表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「可愛いから、好きです」  作者: 月白ふゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第5話 「選ばれているのは、もう確定だった」

王都の空気が“決まったこと”を運ぶ速度は、噂が生まれる速度より速い。


それは誰かが大声で宣言するからではない。むしろ逆だ。人は、確定していないことほど大声で語り、確定したことほど小声で回す。小声は、壁の内側へ滑り込む。決裁の机へ届く。席順へ反映され、招待状の文言へ滲み、礼装の発注へ化ける。


レオンハルト・ハルトマンは、そういう“決まり方”を嫌というほど知っていた。


だからこそ、彼は知らなかった。


自分が、まさにその小声の中心に置かれていることを。


宰相府の朝は相変わらず乾いていた。紙の匂いと、インクの匂いと、急ぎの靴音。そこへ一つ、柔らかい香りが混ざる。エリシアが持ち込んだ茶葉の瓶は、いまや彼の執務室の机の端に“当然のように”置かれている。


当然になってはいけない、と頭は警鐘を鳴らす。けれど手は、その瓶をどけない。どけないまま、彼は今日も書類を捲る。


扉が叩かれる。


書記官が顔を出す前に、レオンハルトはわずかに眉を寄せた。ここ数日、この執務室の扉は“いつもより”よく叩かれる。要件の数が増えたわけではない。要件の種類が、変わってきている。


「補佐官殿、宰相より至急のお呼び出しです。王城の応接室へ」


「……分かった」


短く答え、彼は立ち上がった。体調は戻ったつもりだった。戻ったつもり、という言葉がもう危険なのに、彼はそれを自覚しながら無視する癖を捨てられない。


廊下へ出ると、視線が絡む。


書記官だけではない。秘書官、近衛の伝令、他部署の実務官。彼らは礼儀正しく頭を下げるが、その瞬間だけ目が揺れる。目が揺れ、次に、彼の背後を確かめるように視線が動く。


背後に誰かがいるかを確認している――そんな動きだった。


もちろん、そこにエリシアはいない。今日の彼女は宰相府に来ていないはずだ。議会の小委員会の打ち合わせが公爵邸である、と事前に聞いている。


それでも、人の目は彼女の不在を探すように動く。


レオンハルトは、それを“近頃の彼女の頻繁な来訪が珍しいからだろう”と処理した。処理してしまえる。処理した方が楽だ。余計な意味を拾えば仕事が滞る。


王城の応接室は、宰相府とは空気が違う。香が焚かれ、絨毯が足音を吸い、壁の装飾が“国家の余裕”を誇示する。政治が、儀礼の衣を着た場所。


宰相は窓辺で待っていた。背を向けたまま、外の庭を見ている。老獪な男は、背中だけで“これからの話の重さ”を示す。


「呼び立ててすまない、ハルトマン補佐官」


「いえ。ご用件を」


宰相は振り返り、紙束を机に置いた。封蝋の色が混じっている。王城のもの、公爵家のもの、議会のもの。政治の層が重なっている。


「港湾整備の件は、お前の文言で落ち着いた。反対派は面子を守れたし、王城も体裁を保てた。よくやった」


「職務です」


「そう言うな。功は功だ」


宰相がそう言い、次に話題が滑る。滑る速度が早い。褒め言葉は通過点でしかない。


「さて……次期公爵の婚姻の件だ」


レオンハルトの心臓が一拍だけ遅れた。


婚姻。エリシアの婚姻。オルフェンズ侯爵家次男が“正解”として提示され、王城が推し、社交界が期待し、議会が安堵する――あの話だ。


それが今日、なぜ自分に。


「私の担当領域ではありません」


反射的に言った。これ以上踏み込めば、余計な火種を扱うことになる。実務官僚は火種を増やさない。


宰相は、驚くほどあっさり頷いた。


「本来はな。だが、現実は変わる」


その言い方が嫌だった。現実は変わる。変わるから備えろ。政治の世界でその言葉が出るとき、備える側はたいてい望んでいない役割を背負わされる。


「次期公爵は、オルフェンズ侯爵家次男を選ばない」


宰相がそう言った瞬間、レオンハルトの思考が止まった。


選ばない。そんな結論は、聞いたことがない。王城が押し、社交界が整え、父である公爵が現実を教え、本人も“責任は取る”と言った。選ばない余地は薄いはずだ。


「……理由は」


「理由は本人の意志だ。こちらは聞いた。確かめもした」


宰相は紙束の一枚を取り上げ、レオンハルトへ向けて軽く揺らした。書簡ではない。覚書のような簡潔な文面。そこには“次期公爵の意志確認”と“公爵の了承”の印がある。


「公爵も了承した。王城は、波を最小限に抑える形で受け入れる方針だ」


受け入れる。王城が。


レオンハルトは、言葉を失った。


ここまで進んでいるなら、もはや噂ではない。段取りだ。政治が動いている。しかも、波を抑える形で。つまり、誰かを早々に“次の候補”として立てなければならない。


「……次の候補は」


宰相は目を細め、まるで当たり前の事実を口にするように言った。


「お前だ」


室内の香が、急に濃くなった気がした。


一瞬、意味が理解できない。宰相が冗談を言う場面ではない。宰相は冗談を言うとしても、相手を試す冗談しか言わない。そして今の目は、試している目ではなく、確認している目だった。


「……何かの誤りです」


「誤りではない」


宰相は即座に否定する。


「次期公爵は、すでに周囲に意思を示している。ここ数日の宰相府への出入り、執務室での振る舞い、議会での立ち回り……お前が知らぬところで、次期公爵は“選んだ”」


選んだ。


その言葉が耳に落ちた瞬間、レオンハルトの胃の底が冷えた。


彼女が自分を見ていたことは知っている。可愛いと言われた。紅茶を淹れられた。仮眠室の前で待たれた。毛布をかけられた。名前を呼ばれた。


だが、それが“選ぶ”という政治の動詞に繋がるとは、彼は思っていなかった。思ってはいけなかった。思えば、彼は壊れる。


「私は、次期公爵の対象外です」


言ってしまった。言ってしまうしかない。ここで受け入れれば、彼は境界線を自分の手で壊すことになる。


宰相は、ため息をついた。


「お前がどう思うかは分かる。だが政治は、お前の自己評価で回らない」


冷たい言葉だった。だが宰相の冷たさは、いつも現実の形をしている。


「次期公爵は次期公爵だ。彼女が選ぶと言った以上、周囲はそれを“事実”として処理する。もう処理が始まっている。お前が最後に知るのも、ある意味では当然だ。お前は自分に関係ないと思っているからな」


最後に知る。宰相はそれを、責めるのではなく説明として言った。説明が正しいから、余計に苦しい。


「……私は、知らされていない」


「本人が言わないからだろう」


宰相は淡々と言う。


「次期公爵は、言葉より先に段取りを作るタイプだ。お前の身体を守る段取り、議会の文言の段取り、周囲への示し方の段取り……その延長線上に、婚姻の段取りがある」


その分析が、あまりに彼女に似ていた。彼女は確かに、段取りを作る。そして段取りを“優しさ”の形で差し出す。


「……宰相は、その段取りに乗るのですか」


口にした瞬間、自分が何を言っているのか分かった。宰相に反対するということだ。政治の中心に、実務官僚が逆らうということだ。


宰相は目を細める。


「乗るのではない。整理する。波を抑えるために必要な整理だ」


彼は紙束の別の一枚を示した。


「オルフェンズ侯爵家には、体面を崩さぬ撤退の筋を用意した。侯爵家次男は察しが良い。無理に争えば自分が汚れると分かっている。だから“国益のために身を引く”という絵を描ける」


アルベルトが身を引く。確かに彼ならそうするだろう。整ったまま退くことで、彼自身の価値は落ちない。


「議会には、宰相府の実務の継続性を示す。次期公爵が“現場の補佐官”を選んだ、と言えば反発は薄い。彼らは恋より安定を好む」


冷たい合理。正しい合理。


そして最後に宰相は、最も恐ろしい言葉を落とした。


「公爵家も、すでにお前を婿候補として扱い始めている。公爵は、王城に対しても筋を通した。残っているのは、お前の理解だけだ」


理解だけ。


理解すれば、世界が変わる。理解しなければ、政治は先に進む。そして進んだ政治は、個人を置き去りにする。


レオンハルトは、言葉が出なかった。


宰相は立ち上がり、彼の肩へ軽く手を置いた。珍しい動作だった。慰めではない。押さえだ。逃がさないための。


「ハルトマン補佐官。今日は一つだけ覚えておけ。次期公爵は、国を背負う者の覚悟で、お前を選んだ。遊びではない。気の迷いでもない。お前が否定するほど、周囲は事実として固める」


「……私は、相応しくありません」


絞り出した言葉は、彼の本音だった。相応しくない。若い次期公爵の人生を、自分の疲れた人生に混ぜてはいけない。そう思う。


宰相は目を逸らさずに言う。


「相応しさは、お前が決めることではない。相手が決める。相手が次期公爵なら、なおさらだ」


その論理は残酷だった。残酷で、正しい。


応接室を出たとき、王城の廊下の空気がひどく軽く感じた。軽いのに、足は重い。視界の端で近衛が礼をする。誰かが囁く気配がする。内容は聞こえないのに、“もう知っている者の空気”が漂う。


彼は、それでも宰相府へ戻った。戻るしかない。仕事は待つ。仕事だけが彼を“元の位置”に戻してくれる。


執務室の扉を開けると、机の上が整っていた。いつもより整っている。紙束が分類され、付箋が貼られ、要旨が短い手書きでまとめられている。


筆跡は、彼のものではない。


柔らかい、けれど迷いのない文字。線が細く、しかし意志がある。


エリシアの筆跡だった。


彼女は来ていた。彼が呼び出されている間に、ここに入った。勝手に入れるはずがない。宰相府が許可したのだ。許可の理由は明白だ。


すでに“婿候補”として扱われ始めている。


喉が乾いた。机の端の紅茶の瓶が視界に入る。彼はそれを見て、手を伸ばし――止めた。飲めば落ち着く。落ち着けば、処理してしまえる。処理してしまえば、彼女の行為が“政治の段取り”としてしか残らない。


だが、政治の段取りであってほしくない、と心のどこかが叫ぶ。叫ぶこと自体が危険なのに。


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします」


入ってきたのは、書記官ではなく、宰相の秘書官だった。若いが目が鋭い。余計な感情を表に出さない訓練が行き届いている。


「補佐官殿。お戻りでしたか。宰相より伝言です。今夜、公爵邸で簡易な会合があります。補佐官殿も出席を」


「会合?」


「はい。次期公爵と公爵、それから宰相。形式張ったものではありませんが、欠席は難しいかと」


欠席は難しい。つまり、もう決まっている。


「……分かりました」


返事をした瞬間、秘書官の表情がわずかに緩んだ。緩みはすぐ消えるが、その一瞬で十分だった。“当然の出席者”として扱っている。


秘書官が退出し、扉が閉まる。執務室の静けさが戻る。だが紙の山は、いつもより遠い。仕事が手につかない。そんなことはあり得ないはずなのに。


夕刻、公爵邸へ向かう馬車の中で、レオンハルトは窓外の街灯を眺めていた。王都はいつも通りだ。商店が閉まり、夜の冷えが路地へ降り、馬車の音が石畳に吸われる。世界は変わっていないように見える。


変わっているのは、自分の位置だけだ。


公爵邸の客間は、過剰に豪奢ではない。だが細部が整っている。温度、香り、照明、茶器の位置。権力のある家は、見せびらかさずに“当然の上質”を作る。


公爵が先に座っていた。父というより統治者の顔で、レオンハルトを迎える。宰相もいる。二人の並びだけで政治が成立する空気。


そして、エリシアがいた。


淡い色のドレスではなく、家の中での簡素な装い。それでも彼女は、そこにいるだけで部屋を明るくする。ふんわりした笑みのまま、彼を見る。


「お疲れさまです、レオンハルト様」


名前で呼ぶ。様付け。礼儀。距離の近さ。


レオンハルトは礼をし、椅子に腰を下ろした。手の置き場が分からない。視線の置き場が分からない。こんなことは初めてだった。議会でも王城でも、彼は置き場を失わない。役割が決まっているからだ。


だが今、役割が揺れている。


公爵が口を開く。


「ハルトマン補佐官。まず、港湾整備の件、よくまとめてくれた。領としても助かった」


「職務です」


反射的に言い、そして自分で苦しくなる。ここでも“職務”しか言えないのか。だが言える言葉が他にない。


公爵は頷き、話題を変える。変える速度は宰相に似ている。父娘だからか、それとも政治家だからか。


「次に、エリシアの婚姻の件だ」


来た。逃げ場はない。


エリシアはふんわりと微笑んだまま、カップを両手で持っている。微笑んでいるのに、目が真剣だ。彼女は決めている。決めたうえで、彼の反応を見ている。


公爵が続ける。


「オルフェンズ侯爵家次男との話は、こちらから筋を通して引いた。侯爵家も納得している。王城も理解した」


理解した。王城が。


「エリシアは、別の相手を選ぶと私に言った。私は理由を聞いた。何度か確認した。気の迷いではないと判断した」


判断した。父が。


「だから私は、娘の意志を尊重する」


尊重。政治の世界で“尊重”と言うとき、それは責任の引き受けと同義だ。つまり公爵は、娘の選択の責任を取る覚悟でいる。


レオンハルトの喉が乾く。口を開いても、何を言えばいいか分からない。


公爵の視線が、まっすぐ彼に向く。


「ハルトマン補佐官。娘は、お前を選んだ」


選んだ。


言葉が、今度は公爵の口から落ちた。宰相の口から聞いたのとは違う重さ。父が言う“選んだ”は、政治だけでなく、家の意思でもある。


「……私は」


やっと言葉が出る。


「私は、次期公爵に相応しい立場ではありません。歳も違う。身分も――」


「身分の話なら問題ない」


宰相が横から淡々と切った。切ることで、論点を潰す。実務の手つきだ。


「補佐官は宰相府の中枢だ。実務は国の骨格だ。爵位だけが価値ではない。むしろ今は“実務で国を動かせる者”が価値だ」


その価値観は正しい。正しいのに、レオンハルトの胸は痛い。価値の話にされると、自分の人間としての違和感が逃げ場を失う。


公爵が続けた。


「歳の差は分かっている。だが、エリシアはそのうえで選んだ。お前が気にするほど、本人は気にしていない。むしろ本人は……」


公爵が言いかけて、視線を娘へ滑らせた。エリシアはふんわりと笑うが、頬が少し赤い。そこで公爵は小さく息を吐き、言葉を整え直した。


「……お前のことを、よく見ている」


よく見ている。宰相も同じことを言った。周囲がみな、同じ方向を見ている。自分だけがそこから外れていた。


レオンハルトは視線を落とした。カップの中の紅茶が揺れる。香りが柔らかい。彼女が選んだ茶葉だ。こんなところにまで、彼女の痕跡がある。


「レオンハルト様」


エリシアが静かに呼んだ。


「私は、選びました」


彼女はそう言った。言葉は短い。だが逃げない。彼女はいつも、段取りを作ってから言葉を置く。今回は、段取りが先に固まった。周囲が固めた。だからこそ、彼女は安心して言えるのだろう。


「私は、レオンハルト様が好きです」


まだ最終話の言葉ではないはずなのに、彼女は“好き”を口にしてしまった。慌てて取り繕うように、すぐに続ける。


「……いえ、好きというより、まず、可愛いと思っています」


可愛い。出た。彼女の言葉。


宰相が咳払いを一つした。場を整えるための咳払いだ。感情が逸走しないように、政治の場へ戻す。


「次期公爵の意思は明確だ。公爵の了承もある。王城の理解もある。議会への波も整理できる。残るのは――お前だけだ、ハルトマン補佐官」


また、その言い方だ。残るのは理解だけ。理解すれば進む。理解しなければ置き去りになる。


レオンハルトは拳を握った。握って、開いた。開いて、また握った。どうしようもない。


「……私は、彼女の未来を邪魔したくありません」


口から出たのはそれだった。彼の倫理。彼の壁。彼の自己否定。


エリシアは首を振る。ふんわりと、しかし迷いなく。


「邪魔ではありません。私の未来に、レオンハルト様が必要です」


必要。彼女はそれを“政治的に必要”と“心情として必要”の両方で言える。だから強い。


公爵が一拍置いて、静かに言った。


「ハルトマン補佐官。ここまで話しても、お前が即答できないのは分かる。だから、今日は“確認”だけにする」


確認。優しい言葉だが、政治の確認は逃げ場を残さない。


「お前が拒むなら、拒む理由を聞く。そしてそれが“彼女の意思より重い”かどうか、私と宰相で判断する」


レオンハルトの背筋が冷えた。拒む理由を提出させられる。提出しても、それが重いかどうかは自分では決められない。つまり、拒否権が弱い。


「……私は」


言葉が詰まる。


エリシアが、ふと、いつもの調子で言った。


「レオンハルト様。紅茶、冷めます」


それが、あまりにも日常だった。


政治の会合で、次期公爵が、宰相補佐官に紅茶の温度を気にする。場の緊張が一瞬だけ緩む。宰相が小さく目を伏せ、公爵が微かに口角を上げた。


周囲はもう、理解している。これが“選ばれた事実”だと。


本人だけが、まだその事実を身体の中に落とし込めていない。


レオンハルトは、カップを持ち、口をつけた。温かい。喉が潤う。身体が少しだけ落ち着く。落ち着いた瞬間、彼は自分の弱さに気づいてしまった。


落ち着きたかったのだ。ずっと。


落ち着ける場所が欲しかったのだ。責任から逃げるのではなく、責任を抱えたまま息ができる場所が。


その場所を、目の前の少女が差し出している。しかも国を背負う覚悟で。


「……私は」


レオンハルトは視線を上げ、エリシアを見た。彼女はふんわりと微笑んだまま、真剣にこちらを見ている。逃げない目。泣かない目。押し付けない目。けれど譲らない目。


「今すぐ答えは出せません」


それが精一杯だった。


宰相が頷く。


「それでいい。今日ここで“受け入れます”と言えとは言わない。お前はそういう男ではない」


公爵も頷く。


「だが、事実は動く。王城には“内々の合意”として伝える。議会にも波が立たぬ形で流す。社交界にも、余計な噂が過剰に踊らぬよう整える」


整える。すでに整え始めている。


エリシアが、少しだけ笑った。


「だから、レオンハルト様は、ゆっくりでいいです」


ゆっくりでいい。そう言われて、彼は逆に恐ろしくなった。ゆっくりでいい、ということは、彼女は待つということだ。待ちながら、日常を積み重ねるということだ。積み重なった日常は、拒否しづらくなる。


それが溺愛の戦略だと気づいたときには、もう遅い。


会合はそれで終わった。終わったはずなのに、帰り際が最も現実を突きつける。


公爵邸の使用人が、玄関で外套を用意しながら、自然に言った。


「レオンハルト様、お車の準備が整いました。次期公爵様は先にお休みになられます」


次期公爵様。敬称は正しい。だが問題は、使用人の目の柔らかさだった。まるで“家の人”に向ける目だ。客への目ではない。


さらに、別の若い侍女が小声で囁くのが聞こえた。


「お似合いですね……」


それを咎める者はいない。咎めないのが“公認”だ。


馬車へ乗り込む直前、エリシアが玄関まで見送りに出てきた。夜気の中で頬が赤く、白い息が淡く揺れる。


「レオンハルト様」


「……はい」


「明日、宰相府へ行きます。お昼を持っていきます」


あまりにもいつもの調子だった。紅茶、気遣い、距離ゼロ。今日の会合の内容を、彼女は“特別なこと”として扱わない。扱わないことで、それを日常に落とす。


レオンハルトは、何も言えなかった。


ただ頷いた。頷くしかなかった。


馬車が動き出し、窓の外に公爵邸の灯りが遠ざかる。遠ざかっても、胸の中の圧は残る。宰相の言葉、公爵の言葉、使用人の目、侍女の囁き。


そして何より、エリシアの“いつも通り”の声。


翌日、宰相府に入った瞬間から空気が違った。


廊下の視線が、昨日までの“探る”ではなく“確信”に変わっている。確信は人を丁寧にする。丁寧さの中に、妙な温度が混ざる。


秘書官が礼をし、いつもより柔らかい声で言った。


「補佐官殿、おはようございます。本日は……その、おめでとうございます」


何が、とは言わない。言わないことが、もう分かっている証拠だ。


レオンハルトは立ち止まり、言葉を探した。


「……まだ、何も」


言いかけて、止めた。否定すれば、宰相の段取りを否定することになる。否定すれば、次期公爵の意志を否定することになる。否定すれば、周囲が固めた事実に逆らうことになる。


その逆らい方は、彼の役割ではない。


彼は結局、曖昧に頷いて通り過ぎるしかなかった。


執務室の扉を開けると、机の上に小さな包みが置かれていた。布で包まれた、温かい匂いのする包み。中身は見なくても分かる。


昼だ。彼女が言った通りだ。


包みの上に、短い紙が添えられている。


丁寧な筆跡で、こう書いてあった。


――無理はしないでください。お昼は食べてください。可愛いから。


可愛いから。


仕事のメモに混ざって、その言葉がある。宰相府の中枢の机の上に、次期公爵の筆跡で。


これを見た誰かが、もう“公認”を確信するのは当然だった。


レオンハルトは椅子に座り、包みを開けた。温かいスープと、柔らかいパンと、少し甘い菓子。喉に優しいものばかり。彼女は、彼の身体の弱点を把握している。把握した上で、当たり前に補ってくる。


そして彼は、補われることに抗えない。


昼過ぎ、宰相がふいに執務室へ入ってきた。いつもなら秘書官が先に知らせる。だが今日は知らせない。宰相は、知らせずに入ってきた。


「昼は食べたか」


「……はい」


「そうか」


宰相はそれだけ言い、机の端の包みを一瞥した。目が細くなる。笑っているようで、笑っていない。政治家の目だ。


「お前はまだ自覚が薄いようだが、周囲はもう自覚している」


自覚。彼が最も苦手な言葉だ。


宰相は淡々と続ける。


「次期公爵は、今日の午後、王城へ出る。王族への挨拶だ。正式発表ではないが、内々の確認を進める。お前も呼ばれる可能性がある。来ても驚くな」


驚くな。驚くなと言われて驚かない人間がいるなら、見てみたい。


「……私はまだ、承諾していません」


「承諾の言葉を待って、政治は止まらない」


宰相は容赦がない。容赦がないから、正しい。


「“選ばれた事実”が先に立った以上、お前はそれを前提に振る舞う必要がある。拒むなら拒むで、筋を立てろ。立てられないなら、飲み込め」


飲み込め。宰相らしい言葉だ。


宰相が去ったあと、レオンハルトは机の上の紙を見た。案件が並び、期限が並び、政治が並ぶ。いつもならそれだけで世界が完結するのに、今日はそれが遠い。


代わりに、包み紙の「可愛いから」という文字が、ずっと視界に残る。


夕方、廊下でアルベルト・オルフェンズとすれ違った。


彼はいつも通り整っていた。微笑も、礼も、距離感も。


「補佐官殿」


「侯爵家次男」


呼び方は事務的だ。互いに感情を混ぜない。混ぜないのが、政治の礼儀。


アルベルトは一瞬だけ目を細め、そして柔らかく言った。


「次期公爵は、良い方ですね」


その言い方に、含みがあった。良い方。誰にとって。国にとって。自分にとって。補佐官にとって。


レオンハルトは答えられず、短く頷いた。


アルベルトは続ける。


「私は、身を引きます。政治的な筋も、すでに整ったようです。私が無理に手を伸ばす必要はありません」


「……申し訳ありません」


反射的に言うと、アルベルトは首を振った。


「謝る必要はありません。次期公爵が選んだ。それだけです」


選んだ。それが彼の口からも出た。周囲はみな、同じ言葉を使う。選ぶという事実を、同じ動詞で共有している。


アルベルトは微笑んだ。


「補佐官殿。あなたは、自分が選ばれる側ではないと思っている」


言い当てられ、レオンハルトの背筋が硬くなる。


「そういう人ほど、選ばれると弱い。……無理をしないでください」


その言葉は皮肉ではなかった。むしろ慰めに近い。アルベルトは負けたのではない。譲ったのだ。譲りながら、相手を汚さず、自分も汚さない。


彼は最後に、小さく付け足した。


「次期公爵は、あなたを守るでしょう。守られることを、怖がらないでください」


そう言って去っていった。


廊下に残されたレオンハルトは、その場でしばらく動けなかった。


守られる。怖がるな。


怖いに決まっている。守られるということは、誰かに自分の脆さを預けるということだ。預ければ、相手の人生に触れる。触れれば、責任が生まれる。責任は、今まで国に対してしか負ったことがない。


個人に対する責任は、重さの種類が違う。


夜、執務室に戻ると、また小さな包みが置かれていた。今度は紅茶と、喉飴。添え紙には短くこうある。


――今日は寒いので、温かくしてください。可愛いから。


可愛いから。


その言葉は、もはや個人的な好意の告白ではなく、生活の命令に近い。命令ではないのに、従ってしまう。従ってしまう自分が、怖い。


そして、その怖さを抱えたまま、彼は気づいてしまった。


周囲はもう、彼を“選ばれた人”として扱っている。 本人だけが、まだその事実を受け止めきれていない。


選ばれた事実が先に来て、本人が最後に知る。


それは物語の筋としては滑稽だ。だが現実としては、あまりに残酷で、あまりに優しい。


残酷なのは、逃げ場がないこと。 優しいのは、逃げ場を塞ぐ理由が“可愛いから”という、彼女の一貫した感情であること。


机の端の紅茶の瓶を見ながら、レオンハルトは小さく息を吐いた。


自分の世界は、もう一人では完結しない。


それを、周囲が先に公認してしまったのだ。


彼が最後に知ったのは、宰相でも公爵でもない。


夜更けに、ふと扉の外で聞こえた書記官の小声だった。


「補佐官殿、次期公爵様の……いえ、未来のご婚約者様。明日のお出かけの段取り、こちらで整えておきます」


ご婚約者様。


その言葉が、紙の匂いの宰相府で、静かに確定した。


レオンハルトは、椅子に座ったまま動けなかった。胸の奥が熱くなり、喉が渇き、指先が冷える。政治の現実に、個人の感情が追いつかない。


そしてその遅れが、彼をさらに混乱させた。


彼はまだ何も言っていないのに。 彼の答えがまだないのに。


世界だけが先に、彼を“選ばれた人”にしてしまっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ