左右対称の呪い
向田の靴に、大穴が空いた。見事な穴である。ネズミが住処にしても不思議ではないくらいだ。
彼はこの靴を七年も履いたそうで、特に散歩やランニングで多用していたらしいのだ。
「流石にそろそろ買い替えないといけないと思って」
僕たちがやって来たのは、ショッピングモールの中にある靴屋だった。
向田が欲しいのは動きやすいスニーカーだそうで、既に目星はつけてあるのか、店内をスイスイと動いていく。
一方、僕はオシャレにディスプレイされた靴に目を奪われては、いちいち足を止めた。あっ! と思って札を捲れば、あっ......と静かに棚から離れるを繰り返しているうちに、彼の方は決まったらしい。
「試し履きしてみれば?」
箱を抱えてそそくさとレジへ持って行こうとするので、僕は彼の肩を掴んだ。
「別に良いよ。そこまで大層なことしなくたって」
試し履きは別に大層でも何でもない。寧ろ七年履いていたのだから、その間にサイズが変わっていることだって考えられるのだ。
それを言うと、彼は渋々といった感じで店員に話しかけに行っていた。
彼は変なところで面倒臭がりだ。無駄な議論や人をからかうことには全力を尽くすくせに、靴のサイズには頓着しないのである。
早く本屋に行きたいのかもしれない。このショッピングモールには、大きな書店が入っているのだ。
「サイズはどうですか? つま先が痛いとか......」
「大丈夫です」
椅子に座らせられて、靴の上から足を支えられている様子はさながらシンデレラと従者のようだった。
僕は影からそれを見守って、入口付近に並ぶ高級ブランドを穴の空くくらい見つめに戻った。
やがて、彼は袋をぶら下げて店から出てきた。照れたように、
「さっきの靴はやめたよ」
「なんで? 他に良い靴があったのか?」
「うん。さっきの靴は、左右でデザインが微妙に違うものだったんだよ」
オシャレで良いじゃん、僕は首を傾げた。左右対称に拘るなんて、彼はそういうタイプに思えない。
「最近は良くなってきたんだけどな、小さい頃は本当に酷かったんだよ」
本屋に向かいながら彼が話してくれたのは、こんな話だった。
小学校の低学年くらいから、彼は偶数に異常な拘りを持つようになったという。
例えば、トイレをしている時。
トイレットペーパーを取ろうとして、掴み損ねてしまった。右手の指先がペーパーに掠る。すると、今度は左手の同じ箇所にトイレットペーパーを掠れさせる。
右手で起こった感触を、左手にも味わせないとムズムズしたようだ。
他にも、お菓子を食べる時。
ひとつ食べたらもうひとつ。これで二つ食べたことになる。美味しくてもうひとつ食べると、これで三つ。
すると、四つ目を食べないとならない。五つ目を食べたいが、袋の中を見て確認する。もう残っているのはそのひとつだけ。そうすると、例えあと一口であろうが、手が伸びなかったそうだ。
つまり、左右対称、または偶数に異常に執着していたのである。
偶数も左右対称も、一見そこまで関係のある事象に思えない。
「まあ、気持ち悪いんだろうな。バランスが取れてないと」
「偶数はバランスが取れてるのか? 割り切れるから?」
「それもあると思うけど......ペアでダンスができるからじゃないかな」
どこからダンスが飛んでくる。僕の頭の均衡は完全に崩れた。
「すごく小さい頃だけど、ボーロが好きだったんだよ。丸い粒みたいな焼き菓子ね。あれを二つ一組のペアにして、ペアにしてから口に入れる遊びに凝ってた時期があったんだな」
僕は想像してみた。五歳くらいの向田を。
パンのような丸っこい手で、仄かな焼き色のついたボーロをつまみ上げて、二粒ずつ机に並べていくのだ。そして、袋の中身を全部出し終え、ペアのできたボーロたちを上から満足気に眺める。
「真上から見たら、テーブルが舞踏会の会場みたいでさ。男女一組のペアがダンスしてるみたいに見えて、それからなんだよ。偶数が全部、ダンスしてる男女ペアに思えてくるの。奇数が、誰にも踊りに誘われなかったやつに思えちゃって」
バカだよなー、と向田が笑う。
僕は全然バカとは思わない。五歳の頃、たぶん僕はテレビの前でおもちゃの剣を振り回して、戦隊ヒーローのビデオを観ていたと思う。
ボーロを人に見立ててほくそ笑んでなんかいない。
「でもさ、大きくなってきて、ある程度世の中のアンバランスさを知って、ちょっともう良いかなって思ったんだろうね。卒業したんだよ。偶数とか、左右対称とか、バランスを取ろうとすることをさ。ダンスだって、必ずしもペアで踊るもんじゃないし。一人で踊ったって良いわけだし」
たしかに、ダンスは二人一組が基本ではない。小さい頃の彼は、ダンスといえば社交ダンスのようなものを想像していたようだ。
「でも、今日はそんな幼い頃の向田が顔を出しちゃったわけだ」
僕は向田の右手で揺れている、ロゴ入りの袋を見やった。
「案外、全然成長してないのかもしれないなー。こんな話してたから、両手で袋を持ちたくなってきちゃったじゃんか」
彼は袋を背中に回して、両手できちんと持ち直した。
「あーあ、惜しいことした」
「なんで?」
「せっかく、克服できるチャンスだったのに」
たしかに。左右非対称の靴を買っていれば、彼は完全にその思考から鎖を断ち切れたかもしれないのだ。
じゃあ、と僕は足を止めた。
「今が克服するチャンスじゃない?」
ちょうど、雑貨屋の前に居るのだ。店先では金属のカゴが「一足百円」のプラカードを掲げている。セール品の靴下が大量に放り込まれたカゴであった。
彼はそこで、左右非対称のデザインの靴下を五足買った。苦虫を噛み潰したような顔で店から出てくる彼を見て、僕は腹を抱えて笑った。




