第7話 「可愛いから、好きです」
扉が開いた瞬間、レオンハルトは「いつもの空気」と「今日の空気」の違いを、言葉より先に皮膚で理解した。
エリシアは泣いていない。笑ってもいない。怒ってもいない。ふんわりおっとりの柔らかさはそのままに、しかし芯だけが露わになっている。公爵令嬢の“社交の顔”でも、次期公爵の“政治の顔”でもない。彼の前に立つ一人の少女の目だった。
「今日は、最後まで聞いてください」
お願いではない。命令でもない。ただの宣言だ。逃げ道のある言い方をしないという宣言。
レオンハルトは椅子に座ったまま、背筋を正した。立ち上がれば距離が縮まる。距離が縮まれば、彼は揺れる。だから座ったまま、視線だけを上げる。
「……分かりました」
声が掠れたのは、疲労ではない。恐怖だ。
エリシアは机の前まで来ると、執務室の中を一度だけ見回した。紙の山、封蝋、覚書、茶葉の瓶、窓際の白い花。自分が置いた花が、ちゃんとそこにあるのを確認して、ほんの少しだけ息を吐く。
「レオンハルト様。私は、あなたが逃げようとしていることを知っています」
直球だった。彼女は今日、段取りのための婉曲を捨ててきたのだろう。
「逃げていません。私は——」
「逃げています」
優しい声で否定されるのは、いつも残酷だ。攻撃ではない。事実の提示だ。宰相がやる“事実”と同じ手つきなのに、彼女がやると“心の手当て”になる。彼はその手当てが怖い。
「あなたは、自分が相応しくないと言って私を遠ざけようとする。異動も考えた。書類も書いた。宰相に止められた。……ここまでは、合っていますか」
レオンハルトは一瞬だけ目を伏せた。否定はできない。嘘を重ねれば、さらに泥になる。
「……合っています」
エリシアは頷く。
「では、次です。あなたは、相応しくない理由を“私の未来”に置き換える」
「それは——」
「置き換えています」
まただ。柔らかい断言。
レオンハルトは、拳を握る。握るほど、爪が掌に食い込む。痛みがあると、言葉が出る。
「あなたは次期公爵です。国を背負う。公爵領を背負う。あなたの人生は、私の人生とは違う。私は宰相補佐官で、ただの実務官僚です。あなたの隣に立つのは——」
「嫌です」
エリシアが、短く言った。
レオンハルトが息を止める。
「その“ただの”が嫌です。あなたは自分を小さく言う。でも私は、あなたが小さくないことを知っています」
「知っている、というのは錯覚です」
「錯覚ではありません」
エリシアは机の上の紙束の端を、指先で軽く押さえた。そこには彼が昨日まとめた政策文言の草案がある。議会用の、相手の面子を潰さず、国益を通すための、繊細な文章。
「私は、あなたの文章を読みました。あなたの会議を見ました。あなたが“相手の言葉を拾う”ところを見ました。敵の面子も、味方の疲れも、下の者の怖さも拾う。拾って、折れない形に整える」
エリシアの声が、わずかに熱を帯びた。ふんわりした口調のまま、熱だけが増していく。
「あなたは、国を動かしています。爵位より価値がある、と宰相が言う理由が、私にも分かります。だから私は——」
「だからこそ、あなたはもっと良い相手を選べる」
レオンハルトは被せた。被せてしまった。彼女の熱が、彼の壁を削る前に止めたかった。
「あなたには、世界が納得する正解がある。侯爵家次男は——」
エリシアの目が、少しだけ細くなる。怒りではない。集中の目だ。
「オルフェンズ侯爵家次男の話は、終わりました」
「……終わったから、問題なのです。あの正解を捨てて、なぜ私を——」
「あなたが、私を“正解の代用品”にしようとするからです」
レオンハルトは言葉を失った。代用品。そんな意図はない、と言いかけて、止めた。意図がなくても、結果がそう見えているなら、彼女はその結果を問題として扱う。
「私は、誰かの代用品ではありません。あなたも、誰かの代用品ではありません」
エリシアはゆっくり言う。ゆっくり言うことで、言葉が逃げない。
「私は、私の心であなたを選びました。あなたが“正解を捨てた私”を心配するなら、それはあなたの優しさです。でも、その優しさが私を否定するなら——それは優しさではありません」
レオンハルトは、喉の奥が痛んだ。正しい。正しいから、反論ができない。
「では、聞きます」
エリシアは一拍置いて、問いを変えた。政治家の手つきだ。論点を動かす。だが狙いは政治ではなく、彼の恐怖の核心。
「レオンハルト様。あなたは、私が二十七でも拒みますか」
レオンハルトは目を見開いた。想定していなかった質問だった。十七と四十一の差を消した仮定。差が消えれば、彼が掴んでいた“逃げの柱”が折れる。
「……それは」
「答えてください」
逃げ道のない声。
レオンハルトは、深く息を吸った。答えるしかない。答えた瞬間、自分が何を守ってきたのかが露わになる。
「……拒みます」
声が、自分でも驚くほど低かった。
エリシアは瞬きをする。痛む顔にはならない。むしろ、静かに頷いた。
「ありがとうございます。やっと、あなたの本当が出ました」
本当。彼は、今まで嘘をついていたのか。嘘というより、誤魔化しだ。自分を守るための誤魔化し。
「あなたが怖いのは、年齢差だけではない。私の未来だけでもない。あなたは——」
エリシアは言葉を選ぶ。選ぶことで、彼の心へ踏み込みすぎないようにしている。踏み込みすぎない優しさがあるから、彼は余計に崩れる。
「あなたは、“自分が救われる”のが怖い」
レオンハルトの胸が、痛いほど波打った。
救われる。彼が最も恐れている言葉。
救われれば、彼は弱くなる。弱くなれば、頼る。頼れば、相手に触れる。触れれば、相手の人生に責任が生まれる。責任を負うなら、彼は相手を守ろうとする。守ろうとして、結局、自分を削る。削れば倒れる。倒れれば国が揺れる。
その連鎖を、彼は一人で抱えてきた。抱えたまま生きることで、国を回してきた。だから救われることが、怖い。
「……私は、救われる資格がありません」
絞り出した言葉は、彼の核心の自己否定だった。
エリシアは、少しだけ首を傾げた。彼女らしい仕草だ。ふんわりした動きなのに、内容が鋭い。
「資格、という言葉を、あなたは何にでも使いますね」
「私は、責任を負う立場です」
「責任を負う人ほど、休む資格が要るのですか」
レオンハルトは言葉を失う。彼女の問いは、いつも彼の論理を一段上から覆す。覆すのに、暴力がない。ただ“別の価値観”を提示するだけだ。
「レオンハルト様。私はあなたに、完璧を求めません」
「……」
「私が求めているのは、あなたが“自分を切り捨てる癖”をやめることです」
彼の喉が詰まった。癖。そうだ。彼は癖で自分を切り捨てる。誰かが困れば自分が背負う。誰かが傷つけば自分が引く。誰かが揺れれば自分が支える。支え続けて、疲れて、でも平気なふりをする。
それを可愛いと言われるのが、最も苦しい。可愛いという言葉が、彼の“自己犠牲”を肯定するように聞こえるからだ。
「……あなたは、私の何が可愛いのですか」
思わず出た問いだった。逃げるための問いではない。彼が初めて、真正面から彼女の価値観を知ろうとした問い。
エリシアは驚いた顔をして、すぐに柔らかく笑った。今日は笑わない顔で来たはずなのに、その問いだけは嬉しかったのだろう。
「たくさんあります」
「……具体的に」
自分でも信じられない。四十一の男が、十七の少女に“具体的に”と求める。だが彼は今、具体が欲しかった。曖昧な肯定ではなく、彼が“生きていていい理由”の根拠が欲しかった。
エリシアは指を折らず、数えない。数えると政治になる。数えないことで、彼女の心のままを出す。
「あなたは、人に優しい。でも、優しさを見せびらかさない。私が紅茶を持っていくと、最初は困った顔をするのに、受け取る時は必ず『ありがとう』と言う」
「それは礼儀です」
「礼儀を“当たり前”にできる人が少ないから、可愛いのです」
レオンハルトの胸が、わずかに熱くなる。礼儀を褒められたことなどない。礼儀は義務だ。義務を褒めるのは、彼女の価値観が“義務の奥にある心”を見ているからだ。
「あなたは、部下が失敗した時に叱らない。代わりに『次はどうする』と聞く。責めない。前を見る。前を見るのに、相手の怖さを置き去りにしない」
「……それは、効率です」
「効率だけなら、切り捨てます。あなたは切り捨てない。だから可愛いのです」
可愛い、という言葉が、彼の中で少しずつ形を変える。可愛いとは、幼いとか、弱いとか、そういう意味ではない。彼女の可愛いは、彼の“人間としての姿勢”への愛称だ。
「あなたは、私が無理をすると眉が下がる。注意する時、怒らない。怒鳴らない。声が低くなるだけ。……あの低い声が、私は好きです」
レオンハルトは思わず目を逸らした。耳の奥が熱い。そんなものを好きだと言われて、どう反応すればいい。
「あなたは自分を卑下するのに、他人の価値は正確に測れる。私の価値も、領の価値も、国の価値も。正確に言語化できる。……それなのに、自分だけは測れない。その不器用さが、可愛い」
不器用。彼が自分を表すなら、無慈悲なほど合理的で、冷たく仕事を回す人間だと思っていた。不器用と言われたことがない。不器用は子どもの言葉だ。だが彼女は、彼の不器用を愛している。
「そして、あなたは——」
エリシアは言葉を止めた。少しだけ息を吸う。ここからが一番大事なのだろう。
「あなたは、私を“次期公爵”として扱う。でも、その奥にいる私を見ている」
レオンハルトの視界が揺れた。
「あなたが私を見ている時、私は……息ができます。誰もが私を“未来の当主”として見る。期待と責任で見る。あなたもそうです。でも、あなたの目は、最後に必ず『疲れていないか』を含む。私はそれが、救いです」
救い。彼女の口から出た救いは、彼の恐怖の言葉とは違う。救いは依存ではない。救いは、生きるための空気だ。
「だから私は、あなたが自分を切り捨てるのが嫌です。あなたがいなくなると、私は息ができなくなる」
それは告白に近い。だが彼女は、依存の形では言わない。息ができないと言いながら、彼女は立っている。立ったまま言う。立てるからこそ、彼女の言葉は真剣だ。
レオンハルトは、しばらく沈黙した。自分の中の連鎖が、少しずつほどけていくのを感じる。救われるのが怖いのではない。救われた先で、相手を溺れさせるのが怖いのだ。だが彼女は溺れない。彼女は立っている。彼が支えれば彼女は倒れない。彼女が支えれば彼も倒れない。
支えるという行為が、一方通行ではなく、相互になる可能性がある。
その可能性が、彼の価値観を揺らす。
「……あなたは、私を美化しています」
最後の抵抗だった。
エリシアは首を振る。
「美化しません。私は現実主義者です。次期公爵になる人間は、夢だけで動けません」
きっぱり言う。その言い方は宰相に似ている。彼女は宰相に学んだのだろう。けれど宰相と違うのは、そこに温度があることだ。
「あなたが怖いのも知っています。あなたが弱くなるのが怖いのも知っています。あなたが年齢差を言い訳にしたくなるのも知っています。あなたが優しいから、私を傷つけない拒否を探しているのも知っています」
全部、見抜かれている。
「だから私は、あなたに一つだけ約束します」
エリシアは、机の上に両手を置いた。身を乗り出すのではない。距離を縮めるためではない。誓う姿勢だ。
「あなたが“自分を守るために私を捨てる”のをやめるなら、私は“あなたを縛るために国を使う”ことはしません」
レオンハルトは息を呑んだ。縛るために国を使う。可能なのだ。彼女ならできる。公爵家ならできる。王城も段取りを作れる。社会は公認している。すべてが“縛り”に転じる危険がある。
だが彼女は、それをしないと言う。選ぶのは彼女でも、縛るのはしない。選択を尊重する。彼が求めてきた価値観だ。
「私はあなたに命令しません。あなたの仕事も奪いません。あなたの立場も奪いません。あなたの時間も奪いません。……ただ、あなたが自分を切り捨てるときだけ、止めます」
止める。それは彼女の意志。
レオンハルトは、胸の奥の何かが崩れていくのを感じた。崩れるのは恐ろしいはずだった。だが崩れた先に、初めて息が入ってくる。
「……私は」
言葉が出ない。出ないのに、目の奥が熱い。泣きたくない。泣けば弱い。だが弱さを否定し続けた結果、彼はここまで追い詰められた。
弱さは否定するものではない。扱い方を学ぶものだ。
彼はそれを、今日、彼女から突きつけられている。
「レオンハルト様」
エリシアが呼ぶ。いつもの呼び方。いつもの温度。
「私は、あなたが私を拒むなら拒むで、受け止めます。でもその時は、あなたの言葉で拒んでください。“私の未来”で逃げないでください。あなたの怖さを、あなたの責任として、私に見せてください」
責任。責任という言葉を、彼女がこう使うのはずるい。彼は責任から逃げない。逃げないように生きてきた。だからこの言葉は、彼の最も深い価値観を揺さぶる。
レオンハルトは、ようやく目を上げた。エリシアの目がまっすぐだ。逃げない。追い詰める目ではない。受け止める目だ。
「……怖いです」
彼は言った。
声が震えた。震える声を、彼は初めて他人に見せた。宰相にも、公爵にも、部下にも見せなかった震えだ。
「私は、あなたに心を許したら、きっと壊れます。壊れて、あなたに縋る。縋って、あなたの人生を奪う。私はそういう自分が怖い」
エリシアは、静かに頷く。否定しない。大丈夫と軽く言わない。現実主義のまま、受け止める。
「では、壊れないように一緒に段取りを作りましょう」
段取り。彼女は彼の言葉で返した。彼が理解できる形に落とす。彼女はいつもそうする。彼が仕事で人の面子を拾うように、彼女は彼の恐怖を拾う。
「私は縋りません」
レオンハルトは首を振った。意地だ。誇りだ。最後の砦だ。
「縋ってもいいです」
エリシアは、あっさり言った。
「縋ることと、奪うことは違います。縋っても、私の未来は奪われません。私が奪われるなら、それは私が“奪われることを選んだ”時だけです」
自分の選択。彼女はそこへ戻す。戻すことで、彼の恐怖の連鎖を断ち切る。彼が奪うのではない。彼女が選ぶ。選ばれた以上、彼はその選択を尊重すべきだ。
尊重。彼はいつも他人の人生を尊重してきた。だからこそ、今、自分だけがその尊重から外れている。
「……私は」
レオンハルトは言葉を探し、ようやく、これまで避け続けた事実を口にした。
「私は、あなたが好きです」
空気が止まったように感じた。言った瞬間、彼の中で何かがほどけ、同時に恐怖が波のように押し寄せる。好きと言えば、世界が確定する。公認が現実になる。逃げ道が消える。
だが、もう逃げないと決めた。逃げないと決めた以上、恐怖は恐怖のまま抱えるしかない。
エリシアは目を見開き、次の瞬間、ふっと息を吐いた。泣かない。けれど瞳が濡れる。涙になる直前で止める。次期公爵の矜持があるのだろう。だが頬は少し赤い。
「……本当ですか」
「本当です」
「なら、どうして拒んだのですか」
レオンハルトは苦く笑った。笑うつもりなどなかった。だが笑うしかない。滑稽だ。四十一の男が、十七の少女に恋をし、怖くて拒む。政治より厄介だ。
「怖かったからです」
「今も怖いですか」
「怖い」
「逃げますか」
「逃げません」
短い問答。言葉が、彼の中で“決裁”になる。国の決裁より重い決裁だ。
エリシアは机の上から手を離し、一歩だけ距離を縮めた。袖に触れるか触れないかの距離。彼女は触れない。触れないことで、彼に逃げる余地を残す。逃げないと決めた人間に、逃げる余地を残すのは優しさだ。
「レオンハルト様。では、私たちの段取りを決めましょう」
彼女は言った。段取り。恋を現実に落とす言葉。
「今すぐ婚姻にしなくていい。あなたが苦しいなら、婚約の形だけでいい。公爵領の実務は、これまで通りあなたの仕事として尊重します。私は次期公爵として、あなたの仕事に口を出しません。ただ——」
エリシアは一拍置いて、まっすぐ言った。
「あなたが倒れそうな時、あなたに“休んで”と言う権利を、私にください」
権利。彼女は権利という言葉を選んだ。義務ではない。命令でもない。二人の契約にするためだ。
レオンハルトは目を閉じた。胸が痛いほど熱い。休めと言われる権利を与える。そんな権利を他人に渡すのは、彼の価値観ではあり得ない。休むかどうかは自己管理だ。自己管理を他人に預けるのは甘えだ。
だが、甘えない結果がこれだ。疲れを押し殺し、孤独を抱え、救いを拒み続けた結果、彼は今、拒否と自己否定で壊れかけている。
支えは必要だ。支えを契約にするなら、彼の価値観でも受け入れられる。
「……分かりました」
言った瞬間、エリシアの表情が柔らかく崩れた。崩れて、しかし泣かない。泣きたいのを堪えるように、微笑む。
「ありがとうございます」
そのありがとうが、彼の胸に刺さる。ありがとうを言うのは彼の役目だと思っていた。支えられる側がありがとうを言うのは、弱さだと思っていた。だが彼女は弱さではなく、礼儀として言う。
礼儀を当たり前にできる人が少ないから可愛い、と彼女は言った。ならば彼女も、可愛いのだろう。
彼はふっと息を吐いて、初めて素直に言った。
「あなたも……可愛い」
エリシアが、声を出さずに笑った。声を出すと泣きそうになるのだろう。肩が小さく揺れる。
「それは、ずるいです」
「ずるいのはあなたです」
「私はずるくありません」
「ずるい」
言い合いの形を取りながら、二人の間の空気が少しだけ軽くなる。政治の重さが薄れる。人間の温度が戻る。
その時、扉が控えめに叩かれた。
二人は同時に固まった。
「失礼いたします」
入ってきたのは宰相だった。無表情のまま、しかし目だけが一瞬、状況を読み取る。読み取った上で、余計な言葉を省く。
「話は終わったか」
レオンハルトは立ち上がり、礼をした。エリシアも同じく礼をする。宰相府の執務室で、次期公爵が礼をする。昨日までなら異様な光景だ。今日は、もう異様ではない。
「……終わりました」
レオンハルトが言った。終わりました、というのは、逃げないと決めた証拠だ。
宰相は頷き、机の上の書類を一瞥したあと、淡々と言った。
「なら、次は実務だ。公爵と王城へ“内々の合意”を正式に流す。議会への文言は私が用意する。お前は確認だけしろ」
確認だけ。宰相の中で、彼の役割を守っている。彼を前に出しすぎない。矢面に立たせない。政治家としての配慮だ。
宰相は一拍置いて、エリシアへ向けて言った。
「次期公爵。あなたが求めた形は、最小限の波で整えられる。ただし、国は甘くない。周囲は“物語”にする。あなたが守りたいものは、あなたが守れ」
エリシアは頷く。
「守ります」
短い答えが強い。国を背負う者の声。
宰相はそれで十分だと判断したのだろう。視線をレオンハルトへ戻す。
「ハルトマン補佐官」
「はい」
「自分を卑下するな。卑下は、政治的には敵への餌だ。私的には——」
宰相が言葉を止める。珍しい。宰相が私的を口にするのは稀だ。
「私的には、相手への侮辱になる」
それだけ言って、宰相は退出した。退出の仕方が、いつもより静かだった。
扉が閉まる。
レオンハルトは、エリシアを見た。エリシアも彼を見た。
二人の間に、今度は沈黙が落ちない。沈黙が落ちないということは、怖さが消えたわけではない。怖さを、共有できる空気ができたということだ。
「……私たちは」
レオンハルトが言いかけると、エリシアが微笑んだ。
「はい。私たちは、これからです」
これから。彼女の未来に、彼が混ざる。混ざることが汚れではない。混ざることが支えになる。支えが相互なら、奪うではなく、育つ。
彼は、胸の奥の価値観が組み替わっていくのを感じた。
相応しさとは、爵位や年齢や外見ではない。 相応しさとは、相手の人生を尊重し、相手の選択を受け止め、相手が倒れないように支え、そして自分も倒れないように支えられること。
彼はその価値の再定義を、ようやく自分の言葉にできる。
「エリシア」
彼女の名を呼ぶと、彼女の瞳が柔らかくなる。
「私は、あなたの未来を尊重します。あなたの選択を尊重します。だから——」
彼は一拍置いて、はっきり言った。
「私を選んだ責任を、あなた一人に背負わせません」
エリシアの目が潤む。今度は止められなかったのか、涙が一筋だけ頬を滑った。だが泣き崩れない。拭うだけだ。次期公爵の矜持。
「それが、欲しかったのです」
小さな声だった。けれど、その一言で十分だった。
その日の夜、公爵邸で簡易な会合が開かれた。宰相、公爵、そして最低限の証人となる重臣数名。形式張った公表ではない。だが“内々の合意”としては強固な場だ。
レオンハルトはその席で、逃げなかった。立ち上がり、礼をし、簡潔に述べた。
次期公爵の選択を尊重すること。宰相府の職務は継続すること。公爵領の実務面での連携を深めること。婚姻の時期は公爵家と本人の意向を第一にし、政治的波を最小限にすること。
政治の言葉で、恋を守る宣言だった。
公爵は満足げに頷いた。宰相は表情を変えない。ただ、眼差しだけが「これでいい」と言っていた。
会合の終わり際、オルフェンズ侯爵家次男アルベルトが現れた。彼は呼ばれていたのだろう。公爵邸の廊下でレオンハルトに一礼する。
「補佐官殿」
「……侯爵家次男」
アルベルトは柔らかく微笑んだ。
「次期公爵は、良い選択をしました。あなたは、選ばれるべき人です」
「私は、選ばれる側ではないと思っていました」
「思っていたから、選ばれたのでしょう」
アルベルトは一拍置いて続ける。
「あなたが受け止めたのなら、私は安心です。次期公爵の未来が、政治の正解だけで埋まらないと知ったから」
その言葉は、敗者の言葉ではなかった。譲った者の言葉だ。政治の美しさを保ったまま、個人の幸福も尊重する、成熟した撤退。
レオンハルトは深く礼をした。
「……感謝します」
アルベルトは首を振った。
「感謝は不要です。あなたが倒れないことを願います。国のためにも、彼女のためにも」
倒れない。その願いが、今日の結論の中心だ。
会合が終わり、夜風の冷たい庭へ出ると、エリシアが一人で立っていた。灯りの下で、白い息が淡く揺れる。彼女は彼を見ると、ふんわりと笑った。ようやく“いつもの顔”が戻っている。
「レオンハルト様」
「……エリシア」
名で呼び合うだけで、世界が少しだけ変わる。
エリシアは手を胸の前で重ね、少しだけ緊張したように息を吸った。先ほどまで政治の場にいたのに、今は一人の少女の顔だ。
「私、言いたいことがあるのです」
レオンハルトは頷く。
「聞きます」
「最後まで?」
「最後まで」
約束の確認。彼女は安心したように微笑む。
「私は、あなたが可愛いから、好きです」
今度は、言い直さない。逃げない。躊躇しない。最初から最後まで、同じ温度で言い切る。
その言葉は、以前のように彼を苦しめなかった。
可愛いとは、彼の弱さの肯定ではない。 可愛いとは、彼の優しさの肯定だ。 可愛いとは、彼が誰かを守ろうとする姿勢への、彼女なりの愛の言葉だ。
そしてそれは、価値の再定義でもある。
爵位でも、年齢でも、スパダリの外形でもなく。 彼女が愛したのは、彼の“人としての在り方”だ。
レオンハルトは、ゆっくり息を吐いて、同じだけの強さで返した。
「私も、あなたが好きです」
エリシアの目が大きくなる。次の瞬間、今度は笑った。声を出して笑った。夜の庭に、少女の笑い声が小さく弾む。
「それは、嬉しいです」
「……嬉しいです、ではなく」
レオンハルトは言いかけて、止めた。次の言葉は、彼の中でまだ重い。だが重いからこそ、言うべきだと分かっている。
エリシアが首を傾げる。
「では、何ですか」
レオンハルトは彼女を見下ろし、真剣に言った。
「これからも、可愛いと言ってください」
エリシアが一瞬固まり、そして頬を赤くして、ふんわりと笑った。
「はい。何度でも言います」
彼は微かに笑った。笑う自分が、少しだけ可笑しい。四十一の男が、可愛いと言われることを望む。だがそれは、彼が“救われること”を受け入れた証拠でもある。
エリシアが、小さく一歩近づいた。今度は袖に触れた。触れて、すぐ離さない。縛るためではない。確認のためだ。
「レオンハルト様」
「はい」
「逃げないでくださいね」
「逃げません」
短い。だが確定だ。
夜風が冷たい。庭の灯りが揺れる。遠くで馬の嘶きが聞こえる。世界はいつも通りに回っているのに、彼の中の価値だけが静かに組み替わった。
相応しさは、誰かが決める序列ではない。 相応しさは、選び、選ばれ、尊重し合うことで生まれる。
そして、その価値を教えたのは、ふんわりおっとりの次期公爵だった。
彼女は最後に、いたずらのように微笑んで、もう一度言った。
「可愛いから、好きです」
その言葉は、もう彼を苦しめない。
彼を、生かす言葉になっていた。




