ハルカカナタ
六歳の誕生日が近い三月の終わりの日曜日。
朝食を済ませた僕は、三つ年上の姉のハルカと一緒にそっと施設を後にした。昨日の夜から決めていたことだ。
雲一つない澄んだ空、先月まで銀色だったネコヤナギは黄色の花粉を纏まとい、日差しの中で金色に輝いていた。頬を撫ぜる風が柔らかい。道々見つける草花の小さな綻ほころびに、僕は声を上げる。
「お姉ちゃん、ほら、土筆つくしが出ている」
「ほんとだ。ねぇ、カナタ。あっちには、タンポポが咲いている」
二人でしゃがみ込み土手で春を探した。時間を忘れ夢中になって土筆を採ったり、タンポポやスミレを摘んだり。母親が昔作った、タンポポの卵とじを思い出す。あの時、タンポポが食べられるのを初めて知った。
今日は、僕達が里親に引き取られて行く日だった。
「姉弟一緒で良かったね」
里親が決まった時、施設の先生が微笑んだ。
里親の岡田さん夫婦との面会や交流もあり、おばさんは何だか知っている匂いがした。
「岡田さんは、実はね……」
先生が何か言い掛けると、おばさんは黙って首を振って言葉を遮る。
先生は頷くと、気を取り直したように屈んで僕達の目を覗き込んだ。
「おじさんもおばさんも、優しそうな人だね」
僕達が無表情だったからか、先生は重ねて言った。
「きっと、大切にしてくれるよ」
――両親が離婚した後、母親が連れて来た新しい『お父さん』は、僕達の頭をガシガシ撫でて白い歯を見せた。母親より少し若い。
「優しい人よ」母親の言葉に僕達は安堵したが、それが恐怖に変わるのに、時間は掛からなかった。
躾しつけと言って、怒鳴り声や物が飛び、拳や蹴りも飛んで来た。風呂場で冷水を掛けられたこともある。姉は泣き叫ぶ僕を庇い、更に殴られた。
何よりも辛かったのは、「あんた達が悪い」と言って、母親が守ってくれないことだった。
近所からの通報で児相が来た時も、母親は玄関で追い返した。僕の左手は骨折したまま放置され、変な具合にくっ付いた。
その年の暮れ、屋外に締め出された夜、僕達は体を寄せて温め合いながら、玄関前に座って居た。寒さに耐えかねて、近くのコンビニに助けを求め、児童養護施設に保護されたのだ。
しばらくして、母親と新しい父親が行方を眩ましたので、そのままそこで暮らし、姉は小学校に通うようになった。
「先生、ここにいては駄目ですか?」
「ここにいたい」
里親が決まった時、職員に一生懸命訴えた。
僕達は大人が怖い。優しそうに見える人も怖い。だから、施設でも二人だけで行動していた。
「心配いらないのよ」
それでも不安で、施設と里親から逃げてきたのだ。行く当てがある訳ではなかった。
ふと、土筆に伸ばした手に影が差し、僕達は顔を上げる。知らない男がすぐ傍に立っていた。
「何しているのぉ?」
ねっとり甘ったるい声だった。
驚いて反射的に立ち上がる。
「行くよ」
姉は、僕の左手をギュッと掴むと、男に返事をせずに速足で歩き始める。「痛い」と言っても姉は聴かず「走るよ」と更に強く引っ張った。
僕は土筆とタンポポをズボンのポケットに突っ込んだ。走っている内に、バラバラ落ちたけど、姉は止まらなかった。
「ねぇ、待ってよぉ」
男の声が背中を追いかけて来る。僕達は走って走って、犬の散歩中のお婆さんを見付けると、腰にしがみ付いた。息が苦しくて、脇腹が痛い。
「あらあら、どうしたの?」
お婆さんは、尋常でない様子の僕達と、男を交互に見る。
追い掛けて来た男は、お婆さんが連れていた柴犬に吠えられて、何か毒づきながら退散した。
「……今の人、知り合い?」
僕達は首を横に振る。
「……そう。怖かったわね。大丈夫?」
「うん」
お婆さんにお礼を言って別れた。
しばらく歩いている内に僕は気が付いて、泣きそうになった。
「お姉ちゃん、クマのちいちゃん、落としちゃったみたい」
クマのちいちゃんは、小さなクマの縫いぐるみのキーホルダーで、まだ両親が結婚していた頃、家族四人で出掛けたテーマパークで買った僕のお気に入りだった。
「あの時は、楽しかったね」と二人の楽しい思い出は、いつもそこに収束する。お菓子の詰め合わせを買った姉は、形に残るものを買えば良かったと何度も悔やんだ。だから、クマのちいちゃんは、僕達にとって掛け替えのない幸せの遺物だった。
「ちいちゃん、探しに行こうよ」
「さっきの男の人、もういないかな」
僕がせがむと、姉は心配そうな顔をした。
逃げて来た道を、慎重に辿りながら探す。幸い、さっきの男の姿は見えない。
僕のお腹がグゥと鳴った。もうお昼をとっくに過ぎたのだろう。何度も往復し、もう諦めようかと思った時、二人の名を呼ぶ声がした。
「ハルカちゃん! カナタ君!」
振り返ると、施設の先生とお巡りさん、そして、里親の岡田さん夫婦が立っていた。
「心配したのよ」
先生は涙声になっていた。
「ごめんなさい」
「どうして、ここが分かったの?」
「近所のお婆さんが、これを交番に届けてくれてね。あと、施設の方からも捜索願いが出ていたから」
お巡りさんが、クマのちいちゃんを掲げて見せる。
「交番でこれを見た時に、カナタ君がいつも持っていたのだって、すぐに分かったよ」
先生は覚えていてくれた。
どうやら、お婆さんにしがみ付いた時に落としたようだ。
「ハルカちゃん、カナタ君。おばさんの家に来るのが、嫌だったの?」
里親の岡田さんが、悲しそうな顔で訊ねた。
「嫌っていうか、怖かった」
姉が答える。
「怖い?」
おばさんの声が震えた。
「大丈夫だよ」
笑顔のおじさんが、一歩足を踏み出したので、僕達は後退る。
「あなた」
おばさんは、おじさんを制して、自分が一歩出てしゃがんだ。
しゃがんだおばさんは、僕達を優しく見上げた。
「怖いことが沢山あったから、大人が怖くなっちゃったのね」
じっと、おばさんの目を見る。
「おばさん達のお家に来て、どうしても無理だと思うなら、施設に帰っても良いのよ」
おばさんは、一瞬視線を落としてから続けた。
「私達、今度は後悔したくないの。
怖い大人ばかりじゃないって、二人に知って欲しい。ほら、クマのちいちゃんを拾ってくれたお婆ちゃんだって、怖くなかったでしょ? 試しに、家に来てみて欲しいの」
姉は少し考える様に眉根を寄せた。
「今度は後悔したくないって、何?」
おばさんは、寂しそうに微笑む。
「あのね、ハルカちゃんとカナタ君のお母さんのミカちゃん、いえ、ミカさんは、私達が初めてお迎えした里子だったの」
「えっ」
僕と姉は意味がよく分からなかった。
「ミカさんもね、子供の頃、ちょうど今のハルカちゃんくらいの時かな、親に虐待されて、児童施設に保護されていたのよ。それを私達が引き取ったの」
母親が施設にいた事を僕達は知らなかった。
「ただね、ずっといた訳じゃないの。家に来て、一年くらい経った頃、実のお母さんが引き取るって言ってね、連れて行った。私達は心配だったのだけど、手を離すしかなかった」
おばさんは、隣のおじさんを見上げ、悲しそうに顔を見合わせる。
「でも、今回、ハルカちゃんとカナタ君のことを知って、ああ、手放さなければ良かったって心底後悔した」
ようやく分かって来た。母親も子供の頃に施設に保護され、一時、岡田さんの里子であったのだ。母親が僕達に繰り返し口にしていたのは、クソったれな親の悪口と、優しいおばさんの話。そのおばさんが、岡田さんだったのだ。
おばさんはそっと手を伸ばして、繋いでいる僕と姉の手を、温める様に両手で包んだ。ふんわりと、懐かしく優しい香りがする。お母さんが、まだ優しかった頃の匂いに似ていた。
「あら、土筆とタンポポを採ったのね」
僕のズボンのポケットに、しおれた土筆とタンポポが覗いていた。
「うん、食べられるんだよ。知ってる?」
昔、お母さんがタンポポの卵とじを作ってくれたのだと話すと、おばさんは、ちょっと涙ぐんで言った。
「ミカさん、覚えていてくれたのね」
「行ってきます!」
十二年後、姉の成人式の日、空はからりと晴れ渡った。
岡田家の両親と共に、僕は笑顔で見送る。
振袖の柄が土筆とタンポポに見えたのは内緒。
辛い子供時代は、遥か彼方に消えていた。
了




