第1話 「対象外として、ちょうどいい距離」
人は、ときどき「選ばれる側」だと思われます。
美貌があり、立場があり、価値が並んでいれば、
あとはその中から“最適解”を当てはめられるだけだ、と。
けれど本当は、
どれほど条件が揃っていても、
誰を選ぶかは本人にしか決められません。
美しいことも、
整った体型も、
強い権力も、
安心できる未来も、
すべて「選択肢」にはなります。
でもそれが、
心を動かす理由になるとは限らない。
この物語は、
完璧な候補が並ぶ中で、
「いちばん可愛いと思った人」を選んだ少女と、
自分が選ばれる可能性を一度も考えなかった男の話です。
選ばれる理由が、
価値や条件ではなく、
ただ「可愛いから」であってもいい。
そんな選択があっても、
世界はきっと、ちゃんと回ります。
雨は、王都の石畳を鈍く濡らしていた。冬に向かう気配を含んだ冷えが、宮廷の廊下にまで沁み込んでいる。宰相府の執務棟はいつもより静かで、足音の反響だけが妙に長く尾を引いた。
エリシア・リーヴェンハイムがその廊下を歩くと、衛兵たちは一斉に背筋を正した。まだ十七歳。だが彼女が次期公爵であることは、王都に生きる者なら誰もが知っている。彼女が纏う気配には、年齢とは別種の重みがあった。
もっとも、本人はいつも通りだった。ふんわりとした微笑を崩さず、歩幅も急がない。雨の匂いを運ぶ外気が頬に触れても、わずかに目を細めるだけで、足を止めることはない。
「こちらです、エリシア様」
先導するのは宰相府の書記官で、紙束を抱えたまま落ち着かない様子で進んでいく。今日は、王国東部の港湾整備に関する予算の最終調整と、同時に複数の領地から上がっている訴願の再分類が予定されていた。公爵家の領分に直接関わる案件が混じっている以上、次期当主として内容を把握し、判断を支えるのは当然の務めだった。
扉が開かれると、そこには別の種類の雨が降っていた。紙の雨、墨の雨、封蝋の雨。机の上に積まれた書類は山脈のようで、壁際の棚にも束が並び、床に置かれた木箱には未開封の巻物がぎっしり詰まっている。湿った空気に混じって、インクと古紙と紅茶の香りがした。
「失礼いたします。次期公爵、エリシア・リーヴェンハイム、参りました」
丁寧に名乗ると、執務室の奥で椅子が軋む音がした。
顔を上げた男は、想像よりずっと“実務の人間”だった。立ち上がる動作に無駄がなく、礼も形式に忠実で、声は低く、穏やかだが硬質だった。
「お越しいただき、ありがとうございます。宰相補佐官、レオンハルト・ハルトマンです」
伯爵家三男。だがそれは、彼の名刺の端に小さく添えられるだけの情報に過ぎないように見えた。彼自身から滲むのは血筋より、ただひたすらに「職務」の匂いだった。
近くで見ると、疲れが目立つ。目の下には薄い影が落ち、白髪が黒髪に数本混ざっている。襟元はきちんと整えられているのに、肩だけが少し落ちて見えた。猫背というほどではない。けれど“背筋を伸ばし続ける理由”が尽きた人間の、ほんのわずかな緩みがあった。
そのくせ、目だけは澄んでいる。曇りのない、事実を選り分けるための目だ。
「こちらへ。席をお取りください」
勧められた椅子に腰を下ろすと、机の上の紙束が目に入った。港湾整備の予算案。領地間の負担割合。王都からの補助金の名目。税の取り扱い。住民の移転補償。読み慣れない者なら、最初の一枚で視線が泳ぐだろう。
エリシアは、泳がなかった。
「港湾の防潮堤、予定より材木の調達費が上がっていますね。これは…北部の森林封鎖の影響ですか?」
レオンハルトは、ほんの一瞬だけまばたきをした。驚いた、というより、確認された事実に頷いたという動きに近い。
「その通りです。封鎖は国防上の判断ですが、影響は各地に広がっています。材の代替として石材に切り替える案もありますが、工期が延びます」
「工期が延びれば、今年の冬の荒波に間に合わない」
「はい。ゆえに、予算の積み増しを前提に短期調達の線で詰めています」
エリシアは紙面をなぞりながら、静かに頷いた。彼の説明は簡潔で、余計な修飾がない。けれど冷たいわけではなかった。必要な言葉だけで、相手を迷子にしない話し方だ。
「領地負担が、現行案では港湾領の比率が高いですね。港湾領は豊かですが、ここまで持たせると、翌年の徴税で歪みが出ます」
「歪みは出ます。しかし、他の領が負担を嫌がっています。とくに内陸部は、港湾整備の利益を“自分たちには遠い”と主張している」
「遠い、ですか」
エリシアは言葉を噛んだ。遠い。海が遠い。だから関係ない。そんな論理が、国家を削るときがある。
「海が止まれば、内陸の麦も売れませんのに」
小さく言うと、レオンハルトは口元だけでわずかに息を吐いた。笑いとも、安堵ともつかない、短い息だった。
「同じことを述べても、彼らは“遠い”と言います。ですから、今回はこちらから“見える利益”として内陸部の交易税の軽減を提示しました。負担と引き換えに、目の前の得を」
「それで納得するなら、まずは形を作るべきですね」
「はい。形ができれば、利益は後からでも理解されます」
淡々としたやり取りの間にも、机の上で時間が削られていくのが分かった。彼は、紙の上で国を動かしている。豪奢な舞踏会の中心にはいない。けれど、この部屋の空気は王都のどの広間より現実的だった。
エリシアは、ふと、彼の手元を見た。
指先が荒れている。紙を捲り続ける擦れ。封蝋を割るときの熱。インクで汚れた爪の端。剣を握る手ではない。けれどこの国を守る手だった。
「…お手を、痛めていらっしゃいます?」
問いは、反射だった。おっとりした口調で、ただ気になったことを口にしただけ。自分の声が静かな執務室に落ちるのを、耳で感じた。
レオンハルトは、手を引っ込めるでもなく、隠すでもなく、ただ事実として答えた。
「紙で切ることが多いだけです。気にするほどではありません」
「紙って、意外と鋭いですよね」
「ええ。油断すると、きれいに切れます」
あまりにも平然としているのに、なぜだろう。エリシアは胸の奥が、ふっと柔らかくなるのを感じた。きれいに切れる。痛いのを痛いと言わず、当たり前のように受け入れている。
可哀想、ではない。
ただ、妙に、……愛おしい、に近い。
その感情に名前をつける前に、扉が控えめにノックされた。
「補佐官殿、至急。西部辺境から追加の訴願が届きました」
書記官が顔を出す。レオンハルトの目が一瞬だけ鋭くなる。
「内容は」
「徴税官の横暴についてです。被害報告が複数、署名が…」
「回して。分類は第三枠、“緊急・領政”。宰相には、要旨だけ先に」
命令は短く、的確で、即座に空気が動いた。書記官が消えると同時に、レオンハルトはエリシアに向き直る。
「申し訳ありません。今日の議題に関わる訴願ではありませんが、同じ机に積まれている以上、見落とすわけにいきません」
「大丈夫です。むしろ、そういうところが…」
エリシアは言いかけて、止めた。そういうところが、なんですか。立派、ですか。尊敬、ですか。どれも違う気がした。彼の働きぶりは尊敬に値する。けれど自分が今抱いたのは、もっと小さく、もっと個人的な感情だった。
レオンハルトは、彼女が何を言いかけたかに関心を示さなかった。示せなかった、のかもしれない。彼の頭は常に“今処理すべき事実”で満ちている。
それが彼の生き方なのだろう。
「では、港湾整備の負担割合は、内陸に交易税軽減を付けた上で、負担比率を一段階だけ引き上げる。港湾領の負担増は、来年度に限り国庫補助で相殺。補助の名目は…」
「防潮堤完成による“交易安定化”ですか」
「はい。それなら議会も通しやすい」
ひたすらに現実を削り、整え、通す。二人の会話は静かなまま続き、雨音が窓の外で一定のリズムを刻み続けた。
やがて、宰相が短く顔を出し、数分だけ議論に加わってから去った。最終調整の文言を確定し、封蝋の色を決め、署名の順番を整える。緊張のない作業ではない。けれど、エリシアは不思議と疲れなかった。
その理由が、自分でも分かった。
この部屋には、虚飾がない。自分が次期公爵として求められるのは、笑顔でも装飾でもなく、判断と責任だ。そこに逃げ道がないことを、レオンハルトは当然のように示していた。
それが怖くない。
むしろ、安心する。
「…ここまで整理できれば、あとは議会の場ですね」
エリシアが言うと、レオンハルトは「はい」とだけ答えた。机の端に置かれた時計に目をやり、次の束を引き寄せる。
そのとき、彼の肩がわずかに揺れた。咳を押し殺すような、短い動き。
「補佐官殿、お身体は大丈夫ですか?」
「問題ありません」
即答。だが声が少しだけ掠れている。彼は水差しに手を伸ばしかけ、止めた。作業の手を止めないために、喉の渇きを後回しにする癖が染みついている。
エリシアは椅子から立ち上がった。動きは慌てない。ふんわりとしたまま、しかし迷いなく。
「少しだけ失礼しますね」
「え?」
彼が珍しく言葉を漏らしたのを背に、エリシアは部屋の隅の給湯台に向かった。宰相府の執務室には、簡易の湯沸かしと茶葉が常備されている。何人もの実務官が徹夜をする場所だからだ。
陶器のポットに湯を注ぎ、茶葉を落とす。湯気が立ち上り、古紙の匂いに柔らかな香りが混じる。彼女は勝手に豪華な茶を選ばない。ここに合うのは、目を覚まし、喉を守る渋い紅茶だ。
カップを二つ用意し、一つは彼の手元へ、もう一つは自分の前へ。そうして戻ると、レオンハルトは目を瞬いたまま彼女を見ていた。
「…次期公爵が、そのようなことをなさる必要は」
「必要ではありません。でも、したいんです」
言い切ってから、エリシアは気づいた。少しだけ踏み込んだ言い方になってしまった。けれど引っ込めない。事実として、彼女は今、そうしたかった。
レオンハルトは困ったように眉を寄せ、しかし結局、カップに手を伸ばした。拒むと、彼女の手間を否定することになる。受け取ると、自分が甘えたように見える。その葛藤が一瞬だけ表情に出た。
それが、エリシアの胸をまた、柔らかくした。
(……かわいい)
声に出さない。出す段階ではない。まだこの感情は、自分の内側の小さな灯でいい。
「……ありがとうございます」
彼は礼を言った。短く、過不足なく。カップを口元に運ぶ手が、先ほどより少しだけ落ち着いて見える。
「温かいですね」
「冷えていらしたので」
「ええ。雨の日は、冷えます」
雨の日に冷えるのは当たり前だ。けれど、その当たり前を、彼は自分の感覚として一度も主張しない。身体が冷えても、疲れても、ただ“そういうものだ”として飲み込む。
それは強さだ。けれど同時に、危うさでもある。
エリシアは、カップを両手で包みながら、静かに考えた。
この人は、誰かに守られることを、想像すらしていない。守られたいとも思っていない。自分は使い切るものだと、初めから決めている。
もしそうなら――。
(私は、どうすればいいのだろう)
答えはまだない。ただ、今この瞬間の自分が、彼の冷えた喉に温かさを流し込めたことが嬉しかった。理由はそれだけで十分だと思ってしまう。
仕事は再開された。港湾整備の文案を議会向けに整え、署名用の写しを作り、配布先の一覧を確定する。エリシアは途中で、必要な箇所にだけ口を出し、余計なことは言わない。レオンハルトも、彼女を子ども扱いしない。
二人の間には、奇妙な距離が生まれた。
近いのに、遠い。
近いのは机の上で、遠いのは人生の上だ。
レオンハルトにとって、エリシアは次期公爵であり、未来そのものだ。守るべき政治の柱で、導くべき後継者で、適切な縁談が用意されるべき存在。そこに個人的な感情が入り込む余地はない。
エリシアにとって、レオンハルトは宰相補佐官であり、国家の背骨の一部だ。だが同時に、紙で指を切り、雨の日に冷え、咳を押し殺す人間でもある。
その二重の認識が、彼女の中で静かに育ち始めていた。
日が傾くころ、作業は一区切りついた。書記官が書類を運び、宰相の印章が押される準備が整う。レオンハルトは立ち上がり、礼をした。
「本日は、ありがとうございました。議会の前に、ここまで整理できたのは大きい」
「こちらこそ。勉強になりました」
「いえ。次期公爵としての素養は、すでに十分です。私が教えることは、ほとんどありません」
それは社交辞令に聞こえない言葉だった。彼は余計な称賛をしない。だからこそ、重みがある。
エリシアはふわりと笑った。
「それでも、私は今日ここに来てよかったと思っています」
「……そう言っていただけるなら、何よりです」
彼は最後まで、彼女の言葉を“職務”として受け取った。来てよかった。実務が進んだ。学びがあった。そういう意味だと。
それでいい。
少なくとも、今日の段階では。
廊下へ出る直前、ふと振り返ると、執務室の奥でレオンハルトがまた次の紙束を引き寄せていた。夕刻の光が窓から差し込み、彼の白髪を薄く照らす。カップの底に残った紅茶が、ほんのわずかに揺れていた。
忙しないはずの背中が、なぜか静かに見えた。
(……かわいい)
また、胸の奥で同じ言葉が灯る。誰にも聞かれない、小さな確信。まだ恋とは呼べない。けれど、呼び名がなくても、感情は生まれる。
エリシアはそのまま扉を閉じた。
雨の匂いが廊下に戻る。王都は冷えていく。けれど、彼女の手の中には、あの執務室の紅茶の温度がまだ残っていた。




