最終話 「可愛いままで、隣にいる」
十年後。
王都の朝は相変わらず忙しい。けれど、ハルトマン公爵邸の朝は――忙しさの質が、少し違った。
扉が開く音の前に、足音が来る。軽い足音が二つ、重ねて一つ。廊下の空気がふわりと揺れて、次の瞬間、寝室の扉が勢いよく押し開けられた。
「お父さま、起きてる?」
八歳の娘が、寝間着のまま胸を張って立っている。後ろから六歳の長男が、まだ眠たげな目で覗き込む。そのさらに後ろで五歳の次男が、なぜか片方の靴下だけ履いて、片方を手にぶら下げたまま真剣な顔をしていた。
レオンハルトは枕元で片目を開け、ゆっくり息を吐いた。十年前の彼なら、寝室への突入は重大な規律違反として処理しただろう。今は、規律より先に体温が来る。
「起きている。……お前たちは、朝の挨拶より先に突撃する癖がついたな」
娘は当然だと言わんばかりに頷く。
「だって、お父さまは仕事に行っちゃうでしょ。先に捕まえないと」
捕まえる、という言い回しが妙に生々しい。誰に似たのか、答えは一つしかない。
レオンハルトは身体を起こして、背中を伸ばす。痛みはある。だが、痛みがあることを不幸だとは思わなくなった。痛みは、ここに家がある証拠でもある。
「捕まえるのはいいが――」
言いかけたところで、三歳の末娘が、よたよたと廊下を走ってきて、勢いのまま寝室に転がり込んだ。
「おとう、いた!」
その小さな声は、世界を簡単にほどく。レオンハルトは思わず口元を緩め、末娘を抱き上げた。軽い。暖かい。腕の中で、安心したように頬を寄せてくる。
「いた。ここにいる」
すると、扉の向こうから、落ち着いた声が聞こえた。
「おはようございます。皆、揃っていると思ったら……やはりここでしたか」
エリシアだった。
ふんわりとした空気は昔のままだが、歩き方に当主の重みがある。十年で彼女は公爵になった。肩書きが変わっても、彼女の“芯”は変わらない。柔らかく、譲らず、逃がさない。
そのエリシアの腹部は、今日も穏やかな丸みを帯びていた。
五人目――「お腹に一人」が、そこにいる。
レオンハルトは無意識に視線を落とし、すぐに目を上げた。見ることは許される。だが、見惚れると子どもたちが騒ぐ。騒ぐと、朝が一段階荒れる。
しかし娘は見逃さない。
「お父さま、今お母さまのお腹見た」
「見た」
「好きなんでしょ」
八歳は鋭すぎる。政治の場に出したら危険なタイプだ。
レオンハルトは咳払いを一つして、淡々と返した。
「当たり前だ」
娘が目を丸くする。予想外だったらしい。誤魔化されると思っていたのだろう。
エリシアが小さく笑う。
「ほら。お父さまは、逃げないようになりました」
逃げない。十年前に約束した言葉が、今も生活の中に残っている。
六歳の長男が、眠たげな目をこすりながら呟いた。
「おとう、今日もおしごと?」
「今日も仕事だ」
「おかあさまは?」
「今日は領の報告と、王都への書簡の確認がある」
公爵の仕事だ。彼女は“国と領”を背負っている。十年前のレオンハルトが恐れていた未来を、彼女は当たり前のように歩いている。そして、その横には自分がいる。
――相応しさは、誰かの序列ではなく、選び合った結果だ。
十年経っても、彼の価値の再定義は崩れていなかった。
五歳の次男が、片方の靴下を掲げる。
「おとう、これ、どこ?」
「もう片方は履いているのか」
「うん」
「なら、片方はお前の手の中だ」
「そうだった」
危機管理能力が低い。こちらは母親似ではない。
末娘が抱っこされたまま、エリシアの方に手を伸ばす。
「おかあ、おなか」
エリシアは近づき、末娘の指先を自分の腹にそっと触れさせた。
「ここに、赤ちゃんがいるの」
末娘はしばらく真剣な顔で見つめてから、ふわっと笑った。
「ちいさい」
「そうね。小さい。でも、ちゃんと生きてる」
その言葉は、どこか儀礼ではなく祈りのようだった。エリシアは何度も出産を経験し、そのたびに命の不確かさと強さを、身体で知ってきたのだろう。
八歳の娘が胸を張る。
「わたしがいちばんおねえちゃん。赤ちゃん、わたしが守る」
六歳の長男が慌てて言う。
「ぼくも!」
五歳の次男も乗る。
「ぼくも!」
末娘はよく分からないまま、元気よく言った。
「わたしも!」
レオンハルトは、その宣言の連鎖に、少しだけ喉の奥が熱くなるのを感じた。守るという言葉を、彼は長い間“重い責任”として扱ってきた。今、守るは家族の遊びのように言われ、しかしその遊びは、本気の土台にもなる。
エリシアが、子どもたちを順に見て言った。
「皆が守るなら、赤ちゃんはとても安心ですね。でも、守る前に――」
視線がふっとレオンハルトへ向いた。
「お父さまを朝食へ連れていってください。仕事に行く前に、食べさせないと」
食べさせる。十年前の自分が聞いたら、反射的に「自分で食べます」と言いそうな言い回しだ。今は、違う。
娘がにやりと笑う。
「ほら。捕まえなきゃ」
結局、捕まえるのだ。
朝食の席は戦場だった。パンは切り分けられ、果物は皿の上で逃げ、牛乳は一度こぼれて、侍女が静かに処理し、誰も騒がない。邸は十年で“子沢山仕様”に鍛えられていた。
レオンハルトはコーヒーを一口飲み、エリシアの横顔を見る。彼女は子どもたちに視線を配りながら、同時に書簡の要点を頭の中で整理しているのが分かる。ふんわりした顔で、頭の中は鋼。昔からそうだ。
彼は、ふと、十年の「色々」を思い出す。
王都の噂。年齢差への嘲笑。政敵の揺さぶり。公爵家の継承に絡む利権。宰相府での権限整理。議会の言葉の罠。領地での改革に伴う反発。疫病の年もあったし、飢饉の兆しもあった。王城の意向が変わるたび、文言一つで国の空気が動くのを、彼らは何度も見た。
それでも、折れなかった。
折れないように“段取り”を作ったからだ。
レオンハルトは仕事を続けた。エリシアは公爵として立った。互いに口を出しすぎず、しかし倒れそうなときは止める権利を持ち、躊躇なく行使した。守ることを一方通行にしない。それが彼女の約束で、彼の誓いだった。
そして、もう一つの事実もある。
子どもは増えた。
増えた理由は、政治的な計算ではない。王城に対する安定策でもない。もちろん、結果として安定はしたが、最初の理由はもっと単純だった。
――彼は、エリシアの身体に惹かれてしまった。
惹かれたという言い方は正確ではない。彼女が彼を救うように、彼女の体温が彼を現実に繋ぎ止めた。疲れた夜、冷えた指先。言葉の届かない孤独の底で、彼女の温度が「ここにいる」と言ってくれた。
そして何より、彼女は自分を“可愛い”と言い続けた。
可愛いと言われるたび、彼は最初は苦しかった。だがいつからか、可愛いは彼の弱さを許す合図になった。だから彼は、逃げなくなった。逃げない男は、当然、家庭を作る。家庭は、命を作る。
気づけば、女八歳、男六歳、男五歳、女三歳。そこに、腹の中の一人。
子沢山だ。周囲が呆れるほどに。
それでも、エリシアはいつもふんわり言うのだ。
「だって、可愛いから」
その言葉は、彼の人生を再定義した呪文でもあった。
食卓で、八歳の娘が突然言った。
「ねえ、お父さま」
「何だ」
「お母さまのこと、可愛いって思ってる?」
レオンハルトはパンを置いて、真顔で答えた。
「思っている」
即答だった。
娘が満足そうに頷くと、今度は六歳の長男が言った。
「じゃあ、ぼくも?」
レオンハルトは少し考えた。幼い子の自己肯定を、適当に扱うのは危険だ。けれどここは、父として最適解を出す。
「お前は、可愛いというより――頼もしい」
長男が目を輝かせる。六歳には、その評価が刺さる。
五歳の次男が慌てる。
「ぼくは!」
「お前は……面白い」
次男は理解していない顔をしたが、面白いが褒め言葉だという空気は分かったらしい。満足そうに牛乳を飲んで、また少しこぼした。
末娘が口の端にジャムを付けたまま言う。
「おとう、わたしは?」
レオンハルトは末娘の頬を拭いながら、静かに言った。
「可愛い」
末娘は勝ち誇った顔で、エリシアに抱きつく。
エリシアが、少し困ったように笑いながら、レオンハルトを見た。目が言っている――ほら、あなたも言えるようになった。
彼は小さく肩をすくめて返す。言えるようになった。言うべきことを言えるようになった。十年かかったが、それは誇っていい。
出立の時間が近づき、レオンハルトは外套を手に取った。子どもたちが玄関までついてくる。八歳の娘は当然のように整列させる。六歳と五歳がそれに従い、末娘が途中で飽きて座り込む。
エリシアが玄関ホールに立ち、レオンハルトの外套の襟を整える。昔から変わらない仕草だ。彼の仕事の鎧を、彼女が整える。
「今日も無理をしないでください」
「無理はしない」
「昨日もそう言っていました」
「昨日は少しだけ無理だった」
彼が素直に認めると、エリシアがふっと笑う。
「可愛い」
レオンハルトは目を逸らさず、返した。
「その言葉を武器にするのは、やめろ」
「武器ではありません。お守りです」
エリシアがそう言うと、子どもたちが一斉に真似をする。
「おまもり!」 「おまもり!」 「おまもり!」
末娘だけは違う。
「おなか!」
エリシアが笑って、末娘を抱き上げた。
「はいはい。お腹にも、お守りがいます」
その言い方が、あまりに自然で、レオンハルトは胸の奥が温かくなるのを感じた。十年前、彼は彼女の未来を汚すことを恐れた。今、彼女の未来は彼女が作り、そこに命が重なり、家が重なり、国が重なっている。
汚すどころか、彼女は強くなった。柔らかいまま、強い。
出立の前、エリシアが一歩近づき、声を落とした。子どもたちには聞こえない距離と音量。夫婦の合図だ。
「昨夜の続きは、今夜にしましょう」
レオンハルトは咳払いをした。昔なら、狼狽を隠せずに硬い顔をしただろう。今は、硬い顔のまま、正面から言える。
「……子どもたちが寝てからだ」
エリシアの笑みが、少しだけ艶を帯びる。だが彼女はふんわりのまま言った。
「はい。可愛いから、待てます」
彼は敗北を認めるように息を吐く。
「そういうところだ」
エリシアは首を傾げる。
「どういうところですか」
レオンハルトは、扉へ向かいながら、最後に振り返って言った。
「また、子どもが増える」
エリシアは一瞬きょとんとして、すぐに小さく笑った。笑って、腹をそっと撫でる。
「もう増えています」
その言い方が、家の真実だった。
馬車に乗り込む直前、八歳の娘が背伸びして叫ぶ。
「お父さま、いってらっしゃい! ちゃんと帰ってきてね!」
六歳の長男も続く。
「いってらっしゃい! おみやげ!」
五歳の次男はもっと現実的だ。
「おやつ!」
末娘は両手を振って言った。
「おとう、ばいばい!」
レオンハルトは馬車の段に足をかけ、振り返り、家族を見た。
公爵。子ども四人。腹の中の一人。邸の人々。守るべきものが増えたせいで、彼は弱くなったのか。
違う。
守るべきものが増えたから、彼は強くなった。
強さとは、独りで折れないことではない。支えられながら折れないことだ。十年前、彼が最も怖かった形の強さを、今、彼は手にしている。
馬車が動き出す。窓の外で家族が小さくなる。けれど、胸の中の温度は小さくならない。
レオンハルトは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「可愛いから、好きです」
十年前の決着の言葉が、今は日常の言葉になっていた。
そして日常は、何よりも強い。
この物語は、「正解」ではなく「選択」を描きたくて書きました。
若くて美しく、家柄も整い、誰が見ても“相応しい”相手がいる中で。
それでも人は、心が動いた相手を選んでしまう。
理屈ではなく、世間体でもなく、未来予測でもなく。
ただ「この人が好きだ」と思ってしまう、その瞬間の尊さを。
レオンハルトは強い人間です。
けれどその強さは「自分を削る強さ」であって、「自分を許す強さ」ではありませんでした。
エリシアはその強さを否定せず、守りながら、少しずつ形を変えました。
「可愛い」という言葉は、彼にとって最初は刃でしたが、
やがて「生きていていい」という許可になり、
最後には「一緒に生きる理由」へと変わっていきます。
子どもが増えたのは、ただのハッピーエンド演出ではありません。
彼が“逃げずに触れ、逃げずに愛し、逃げずに受け取った”結果です。
理性と責任だけで生きてきた男が、
温度と欲と生活を引き受けるようになった証でもあります。
そしてエリシアは、最後まで「おっとり」でした。
けれどそれは弱さではなく、
選び続ける強さ、受け止め続ける覚悟でした。
この二人は、世界から見れば不釣り合いかもしれません。
年齢も、立場も、外見の“理想像”も違う。
けれど、人が誰かを愛する理由は、
いつだって「可愛い」「一緒にいたい」「守りたい」「触れたい」
そんな単純な言葉の中にあります。
もしこの物語を読んで、
「自分は相応しくない」と思ってしまう誰かが、
少しだけ息をしてもいいと思えたなら。
それだけで、この物語は役目を果たしたと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




