を飼いたいと言えば、私の猫が手放された。広い部屋が欲しいと言えば、私が移った。大学へ一人で行くのが怖いと言えば、私は一年休学して彼女を待った。


 今度は、奈緒が私に差し出してくれた機会まで美羽のものになるらしい。


 私は初めて首を縦に振らなかった。


「これは奈緒が私にくれた話だよ」


「私が使わないとしても、自動的に美羽のものになるわけじゃない」


 母の顔が曇った。


「どうしてそんなに意地悪になったの?」


 私は手を握り締めた。


「お父さん、お母さん」


「私も二人の娘だよね?」


 リビングが静まり返った。



3



 母は数秒呆然としたあと、表情を険しくした。


「私たちを責めてるの?」


「美羽が小さい頃に迷子になって、どれだけ怖い思いをしたか忘れたの? あの時だって、あなたがちゃんと見ていれば――」


「私だって子どもだった!」


 ずっと飲み込んでいたものが、ようやく口から出た。


「一歳しか違わないんだよ。美羽が自分で外へ行ったのに、どうして全部私の責任になったの?」


「私は一生、美羽に償わなきゃいけないの?」


 美羽は一瞬固まり、すぐに泣き始めた。


 テーブルへ名刺を叩きつけ、そのまま玄関へ向かう。


「分かった! 全部私が悪いんでしょ!」


「迷子になったのも、ちゃんと見つかっちゃったのも私が悪い! お姉ちゃんの一人っ子みたいな人生を邪魔してごめんね!」


「そんなに私が邪魔なら出ていく!」


 拓海がすぐ美羽を抱き止めた。


「美羽!」


 そして私を睨む。


「佐伯真帆、そこまで言う必要あるか?」


 美羽は拓海の胸元で泣き続け、拓海は背中を撫でて宥めていた。


「大丈夫だ、美羽」


「真帆が何を言っても、俺まで美羽を見捨てたりしない。たとえ俺と真帆が結婚しなくても、美羽のことは妹みたいに思ってるから」


 それから私へ向き直る。


「真帆。今回くらい譲ってやれよ」


「俺たちだって三年付き合ってるし、うちの親も結婚はいつなんだって聞いてる。でも美羽にこんな態度を取るなら、俺もこの先を考え直す」


 少し間を置き、


「謝れよ」


 と言った。


 三年も付き合った人だった。


 よく知っていると思っていた目には、今、美羽への心配しか映っていなかった。


 父が突然、私のパスポートを持ち上げた。


「今日謝らないなら、この家から出ていけ!」


「海外の仕事だって行かせないからな」


 パスポートの端を強く掴んでいる。


 私は黙ってそれを見つめた。


 ここから出るために必要なものだった。


 結局、私は頷いた。


「分かった」


「奈緒に、美羽の履歴書も先方へ回せないか聞いてみる」


 美羽の泣き声が小さくなった。


 拓海の胸元から顔を出した時には、目にほとんど涙が残っていなかった。


 私は手を出した。


「パスポート、返してくれる?」


 その時になって、拓海はようやく私の額から血が出ていることに気づいた。


 父からパスポートを受け取り、私へ渡す。


 私はそのまま部屋へ戻った。


 ドアを閉め、背中を預けて座り込んだ時、自分の手が震えていることに気づいた。


 泣かなかった。


 机の奥からヴェルディアへの赴任通知とビザ関係の書類を取り出し、ファイルへ入れて手荷物の奥にしまった。


 突然ドアが開く。


 拓海が救急箱を持って入ってきた。


「傷、見せろよ」


 私の前に座る。


「こんなに血が出てるのに、なんで言わないんだよ」


 言ったところで、さっき誰か気にしただろうか。


 離れようとしたが、拓海は私の手首を掴んだ。消毒液が傷へ触れると、思わず身体が縮み、彼の手つきが少しだけ優しくなる。


 付き合い始めた頃の冬を思い出した。


 初めて彼に料理を作ろうとして指を切った時も、拓海はこうしてしゃがみ込み、薬を塗ってくれた。


「これから料理は俺がやる」


「真帆は何もしないで、桐谷夫人になる準備でもしてろよ」


 あの頃、彼の目には私しかいないように見えた。


 今も手つきは優しかった。


 けれど口から出る言葉は違った。


「真帆が嫌な気持ちなのは分かる」


「でも美羽は本当に置いていかれるのが怖いんだ。だから、お前と同じものをもらえたかどうかを気にする」


 私は顔を上げる。


「美羽は公平じゃないと嫌なの?」


「じゃあ、私の公平は?」


 拓海は答えなかった。


 新しい綿棒を取り出し、


「最近、疲れてるんだよ」


「考えすぎるなって」


 とだけ言った。


 傷にガーゼを貼り終える。


「午後、ドレス見に行こう」


「真帆の好きなのを選べばいい。結婚したら俺たち二人で美羽のことも支えればいいし、あいつもそのうち落ち着く」


 私は反論しなかった。


 ちょうど海外赴任に必要な書類も受け取りに行く予定だった。


「分かった」



4



 午後、車へ向かい助手席のドアを開けようとすると、すでに美羽が座っていた。


「お姉ちゃん! 私、ウェディングドレスって着たことないから、一緒に見たい」


 拓海は運転席から身を乗り出し、美羽のシートベルトを確認する。


「真帆、後ろ座って」


「美羽、車酔いしやすいから」


 私は二人を数秒見たあと、何も言わず後部座席へ乗った。


 ブライダルサロンは完全予約制で、奥には試着写真を撮れる小さな撮影スペースもあった。


 店へ入るなり、美羽は拓海の腕へ絡みついた。高いヒールを履いてきたせいで、数歩歩いただけで足が痛いと言い始める。


 拓海は彼女の腰を支えた。


「だからそんな高いの履くなって言っただろ」


「拓海くんがドレス姿見たいって言ったんじゃん」


「また言ったら、お姉ちゃんに結婚やめさせるからね」


 拓海が笑う。


「はいはい。今日は美羽姫の好きなものを試してください」


 そこで初めて知った。


 拓海は勝手に、美羽の試着体験まで追加で予約していた。


 スタッフが迎えに来て、二人の距離の近さを見て微笑む。


「お二人、本当に仲がいいんですね」


 拓海は誤解を訂正しなかった。


 後ろに立っていた私へ振り返る。


「どうせもう会わない人なんだから、いちいち説明しなくていいだろ」


 スタッフに案内され、ドレスを見る。


 私はシャンパンカラーのマーメイドドレスに手を伸ばしたが、拓海に呼び止められた。


「真帆、まだ決めなくていい」


「美羽が選んだあと、似た感じのを探せば? じゃないとまた真帆のほうがいいって言い出すから」


 自分の結婚式で着るドレスまで、美羽を基準に決めるらしい。


 美羽はすぐに長いトレーンの白いドレスを選んだ。


「拓海くん、これどう?」


「いいんじゃない?」


 拓海はスタッフに似たデザインがもう一着あるか尋ねた。


 私は黙って渡されたドレスを持ち、フィッティングルームへ入った。


 着替えて出ると、美羽はもう撮影スペースにいた。


 ドレスの裾を持ちながら拓海に近づき、スマートフォンで何枚も写真を撮っている。拓海も画面を覗き込み、二人で笑っていた。


 撮影スペースの横にはドライフラワーと装飾用のキャンドルが置かれていた。少し前の撮影で使ったらしく、数本だけまだ本物の火が灯っている。


 私が近づく。


 こちらに気づいた美羽が、拓海のそばから後ろへ下がった。


 腕がキャンドルスタンドへ当たった。


 燭台が倒れた。


 火が長いベールに触れる。


 ほんの小さな火だったはずなのに、一瞬で薄い布を這い上がり、近くの装飾布にまで燃え移った。


 火災警報が鳴り響く。


 スタッフが叫びながら消火器を取りに走った。


 私は慌ててベールを外そうとしたが、燃え落ちた布に行く手を阻まれ、試着スペースの奥へ追い込まれた。


 煙が押し寄せる。


「助けて!」


 反対側で、美羽の手の甲に火が触れた。


「拓海! 痛い!」


「手、火傷した!」


 拓海はすぐ美羽を抱き上げた。


 煙越しに、彼がこちらを振り返る。


 目が合った。


 私が動けなくなっているのを、確かに見ていた。


「拓海!」


「待って! 手を貸して!」


 彼の動きが一瞬止まる。


 それでも、美羽を抱く腕は緩まなかった。


「真帆、スタッフと一緒に出ろ!」


「俺は美羽を先に外へ連れていく!」


 そう言って、彼は出ていった。


 やがてスプリンクラーが作動し、消火剤と水が辺りに飛び散った。


 煙でまともに息ができない。落ちてきた装飾物が右腕に当たり、焼けるような痛みが走った。


 視界が暗くなった。


 次に意識を取り戻した時、私は救急車の中にいた。


 奈緒がそばにいる。


「真帆、起きた?」


「動かないで。もうすぐ病院だから」


 喉が焼けたように痛み、呼吸するたびに苦しかった。


 私は奈緒の手を掴んだ。


「奈緒……」


「先生が、飛行機に乗ってもいいって言ったら……一番早い便を取って」


 奈緒はしばらく私を見つめた。


 やがて、涙が落ちた。


 私は目を閉じる。


 あの瞬間から、もうあの家へ戻るつもりはなかった。



5



 拓海が病院を出たのは午前二時を過ぎてからだった。


 美羽の手の甲にはいくつか水ぶくれができていたが、大きな怪我ではなかった。それでも処置の間ずっと泣き続け、拓海の腕を掴んで離さなかった。


 美羽を佐伯家まで送ったあと、拓海は自分の部屋へ戻った。


 部屋は暗い。


 私へ電話をかける。


 電源が切れていた。


 シャワーを浴びているうちに、ようやく婚礼サロンの火事を思い出した。


 美羽を抱いて外へ出る時、確かに一度振り返った。


 私が呼んでいたことも覚えている。


 ただ、あの時は出口もスタッフも近くにいた。


 真帆なら出られる。


 そう思っていた。


 午前四時過ぎ。


 拓海は悪夢から目を覚ました。


 スマートフォンにはサロンから連絡が入っている。


【事故状況と補償について確認があります。できるだけ早く店舗へお越しください】


 拓海はすぐに車を走らせた。


 店へ着くと、スタッフが事故確認のため、防犯カメラの映像をその場で見せた。


 画面の中。


 美羽の腕が燭台へ触れる。


 火が私のベールへ移り、わずかな時間で広がっていく。


 そして拓海は、自分自身を見た。


 私は煙の中で咳き込みながら彼へ手を伸ばしていた。


 拓海は振り返った。


 確かに私を見た。


 それでも美羽を抱いたまま、画面の外へ消えていった。


 映像を巻き戻す。


 二度目に、私の髪の一部が焦げていることに気づいた。


 三度目。


 燃えた装飾物が右腕へ落ち、私はその場に崩れた。


 拓海の手が震えた。


 スタッフは別の角度の映像も見せた。


 消火器とスプリンクラーで火が抑えられたあと、スタッフ二人が私を奥から助け出す。


 顔は煤だらけで、右腕には酷い火傷があった。


 そのまま救急搬送された。


「出火のきっかけは、ご一緒だった女性が燭台に触れたことです」


「保険会社からも、後ほどご本人へ状況確認が入ると思います」


 拓海にはほとんど聞こえていなかった。


「真帆は、どこへ運ばれたんですか?」


 スタッフが分かる範囲では、救急車は霞森市立総合医療センターの方向へ向かったらしい。


 拓海はすぐ病院へ駆け込んだ。


 だが受付では何も教えてもらえなかった。


「申し訳ありませんが、患者様の情報はお答えできません」


「俺、彼氏なんです!」


「ご本人の同意がなければ、交際相手の方にもお伝えできません」


 拓海は初めて途方に暮れた。


 何度電話しても繋がらない。


 最後に奈緒へ電話した。


「奈緒。真帆、お前と一緒なのか?」


 奈緒の声は冷たかった。


「生きてるよ」


 拓海が大きく息を吐く。


「どこにいる? 会いに行く」


「真帆は会いたくないって」


「怪我してるんだろ? ちゃんと説明したい。俺だって、あんなに火が広がるとは思ってなかったし、美羽も火傷して――」


「それ、関係ある?」


 奈緒が遮る。


「映像を見たよ」


「真帆があなたを呼んでた」


「あなたも振り返った」


 少し間が空く。


「見えてたのに、美羽を選んだんでしょう」


 拓海は何も言えなかった。


「真帆から伝言」


「もう会わなくていいって」


「これから誰を大事にするかは、あなたの自由だからって」


 電話は切れた。


 拓海は病院のロビーに立ち尽くした。


 外はもう明るくなり始めていた。



6



 翌日の昼、美羽が家へ戻った。


 拓海は佐伯家のリビングで一晩中待っていた。


「拓海くん?」


「お姉ちゃんは? まだ帰ってないの?」


 拓海が顔を上げる。


「昨日の燭台」


「わざと倒したのか?」


 美羽の笑顔が固まった。


 包帯を巻いた手を見せる。


「何それ。私だって火傷したんだよ? わざと火事にしたって言いたいの?」


「防犯カメラを見た」


「燭台を倒したあと、火がついてる真帆のドレスを掴もうとしてただろ」


「何で?」


 美羽の顔色が変わる。


「怖くて、適当に手を伸ばしただけ」


「燃えてるドレスを?」


 拓海の声が冷たくなる。


「美羽」


「本当のこと言えよ」


 美羽の目からすぐ涙が落ちた。


 その時、玄関が開く。


 母が買い物袋を持って入ってきた。


「美羽、どうしたの?」


「拓海くんに何か言われた?」


 美羽はすぐ母へ抱きついた。


「拓海くんが、私がわざと火事にしたって言うの」


「お姉ちゃんだって、みんなに心配してほしくてあんな大騒ぎして逃げただけじゃん」


「私だって小さい頃は、ちょっとみんなに探してほしくて外に出ただけで――」


 そこで、美羽の声が止まった。


 部屋が静まり返る。


 拓海がゆっくり立った。


「今、何て言った?」


「何も言ってない」


「小さい頃、みんなに探してほしかった?」


 拓海は美羽を見つめる。


「じゃあ、あの迷子も自分からだったのか?」


 美羽が一歩下がった。


「五歳だったんだよ。覚えてない」


「でも泣けばみんなが心配することは分かってた」


「最後には全部、真帆のせいになることも」


 廊下には、いつの間にか父も立っていた。


「美羽」


「あの時、何があったんだ?」


 美羽の唇が震える。


 やがて泣きながら叫んだ。


「だって昔から、みんなお姉ちゃんばっかり褒めてたじゃん!」


「お姉ちゃんがいい点を取ったら何か買ってあげるのに、私にはもっと頑張れって言うだけだった!」


「一回くらい私のことだけ心配してほしかったの!」


「本当に帰り道が分からなくなるなんて思わなかった!」


 母の手が美羽の頬を打った。


 美羽は頬を押さえた。


 今度は、誰もすぐ抱きしめなかった。


「あなたのお姉ちゃんが、このことで何年苦しんだと思ってるの?」


 母の声が震えていた。


「猫も手放した。部屋も譲った。大学まで一年遅らせた」


「あなたが不安だって言うたび、私たちが真帆に我慢させてきたのよ」


 美羽が叫ぶ。


「それを決めたのはお父さんとお母さんでしょ!」


「私が無理やりやらせたわけじゃない!」


「お姉ちゃんだって嫌なら断ればよかったじゃん!」


 誰も言葉を返せなかった。


 拓海は美羽を見つめた。


 自分がずっと知っているつもりだった少女は、最初から違う人間だったのかもしれない。


 私へ電話する。


 繋がらない。


 LINEを開いてメッセージを送った。


【真帆、悪かった。どこにいる? 一度だけ会ってくれ】


 送信できなかった。


 私はすでに彼をブロックしていた。


 その頃、私はまだ病院にいた。


 右腕はⅡ度熱傷、煙を吸ったことによる軽い気道症状もあった。数日入院し、その後もしばらく通院した。


 医師から長時間のフライトを許可された日、会社が用意してくれたビザと赴任書類を持って、日本を離れた。


 飛行機が離陸しても、振り返らなかった。



7



 ヴェルディア共和国セレノ市へ着いたのは、現地時間の午後だった。


 右腕がまだ不自由だったため、会社が空港アシスタンスを手配してくれていた。スタッフに荷物を持ってもらい到着ロビーを出ると、ガラス張りの天井から明るい日差しが降り注いでいた。


 ここでは誰も私を知らない。


 そのことに、初めて安心した。


 現地法人の人事担当が待っていた。


「佐伯さん。入社手続きを担当している高橋です」


「リカバリーセンターの手配は済んでいます。医師から段階的に復職するよう指示が出ていますので、最初からフルタイムで働く必要はありません」


 車で一時間ほど移動し、海辺にある白い建物へ着いた。


 そこは火傷や術後のリハビリだけでなく、長期療養や滞在型のケアも行う海辺のリカバリーセンターだった。


 部屋からは海が見えた。


 一人になると、波の音だけが聞こえる。


 私は長い間ベッドに座っていた。


 それからようやく泣いた。


 三日目。


 庭のベンチで、一組の老夫婦と出会った。


 銀色の短い髪をした女性が、自然な日本語で声をかけてきた。わずかに外国の訛りがある。


「腕、まだ痛む?」


「だいぶ良くなりました」


 彼女は事情を聞かず、自分のお茶を少し分けてくれた。


「私はカトリーヌ」


「あっちで釣りをしてるふりをしてるのが、夫の正臣よ。どうせ今日も一匹も釣れないけど」


 十分後。


 久世正臣は本当に空のバケツを提げて戻ってきた。


 私たちを見ると、ポケットから飴を一つ出す。


「今日は魚なし」


「代わりにこれ」


 セレノへ来てから、初めて笑った。


 カトリーヌと正臣は毎年、冬になるとこのセンターで一、二か月の長期滞在をしていた。


 それから二人は、ほぼ毎日私に会いに来た。


 右手を自由に動かせない私に、カトリーヌは左手で編み物を教えてくれた。正臣は朝の散歩から帰るたび、違う味の飴を一つ持ってくる。


 三週間後、包帯が外れた。


 右腕にはまだ、新しいピンク色の皮膚が広がっている。


 鏡を見たまま黙っていると、カトリーヌが自分の脚を少しだけ見せた。


 薄い古い傷痕があった。


「若い頃、馬から落ちたの」


「最初はもっと目立ってた」


 彼女が笑う。


「何十年も経てば、よく見ないと分からなくなるわ」


 私は自分の腕を見た。


 その日、初めてすぐ袖を下ろさなかった。


 マフラーを編み終えた日、正臣がシャンパンを開けた。


「人生初のマフラー完成、おめでとう」


「まあ、ちょっと車に轢かれたみたいな形だけど」


 カトリーヌがすぐ彼の足を蹴った。


 それからマフラーを紙袋へ入れてくれる。


「誰かにあげたければ、あげればいい」


「渡したくないなら、自分で持っててもいいのよ」


 少しだけ私を見つめる。


「私は若い頃、苦しいことがあると編み物をしたの。編み終わったものが手を離れると、嫌な時間まで少し遠くなる気がしてね」


 その夜、マフラーを長い間眺めた。


 結局、日本には送らなかった。


 自分のクローゼットへしまった。


 一か月後、医師から段階的な復職の許可が出た。


 私は現地法人の海外事業部へ配属された。最初は短時間勤務から始め、回復に合わせて少しずつ勤務時間を延ばした。


 入社三日目。


 担当プロジェクトの責任者と初めて顔を合わせた。


 久世怜央。


 三十歳くらいで、濃紺のシャツに細いフレームの眼鏡。話すテンポは速いが、説明は分かりやすかった。


 会議後、私は彼を呼び止めた。


「久世さん」


「リカバリーセンターのこと、ありがとうございました」


 彼は足を止めた。


「会社の復職支援です。僕にお礼を言う必要はありませんよ」


 少し笑う。


「ただ、母は毎日あなたの話をしてますけど」


「お母様?」


「カトリーヌです」


「僕の母です」


 私は思わず固まった。


 怜央は私の右腕へ一度目を向けた。


 何も聞かなかった。


 ただ手を差し出す。


「セレノへようこそ」


 私はその手を握った。


 温かかった。



8



 拓海が初めて会社の前へ現れたのは、私がヴェルディアへ来て三か月経った頃だった。


 午後、書類を抱えてビルを出ると、花壇のそばに一人の男が座っていた。


 以前よりかなり痩せ、髪も乱れている。


 私を見つけると立ち上がった。


「真帆」


 私は足を止める。


「どうしてここが分かったの?」


 あとで知ったことだが、奈緒からは何も聞き出せず、私の元いた会社が公式サイトに掲載した海外事業の記事から、セレノの現地法人名を調べたらしい。


 拓海が近づいてくる。


 私は手を上げた。


「それ以上来ないで」


 三歩ほど離れた場所で、拓海が止まる。


 袖から見えた私の傷痕に気づき、喉が動いた。


「真帆、悪かった」


「店の防犯映像も見た」


「美羽がわざと燭台を倒したことも、あとで分かった。それに……俺がお前を一人で残して出たことも」


 目が赤くなっていく。


「もう美羽のことは面倒見ない」


「あいつがどうなっても、俺には関係ない」


「真帆、もう一回やり直せないか?」


 不思議なくらい、何も感じなかった。


「拓海」


「まだ分かってないよ」


 彼が黙る。


「美羽がわざと火事を起こしたかどうかなんて、もう大きな問題じゃない」


「私があなたを諦めたのは、あなたが私を見たあと、それでも美羽を抱いて出ていったから」


 拓海の唇が動く。


 声は出なかった。


「それ以前も同じだった」


「美羽が私のものを欲しがるたび、あなたは全部分かってた」


「ただ、私を我慢させるほうが楽だっただけ」


 私は一歩下がった。


「もう来ないで」


「私たちは終わったの」


 拓海がまた進もうとした時、背後の回転ドアが開いた。


 怜央が出てくる。


 手には私のコートがあった。


「佐伯さん、外は冷えますよ」


 コートを渡すだけで、会話には割り込まなかった。


 拓海が彼を睨む。


「誰だよ?」


「同僚です」


「俺は真帆の彼氏だ!」


 私はすぐ口を開いた。


「元彼」


 拓海が固まる。


 会社の警備員もこちらを見ていた。


 怜央が私へ尋ねる。


「警備を呼びますか?」


「お願いします」


 怜央は最後まで、私の代わりに判断しなかった。


 拓海はそのまま敷地から退去させられた。


 二度目に来た時は、会社側が入館を拒否した。


 私は現地警察にも相談した。国を越えて勤務先まで繰り返し現れていることから正式な警告が行われ、接近を制限する手続きも取った。


 三度目。


 拓海は再びヴェルディアへの入国を試みた。


 過去の迷惑行為と有効な接近制限が確認され、入国審査で長時間事情を聞かれた末、短期滞在目的が認められず日本へ戻された。


 その頃には、私を探すために何度も仕事を無断で休んでいた。


 帰国後、勤務先から処分を受け、最終的には職まで失った。


 一方で、私の生活は少しずつ形になっていった。


 怜央は過去を無理に聞こうとしなかった。


 仕事が長引けばリハビリの時間を気にしてくれ、資料に間違いがあれば普通に修正を入れる。休日には、一緒にカトリーヌと正臣のところへ顔を出すことも増えた。


 その冬。


 怜央が深い赤色のカシミヤマフラーをくれた。


「自分で編んだやつ、かなり曲がってたでしょう」


「今度はこっち使ってください」


 私は笑いながら巻いた。


 窓の外では、ちょうど雪が降り始めていた。


 春になった頃、怜央から気持ちを伝えられた。


 私はすぐには答えず、数日考えた。


 それから、もう一度誰かと一緒に歩いてみたいと思えたことを、そのまま伝えた。


 私たちは付き合い始めた。



9



 その後、日本のことは時々奈緒から聞いた。


 拓海は何度か職を変えたが、どこも長く続かなかった。


 美羽とも完全に関係が壊れ、二人は互いに「自分の人生を壊したのは相手だ」と責め続けたらしい。


 家族からの援助を失った美羽の生活も荒れていった。


 やがて詐欺事件に巻き込まれ、詐欺と窃盗の容疑で逮捕された。


 奈緒から届いた連絡を一度読んだだけで、私は画面を閉じた。


 両親からもメールが来るようになった。


 体調が悪くなってきたこと。


 一度連絡がほしいこと。


 私は返さなかった。


 セレノの街が年末の灯りに包まれ始めた頃、カトリーヌから淡い赤色のカシミヤカーディガンが届いた。


 カードには一言だけ書いてあった。


【新しい一年が、真帆にとって穏やかな年になりますように】


 大晦日の前日、私は怜央と会社で最後の書類を片づけていた。


 彼が時計を見る。


「そろそろ帰りましょう」


「母が夕食に来いって」


「また何作ったの?」


 怜央は少し黙った。


「雑煮」


「去年よりは上手くなってる……と思います」


 私は笑った。


「じゃあ手伝いに行こう」


 夜。


 海の向こうに花火が上がった。


 キッチンには湯気が広がり、正臣がテーブルでシャンパンを開けている。カトリーヌは「邪魔」と言って夫を台所から追い出した。


 怜央は隣で餅を切っていた。


 少し危なっかしい手つきを見て、包丁を代わろうとした時。


 スマートフォンが光った。


 母からだった。


【真帆、お母さん病気なの。できるなら、最後に一度会いたい】


 長い間、画面を見つめた。


 怜央は何も聞かなかった。


 ただ隣にいた。


 私は短く返した。


【分かった】


 スマートフォンをしまい、また台所へ戻った。


 その翌年。


 私と怜央はセレノで法的な婚姻手続きを済ませた。


 盛大なことは何もしなかった。


 カトリーヌと正臣を交えて、四人で食事をしただけだった。


 結婚式だけは、母のことが落ち着いてからにしようと二人で決めた。



10



 日本へ帰る時、怜央も一緒に来た。


 休暇を取り、カトリーヌからは出発前に何度も念を押されていた。


「真帆が話したくない時は、無理に聞いちゃだめよ」


「分かってるよ」


 母は霞森市の病院に三か月入院していた。


 病室で会った時には、別人のように痩せていた。


 私を見ると目に涙を浮かべ、もうほとんど話す力もないまま、ずっと手を握っていた。


 父もずいぶん老けていた。


 椅子から立ち上がり、長い間私を見た。


「真帆」


「父さんが悪かった」


 私は何も答えなかった。


 カトリーヌから預かってきた飴を、母のベッド脇に置いた。


 母が亡くなった夜。


 私は朝までそばにいた。


 夜が明ける頃、母は一度だけ目を開けた。


 私を見て、何か言おうとした。


 そのまま静かに目を閉じた。


 父が後ろで泣いた。


 私は立ち上がり、母の布団を整えた。


 怜央はずっと病室の外にいた。


 中には入らなかった。


 それでも、いることは分かっていた。


 葬儀を終えた三日後。


 斎場の外に拓海がいた。


 以前よりさらに痩せている。


 私を見ると、一歩近づこうとした。


 怜央が横から来た。


 私の前には立たず、隣に立つ。


 拓海の視線が私の左手で止まった。


 薬指には、シンプルなプラチナの指輪がある。


 顔色が変わった。


「真帆……」


「その指輪……」


 私は彼を見る。


「結婚したよ」


 拓海は長い間黙った。


 指輪から怜央へ視線を移す。


 最後に、乾いた笑いを漏らした。


「結局、俺の負けか」


 怜央が静かに答える。


「勝ち負けの話じゃないでしょう」


 私はそれ以上続けさせなかった。


「拓海」


「今日は母の葬儀だから」


「帰って」


 拓海は私を見つめた。


 言いたいことは残っていたのだろう。


 結局、一言も口にせず背を向けた。


 少し歩いたところで、一度だけ振り返った。


 私はもう見なかった。


 その後、父も数年後に亡くなったと奈緒から聞いた。


 両親は晩年、ほとんど財産を残せなかった。美羽も刑期を終えたあと生活を立て直せず、その後また問題を起こしたらしい。


 最後に聞いたのは、服役中に重い病気になり、そのまま亡くなったという知らせだった。


 私はしばらく黙った。


 それ以上は聞かなかった。


 奈緒も後にセレノの会社へ転職し、こちらへ引っ越してきた。


 週末には一緒にカトリーヌの庭でお茶をする。


 カトリーヌは奈緒のことも気に入った。


「この子、笑うと太陽みたいね」


 とよく言っていた。


 私と怜央はすでに法律上の夫婦になっていたが、まだ結婚式だけは挙げていなかった。


 式を行ったのは、その翌年の夏だった。


 場所は海辺のリカバリーセンターの庭。


 ブーゲンビリアが満開だった。


 カトリーヌが髪を整えてくれ、正臣はどうしても司会をやると言い張った。


 白い礼服を着た怜央が、花のアーチの下で待っている。


 歩き出すと、海風がベールを持ち上げた。


 右腕の傷痕が見える。


 私は隠さなかった。


 以前カトリーヌに、メイクで傷を隠したいかと聞かれたことがある。


 首を横に振ると、彼女もそれ以上勧めなかった。


「じゃあ、そのままで」


「きれいよ」


 花のアーチまで来ると、怜央が手を差し出した。


 スタッフからブーケを受け取る。


 白と淡い黄色の花を束ねた、ひとつのブーケ。


 それを見た瞬間。


 ずっと昔の、半分にされたブーケを思い出した。


 今度は誰もリボンをほどかなかった。


 誰も、半分を誰かに渡せとは言わなかった。


 怜央はただ、ひとつのブーケをそのまま私へ渡した。


 私は思わず笑った。


 分けなくていいものだって、ある。


 怜央が顔を覗き込む。


「何笑ってるの?」


「何でもない」


 彼の手を握った。


 花のアーチの向こうで拍手が起こる。


 カトリーヌはもう泣き始めていて、正臣が隣で「今から泣いたら夜のシャンパンまで化粧がもたないぞ」と小声で言っていた。


 私は怜央の腕を取って歩き出した。


 背中には海。


 目の前には、陽の当たる道が続いていた。


 手の中のブーケは。


 最後まで、ひとつのままだった。


――完――



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