忘れたくないもの
大学の授業で、昼を挟む二限と三限が空きコマの時、僕は学外へ出る。
大学の中には食堂も購買もあって、メニューも充実しているが、今日は気分が違う。一ヶ月に一回は、こういう日があるのだ。
まだ授業があるのに一旦学校を出て行き、昼食をとって、また戻ってきて午後の授業に臨む。この囁かな非日常感がクセになる。そして、それが味わえるのは学校から歩いて三分のラーメンチェーン店だ。
「来たな、学生クン」
店の外では、自販機横の塗装の禿げたベンチに腰をかけた彼が待っていた。着古したTシャツには、「こっち見んな。」と勢いのある筆文字がプリントされていた。あんなものを着ていれば、見たくなくても見るに決まってる。
「今日は休みなんだっけ」
「まーね。夜は食堂行くけどね」
彼と一緒に扉を潜る。醤油ベースの湿った空気が、明らかな意志を持って体を包み込んでくる。
食券機で、予め握りしめていた1500円を投入する。醤油ラーメン、チャーシュー二倍、半チャーハンを手際よく押していく。
「餃子」
「いる」
食券と釣りを取る通過点に居る「餃子」を押してフィニッシュ。彼に場所を譲る。
醤油ラーメン、ネギマシマシ、ミニチャーシュー丼......げっ、売り切れか。じゃあ、チャーハン。
それぞれ食券を握り締めて、奥の二人がけのテーブル席に移動した。
席に着くや否や、彼は食券と共に文庫本をテーブルに置く。表紙が見えた。エッセイ集のようだが、その方面に疎い僕は、敢えて見せられても反応ができない。その代わり、本からはみ出した幾つもの付箋には言及できる。どうやら彼もそのつもりで本を置いたらしかった。
溌剌とした女性の店員が食券を回収して下がると同時に、「見よ」とばかりにそれを指で楽器のように弾く。僕が無反応でいると、ムッとした顔で本を立てた。よく見えるように、艶かしい手つきで天を彩る付箋を撫で始める。
「素晴らしい、知の方舟とは思わんかい、キミ」
仰々しい言葉すぎて、脳内での漢字の変換を誤ってしまった。
「動物同士の殺し合いの話か?」
「血の方舟じゃねえよ」
分かってねえなあ、という顔をされた。顔の下にある「こっち見んな。」に更に腹が立つ。
「見てよ、この付箋の数を」
たしかに、すごい枚数だ。ざっと数えて二十枚はある。栞代わりだとしたら、乱読にも程がある。
「どういう意図で貼ってるわけ?」
「そりゃあ、いろいろさ。ひとつは、初めて見る言葉を後で調べるために」
「その場で調べれば良いじゃん」
ちっ、ちっ、ちっ、と人差し指が振られる。いちいち頭にくる所作だ。ちっ、ちっ、ちっ、と舌打ちで返してやりたい。
「そういう時は敢えて読み飛ばすんだよ。せっかく目の中で流暢に文が流れてるのに、その流れを辞書引いて止めてたら勿体ないじゃん」
そういうものだろうか。本は読まないので共感はできない。
「他の理由は?」
「ビビッときた文とか、シーンを読み返せるようにするんだよ」
「ふーん」
此方は、何の引っ掛かりも無く納得できた。本に定規で線を引く人も居ると聞いたことがある。本を汚したくない者は、彼のようにするのだろう。
「いつか剥がすの?」
それだけの数を貼っていては邪魔だろう。持ち歩くとなれば、鞄の中で擦れあって付箋が破け落ちてしまいそうだ。
彼は「ノートに書き写したら剥がす」と、我が子のように人差し指で付箋を奏でている。
その答えを聞いて、彼が律儀にノートにペンを走らせている様子を想像してみた。嘘だあ、と反射的に声が出た。
「嘘じゃないって。俺は書くの好きだよ。日記だってつけてるからね」
「日記? いつから」
「五年前からかなあ」
「五年?」
それは驚きである。正直、付箋云々よりそっちの方が気になる。
「よく続くね」
日記なら、何度か憧れて始めようとしたことがあった。
分厚いノートを買って、もしくはそれ専用のノートを買って、その日は良いのだが、次の日には文量が明らかに減り、三日目からは永遠が約束された空白のページが生まれる。
つまり、一度だって継続できた試しが無いのだ。
そのことを言うと、彼はからりとした表情で笑った。
「続けようとするからダメなんだよ。別に、書かない日があったって良いんだよ」
僕は目をぱちくりさせた。
「俺は昨日書いたけど、その前に書いたのは二ヶ月前だった」
「久々に筆を取るくらい、すごく魅力的なことがあったんだ」
「ネギが駅前のベンチの下に落ちてたんだよ」
それは斜め上どころの騒ぎではない。詳しく聞くと、どうやら次のようなことが起こったらしい。
遠くの本屋へ行った帰り、彼がバスを待つために駅前のベンチに座ろうとしたところ、そこには既に親子が居たという。一人は母親、一人は小学一年生くらいの女の子。どうやら、父親が車で迎えに来たようで、バスターミナルに白い大型のファミリーカーが入ってきた。
親子二人はベンチを離れて車に向かう。車から父親が降りて来て、二人のために扉を開けようとするや否や、少女が嬉々として次のような報告をした。
「ベンチの下にネギ落ちてるう!!」
見ると、バス待ちのベンチの下には、たしかに細長い物体が転がっている。目を凝らさずとも、白緑のグラーデーションのかかったY字に、それが長ネギだと分かったらしい。紫のテープが胴体に巻かれているところを見ると、誰かの買い物袋からベンチ下に滑り落ち、気づかれぬまま放置されてしまっているようだ。
「その父親は、そうだねえ、なんて呑気なこと言ったんだぞ。ネギがベンチの下で息を潜めて主を待ってる状況なんて、人生で一回あるかないかだろ。そんな状況を、そうだねえ、なんて。俺は女の子とネギに同情するね」
彼はすっかり興奮した様子である。たしかに面白い話ではある。誰もいないベンチの下に、どこかの夕食の卓に上がるはずだった長ネギが落ちている様子は、なんともシュールで切ないものだ。
「それは、たしかに日記にしたくなるね」
納得したところでラーメンが運ばれてきた。チャーシューが多いので、これは僕のだ。
ほとんど同時に彼の前にもラーメンが置かれた。ネギマシマシである。
チャーハンと餃子はもう少しお待ちください、とのことだったので、先に食べ始めることにした。
「駅に落ちてたやつじゃないだろうな」
割り箸を割りながら、彼はこんもりと盛られたネギを睨みつけている。
もしそうなら、落とし主はラーメン屋の店主である。いや、チェーン店で使うものを地元のスーパーで買うだろうか。
「まあ、人の驚きを吸ったネギはさぞかし美味かろうねえ」
僕が言うと、湯気の向こうで満足気な彼の顔が見えた。
「人にも付箋が貼れたら良いのになあ。今の言葉、最高」




