第4話 「恋人の距離で、名前を呼ばない」
宰相府の窓に、白い息が淡く張りつく朝だった。
夜の冷えがまだ廊下に残っていて、石壁の奥からじんとした寒さが滲み出してくる。冬はいつも、気温より先に“動き”で人間を追い詰める。段取りが増え、会議が増え、期限が縮む。紙の山が増え、それを捲る指先の荒れだけが、季節の進みを正確に刻む。
レオンハルト・ハルトマンは、夜明け前から机に向かっていた。
灯りの下で書類を捲る音は一定で、規則正しい。ペンが走る音が短く挟まり、封蝋が割れる乾いた音が混じる。室内の空気は乾いていて、喉の奥が張りつく感覚がある。咳が出そうになるたび、彼はそれを飲み込んだ。咳は時間を止める。時間が止まれば、仕事が詰まる。詰まれば国のどこかが歪む。歪みは、後で必ず倍になって返ってくる。
だから咳は、出さない。
その日、机の端には、いつもの紅茶とは違う茶葉の瓶が置かれていた。渋みが柔らかい、と彼女が言ったものだ。蓋を開けるたび、微かな香りが立ち、乾いた空気の中にだけ小さな温度が生まれる。気づけばその瓶は、彼の視界に入る“当たり前”になりかけていた。
それを、危険だと思う。
物が当たり前になると、いつの間にか人も当たり前になる。彼の世界に“当たり前の誰か”が入り込む余地などない。職務は人の顔より重い。誰かの気配に甘えると、判断が鈍る。判断が鈍れば、責任が遅れる。
そう分かっているのに、机上の瓶をどけないまま、彼は紙を捲っていた。
扉が控えめに叩かれる。
書記官の声がする前に、レオンハルトはわずかに眉を寄せた。早朝の宰相府に、この柔らかいノックは似合わない。
「失礼いたします」
扉が開いた瞬間、室内の空気が少しだけ変わる。冷たい廊下の匂いではない。外套に染みた冬の風の匂いと、ほのかな香り。
エリシア・リーヴェンハイムが、いつも通りのふんわりした笑みで立っていた。
「お早いですね、次期公爵」
「補佐官殿も、いつもお早いです」
返しが、ずるいと思うほど自然だった。相手を否定せず、肯定もせず、ただ同じ温度で返す。彼女は大きな声を出さない。言葉を強くしない。けれど、彼女がそこに立っている事実だけが、静かな圧になる。
「今日は、議会前の最終整理があると聞きました。ほんの少しだけ、お邪魔してもよろしいですか」
「……もちろんです」
言う前から断れないと分かっていて、言葉にする自分が、妙に滑稽だった。彼女は机の向かいに座り、書類を受け取る。視線が紙面に落ちる。迷いがない。
そして、彼の顔を見て、ほんの少しだけ眉を下げた。
「補佐官殿……眠っていらっしゃいませんよね」
問いは柔らかいのに、鋭い。レオンハルトは瞬きをした。眠っているかどうかなど、彼の仕事の評価項目にはないはずだ。だが彼女は、それを“評価”ではなく“確認”として訊いてくる。
「必要な睡眠は取っています」
嘘ではない。必要な、という定義を自分で極限まで削っているだけだ。
エリシアは否定しなかった。否定せずに、立ち上がった。
「では、紅茶を淹れますね」
彼女は言って、給湯台へ向かう。作法としては不自然だ。次期公爵が宰相補佐官の執務室で紅茶を淹れる。噂が育つ要素しかない。それでも彼女は、噂を気にしないのではなく、噂の方を“どうでもよくする”ように振る舞っていた。
彼女が湯を注ぐ音がする。茶葉の瓶の蓋が開く音。湯気が立つ。香りが少しだけ濃くなる。
その香りに、レオンハルトの喉が反射的に渇きを訴えた。喉は正直だ。身体は正直だ。正直であることが、仕事の邪魔になる。
エリシアがカップを置く。目の前に。あまりにも自然に。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけで終わるはずだった。
だが彼女は、カップの縁を整えるように指先を添えたまま、少しだけ声を落とした。
「補佐官殿。今日の議会、かなり厳しくなりますか」
「反対派は、最後まで数字を盾にするでしょう。加えて王城の意向を利用する。こちらに責任を押し付ける形で」
「補佐官殿が、盾になる」
「職務です」
短く返すと、エリシアはほんの少しだけ目を伏せた。ふんわりした顔のまま、落ちる影が深い。
「盾が、折れたらどうするのですか」
その言葉が、思いがけず胸に刺さった。
折れる。自分が折れる前提で物を言う者は、宰相府にはいない。折れるか折れないかを語るより、折れないように手を打つ。それが実務の世界だ。けれど彼女は、その外側から、当たり前に“折れる可能性”を言葉にする。
レオンハルトは一瞬、言葉を失い、次に最も安全な答えを探した。
「折れません」
「……そう言い切れるところが、補佐官殿らしいです」
褒めているのか、心配しているのか分からない声だった。分からないのに、優しい。優しいまま、彼の世界の前提を揺らす。
その日の午前は、議会説明の最後の詰めで過ぎた。反対派の論点を潰す文言、補助金の枠組みの説明順、議会小委員会存続の約束の見せ方。エリシアの提案は的確で、レオンハルトが書き換える箇所は少なかった。
作業が終盤に差しかかった頃、彼の視界が一瞬だけ白くなった。
紙面の文字が滲む。焦点が合わない。目の奥が熱を持ち、頭の中心がふわりと浮く。椅子の脚が遠くなるような感覚。
過労の兆候だと、分かる。分かったところで止められない。止めれば、今日の議会が崩れる。
彼は息を整え、ペンを握り直した。
その瞬間、エリシアの声が落ちた。
「補佐官殿」
「はい」
「……今、少し、揺れました」
言い逃れができないほど、静かな断定だった。レオンハルトは視線を上げた。彼女は微笑んでいない。怒ってもいない。ただ、真剣な目でこちらを見ている。
「気のせいです」
言った瞬間、自分でも分かった。これは悪手だ。彼女は観察眼が鋭い。嘘が通じない。
案の定、エリシアは首をゆっくり傾げた。
「気のせいなら、良いです。でも……確認してもいいですか」
確認。何を。そう思うより先に、彼女は立ち上がって机の端を回り、彼の横に来た。
距離が近い。執務室で、次期公爵が宰相補佐官の横に立つ。その事実だけで、外から見れば十分に噂になる。だが今、噂はどうでもよかった。
彼女の指先が、そっと彼の額に触れた。
冷たい。冬の空気を抱えた指だ。その冷たさが、逆に彼の熱を浮き彫りにする。彼女は眉を寄せ、目を伏せ、次に静かに言った。
「熱いです」
レオンハルトの喉が詰まった。
触れられたことへの動揺ではない。触れられて、体調を“事実”として確定されたことへの動揺だ。事実になると、処理しなければならない。処理すれば仕事が止まる。止まれば、今日が崩れる。
「……問題ありません。軽い疲れです」
「軽い疲れで、額が熱くなるのですか」
おっとりした声のまま、言葉は容赦がない。
「議会に行きます。補佐官殿が倒れたら、今日の議会はもっと崩れます」
エリシアはそう言って、扉へ向かった。書記官を呼ぶためだろう。レオンハルトは立ち上がろうとし、膝が一瞬だけ笑った。視界がまた白くなる。
その白の中で、椅子の背を掴む手があった。エリシアの手だ。小さいのに、力がある。支えるというより、逃がさない力。
「……座ってください」
命令ではない。お願いでもない。事実の提示だ。座る以外の選択肢が消える言い方。
レオンハルトは椅子に落ちた。
それを見届けてから、エリシアは扉を開け、廊下へ声を投げた。
「すみません。医師をお呼びいただけますか。できるだけ早く」
廊下の空気が動く。書記官が慌てて走る音がする。宰相府の朝の静けさが、一気に実務の緊急色へ変わる。
レオンハルトは唇を結び、机上の書類へ手を伸ばそうとした。だがエリシアが、彼の手首にそっと触れた。
「今は、これをしないでください」
「……今日の議会が」
「私が、行きます」
「次期公爵が出る場では――」
「公爵領が関わっています。出る理由はあります。補佐官殿の代わりにはなりませんが、補佐官殿が倒れるよりは、ましです」
まし。彼女が使う言葉は時々、妙に現実的で強い。その強さが、ふんわりした雰囲気の下に隠れているから、余計に抗えない。
「宰相には、私から伝えます。議会には、資料だけ持っていきます。補佐官殿が今ここで倒れたら、誰が責任を取れますか」
責任。レオンハルトの世界の中心だ。そこに刃を当てられた瞬間、彼は黙るしかなかった。
エリシアは机上の紙束を整え、必要なものだけを抜き取った。手際がいい。迷いがない。次期公爵は、ここでも“後継者”だった。
医師が来るまでの数分、レオンハルトは何度か口を開きかけて、閉じた。言うべきことは山ほどある。議会の段取り、反対派への言い回し、宰相への報告の順番。だが、彼女はそれを全部、机上の紙で理解している。
何より、自分の体が言うことを聞かない。喉が熱い。頭の奥が重い。目の奥が痛む。
医師が駆け込んできたのは、十分もしないうちだった。宰相府の医務室から呼ばれた老医師で、状況を見るなり「またか」とでも言いたげな顔をした。
「補佐官殿、脈を。……熱もありますな。睡眠は」
「必要なだけ」
「必要なだけ、ですか」
老医師は苦笑とも怒りともつかない顔で、短く吐き捨てるように言った。
「あなたの必要と、身体の必要は違う。これは熱ではなく、過労と冷えが重なっている。倒れる前に止めなさい」
レオンハルトは反射的に言いかけた。
「今日の議会が――」
老医師が手を上げて遮った。
「議会があなたの身体を代替してくれるか。代替しないでしょう」
言葉が正しい。正しすぎて、反論ができない。
エリシアは医師の横で、静かに頷いていた。そして、レオンハルトを見る。
「補佐官殿。今日は、休んでください」
「……休むのは、職務放棄です」
「倒れる方が、職務放棄です」
ふんわりした声で言われると、言葉が刺さらない代わりに逃げ場がなくなる。硬い反論の角が、柔らかな布で包まれて握り潰されるような感覚。
老医師が薬包を出し、湯に溶かすよう指示を出し、最後に付け加えた。
「今日は仕事をしない。最低でも半日。できれば一日。医師の命令です。宰相には私から言います」
医師の命令。宰相の許可。言い逃れの道が、次々塞がれる。
エリシアが小さく息を吐いた。安堵したような、しかしまだ警戒を解かない息。
「補佐官殿、執務室の奥の仮眠室を使ってください。ここで寝て、起きたら温かいものを飲んでください」
彼女はいつの間にか、指示を“段取り”として組み立てていた。次期公爵としてではない。人として、彼を休ませるための段取り。
レオンハルトは、混乱を感じた。
なぜそこまで。なぜ自分に。次期公爵が、実務官僚の仮眠の段取りまで組む理由がどこにある。
「次期公爵……」
「エリシア、で大丈夫です」
言われて、彼は息を止めた。
名前で呼ぶ。距離が変わる。立場が変わる。そんなことを、彼の世界は許さない。
「……それは」
「補佐官殿は私を“次期公爵”として扱ってくださいます。だから、私は補佐官殿を“補佐官殿”として扱います。でも、名前で呼ぶことは、礼を欠くことではありません」
理屈が整っている。整っているのに、その理屈の芯は感情だ。彼女は感情を、礼儀の形に包んで差し出してくる。拒めないように。
「レオンハルト様」
耳に落ちた名前の呼び方が、思いのほか重かった。様付け。敬意。だが距離は近い。彼女の声の柔らかさが、直接届く。
レオンハルトは、ただ頷くしかできなかった。
結局、彼は仮眠室へ追いやられる形になった。追いやられると言うと乱暴だが、実際そうだった。自分の意志で休むことができない男に対して、彼女は外側から“休む”を成立させる。
仮眠室は狭いが清潔で、毛布と小さな寝台がある。宰相府の実務官たちが、倒れずに働くために用意された場所だ。だがレオンハルトは、そこを利用する習慣がない。利用すれば“自分が弱い”と認めるようで嫌だった。
エリシアは彼をそこに座らせ、毛布を手に取った。
「横になってください」
「……ここで横になる時間があるなら」
「あります」
言い切る。彼女は怒鳴らない。押し付けない。でも、譲らない。
レオンハルトが渋々寝台に背を預けると、エリシアは毛布をかけた。指先が彼の肩に触れる。外套の布越しでも分かる熱が、そこにある。
「……すみません」
彼はなぜか謝った。仕事が遅れることへの謝罪。次期公爵に手間を取らせることへの謝罪。自分が情けないことへの謝罪。全部が混ざった、無意味な謝罪。
エリシアは首を振った。
「謝らなくていいです。レオンハルト様が倒れたら……私が困ります」
困る。彼女はそう言った。
それは政治的な困り方かもしれない。補佐官が倒れれば実務が滞る。議会が荒れる。港湾整備が遅れる。公爵領に影響が出る。
そう思おうとした瞬間、彼女が続けた。
「私が、嫌です」
短い言葉だった。理由がない。理屈がない。だからこそ、胸の奥に落ちた。
「……嫌、ですか」
「はい」
エリシアは柔らかく頷き、彼の額に手を当てた。今度は確かめるように。熱が下がっていないことを確認して、少しだけ眉を下げる。
「嫌です。レオンハルト様が、苦しそうなのは」
苦しそう。彼は苦しそうな顔をしていないつもりだった。苦しさを外に出すと、仕事が止まる。止まれば責任が増える。増えればまた苦しくなる。だから最初から出さない。
それでも、彼女は見つける。見つけてしまう。
「……私は、平気です」
言うと、エリシアは困ったように笑った。
「平気って、ずるい言葉ですね」
ずるい。そんな言葉を、彼は仕事で使わない。だが確かに、ずるい。平気と言えば、周囲は何も言えなくなる。倒れてからようやく周囲が動く。それまで一人で抱え込める。
「平気と言う人ほど、後から倒れます」
「……経験則ですか」
「はい」
彼女は迷いなく言う。経験。十七歳の次期公爵に、どんな経験がある。そう問う前に、彼女は静かに言葉を足した。
「公爵家にも、倒れた人がいました。平気と言って、ずっと平気な顔をして、ある日突然。……私は、そういうのが嫌です」
その一言に、彼は初めて、彼女の“ふんわり”の奥にある影を見た気がした。彼女が優しいのは性格だけではない。彼女は知っている。失う痛みを、薄くでも知っている。
だからこそ、止める。
「……分かりました。少しだけ、横になります」
その譲歩に、エリシアはようやく息を吐いた。安心した顔になる。子どもっぽいほど正直な顔。
「ありがとうございます」
礼を言うのが、彼女らしい。押し付けているのに、礼を言う。相手の譲歩を当たり前にしない。その誠実さが、また困るほど可愛い。
彼女は仮眠室を出ようとして、扉の前で振り返った。
「……私、ここにいますね」
「ここに?」
「はい。執務室にいます。起きたら、紅茶を持ってきます」
言い置いて出ていく。彼はそれを止められない。止める理由を、持てない。
仮眠室に一人残されると、静けさが急に濃くなった。毛布の重みが身体に乗り、目の奥の痛みがじわりと広がる。薬の匂いがかすかにする。老医師が置いていった湯薬が、喉の奥に残っている。
眠るつもりなどなかった。少し目を閉じて、痛みをやり過ごすだけのつもりだった。
それでも、意識はゆっくり沈んだ。
沈む直前、ふと聞こえた気がした。廊下を歩く足音。軽く、しかし迷いのない足音。彼女の足音だろうか。今は仕事をしているはずなのに。彼女は本当に執務室にいるのか。なぜいる。なぜそこまで。
問いが形になる前に、彼は眠りに落ちた。
どれほど眠ったのか分からない。目を開けると、仮眠室の灯りは少しだけ弱くなっていた。外の光が傾いている。午前が午後へ移った気配。身体はまだ重いが、頭の白さは薄れている。
扉が控えめに開き、エリシアが顔を覗かせた。
「起きましたか」
声が、驚くほど近い。彼女は本当に、ここにいたらしい。執務室ではなく、仮眠室の前にいた。待っていたのか。待つ理由がない。
「……どれくらい」
「二時間ほどです」
二時間。二時間も仕事から離れた。頭が反射的に焦る。紙の山が増えたはずだ。議会の理事会はどうなった。宰相は。反対派は。
焦りが身体を起こそうとする前に、エリシアがカップを差し出した。
「紅茶です。温かいです」
彼は受け取り、口をつけた。柔らかい香りが喉を通り、熱が体に落ちる。飲む動作が、不思議と“現実”を戻してくる。仕事を戻すのではなく、自分を戻す。
「……議会は」
尋ねると、エリシアは椅子に腰を下ろし、穏やかに答えた。
「宰相様が午後に戻られました。議会理事会は、補佐官殿――いえ、レオンハルト様がまとめた文言で進めることになりました。反対派は“場の存続”に食いつきました。今は、額の話から逸れています」
きちんと報告ができている。簡潔で、要点がある。宰相補佐官の口調に近い。それが、妙に彼を落ち着かせ、同時に胸の奥をざわつかせた。
「次期公爵が、そこまで……」
「私が勝手にやったわけではありません。宰相様が判断されました。私は、少しだけ手伝っただけです」
少しだけ、と言いながら、彼女は確実に場を回している。彼女は次期公爵としての役割を、ここでも果たしていた。つまり、彼女がここにいるのは“政治”としても成立している。
成立してしまうからこそ、困る。
「……申し訳ありません。私が倒れたせいで」
「倒れていません」
エリシアは即座に言い切った。
「倒れる前に止めただけです。私は、それが良いと思います」
「……私の判断ではありません」
「私の判断です」
さらりと言う。さらりと言ってしまうことが、どれほど大きいか分かっているのか分からない。次期公爵が、宰相補佐官の健康管理を“私の判断”と言う。政治の世界では、一つの意思表示だ。噂の燃料だ。
彼女はそんなことを気にしていないように見えるが、違う。気にした上で、それでも言うのだ。自分の判断の方が大事だから。
レオンハルトは喉を鳴らし、視線を落とした。カップの中の紅茶が、ふわりと揺れる。
「……なぜ、そこまで」
ついに口から出た。抑え込むつもりだった。抑え込んで、職務に戻して、忘れるつもりだった。だが、彼女がここにいる。紅茶を持っている。議会を動かしている。名前を呼んでいる。
積み重なりが、問いになった。
エリシアは目を瞬き、少しだけ首を傾げた。ふんわりした仕草。けれど答えは迷わなかった。
「だって……レオンハルト様は、可愛いから」
言われた瞬間、彼は息を止めた。
可愛い。何を言っている。誰が誰を。次期公爵が、宰相補佐官に向かって。
彼の頭が、理解を拒む。拒むのに、言葉は耳に残る。軽く言ったのではない。からかっているのでもない。彼女は本気で言った顔をしている。
「……それは」
「可愛いです」
重ねる。重ねてしまう。ふんわりした声で、事実のように。
「頑張っているのに、自分を大切にしないところが。平気と言って、平気じゃないところが。倒れそうなのに、倒れないように立っているところが」
一つ一つが、彼の世界の前提を壊す言葉だった。彼はそれを“責任”と呼んでいた。彼女はそれを“可愛い”と呼ぶ。
呼び名が違うだけで、見ている対象が同じなら――それは、彼の生き方そのものを肯定されるに等しい。
肯定は、危険だ。
肯定されると、人は甘える。甘えると、判断が鈍る。鈍れば、責任が遅れる。遅れれば、国が歪む。
だから、肯定はいらない。
「……次期公爵。それは冗談です」
言ってしまった。最も安全な逃げ道として。冗談。冗談なら処理しなくていい。冗談なら意味が残らない。
エリシアは静かに首を振った。
「冗談ではありません」
柔らかい声のまま、切り捨てる。逃げ道を塞ぐ。彼女は怒っていない。怒っていないから、余計に怖い。
「私は、レオンハルト様を見ています。ずっと。ここで。紙の山の中で。誰も褒めないところで。誰も触れないところで」
彼女の言葉は、少しずつ熱を帯びていく。ふんわりした人が熱を帯びると、熱は鋭くなる。叫ばない分だけ、芯が強くなる。
「私は、それが……とても可愛いと思います」
レオンハルトは口を開けて、閉じた。反論の言葉が見つからない。何を言えばいい。可愛いと言われて、否定するのか。否定すれば、彼女の目を否定することになる。肯定すれば、意味が生まれる。意味が生まれれば、処理しなければならない。
「私は……」
言葉が続かない。
エリシアは、それ以上追わなかった。追わずに、カップを指差した。
「もう少し飲んでください。冷めると、喉が痛いです」
話を戻す。唐突に戻す。戻すことで、彼に逃げ場を与えるのではなく、“日常”として繋ぐ。溺愛というのは、こういうことなのかもしれない。大声で告げず、抱きしめず、ただ当たり前に世話を焼き、当たり前に言葉を重ねる。
距離がゼロになるのは、身体ではなく生活だ。
その日から、それが始まった。
レオンハルトは執務室へ戻ることを許された。許された、と感じてしまう時点で、自分がどれほど外側から管理され始めているかが分かる。彼は紙の山に手を伸ばし、しかしエリシアの視線があると、咳を飲み込む癖が少しだけ弱まった。
代わりに、紅茶を飲む。
代わりに、手の軟膏を塗る。
代わりに、昼に少しだけ食べる。
彼の生活の隙間に、彼女が入り込む。それは侵略ではなく、調整だった。国を動かす実務官僚の身体を、壊れないように調整する。彼女はそれを、次期公爵の仕事のように自然にやる。
それが、最も混乱する。
夕方、書記官が紙束を運びに来た。部屋の空気がいつもより柔らかいのに気づき、書記官は一瞬だけ戸惑った。彼の視線が、机の端の籠に落ちる。紅茶。軟膏。小さな菓子まで置かれている。
「……次期公爵殿下」
書記官が声を落とすと、エリシアはふんわりと笑った。
「お仕事、いつもありがとうございます。皆さんも、温かいものを飲んでくださいね」
言い方が、優しすぎる。実務官たちは優しさに慣れていない。彼らが慣れているのは叱責と期限と命令だ。だから優しさは、余計に目立つ。
書記官は礼をし、退出した。その背中が、廊下で誰かに何かを囁く気配がした。噂が増える。確実に増える。
レオンハルトは、その気配に気づかないふりをした。気づいても、止められない。止めれば、理由を問われる。理由を問われれば、彼は答えられない。
夜、宰相府の灯りが減り始めても、彼の執務室にはまだ灯りがあった。紙の山は減らない。減らないのに、今日の彼は不思議と、昨日ほど追い詰められていない。
紅茶がある。喉が潤う。頭の痛みが少し薄れる。
そして――エリシアが、まだいる。
彼女は机の向かいではなく、今日は彼の横の椅子に座っていた。書類に目を通しながら、時々彼の手元を見て、時々窓の外の冷えを確認するように視線を動かす。何も言わないのに、存在が“見張り”のように機能している。
見張り。そう思うのは失礼だ。だが、見張り以外の言葉が見つからない。彼女は彼を監視しているのではない。彼が無理をしないように、ただそこにいる。
「……次期公爵」
レオンハルトが呼ぶと、エリシアは顔を上げた。
「はい、レオンハルト様」
名前で呼ぶ。呼ばれるたび、胸の奥が揺れる。揺れるのに、それを押さえ込む。
「いつまで、ここに」
「レオンハルト様が帰るまでです」
平然と言う。平然と言ってしまう。彼の生活に“当たり前”として入り込む。
「……私は、帰りません。今日は」
「では、私も帰りません」
理屈が成立してしまう。成立してしまうから、反論ができない。
「次期公爵には、次期公爵の仕事が」
「あります。でも、今日の私は、ここにいる方が良いと思います」
「それは」
「私の判断です」
またそれだ。彼女は自分の行為を、必ず“判断”として言語化する。感情ではなく、判断。判断ならば政治的に成立する。成立するから、彼は止められない。
止められないことが、混乱を呼ぶ。
「……あなたは」
言いかけて、言葉を変えた。
「エリシア様は、なぜ……そんなに」
「可愛いからです」
即答だった。
レオンハルトは、言葉を失った。
エリシアはふんわりと笑ったまま、紙を一枚整えて彼の手元へ置いた。乱れた束を、当たり前のように整える。その仕草が、妻のようだと一瞬思ってしまい、彼は背筋が冷えた。
そんなことを考えるべきではない。
考えてはいけないのに、彼女は現実にそこにいる。紅茶を淹れ、仮眠室の前で待ち、額に触れ、名前を呼び、帰らないと言い、可愛いと言う。
一つ一つは小さい。だが積み重なれば、壁になる。彼の世界の境界線に、彼女が新しい境界を引いていく。
「レオンハルト様。少しだけ、休んでください」
「……休みました」
「今日の昼は、寝台に横になっただけです」
「それが休みです」
「いいえ。横になっただけです。休んだのではありません」
言葉が厳密すぎて、彼は苦笑に近い息を漏らした。いつから次期公爵に、実務官僚の休息定義を詰められるようになったのか。
エリシアは、その息を聞いて嬉しそうに目を細めた。
「笑いました」
「……笑っていません」
「笑いました」
「……」
彼女の言い方は、可愛いというより、確信に近い。彼女は彼の表情の変化を、見逃さない。見逃さず、指摘する。指摘が、彼を“人間”に戻す。
「レオンハルト様、少しだけ外套を脱いでください。汗をかいたままだと冷えます」
「……自分でできます」
「はい。でも、今は私が見ています」
見ています。彼女はそれを当然のように言う。見ているということは、関わるということだ。関わるということは、責任を持つということだ。彼女は、彼に対して責任を持とうとしている。
そんな責任を、彼は望んでいないはずなのに。
レオンハルトは外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。指先が少し震えたのを、彼女は見逃さない。
エリシアはすっと立ち上がり、彼の肩に毛布をかけた。執務室に毛布があるのがおかしい。だが今日の宰相府は、そのおかしさを誰も指摘しない。次期公爵が持ち込んだのか、仮眠室から持ってきたのか。どちらにせよ、噂が育つだけだ。
毛布の重みが、肩に乗る。
それだけで、彼の身体が少しだけ緩む。緩むと同時に、恐ろしくなる。緩めていいのか。ここで緩めたら、彼はもう一人で立てなくなるのではないか。
「……あなたは」
また言いかける。
エリシアが首を傾げる。
「はい」
「次期公爵に……このようなことをさせるのは」
言葉が探りになる。彼は本当は“やめてくれ”と言いたい。でも言えない。言えば、彼女の善意を否定する。否定できない。だから、遠回しになる。
エリシアは、驚くほど静かに言った。
「させられていません。私がしたいから、しています」
その言い方は、いつも通りだった。必要ではない。でもしたい。彼女は、したいを通す。通すために礼儀を使い、判断と言い、政治として成立させる。
「……なぜ」
レオンハルトは、小さく言った。
「私が、対象外なのは分かっているでしょう」
言ってしまった。言ってしまった瞬間、胸の奥が痛んだ。自分で自分に線を引く言葉。だが言わなければ、彼は溺れる。溺れれば、国が歪む。彼はそう信じている。
エリシアは、目を瞬いた。
そして、ふんわりと笑った。
「対象外って、誰が決めたのですか」
「……世間です」
「世間は、私の心を決められません」
言葉が、真っ直ぐだった。ふんわりした声なのに、芯が硬い。
「私は次期公爵だから、世間がいろいろ言うのは分かっています。でも、私が可愛いと思ったものを、可愛いと思ってはいけない理由にはなりません」
可愛い。彼女はそれを、武器のように振り回さない。真理のように置く。
「レオンハルト様が、自分を対象外だと思うのは分かります。そういう人だって、分かっています。でも、私は違います」
違う。彼女はそう言った。
レオンハルトの中で、何かが崩れそうになった。崩れたら、彼はもう“対象外”の場所に立てなくなる。だが彼女は、崩してはいない。崩れそうな部分に手を当て、止めている。壊さずに、形を変えようとしている。
それが、溺愛なのだろう。
彼女は距離を詰めるのに、破壊しない。詰めた距離を、日常にする。日常にしたものは、簡単に引き剥がせない。
彼は、混乱した。
「……私は」
言葉が出ない。
エリシアは追い詰めない。追い詰めずに、毛布の端を整えた。彼の肩に触れる。触れるたび、彼は反射的に固くなる。だが彼女は、固くなることすら否定しない。
「今日は、ここまでにしましょう」
「ここまで?」
「難しい話をすると、熱が戻ります」
そう言って、彼女は机上の紙束を一つ片づけた。片づけながら言う。
「私は、レオンハルト様が今日倒れなかったことが嬉しいです」
倒れなかった。倒れる前に止めたのは彼女だ。彼女はそれを“倒れなかった”と言う。結果で彼を褒めるのではなく、存在を喜ぶ。
「……それは」
「嬉しいです」
重ねる。重ねて、笑う。ふんわりと。
その笑みに、レオンハルトはまた、言葉を失った。
しばらくして、宰相府の廊下の灯りが減った。部屋の外が静かになり、書記官の足音も遠のいた。紙の山がようやく少しだけ低くなる。
レオンハルトはペンを置き、息を吐いた。熱のせいか、視界の端が少しぼやける。
エリシアがカップを差し出す。
「最後に、もう一口」
彼は言われるまま飲んだ。喉が温まり、体の内側が少しだけ落ち着く。
「……あなたは、帰るべきです」
言うと、エリシアは首を振った。
「レオンハルト様が帰るまでです」
またそれだ。
「私は、まだ」
「なら、私はここにいます」
無限に繰り返される。彼の論理が尽きるまで繰り返される。
レオンハルトは、ほんの小さな声で言った。
「……あなたの未来を、私が邪魔してはいけない」
エリシアは、その言葉にだけ、少しだけ表情を変えた。怒りではない。悲しみでもない。ただ、真剣さが増す。
「邪魔ではありません」
「……」
「私の未来に、何が必要かは私が決めます。レオンハルト様が決めることではありません」
彼女は、ゆっくりと言った。
「それに、レオンハルト様は邪魔ではなくて……私の、安心です」
安心。
その言葉は、彼の胸の奥を静かに揺らした。安心は、仕事のために欲しいものではない。人として欲しいものだ。彼はそれを、ずっと切り捨ててきた。
切り捨ててきたものを、彼女が当たり前に差し出してくる。
「……私は、そんなものでは」
否定しようとして、言葉が続かない。否定すれば、彼女の安心を否定することになる。
エリシアは、静かに笑った。
「レオンハルト様は、自分の価値を低く見積もりすぎです」
それは責めではない。呆れでもない。淡い事実の指摘だ。だから痛い。
「私は、見ています。ちゃんと」
また、見ています。
その夜、レオンハルトは結局、執務室の椅子で少しだけ目を閉じた。仮眠室へ行こうとすると、エリシアが「ここで寝てください」と言ったからだ。ここで。目の届く場所で。彼女はそうすることで、また“日常”を増やす。
毛布が肩に乗り、暖かさがじんわり広がる。瞼が重くなる。
眠りに落ちる直前、エリシアの声が聞こえた気がした。
「……可愛い」
とても小さい声だった。聞き間違いかもしれない。夢かもしれない。けれどその言葉だけが、妙に鮮明に耳に残った。
彼は眠りに落ちた。
起きたとき、執務室の灯りはほとんど消え、窓の外は真っ暗だった。室内には、紅茶の香りがまだ残っている。
エリシアは、机の端で書類を読んでいた。眠っていない。待っている。彼が起きるのを待っている。
「……まだ、いたのですか」
声が掠れた。恥ずかしさと、混乱と、体の重さが混ざる。
エリシアは顔を上げ、ふんわりと笑った。
「いました。起きましたね」
「……帰りなさい」
「帰りません」
即答。即答しながら、彼の額に手を当てる。熱を確認する。子どもを診るような仕草なのに、彼は抗えない。
「少し下がりました。でも、まだ温かいです」
温かい、という言い方が柔らかい。熱があると言わない。彼女は責めない。
「レオンハルト様、今日はもう終わりにしましょう。帰って、寝てください」
「……私は」
「明日の朝、また来ます」
言い切る。来る。彼が拒否する前に、次の段取りを置く。これも溺愛の形だ。相手の逃げ道を塞ぎながら、相手を傷つけない。
「……次期公爵」
「エリシアです」
彼女はまた、名前を提示した。距離を縮める。縮めた距離を当たり前にする。
レオンハルトは、唇を結び、息を吐いた。
「……なぜ、そこまで」
二度目の問い。だが今度は、さっきより弱い。抗う力が減っている。
エリシアは微笑んだ。
「だって、可愛いからです」
繰り返す。その繰り返しが、彼を追い詰めるのではなく、包む。
「私がそう思ったから、そうです。難しい理由はありません」
難しい理由はない。理由がないことが、彼には一番危険だった。政治なら処理できる。理屈なら整理できる。だが理由のない好意は、整理できない。
整理できないものを、彼はどう扱えばいい。
「……私は、あなたの人生に」
「私の人生は、私が使います」
エリシアは静かに言った。
「そして、使いたい場所に使います」
その言葉が、ゆっくりと彼の胸の奥に沈んだ。抵抗ができない。抵抗しても、彼女は引かない。引かないのに、怒らない。泣かない。責めない。ただ、そこにいる。
レオンハルトは、ようやく理解した。
これは“気遣い”では終わらない。
紅茶でも、軟膏でも、毛布でも、仮眠室でもない。彼女は、彼の生活そのものに入り込もうとしている。入り込みながら、彼が壊れないように守っている。
守られることを、彼は想像していなかった。守られる対象ではないと思っていた。対象外として生きるのが、彼の正しさだった。
その正しさを、彼女は別の言葉でほどいていく。
可愛い。
好き。
まだ彼女は好きとは言わない。だが溺愛は始まった。始まってしまった。
そしてレオンハルトは、本気で混乱し始めた。
自分が“対象外”でいられなくなる世界が、静かに、確実に、目の前で形になっていくのを感じながら。




