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「可愛いから、好きです」  作者: 月白ふゆ


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8/8

最終話 「可愛いままで、隣にいる」

十年後。


王都の朝は相変わらず忙しい。けれど、ハルトマン公爵邸の朝は――忙しさの質が、少し違った。


扉が開く音の前に、足音が来る。軽い足音が二つ、重ねて一つ。廊下の空気がふわりと揺れて、次の瞬間、寝室の扉が勢いよく押し開けられた。


「お父さま、起きてる?」


八歳の娘が、寝間着のまま胸を張って立っている。後ろから六歳の長男が、まだ眠たげな目で覗き込む。そのさらに後ろで五歳の次男が、なぜか片方の靴下だけ履いて、片方を手にぶら下げたまま真剣な顔をしていた。


レオンハルトは枕元で片目を開け、ゆっくり息を吐いた。十年前の彼なら、寝室への突入は重大な規律違反として処理しただろう。今は、規律より先に体温が来る。


「起きている。……お前たちは、朝の挨拶より先に突撃する癖がついたな」


娘は当然だと言わんばかりに頷く。


「だって、お父さまは仕事に行っちゃうでしょ。先に捕まえないと」


捕まえる、という言い回しが妙に生々しい。誰に似たのか、答えは一つしかない。


レオンハルトは身体を起こして、背中を伸ばす。痛みはある。だが、痛みがあることを不幸だとは思わなくなった。痛みは、ここに家がある証拠でもある。


「捕まえるのはいいが――」


言いかけたところで、三歳の末娘が、よたよたと廊下を走ってきて、勢いのまま寝室に転がり込んだ。


「おとう、いた!」


その小さな声は、世界を簡単にほどく。レオンハルトは思わず口元を緩め、末娘を抱き上げた。軽い。暖かい。腕の中で、安心したように頬を寄せてくる。


「いた。ここにいる」


すると、扉の向こうから、落ち着いた声が聞こえた。


「おはようございます。皆、揃っていると思ったら……やはりここでしたか」


エリシアだった。


ふんわりとした空気は昔のままだが、歩き方に当主の重みがある。十年で彼女は公爵になった。肩書きが変わっても、彼女の“芯”は変わらない。柔らかく、譲らず、逃がさない。


そのエリシアの腹部は、今日も穏やかな丸みを帯びていた。


五人目――「お腹に一人」が、そこにいる。


レオンハルトは無意識に視線を落とし、すぐに目を上げた。見ることは許される。だが、見惚れると子どもたちが騒ぐ。騒ぐと、朝が一段階荒れる。


しかし娘は見逃さない。


「お父さま、今お母さまのお腹見た」


「見た」


「好きなんでしょ」


八歳は鋭すぎる。政治の場に出したら危険なタイプだ。


レオンハルトは咳払いを一つして、淡々と返した。


「当たり前だ」


娘が目を丸くする。予想外だったらしい。誤魔化されると思っていたのだろう。


エリシアが小さく笑う。


「ほら。お父さまは、逃げないようになりました」


逃げない。十年前に約束した言葉が、今も生活の中に残っている。


六歳の長男が、眠たげな目をこすりながら呟いた。


「おとう、今日もおしごと?」


「今日も仕事だ」


「おかあさまは?」


「今日は領の報告と、王都への書簡の確認がある」


公爵の仕事だ。彼女は“国と領”を背負っている。十年前のレオンハルトが恐れていた未来を、彼女は当たり前のように歩いている。そして、その横には自分がいる。


――相応しさは、誰かの序列ではなく、選び合った結果だ。


十年経っても、彼の価値の再定義は崩れていなかった。


五歳の次男が、片方の靴下を掲げる。


「おとう、これ、どこ?」


「もう片方は履いているのか」


「うん」


「なら、片方はお前の手の中だ」


「そうだった」


危機管理能力が低い。こちらは母親似ではない。


末娘が抱っこされたまま、エリシアの方に手を伸ばす。


「おかあ、おなか」


エリシアは近づき、末娘の指先を自分の腹にそっと触れさせた。


「ここに、赤ちゃんがいるの」


末娘はしばらく真剣な顔で見つめてから、ふわっと笑った。


「ちいさい」


「そうね。小さい。でも、ちゃんと生きてる」


その言葉は、どこか儀礼ではなく祈りのようだった。エリシアは何度も出産を経験し、そのたびに命の不確かさと強さを、身体で知ってきたのだろう。


八歳の娘が胸を張る。


「わたしがいちばんおねえちゃん。赤ちゃん、わたしが守る」


六歳の長男が慌てて言う。


「ぼくも!」


五歳の次男も乗る。


「ぼくも!」


末娘はよく分からないまま、元気よく言った。


「わたしも!」


レオンハルトは、その宣言の連鎖に、少しだけ喉の奥が熱くなるのを感じた。守るという言葉を、彼は長い間“重い責任”として扱ってきた。今、守るは家族の遊びのように言われ、しかしその遊びは、本気の土台にもなる。


エリシアが、子どもたちを順に見て言った。


「皆が守るなら、赤ちゃんはとても安心ですね。でも、守る前に――」


視線がふっとレオンハルトへ向いた。


「お父さまを朝食へ連れていってください。仕事に行く前に、食べさせないと」


食べさせる。十年前の自分が聞いたら、反射的に「自分で食べます」と言いそうな言い回しだ。今は、違う。


娘がにやりと笑う。


「ほら。捕まえなきゃ」


結局、捕まえるのだ。


朝食の席は戦場だった。パンは切り分けられ、果物は皿の上で逃げ、牛乳は一度こぼれて、侍女が静かに処理し、誰も騒がない。邸は十年で“子沢山仕様”に鍛えられていた。


レオンハルトはコーヒーを一口飲み、エリシアの横顔を見る。彼女は子どもたちに視線を配りながら、同時に書簡の要点を頭の中で整理しているのが分かる。ふんわりした顔で、頭の中は鋼。昔からそうだ。


彼は、ふと、十年の「色々」を思い出す。


王都の噂。年齢差への嘲笑。政敵の揺さぶり。公爵家の継承に絡む利権。宰相府での権限整理。議会の言葉の罠。領地での改革に伴う反発。疫病の年もあったし、飢饉の兆しもあった。王城の意向が変わるたび、文言一つで国の空気が動くのを、彼らは何度も見た。


それでも、折れなかった。


折れないように“段取り”を作ったからだ。


レオンハルトは仕事を続けた。エリシアは公爵として立った。互いに口を出しすぎず、しかし倒れそうなときは止める権利を持ち、躊躇なく行使した。守ることを一方通行にしない。それが彼女の約束で、彼の誓いだった。


そして、もう一つの事実もある。


子どもは増えた。


増えた理由は、政治的な計算ではない。王城に対する安定策でもない。もちろん、結果として安定はしたが、最初の理由はもっと単純だった。


――彼は、エリシアの身体に惹かれてしまった。


惹かれたという言い方は正確ではない。彼女が彼を救うように、彼女の体温が彼を現実に繋ぎ止めた。疲れた夜、冷えた指先。言葉の届かない孤独の底で、彼女の温度が「ここにいる」と言ってくれた。


そして何より、彼女は自分を“可愛い”と言い続けた。


可愛いと言われるたび、彼は最初は苦しかった。だがいつからか、可愛いは彼の弱さを許す合図になった。だから彼は、逃げなくなった。逃げない男は、当然、家庭を作る。家庭は、命を作る。


気づけば、女八歳、男六歳、男五歳、女三歳。そこに、腹の中の一人。


子沢山だ。周囲が呆れるほどに。


それでも、エリシアはいつもふんわり言うのだ。


「だって、可愛いから」


その言葉は、彼の人生を再定義した呪文でもあった。


食卓で、八歳の娘が突然言った。


「ねえ、お父さま」


「何だ」


「お母さまのこと、可愛いって思ってる?」


レオンハルトはパンを置いて、真顔で答えた。


「思っている」


即答だった。


娘が満足そうに頷くと、今度は六歳の長男が言った。


「じゃあ、ぼくも?」


レオンハルトは少し考えた。幼い子の自己肯定を、適当に扱うのは危険だ。けれどここは、父として最適解を出す。


「お前は、可愛いというより――頼もしい」


長男が目を輝かせる。六歳には、その評価が刺さる。


五歳の次男が慌てる。


「ぼくは!」


「お前は……面白い」


次男は理解していない顔をしたが、面白いが褒め言葉だという空気は分かったらしい。満足そうに牛乳を飲んで、また少しこぼした。


末娘が口の端にジャムを付けたまま言う。


「おとう、わたしは?」


レオンハルトは末娘の頬を拭いながら、静かに言った。


「可愛い」


末娘は勝ち誇った顔で、エリシアに抱きつく。


エリシアが、少し困ったように笑いながら、レオンハルトを見た。目が言っている――ほら、あなたも言えるようになった。


彼は小さく肩をすくめて返す。言えるようになった。言うべきことを言えるようになった。十年かかったが、それは誇っていい。


出立の時間が近づき、レオンハルトは外套を手に取った。子どもたちが玄関までついてくる。八歳の娘は当然のように整列させる。六歳と五歳がそれに従い、末娘が途中で飽きて座り込む。


エリシアが玄関ホールに立ち、レオンハルトの外套の襟を整える。昔から変わらない仕草だ。彼の仕事の鎧を、彼女が整える。


「今日も無理をしないでください」


「無理はしない」


「昨日もそう言っていました」


「昨日は少しだけ無理だった」


彼が素直に認めると、エリシアがふっと笑う。


「可愛い」


レオンハルトは目を逸らさず、返した。


「その言葉を武器にするのは、やめろ」


「武器ではありません。お守りです」


エリシアがそう言うと、子どもたちが一斉に真似をする。


「おまもり!」 「おまもり!」 「おまもり!」


末娘だけは違う。


「おなか!」


エリシアが笑って、末娘を抱き上げた。


「はいはい。お腹にも、お守りがいます」


その言い方が、あまりに自然で、レオンハルトは胸の奥が温かくなるのを感じた。十年前、彼は彼女の未来を汚すことを恐れた。今、彼女の未来は彼女が作り、そこに命が重なり、家が重なり、国が重なっている。


汚すどころか、彼女は強くなった。柔らかいまま、強い。


出立の前、エリシアが一歩近づき、声を落とした。子どもたちには聞こえない距離と音量。夫婦の合図だ。


「昨夜の続きは、今夜にしましょう」


レオンハルトは咳払いをした。昔なら、狼狽を隠せずに硬い顔をしただろう。今は、硬い顔のまま、正面から言える。


「……子どもたちが寝てからだ」


エリシアの笑みが、少しだけ艶を帯びる。だが彼女はふんわりのまま言った。


「はい。可愛いから、待てます」


彼は敗北を認めるように息を吐く。


「そういうところだ」


エリシアは首を傾げる。


「どういうところですか」


レオンハルトは、扉へ向かいながら、最後に振り返って言った。


「また、子どもが増える」


エリシアは一瞬きょとんとして、すぐに小さく笑った。笑って、腹をそっと撫でる。


「もう増えています」


その言い方が、家の真実だった。


馬車に乗り込む直前、八歳の娘が背伸びして叫ぶ。


「お父さま、いってらっしゃい! ちゃんと帰ってきてね!」


六歳の長男も続く。


「いってらっしゃい! おみやげ!」


五歳の次男はもっと現実的だ。


「おやつ!」


末娘は両手を振って言った。


「おとう、ばいばい!」


レオンハルトは馬車の段に足をかけ、振り返り、家族を見た。


公爵。子ども四人。腹の中の一人。邸の人々。守るべきものが増えたせいで、彼は弱くなったのか。


違う。


守るべきものが増えたから、彼は強くなった。


強さとは、独りで折れないことではない。支えられながら折れないことだ。十年前、彼が最も怖かった形の強さを、今、彼は手にしている。


馬車が動き出す。窓の外で家族が小さくなる。けれど、胸の中の温度は小さくならない。


レオンハルトは、誰にも聞こえない声で呟いた。


「可愛いから、好きです」


十年前の決着の言葉が、今は日常の言葉になっていた。


そして日常は、何よりも強い。

この物語は、「正解」ではなく「選択」を描きたくて書きました。


若くて美しく、家柄も整い、誰が見ても“相応しい”相手がいる中で。

それでも人は、心が動いた相手を選んでしまう。

理屈ではなく、世間体でもなく、未来予測でもなく。

ただ「この人が好きだ」と思ってしまう、その瞬間の尊さを。


レオンハルトは強い人間です。

けれどその強さは「自分を削る強さ」であって、「自分を許す強さ」ではありませんでした。

エリシアはその強さを否定せず、守りながら、少しずつ形を変えました。

「可愛い」という言葉は、彼にとって最初は刃でしたが、

やがて「生きていていい」という許可になり、

最後には「一緒に生きる理由」へと変わっていきます。


子どもが増えたのは、ただのハッピーエンド演出ではありません。

彼が“逃げずに触れ、逃げずに愛し、逃げずに受け取った”結果です。

理性と責任だけで生きてきた男が、

温度と欲と生活を引き受けるようになった証でもあります。


そしてエリシアは、最後まで「おっとり」でした。

けれどそれは弱さではなく、

選び続ける強さ、受け止め続ける覚悟でした。


この二人は、世界から見れば不釣り合いかもしれません。

年齢も、立場も、外見の“理想像”も違う。

けれど、人が誰かを愛する理由は、

いつだって「可愛い」「一緒にいたい」「守りたい」「触れたい」

そんな単純な言葉の中にあります。


もしこの物語を読んで、

「自分は相応しくない」と思ってしまう誰かが、

少しだけ息をしてもいいと思えたなら。

それだけで、この物語は役目を果たしたと思っています。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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