第2話 「正解の相手は、別にいる」
王都の社交界は、雨の匂いが抜けると同時に動き出す。
冬の入り口は、寒さより先に“予定”として届く。招待状の封蝋、席順の噂、誰が誰と同席するかという小さな政治。エリシア・リーヴェンハイムの机にも、いつの間にか白い封筒が重なっていた。
その朝、執務室の窓辺で、エリシアは淡い光を浴びながら封筒の一つを指先でなぞった。封蝋は王城の紋。薄い香油の匂い。紙は上質で、触れると少し冷たい。
「王城主催の冬の夜会です。次期公爵として、欠席は難しいでしょう」
侍女長が静かに言う。声音には断定があった。リーヴェンハイム家の一人娘であり、次期公爵である以上、社交の場は“遊び”ではない。
「はい。分かっています」
エリシアはふんわりと頷いた。声も表情も、いつも通り穏やかだ。だが、断らないことと、喜んでいることは同義ではない。
机の反対側で、父である現公爵が一通の書簡を開いていた。普段は領政の書類を裂く手つきが、今日は妙に慎重だった。紙面の最初の数行を読み終えたところで、彼は一度息を吐く。
「……来たか」
短い言葉に、執務室の空気がわずかに締まった。
「オルフェンズ侯爵家からだ。王城主催の夜会に合わせ、アルベルト殿を正式に紹介したいという」
侍女長の視線が、一瞬だけエリシアに向く。侍女たちも同じ方向に意識を寄せた。家の空気が“ひとつの話題”に寄るときの、あの感触。
エリシアは書簡を見ず、ただ父の声を聞いた。
「アルベルト……オルフェンズ侯爵家の次男ですね」
「そうだ。次男というのが、また厄介でな」
父は苦笑に近い顔をした。長男なら家を背負う。政治的な動きも読める。だが次男は、背負うものが少ない分、身軽に“理想”を演じられる。
「王城は、貴族社会が求める“正しい相手”を、こちらに提示する気だろう」
その言い方には、冷えた現実があった。次期公爵の配偶者は、恋の相手ではない。国家の歯車の噛み合わせだ。相手が侯爵家で、しかも王城が後押しするなら、なおさら。
侍女長が手元の帳面を開く。
「アルベルト様は、王立学院の首席で卒業。外交実習では隣国の使節に評価され、軍務も一通り経験済み。社交も非の打ち所がないと」
情報が整然と並べられていく。まるで港湾整備の予算案のように、条件が揃い、利点が積み上がる。欠点は意図的に削られているか、そもそも存在しないのか。
エリシアは、目を伏せたまま静かに笑った。
「とても、立派な方なのですね」
「立派だろう。だからこそ“正解”として出てくる」
父は椅子に深く腰を下ろし、指先で書簡の端を軽く叩いた。
「エリシア。私はお前に、誰かを押し付けるつもりはない。ただ、世界がこういう形で動くことは知っておけ」
「はい」
「そして、お前は次期公爵だ。選ぶ権利はある。だが選ぶということは、選ばない相手を生む。政治の波も立つ。それでも選ぶなら、選んだ責任を取れ」
静かな言葉だった。だが刃のように明確だった。
エリシアはゆっくり顔を上げた。金髪が肩口でふわりと揺れる。大人しい令嬢の所作のまま、瞳だけはぶれない。
「責任は、取ります」
その答えに父はわずかに目を細めた。納得というより、覚悟の確認だった。
「よし。ならば夜会で会え。会って、話して、見てこい。噂ではなく、お前の目で」
エリシアは頷いた。胸の中に、波は立たない。むしろ、静かすぎるほど静かだった。
(正解、か)
“正解”という言葉は、いつもどこか他人事だ。誰かが決めた正しさは、たしかに便利だが、息をするようには馴染まない。
その日の午後、エリシアは宰相府へも顔を出した。夜会の準備で忙しいはずなのに、彼女はいつもと同じ速度で歩いた。廊下の空気は乾いていて、雨の匂いはもうない。
書記官に案内され、例の執務室の扉が開く。
紙の山は今日もそこにあった。古紙とインクと、紅茶の香り。エリシアは気づかないふりをしながら、あの香りに少しだけ安心した。
机の向こうでは、レオンハルト・ハルトマンが書類を捲っていた。視線は紙面に固定され、顔を上げない。だが彼は、扉の音だけで来訪者を判別できる類の人間だった。
「次期公爵。お越しになると聞いていました」
声だけで迎え、ようやく顔を上げる。目の下の影は昨日より薄いようで、しかし消えてはいない。彼の疲労は、休息ではなく“日々の上書き”で少しずつ誤魔化される種類のものだ。
エリシアは席に着き、必要な案件を手早く確認した。領内の訴願分類、港湾整備の議会説明の要点、議会側の反発が予想される論点。レオンハルトの説明はやはり簡潔で、無駄がない。
仕事が一段落したところで、書記官が新たな束を抱えて入ってきた。封蝋の色が王城のものだと、エリシアは一目で分かった。
「補佐官殿、王城から通達です。夜会の席順と、同席者の一覧が」
レオンハルトは頷き、封を切った。紙面を一瞥し、必要な箇所だけを素早く拾う。彼の目がわずかに止まったのは、やはり人名の並びだった。
「……オルフェンズ侯爵家の次男が、正式に紹介される。席は、次期公爵の向かいだな」
独り言に近い声だった。
エリシアは顔色を変えずに「そうですね」とだけ返した。反応を探るような間は作らない。おっとりしているからこそ、余計な波を立てない。
レオンハルトは紙を畳み、事務的に言った。
「政治的に見れば、悪くない選択肢です。侯爵家で、王城の後押しがある。次期公爵の立場を安定させます」
“悪くない選択肢”。その言い方が、彼らしい。褒めてもいなければ、喜んでもいない。ただ、国の歯車としての評価だ。
「……そうですか」
エリシアは微笑んだ。ふんわりと、けれどその奥で何かを確かめるように。
「補佐官殿は、私がどなたと婚姻するかで、仕事が変わりますか?」
質問は柔らかいのに、核心に触れていた。レオンハルトは瞬きをしたが、すぐに落ち着いて答えた。
「変わります。配偶者の家が変われば、議会の力学も、王城の距離も変わる。政策の通し方も変わります」
「では、私個人の気持ちは」
「……その点は、私が踏み込むべき領域ではありません。次期公爵の選択です」
言葉に曖昧さがない。彼は“対象外”の線を引くのが上手い。いや、上手いというより、それが彼の倫理なのだろう。彼女がどれほど美しかろうと、立場が高かろうと、年齢が若かろうと――彼の世界でそれは、個人の欲望に直結しない。
エリシアはその線を、少しだけ可愛いと思った。
(そこまで、きっちり線を引けるのは、強い)
でも同時に、危うい。
自分の心に踏み込まれないのは楽だ。だが、彼は自分の心も誰にも踏み込ませないまま、使い切って終わるつもりなのだろうか。
エリシアは紅茶のカップに手を伸ばした。今日は自分で淹れていない。書記官が用意したものだ。味は整っているのに、昨日ほど温かく感じない。
夜会は、その三日後にやって来た。
王城の大広間は燭台の光で満たされ、壁には冬の紋章旗が揺れていた。音楽は優雅で、香水が重なり合い、絹の衣擦れが波のように広がる。ここでは誰も、紙の山の話をしない。いや、話すとしてもそれは甘い言葉に包まれて出てくる。
エリシアは淡い色のドレスを選んだ。胸元から腰のラインが自然に整い、視線を集めても下品にならない。彼女の美貌とメリハリのある体つきは、隠そうとしても隠れない。だからこそ、隠さない。次期公爵としての“見られる責任”を、彼女は静かに引き受けている。
「次期公爵殿下、今宵は一段と――」
社交辞令は降り注いだ。褒め言葉の雨は、冷たくも温かくもない。肌に触れて、滑り落ちていく。
父の隣に立ち、挨拶を重ね、視線の先で王族に礼をする。完璧にこなしているのに、心は遠いところで静かだった。
そして、“正解”が現れた。
紹介の声が上がり、大広間の空気がわずかに高揚する。
オルフェンズ侯爵家次男、アルベルト・オルフェンズ。
彼は噂の通り、整っていた。金髪は光を受けて柔らかく反射し、瞳は澄んだ色を宿している。背は高く、姿勢がいい。動作に無駄がなく、礼の角度すら計算されているようでいて、堅さがない。言葉は丁寧で、笑みは自然で、周囲の空気を一瞬で“安心”へ変える種類の男だった。
「お会いできて光栄です、次期公爵殿下。アルベルト・オルフェンズと申します」
彼はエリシアの前で膝を折り、手の甲に口づける寸前で止めた。王城の場での距離感をわきまえた、上品な仕草。
エリシアは微笑を返した。
「エリシア・リーヴェンハイムです。今宵はお越しいただきありがとうございます」
声は柔らかく、所作も完璧だった。周囲が期待する“お似合い”の絵が、その場に一瞬で出来上がる。
アルベルトは会話の端々で、エリシアを持ち上げすぎない。褒めるべき点は褒め、しかし判断を押し付けない。彼の言葉は、相手の自由を尊重する形を取りながら、実は相手を心地よく支配する。
「港湾整備の件、議会での説明が必要になるとか。次期公爵殿下が宰相府へ足を運ばれていると聞きました。責任を果たそうとされる姿勢は、尊敬します」
「ありがとうございます。私はまだ学ぶことばかりです」
「学ぶ姿勢がある方は、もう十分に強い。そう思います」
完璧な返し。社交の場で“正解”を出し続ける人間の強さ。
周囲の貴族たちが頷き、微笑む。王城側近の視線が満足げに動く。父である公爵も、表情を崩さないまま“損はない”と判断しているのが分かった。
エリシアだけが、心の中で静かに首を傾げていた。
(……綺麗)
綺麗だ。整っている。正しい。隙がない。触れても何も引っかからない。まるで磨き上げられた宝石のようだ。
でも――胸が動かない。
嫌いではない。むしろ好意的ですらある。だが、それ以上の何かが生まれない。湧き上がらない。火花が散らない。
彼女は、ふんわりと微笑んだまま、なぜだか宰相府の執務室を思い出していた。
古紙とインクと紅茶の香り。紙で切れた指。咳を押し殺す肩。礼儀正しく、しかし自分の冷えも痛みも当たり前に飲み込んでしまう、あの背中。
(おかしいわ)
社交の中心にいるのはアルベルトだ。ここにいる誰もが、彼を見て“正解”だと頷いている。それなのに自分の心は、まったく別の場所へ向かう。
音楽が変わり、ダンスの時間が訪れた。
アルベルトは当然のように手を差し出した。
「よろしければ、一曲」
エリシアは断らない。次期公爵としての務めだ。ふわりと手を乗せ、二人は輪の中へ入った。
ステップは完璧だった。アルベルトのリードは滑らかで、エリシアの動きを邪魔しない。彼女が少しでも迷えば、その瞬間に支えが入る。支配ではなく、補助として。
周囲の視線が祝福の形を取る。噂は明日には王都を駆けるだろう。“次期公爵と侯爵家次男”が並んだ、絵としての完成。
なのに、エリシアの心は妙に落ち着いていた。
胸が高鳴らない代わりに、頭だけが冴えていく。彼の言葉の選び方、視線の置き方、周囲の評価の取り込み方。すべてが洗練されているからこそ、彼は“政治的な最適解”になれる。
(正解、なのね)
そして、ふと気づく。
これほど整っている人は、きっと“自分も整っている”のだと。自分の弱さを見せない。疲れを見せない。痛みも飲み込む。完璧に見えるように生きている。
そう考えた瞬間、エリシアの胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
(……それは、少し、寂しい)
ダンスが終わり、二人が礼をして輪を抜けると、アルベルトは穏やかに言った。
「お疲れではありませんか。長い夜会です。無理をなさらない方がいい」
言葉は優しい。だが、どこか“正しい”だけの温度だった。暖炉の前のぬくもりではなく、計測された適温。
エリシアはふんわりと首を振った。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
彼女はそのまま少し離れ、壁際で空気を整えるふりをした。周囲は彼女を放っておかないが、次期公爵という肩書きは時に便利でもある。近づく者は、距離を測る。簡単には踏み込めない。
その隙に、エリシアは大広間の端に視線を走らせた。
宰相府の実務官たちが、壁際で短い報告と調整をしている。華やかな場の裏側で、紙の匂いを持ち込む人々。彼女はその中にレオンハルトを探した。
――いない。
当然だ。彼は夜会に出る類の人間ではない。出るとしても、必要最低限で、長居はしない。今日もきっと、宰相府のどこかで紙の山と戦っている。
それが分かった瞬間、胸の奥が少しだけ、じくりと痛んだ。
(いないのね)
その痛みの意味を、まだ彼女は言語化しない。言語化してしまうと、世界が動き出す気がした。今はまだ、小さな感覚として抱いておく。
夜会の終盤、父がそっと耳打ちした。
「アルベルト殿はどうだ」
エリシアは微笑んだまま答えた。
「とても立派な方です。噂通り」
「それだけか」
父は鋭い。笑みの奥を読む。エリシアは、否定も肯定もしないまま、少しだけ視線を落とした。
「……正しい方だと思います」
その言葉に父は何も言わなかった。正しい。だがそれは、好きとは違う。
夜会が終わり、馬車で公爵邸へ戻る道すがら、エリシアは窓の外の灯りを眺めていた。王都の街は華やかでも、夜の寒さは等しく降りる。
(正解が提示された)
世界は期待を寄せ、政治は整い、誰もが安心する。次期公爵の未来は、正しく配置される。
それなのに――。
公爵邸に着き、侍女たちが衣装を解く間も、エリシアはぼんやりと紅茶の香りを思い出していた。宰相府の執務室の、あの渋い香り。温度。手の中に残ったぬくもり。
翌日、宰相府から報告が届いた。夜会の政治的余韻は、すぐに“議会の段取り”へ変換される。エリシアはいつも通り宰相府へ足を運び、執務室へ通された。
レオンハルトは紙を捲りながら顔を上げ、淡々と言った。
「昨夜の夜会、滞りなく終わったようで何よりです。王城は、オルフェンズ侯爵家次男を強く推している。議会側も反発は少ないでしょう」
「そうですか」
エリシアは席に着き、彼の表情を見た。相変わらず、そこに“個人的な揺れ”はない。
「補佐官殿は、私が誰と婚姻しても、同じように仕事をなさるのですね」
「もちろんです。私は職務を遂行します。それが役目です」
“役目です”。その言葉が、ひどく彼らしい。
エリシアは、ふんわりと微笑んだ。
「そういうところが、補佐官殿らしいです」
「……そうでしょうか」
彼は少しだけ眉を寄せた。褒められていると理解しても、それを喜ぶ回路が薄い。彼の人生は褒め言葉で動いてこなかったのだろう。
その瞬間、エリシアは確信してしまった。
(この人は、本当に、自分を後回しにしすぎている)
アルベルトの“正しさ”が、昨夜は眩しかった。だが、いま目の前にいるレオンハルトの“正しさ”は、眩しいどころか、ひどく危うい。
そして、その危うさが――可愛い。
自分でも困るほど、可愛い。
彼が自分を恋愛対象として見ていないのは分かっている。見ているはずがない。立場も年齢も、彼の倫理が許さない。だからこそ、なおさらだ。
エリシアは静かに息を吸った。
「補佐官殿、今日も紅茶をお持ちしましょうか」
「いえ。次期公爵にそのような――」
「必要ではありません。でも、したいんです」
昨日と同じ言葉を、同じ温度で重ねる。押し付けるのではなく、当然のように。ふんわりした声のまま、引かない。
レオンハルトはわずかに口を閉じ、何か言いかけて止めた。否定の言葉が、彼女の“したい”を傷つけると分かったのだろう。
「……では、お願いします」
それだけで十分だった。
エリシアは給湯台に向かいながら、胸の奥で小さく思った。
世界の正解は、昨夜提示された。
でも自分の心は、別の正しさを見つけてしまった。
まだそれを、誰にも言うつもりはない。言う段階ではない。けれど――彼のために紅茶を淹れることが、もう“ただの気遣い”ではなくなりつつあるのを、エリシア自身が一番よく分かっていた。




