第6話 「相応しくないのは、俺のほうだ」
宰相府の空気は、ひとたび「公認」という形を得ると、驚くほど粘り強くなる。
紙の束の並びが変わる。控室の席順が変わる。呼称が変わる。誰も大声では言わないのに、扉の開閉の間、廊下の視線の角度、紅茶を差し出す手の速さまでが、同じ方向へ揃っていく。
レオンハルト・ハルトマンは、その揃い方を知っていた。
知っているからこそ、嫌悪に近い焦りが胸の奥に溜まっていく。
自分の答えがないまま、世界が先に答えを作ってしまう。政治の世界ではそれが日常だ。だが、その日常が、よりにもよって自分の人生に降りかかってきたとき、彼は初めて“日常の残酷さ”を自分の皮膚で理解した。
執務室の机の端に置かれた、エリシアが選んだ茶葉の瓶。その横に積まれた書類束。その間に、彼女の筆跡の短い紙片が紛れ込む。
――今日は寒いので、温かくしてください。可愛いから。
可愛いから。
その四文字は、命令でもなく、依頼でもなく、ただの感情のはずだった。だが今の宰相府でそれは、政治の判を押された文言のように扱われる。誰も剥がさない。誰も隠さない。むしろ「見える場所」に置かれる。
レオンハルトは紙片を指でつまみ上げ、しばらく見つめた。
捨てるべきだ、と頭が言う。机上の私情は事故につながる。事故は監査になる。監査は政敵の餌になる。餌は刃になる。
だが、捨てられない。捨てれば、自分が“守られたこと”を否定することになる。守られたことを否定するのは、あまりに卑怯だ。彼は卑怯であることだけは嫌だった。
机の引き出しを開け、紙片をしまう。見えないところに移すだけの、姑息な妥協。自分の弱さを自分で知って、喉が渇いた。
その日の午前は、いつもより会議が多かった。会議そのものが増えたのではない。会議の合間の「雑談」が増えた。
廊下で書記官に捕まる。秘書官に捕まる。別部署の若い実務官が、用件の半分ほどで話を終え、残り半分を妙に丁寧な言葉で繋いでくる。
「補佐官殿、次期公爵様へのご報告は、こちらで整えておきますので」 「補佐官殿、もしお時間があれば、公爵邸への書簡の文面を――」 「補佐官殿、お昼は……その、召し上がりましたか」
お昼は食べたか。体調はどうか。次期公爵に会う予定はあるか。
質問の形をしているが、確認だ。確認の上で、周囲はさらに段取りを固めていく。固めることで、彼の逃げ道が狭くなる。
昼過ぎ、宰相がいつもの無表情で執務室へ入ってきた。書記官も秘書官も、今日は事前のノックをしない。宰相がそう命じているのだろう。彼に考える時間を与えないために。
「ハルトマン補佐官」
「はい」
「今日の夕刻、王城へ出ろ」
「王城?」
「次期公爵が、王族へ内々の挨拶に行く。お前も同行する形を取る」
レオンハルトの背筋が冷えた。
「私は承諾していません」
「承諾の有無は、後だ」
宰相は淡々と言い切った。
「“事実が先に立つ”と昨日言った。今日、それを実務として処理する。王城の意向は一つだ。波を立てるな。外へ漏らすな。だが内側では整えろ」
整える。整えると言われるたび、彼は自分が“書類”になっていく感覚を覚える。
「私は、彼女の未来を邪魔したくありません」
同じ言葉を繰り返すしかない。繰り返しが、抵抗になると信じるしかない。
宰相は一拍置いて、低い声で言った。
「それはお前の善意だ。だが善意は、ときに相手の意志を踏みにじる」
踏みにじる。刺さる言葉だった。彼は誰かの意志を踏みにじったことはない、と言い切れるだろうか。実務の世界で、全員の意志を叶えることは不可能だ。彼はいつも“より大きな意志”を採用する。それを責任として受け止めてきた。
ならば今、より大きな意志は何だ。
次期公爵の意志。公爵家の了承。宰相府の整理。王城の理解。
巨大な意志の束の中で、彼の自己否定は、ただの個人的な感情に過ぎないのか。
「……分かりました」
口にした瞬間、宰相の目がわずかに緩んだ。勝った、という緩みではない。進む、と確認した緩みだ。政治家の緩み。
宰相が退出すると、執務室の空気が少しだけ軽くなる。軽くなる分だけ、彼の胸が重くなる。
夕刻、王城へ向かう馬車は宰相府の紋章を付けていた。これも段取りだ。公爵邸の紋章ではなく、宰相府の紋章。政治の中心から出すことで「恋ではなく政務」と見せる。宰相の手つきが見える。
王城の控えの間で待っていると、すでに知っている空気がそこにあった。侍従が礼をし、近衛が視線を伏せる。誰も言わないのに、彼の立ち位置が“決まっている”ように扱われる。
扉が開き、エリシアが入ってきた。
いつものふんわりした装いではない。王城の儀礼に合わせた、控えめだが格のあるドレス。髪は整えられ、首元には細い宝飾が光る。若さと威厳が同居している。次期公爵としての姿だ。
彼女は彼を見ると、微笑んだ。
「レオンハルト様」
その呼び方が、控えの間の空気を一瞬だけ温めた。温めた途端、周囲がさらに丁寧になる。丁寧さは、彼女の意志に従う形で増幅される。
レオンハルトは礼をし、わざと距離を取るように口を開いた。
「次期公爵様。本日は――」
「エリシアで」
即座に被せられる。ふんわりした声なのに、拒めない速さ。
彼は喉の奥で言葉を噛み砕き、無理に丁寧なまま続けた。
「……本日は、王族へのご挨拶と伺いました。私は同行の形を取るよう宰相より命じられましたが、誤解があっては困ります」
誤解があっては困る。つまり、距離を取る。線を引く。政治的に線を引く。
エリシアは瞬きをし、ほんの少しだけ眉を下げた。傷ついた、というより、困った顔。彼女は困るときに眉が下がる。レオンハルトはそれを知ってしまっている。
「誤解、ですか」
「はい。私は――」
言いかけたところで、扉の外から侍従が声をかけた。儀礼の時間だ。王族との面会は遅らせられない。
エリシアは小さく頷き、彼へ視線を戻した。
「では、後で。お話ししましょう」
“お話し”という言い方が、彼女の優しさだった。問い詰めない。責めない。だが避けさせない。
王族との面会は短かった。形式的な挨拶、内々の意向確認、次期公爵としての覚悟の示し方。エリシアの受け答えは落ち着いていて、年齢を感じさせない。むしろ“国を背負う者”の言葉だった。
その姿を見るほどに、レオンハルトは自分の存在が不釣り合いに思えた。
彼女は未来だ。王城の未来、公爵領の未来、そして国の未来。自分は――ただの疲れた実務官で、国の歯車だ。歯車は必要だが、未来の象徴ではない。
面会を終えて控えの間へ戻ると、周囲が自然に下がった。侍従も近衛も、空気を読む。読むからこそ、二人の間に沈黙が落ちる。
エリシアが先に口を開いた。
「レオンハルト様、さっきの“誤解が困る”というのは……」
「誤解が困るのは事実です」
言葉が硬い。硬くしなければ、自分が崩れる。崩れたら、彼女に触れてしまう。触れたら、彼女の未来を汚してしまう。そんな恐怖が胸の奥にある。
エリシアは一歩近づき、彼を見上げた。
「誤解ではなくて、事実です」
「事実ではありません」
「私は選びました」
「それは……あなたがまだ若いからです」
口から出た瞬間、彼は自分の言葉の残酷さに気づいた。若いから。つまり、判断を誤っていると言ったに等しい。
エリシアの目がわずかに大きくなる。怒らない。泣かない。ただ、静かに息を吸う。
「若いから、ですか」
「……あなたは世界の“正解”を選べます。あなたの周囲には、選ぶべき相手がいます」
アルベルトの顔が脳裏に浮かぶ。整った貴公子。侯爵家次男。政治的に美しい正解。
「私は正解を選ぶための人間ではありません。私は、自分の心を選びます」
エリシアは迷いなく言った。王城の控えの間で言う言葉ではないほど真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎて、彼は苦しくなる。
「心は、移ろいます」
「移ろいません」
「あなたは……あなたは、国を背負う」
「背負います。だからこそ、選びます」
彼女の言葉は矛盾していない。国を背負うから、政治的正解を選べ、と彼が言う。国を背負うから、自分で選ぶ、と彼女が返す。どちらも責任を語っているのに、向く先が違う。
その違いが、彼を追い詰める。
「レオンハルト様。私は、あなたが可愛いから好きです」
まだ“決着の言葉”ではないはずなのに、彼女はそこまで言いかけて、言い直した。
「……ごめんなさい。言い方が早すぎました。でも、気持ちは変わりません」
彼は、その言葉を受け止められなかった。受け止めたら、自分が“救われる”気がした。そして救われることが、彼には怖かった。
救われた瞬間、彼は自分の中の堤防が決壊する。抑え込んできた疲れ、孤独、諦め、劣等感。それらが一気に溢れ、彼女へ流れ込む。流れ込めば、彼女は溺れる。彼女を溺れさせてはならない。
「……この話は、ここでは」
彼は硬く言って、頭を下げた。逃げだ。だが政治の場で逃げるのは、彼の得意分野でもある。会議の空気が悪くなれば、議題を変える。場が荒れれば、論点をずらす。今も同じだ。
「宰相府へ戻ります。公務が残っています」
エリシアは一瞬だけ唇を開きかけて、閉じた。追わない。追わないことで、また段取りを作るのだろう。
「分かりました。……でも、逃げないでください」
逃げないで。言われて、胸が痛む。逃げている自覚はある。自覚があるから、痛い。
宰相府へ戻る馬車の中で、レオンハルトは窓外の夜を眺めていた。王都の灯りが流れ、吐く息が白くなる。四十一年生きてきて、自分は常に自分の役割を選んできたと思っていた。だが今、役割が先に決まり、自分が最後に置いていかれる。
その感覚が、耐え難い。
執務室へ戻ると、机の上に封筒が置かれていた。宰相の封蝋。中身は短い覚書だった。
――補佐官殿、明日朝、公爵邸へ。公爵より話がある。
たったそれだけで、彼の胸がさらに重くなる。段取りが進む。進むほど、彼の拒否の余地が削られる。
夜遅く、宰相府の仮眠室ではなく、自宅の狭い部屋に戻った。独り身の部屋は静かで、灯りが冷たい。ここには紅茶の香りも、毛布も、柔らかい声もない。あるのは、必要最低限の家具と、必要最低限の生活だけだ。
鏡の前に立ち、自分の顔を見る。目の下の影。額の細い皺。口元の疲れ。肩の張り。整えられた髪と服で誤魔化しても、若さは戻らない。
彼女は十七だ。若さは眩しいほどだ。国の未来を背負うのに十分な意志があり、周囲を動かす力もある。
そこへ自分が混ざると、絵が汚れる。
政治的に成立すると宰相は言った。成立するだろう。歯車としては成立する。だが人間としては成立しない。少なくとも、自分の中では。
その夜、彼は机に向かった。書類のためではない。久しく使っていなかった、個人用の便箋を引き出しから出した。
インクを整え、ペン先を確かめ、深く息を吸う。
宛先は、公爵。形式は、願い出。内容は――辞退。
文章は簡潔で、余計な感情を削り落とした。
次期公爵の婚姻候補として取り沙汰されていることへの謝意。公爵家のご厚意への感謝。だが自分は相応しくないという判断。国のためにも、公爵領のためにも、より適切な相手がいるという主張。宰相府の職務を理由に、個人の問題が政治へ影響することを避けたいという理屈。
理屈を並べるほど、心は冷える。冷えることで、書ける。冷えなければ書けない。
最後に、宰相府の職務上の配慮として、自分の異動願いも添えた。部署を変える。担当を外す。距離を取る。物理的に離れれば、段取りは崩れる。崩れれば、正解が戻る。
書き終えて封をすると、手がわずかに震えた。震えを自覚した瞬間、彼は自嘲した。震えるほどなら書くな。だが書かねば止まらない。止まらないなら、誰かが傷つく。
傷つくなら、自分が傷つけばいい。
翌朝、公爵邸の応接室は静かだった。公爵が座り、宰相が隣にいる。二人の顔を見た瞬間、レオンハルトは嫌な予感を確信に変えた。昨日のうちに、手紙が届いている。届いたうえで、呼び出された。
公爵は封筒を机に置き、淡々と切り出した。
「読んだ」
「……はい」
「結論から言う。認めない」
短い否定だった。政治家の否定。議論の余地を狭める否定。
「私は相応しくありません」
「相応しさを、お前が決めるのではない」
宰相が昨日と同じ論理を持ち出す。正しい論理が、逃げ道を塞ぐ。
「君は自分を低く見積もりすぎだ」
公爵が言った。
「君が宰相府で果たしている役割は、爵位以上に重い。国は君の実務に支えられている。娘が君を選ぶのは、見た目の話ではない。覚悟の話だ」
覚悟。娘の覚悟。
レオンハルトは唇を結び、絞り出すように言った。
「彼女の覚悟に、私が甘えてはいけません」
公爵の目が細くなる。
「甘える、という言葉を使うなら聞く。君は、誰かに頼ることがそんなに悪いと思っているのか」
「私に頼ることが、彼女の未来を削ります」
「削らない」
公爵は断言した。
「むしろ君がいなければ、娘は無理をする。無理をする娘を、私は見たくない」
父の言葉だった。政治家ではなく父の言葉の硬さがあった。守りたいものが明確な声。
宰相が続ける。
「異動願いも却下する。いまお前が外れれば宰相府が揺れる。それは国が揺れる。政治を理由に逃げるな。政治を理由に引き受けろ」
逃げるな。引き受けろ。
言葉が刃だった。彼は、逃げているのか。逃げている。そう言われると、否定できない。
そのとき、扉が開いた。
エリシアが入ってきた。朝の淡い光の中、彼女はいつもより落ち着いた顔をしていた。ふんわりした柔らかさは残っているが、今日は“次期公爵”の目だ。
彼女は机の上の封筒を見て、すぐに理解したのだろう。視線が揺れた。揺れて、次に、まっすぐレオンハルトへ向いた。
「レオンハルト様。これ、あなたが書いたのですか」
声が震えていないのが、逆に怖かった。彼女は感情を抑えている。抑えた上で、確認している。
レオンハルトは逃げずに頷いた。
「はい」
「相応しくない、と」
「……はい」
エリシアは一歩近づき、ゆっくりと言った。
「相応しいかどうかは、私が決めます」
同じ言葉がまた出る。周囲の論理と同じ。だが彼女が言うと、論理ではなく意志になる。
「あなたが決めるべきではありません」
レオンハルトは、無理に硬く言った。硬く言わなければ、自分が崩れる。
「では、あなたは何を決めるのですか」
エリシアの問いは静かだった。静かだから、逃げられない。
「私の人生を決めますか。私の未来を決めますか。私の心を、あなたが“正解”に戻しますか」
言葉が、痛いほど正確だった。彼がやろうとしているのはそういうことだ。彼女を正解へ戻す。政治的に美しい正解へ。
「……あなたは、後悔します」
絞り出した言葉は、説得ではなく祈りに近かった。後悔してほしくない。自分のせいで後悔してほしくない。
エリシアは首を振る。
「後悔しません。後悔するのは――あなたが私を拒んだときです」
その一言が、胸の奥を抉った。
拒む。拒むという言葉を、彼女は正面から使う。逃げ道を潰す。
公爵が咳払いを一つし、席を立った。宰相も立つ。二人は黙って部屋を出た。政治家の気遣いだ。二人きりにすることで、最後の結論を本人同士に預ける。
扉が閉まると、応接室の空気が一段重くなった。
エリシアがゆっくり息を吸い、言った。
「レオンハルト様。私は、あなたが可愛いから、好きです」
彼女は今度は言い直さなかった。逃げない。揺らがない。言い切る。
レオンハルトは、目を逸らした。逸らすことでしか自分を守れない。
「……私は、あなたを好きになってはいけません」
口から出た言葉は、あまりに自己暴露だった。好きになってはいけない。つまり、好きになる可能性がある、と認めてしまった。
エリシアの瞳が少しだけ揺れる。揺れて、でも泣かない。
「好きになってはいけない理由は何ですか」
「私は四十一です。あなたは十七です。あなたの人生はこれからです。私は……もう、疲れた大人です」
「疲れた大人が、可愛いのです」
返しが、あまりにも彼女らしくて、彼は苦しくなった。
「可愛いで済ませないでください」
声が強くなる。強くなるのは、彼の恐怖だ。怖いから声が強くなる。
「済ませません。私は真剣です」
「真剣だからこそ、やめるべきです」
「やめません」
短い応酬。どちらも譲らない。譲れない。
レオンハルトは、拳を握り、唇を噛み、言葉を探した。彼女を傷つけずに拒む言葉など存在しない。拒む時点で傷つく。それでも拒まねばならないと、彼は思っている。
「私は、あなたの隣に立てる人間ではありません」
「立てます」
「立てません」
「立てます」
繰り返しが、喉を焦がす。
レオンハルトは、ついに最も残酷な言葉を選んだ。選んだ瞬間、自分が最低だと分かった。分かったのに、止められなかった。
「あなたは、私のような男を選ぶべきではない。あなたには――あなたには、もっとふさわしい人がいる」
エリシアが息を止めたのが分かった。止めたまま、ゆっくり吐く。
「ふさわしい、という言葉は嫌いです」
「嫌いでも、現実です」
「現実は、私が作ります」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。伏せて、また上げる。その間に、彼女は自分の感情を整えている。整える力がある。彼女は次期公爵だ。
「レオンハルト様。あなたは、自分を守るために私を突き放しています」
言い当てられ、彼は息が詰まった。
「……違います」
「違いません」
優しい声で断言されるのが、いちばん苦しい。
「あなたは優しい。優しいから、自分が傷つく方を選ぶ。でも、それは私にとって優しさではありません」
「私が傷つけばいい」
思わず出た言葉だった。彼の本音だ。自分が傷つけば、彼女は守れる。守れるならそれでいい。
エリシアの顔が、初めてはっきりと歪んだ。泣き顔ではない。怒りでもない。痛みの顔だ。彼女が痛い顔をするのを、彼は初めて見た。
「それは、私を傷つける言い方です」
静かな声だった。静かだから、重い。
「あなたが自分を粗末にするのを見るのは、嫌です。私は、それが嫌で……あなたを止めたのです」
仮眠室の前で待った日。額に触れた日。毛布をかけた日。紅茶を淹れた日。全部が繋がる。繋がるほど、彼は自分の拒否がどれほど無慈悲かを理解してしまう。
「……私は」
言葉が出ない。
エリシアは一歩近づき、彼の袖をそっと掴んだ。強くは掴まない。逃げようと思えば逃げられる程度の力。だが、その程度の力が、彼にはいちばん残酷だった。逃げられるのに逃げないかもしれない自分が、怖い。
「レオンハルト様。私は、あなたを選びました」
「……」
「あなたが“相応しくない”と言うのなら、私はあなたに相応しいように努力します。次期公爵として。公爵領の当主として。国の一員として。あなたの負担にならないように、私が――」
「努力させるな」
彼は、反射的に言った。努力させるな。若い彼女に、彼のための努力などさせたくない。
エリシアは瞬きをし、そして小さく首を振った。
「努力は、あなたのためではありません。私のためです。私が選んだ道を成立させるために、私が努力します」
成立させる。政治の言葉だ。彼女は、恋を政治の言葉に落とし込める。だから強い。強すぎる。
レオンハルトは、息を吸い、吐き、最後の抵抗を言葉にした。
「……私があなたを受け入れたら、私は弱くなる」
エリシアが、目を細めた。やっと核心に触れた、という顔。
「弱くなるのが怖いのですか」
「怖い」
認めた瞬間、胸の奥が崩れた。彼は怖かったのだ。若さでも身分でもない。頼ることが怖い。守られることが怖い。誰かにとっての“当たり前”になることが怖い。
当たり前になれば、失うのが怖くなる。失えば、立てなくなる。立てなくなれば、国が揺れる。彼の中でそれは連鎖している。
エリシアは、静かに言った。
「弱くなるのではありません。あなたは、休めるだけです」
休める。彼女はそれを、正しい言葉で言った。休むことは弱さではない。休むことは維持だ。維持のための手段だ。実務官僚として理解できる論理。
それでも、彼は首を振った。
「……できません」
できません、と言った瞬間、エリシアの手がわずかに緩んだ。袖を掴んでいた指が、少しだけ離れる。
その離れ方が、彼には刺さった。彼女は離す。離すことができる。離せるからこそ、彼女の意志が本物だと分かる。依存ではない。強制でもない。選択だ。
選択で拒まれるのは、痛い。
エリシアは、ふんわりした顔に戻そうとして、戻りきらないまま言った。
「分かりました。今すぐ答えを出せと言いません」
「……」
「でも、あなたが私を“正解へ戻す”ために異動するなら、それは許しません」
許しません。珍しい強い言葉だった。強いのに、声は柔らかい。柔らかさがあるから、余計に逃げられない。
「あなたが逃げるなら、私は追います」
追う。彼女は追うと言った。追うという言葉を、威嚇ではなく宣言として使った。
レオンハルトは、喉が詰まった。追われたら終わる。逃げ切れない。だから逃げない方がいい。だが逃げないなら、受け止めるしかない。受け止めれば、弱くなる恐怖が来る。
どちらに転んでも、彼は怖い。
その日の夜、宰相府へ戻ったレオンハルトは、再び机に向かった。今度は仕事ではない。異動願いの正式書式を整え、宰相の決裁が下りる前に“既成事実”を作るための準備だ。
自分でも分かっている。浅はかだ。宰相が許すはずがない。それでも、手を動かさずにはいられなかった。動かせば、思考が止まる。止まれば、痛みが来る。
夜半、執務室の扉が叩かれた。控えめなノック。いつもの書記官ではない。
扉が開き、宰相が入ってきた。夜中に、だ。宰相が夜中に来るときは、危機か、重大な決裁か、あるいは――個人的な介入だ。
宰相は机の上の書式を一瞥し、無表情で言った。
「やはりやっていたか」
レオンハルトは息を止めた。
「……職務の継続性のために」
「嘘をつくな」
宰相は冷たく切った。
「それは職務のためではない。お前が怖いからだ」
言い当てられると、言葉が消える。彼は怖い。怖いから逃げる。逃げていると分かっている。
宰相は椅子の背に手を置き、低い声で言った。
「お前が自分を否定するのは勝手だ。だが次期公爵の意志を、お前の自己否定で潰すな」
「私は潰していません。私は――」
「潰している」
宰相は断言する。
「自分が相応しくないと言うことは、相手の選択眼を否定することだ。相手が十七ならなおさらだ。幼いと決めつけている。経験が足りないと決めつけている。自分の価値観を“正解”として押し付けている」
それは、彼が最も嫌う行為だった。押し付け。強制。支配。彼は支配を嫌う。だから官僚になった。法と制度で国を回し、個人の恣意を排除するために働いてきた。
その自分が、今、最も近しい場所で恣意をやっている。
「……私は」
宰相は続けた。
「お前は立派だ。だが立派さは、独りで背負うための美徳ではない。背負うものが大きいほど、支えが必要になる。次期公爵はそれを理解している。理解している者の意志を、理解していない者が否定するな」
理解していない者。自分のことだ。
レオンハルトは、拳を握り、そして開いた。開くと、手のひらに汗が滲んでいる。
宰相は最後に、淡々と言った。
「異動願いは受理しない。二度と書くな。書いた時点で、宰相府の秩序を乱す。秩序を乱せば、お前は職務上の責任を問われる」
脅しではない。事実だ。宰相は事実だけを言う。
宰相が去ったあと、執務室に一人残されたレオンハルトは、机に突っ伏した。疲れが、身体ではなく心に来ている。心の疲れは、薬も紅茶も効かない。
効くのは、たぶん――彼女の声だけだ。
そのことに気づいてしまうのが、最も怖かった。
翌日、エリシアは宰相府へ来なかった。来ないことが、逆に胸を締め付けた。追うと言ったのに来ない。来ないということは、彼女が“段取りを整えている”ということだ。
段取りが整うほど、彼の逃げ道は消える。
夕刻、公爵邸から使者が来た。短い伝言。
――次期公爵が話がある。今夜、公爵邸へ。
拒めない。拒めない段取り。公認の段取り。
公爵邸の小さな温室に通されると、エリシアが一人で待っていた。夜の温室は湿度があり、植物の香りが微かに漂う。ここは政治の場ではない。彼女が選んだ“個人の場”だ。
彼女は立っていた。ふんわりした装い。けれど目は真剣。
「レオンハルト様」
「……次期公爵様」
わざと距離を取る呼び方をすると、エリシアは首を振った。
「それを言うなら、私もあなたを“補佐官殿”と呼びます」
「……呼んでください」
言ってしまった。突き放す言葉だ。
エリシアの目が揺れた。揺れて、それでも言う。
「補佐官殿。あなたは私を拒みましたね」
拒みましたね。確認の形で言うのが、彼女らしい。責めない。だが逃がさない。
「私は、あなたの未来を――」
「私の未来を口実にしないでください」
遮られた。柔らかい声なのに、鋭い。
「あなたが怖いのは分かりました。弱くなるのが怖い。失うのが怖い。頼るのが怖い。全部、分かりました」
分かりました。彼女は理解している。理解した上で、続ける。
「でも、怖いからといって、私を突き放すのは違います」
違います、と言い切るのは強い。彼女は強い。強いから、彼は余計に苦しくなる。
「私は、あなたの怖さまで含めて、可愛いと思っています」
また、可愛い。
その言葉が、優しさの刃になる。刃は切るためではない。彼の壁を削るためだ。
「……やめてください」
絞り出すように言うと、エリシアは首を振った。
「やめません」
「私は、あなたの期待に応えられません」
「期待していません」
即答だった。
「私は、あなたに完璧でいてほしいのではありません。あなたがあなたでいてほしいだけです。仕事をして、疲れて、無理をして、平気だと言ってしまうあなたを――私は止めたい」
止めたい。彼女の核心はそこだ。恋の甘さではない。壊れる前に止める。守る。支える。
「……私は、支えられる資格がありません」
ついに本音が出た。資格。彼はいつも資格で物事を測る。責任を負う資格。判断する資格。発言する資格。支えられる資格。彼は自分に厳しすぎる。
エリシアは、ゆっくり言った。
「資格は要りません。必要なのは、あなたが生きていることです」
生きていること。あまりに単純で、あまりに重い。
「私は、あなたが倒れるのが嫌です。あなたが自分を粗末にするのが嫌です。あなたが“相応しくない”と言って、自分を切り捨てるのが嫌です」
嫌です。嫌だと、彼女ははっきり言う。彼女の嫌だは、政治より強い。
レオンハルトは、胸の奥が熱くなり、視界が滲むのを感じた。泣くつもりなどない。泣くのは弱さだ。だが、弱さを否定し続けてきたせいで、感情の逃げ場がない。
「……私は、あなたを失いたくない」
漏れた言葉に、自分で驚いた。失いたくない。つまり、もう失う前提で考えている。彼女が当たり前になりつつある証拠だ。
エリシアの目が柔らかくなる。泣かないまま、微笑む。
「なら、失わないようにしてください」
「……どうやって」
「受け止めてください」
短い答えだった。
受け止める。簡単なようで最も難しい。受け止めた瞬間、彼は変わる。変わるのが怖い。だが変わらなければ、彼女は傷つく。
「私は……」
レオンハルトは言葉を探し、結局、最も正直な言葉を吐いた。
「私は、自分があなたを汚すのが怖い」
エリシアは首を振った。
「汚れません」
「私は汚い大人です。政治の泥を知っている。裏の取引を知っている。綺麗な言葉を使いながら、現実を捻じ曲げてきた。あなたの隣に立つ資格は――」
「それを知っているあなたが、私には必要です」
エリシアは静かに言った。
「私は綺麗なままでは国を背負えません。綺麗なまま背負えば、折れます。私は折れたくない。だから、折れない人が必要です」
折れない人。彼女は、彼をそう見ている。彼は折れないのではない。折れたくないから、折れないふりをしているだけだ。それでも彼女は、それを“折れない”と呼ぶ。
「レオンハルト様。あなたは、私の正解です」
その言葉が来た瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れた。
正解。彼が彼女へ押し付けようとしていた言葉。それを彼女が逆に使う。しかも、自分を指して。
「……私は、正解ではない」
「私が決めます」
また、その言葉。彼女の絶対の軸。
レオンハルトは、息を吸い、吐き、最後に、弱い声で言った。
「……私は、今は受け止められません」
エリシアの顔が、わずかに痛む。痛むのに、頷く。
「分かりました」
すぐに許す。その許しが、彼をさらに苦しくする。
「でも、逃げないでください」
同じ言葉が再び落ちる。逃げないで。逃げないためには、彼は何かを決めねばならない。拒むか、受けるか。曖昧なままでは、彼女が削れていく。
温室を出るとき、エリシアが最後に言った。
「明日、あなたのところへ行きます。あなたがどこにいても」
追う。追うという宣言が、優しさの形で重なる。
レオンハルトは馬車の中で目を閉じた。逃げられない。逃げるなと宰相に言われ、逃げないでと彼女に言われ、世界が公認として固まっている。
それでも、彼の胸の奥の自己否定は消えない。
相応しくない。自分は彼女の未来を支えるには疲れすぎている。彼女を愛したら、彼女は自分に人生を使ってしまう。それが怖い。
怖いから拒む。拒めば、彼女が痛む。
どちらを選んでも、痛みは残る。
その夜、彼は一つの決断をした。
拒むのではない。逃げるのでもない。
“自分の弱さ”を、彼女に見せる。
それができるかどうかは分からない。だがそれ以外に、彼女の意志を踏みにじらず、自分の恐怖を誤魔化さない道はない。
翌朝、宰相府の執務室に入ると、机の端に紅茶の瓶があった。いつも通り。だが今日は、そこに小さな紙片はない。
代わりに、窓際に一輪の白い花が置かれていた。誰かが置いたのではない。彼女だ。白い花は、彼女の色だ。
その花を見た瞬間、彼は腹の奥が静かに決まるのを感じた。
今日は、逃げない。
逃げずに、拒むなら拒む。受けるなら受ける。どちらにしても、自分の言葉で言う。
そう決めた瞬間、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
ふんわりした声がする。けれど今日は、いつもより真剣な響きが混じっていた。
レオンハルトは椅子に座ったまま、深く息を吸った。
扉が開く。
エリシアが入ってくる。いつも通りの柔らかい笑み――ではなかった。
今日は、泣いていない。笑ってもいない。
ただ、まっすぐな目で、彼を見ている。
「レオンハルト様」
その呼び方だけで、彼の胸の奥の自己否定がざわつく。
彼女は一歩、机の前へ進み、静かに言った。
「今日は、最後まで聞いてください」
それが、拒否と自己否定の夜明けだった。




