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人生の材料

 僕には向田という友達が居る。良くも悪くも変なやつ。世の中のいろんなことに興味があって、その興味はたぶん、尽きることを知らない。

 彼と友達になったのは僕が大学一年生の時だ。一人暮らしを始め、春から大学生として学校に通い、ようやく慣れてきた夏の日だった。

 その日はスーパーに、カレーの材料を買いに行こうとしていた。

 一人暮らしの良いところは、どんなに栄養の片寄った食事をしようが、決まった時間に食卓につかなかろうが、誰にも怒られないところ。

 カレーの具材だって好きに入れて良いんだ。でっかいじゃがいも、人参はパス。玉ねぎはそこそこに、肉はゴロンと大量に。

 家の近所にたまたま大きなスーパーがあって、大抵の食材はそこで手に入る。野菜は安いし、新鮮な肉や魚も低価格で手に入る。でもそれが玉にキズで、五限が終わった後に寄ると、もうほとんど残っていないのだ。

 今日は四限終わり。まずまずの時間。

 スーパーの駐車場を突っ切って、店の入口に辿り着いた時、僕はふと視界の端に一人の男の姿を映した。僕と同じくらいの年齢の若い男だ。髪は少しのくせっ毛で、紫がかった空の色が絵の具のように髪色と混ざっている。

 彼はベンチに座っていた。灰皿があるベンチだから、きっと喫煙者用のベンチなんだろうけど、彼は煙草を咥えても持ってもいない。

 その代わり、手には小さな本を一冊。表紙はシンプルで題しか書いていないみたいだけど、裏側を見るとアリが集ったような真っ黒具合だった。

 あのベンチ、使う人居るんだ。

 僕の興味は、まずそこだった。越してきて何度かこのスーパーに通ってるけど、あのベンチに腰掛けている人を見たことがなかったからだ。

 たまたま行く時間に居なかっただけで普段は使われているのかもしれないけど、でも僕はその日初めて、そこを利用している人を見た。

 変な踊りでも始めない限り、足を止めて見つめる必要はない。僕は自動ドアをくぐって、積まれたカゴを一つ手に取って生鮮コーナーに向かった。

 でも、買い物中ずっと頭にはベンチ男の姿があった。

 一体、あんな場所で本なんか読んでどうするんだろう。だって、本なんて家で読めば良い。スーパーという、人の出入りが激しい場所で読書なんて集中できるものだろうか?

 僕は読書をしないから、彼の気持ちが分かったところで、きっと共感はできないだろう。

 でも、あれは奇行だ。間違いなく奇行だ。彼はいつからあそこに居るんだろう。何だってあんな場所で本を読まないとならないんだろう。

 僕はじゃがいもを手に取って見つめたまま、あそこで読書するあらゆるメリットについて考えてみた。

 でも、結局何も思い浮かばなかった。むしろデメリットしかないんじゃないか。

 もっと暗くなったら。こんなに明るいスーパーだ、虫たちの溜まり場になってしまう。夜遅い時間に来た時は、巨大な蛾が服に張り付いたことがあった。あれ以来、あまり暗い時間にはここへ来ないようにしているのだ。

 僕は、彼が虫まみれになっているのを想像してみた。そういう特殊な癖を持っている人間なのだろうか。そのために、わざわざ本を読んでいるのだろうか。馬鹿らしい。

 僕は買い物に集中することにした。いつの間にかカゴに入っていた人参を、棚に戻した。

 でも買い物も終盤になってくると、僕の頭はやっぱりベンチ男に戻ってきてしまった。彼を見かけたのは今日が初めてだ。次にここへ来る時は、もう居ないかもしれない。

 僕はレジの列に並びながら、窓の外から何とかベンチのある場所を見ようとした。でも、柱とポスターの影になってるようだ。首を伸ばしているうちに僕の番になった。

 スムーズに事が済むレジの人の手元を見つめながら、僕はそっと自分の後ろに誰も並んでいないか確認した。誰もいない。今しかない。

「あの、外のベンチで本を読んでいる人が居たんですけど......」

 怪訝な顔をされると思ったけど、レジの人は穏やかに笑った。

「ああ、ムコーダさんですか?」

 そして予想外なことに、名前らしきものが耳に飛び込んできた。名前を知られるくらいには有名人らしい。

「いつも居るんですか?」

「いえ、木曜日だけです。近くに寄ったついでにね。一ヶ月前くらいからかなあ、近くでボランティアをしているみたいで」

 本に関する情報は一切無くて、むしろ謎だけが深まった。ボランティアをした帰りに、どうしてスーパーに寄って本を読む必要があるんだろう。

「気さくな方だから、お友達になれるかもしれないですよ。お兄さんと歳も近そうですし」

 僕は会釈して、買い物袋に商品を詰めにサッカーに向かう。ようやく外が見えた。まだ居るみたいだ。

 僕の選択は二つ。話しかけるか、そのまま帰るか。でも悪い人ではないようだ。そうなると、やっぱりちょっと、興味はある。

 カゴを戻して自動ドアを通って、いよいよ外に出た。でも大事なことを忘れていた。第一声、何と声を掛ければ良いのだろう。僕はシミュレーションをしていなかったのだ。

 だから、奇人は僕の方だった。ベンチの真横に立って、不自然にスマホをいじる形になった。スーパーへ来たは良いが、帰り方が分からないやつのようだった。

「あっ......えっと」

「此処、使います?」

 落ち着いた声に乗せられた問いに、僕は慌てて顔を上げた。彼がこっちを見てる。正直、助かったと思った。

「いえ、あの、ここで本を読むの......好きなんです?」

 彼は不思議そうな顔をしている。こっちがその顔をしたい。

「好きってわけじゃないけど......立って読むのも疲れるかなと思って」

 予想の遥か斜め上を行く回答で、僕の頭は聞いたこともない音を立てて大混乱している。

「えっと、どうしてここで本を読むんですか?」

「自動ドアの音を聞きたくて」

「自動ドアの音?」

「はい、健気で可愛いんです」

 僕の頭はたぶん、爆発した。今まで生きてきて、こんな変人に出会ったことがなかった。彼が人間の皮を被った宇宙人に見えてきた。

 彼はその後、いろいろ話してくれたけど、僕の壊れた頭はそれを覚えていない。

 取り敢えず、自動ドアの音は可愛いのだ。人によって、動き出すタイミングが違うそうだ。ゆっくりだったり、随分遠くから開いたり。人の足のリズムとドアの開閉音で、自動ドアの気分が分かるのだと言う。

「あのドアは、たぶん恋をしてるんじゃないかな。いつも来る常連のお姉さんに対して、あまりに反応が悪いんです」

 彼はニヤニヤしていた。僕は彼の想像力に圧倒されていた。

 自動ドアが恋をするなんて、これまでの人生で一度も考えたことがない。

「どうしてそう感じたんですか」

「ドアが開かないということは、ずっとそこに留めておきたいからでしょう。あなたの時は開くのが早かったので、あんまり好かれてないのかもしれないですね」

 まるで、本当に可哀想だと思っていそうな口ぶりだった。自動ドアに好かれたって、ちっとも嬉しかない。

 これで分かっただろう。彼は初めから変人だった。今も変わらないけど、会った時の方がまだ僕の頭が慣れていないこともあって、とても変人に思えた。

 これが僕と向田の出会いだ。やっぱり変だな、と今振り返っても思う。

 でも、一つだけ言える。僕の人生は、彼と出会って大回転し始めた。

 隠し味を入れたら、カレーは抜群に美味しくなる。コクが出る。人生も同じだ。面白い人に出会うと、何気ない日常の一口に味が出る。向田は僕にとってそういう人だ。

 でも、生活の全てが変わったわけじゃない。大きな変化というのはない。たまに会って、変な議論する友達が出来ただけ。

 思い出した。ひとつだけ、向田と出会って大きく変わったこと。

 僕は人参を食べられるようになった。

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