名前いじり
自分の名前が好きだった。
だった、というのは変な話だが、人生のある時点で、オセロが白から黒にころんとひっくり返ったのだ。それからはまだ一度もひっくり返されていないのである。
「土屋圭」。「つちや けい」と読む。別段、変わった名前でもない。
土屋なんて苗字は、田中や佐藤よりも珍しいのだから、ひとつ誇れるポイントである。
意味を考えれば、祖先は土を売る商売でもしていたのかと想像が膨らむが、これに関しては調べてある。ある場所の地名に「土屋」というものがあるらしい。それがルーツなのだそうだ。興味はそこで尽きてしまったのだから、それ以上の説明は出来ない。
下の名前も、現在では至って普通の響きを持っている。アルファベットで考えれば、頑張って一文字で表せそうではないか。
漢字だって簡単で書きやすい。
鏡合わせにしても読める、どっしりとしたバランスのある漢字。
額に汗を光らせる爽やかなテニス選手を思わせるし、生みだした作品が次々に映画化されている著名な小説家にも入っている漢字だ。
そんな名前を嫌いになったのは、次の言葉があったからだ。
「つちや つちつちじゃん!!!」
はあ、と思った。
「つちつち、自分の名前を書いてみろよ、つち、つち」
丁寧に手のひらで、何百回と書いてきた自分の名前をなぞり終えたとき、あっ、と声が出た。「圭」は「土」が二つ重なっているのだ。21年生きてきて、僕は初めてそれに気づいた。
「えっ、まさか気づいてなかった?」
呆然とする僕の顔に、彼は目をコンパスで描いたような丸にした。
「つちや つちつち」
その目はすぐに三日月に変わった。ニヨニヨ、相手の反応を伺いながら面白がっているのである。
どうして、これまで気が付かなかったのだろう。僕はもう一度手のひらに「圭」と書いた。すると、
「おい、書き順ちがくねえか」
彼の顔が、僕の顔と手のひらの間にずいと入り込んできたのである。
「もっかい、書いて」
頭で見えないが、何百回と書いてきた漢字である。手のひらでなぞると、「ほらっ!」と顔がぐるりと此方を向いた。
「書き順ちげーよ」
「どう書くのさ」
僕はぶっきらぼうに聞いた。今の指摘で大体の予想がついたからだ。僕が「圭」を「つちつち」と瞬時に理解できなかった理由が。
「二画目が下まで来てる。土って漢字の書き順思い出してみ。圭は、それが二回繰り返されるだけだよ。お前ってば、でっかい十字架作った後に三本線書いてんだもん。そりゃー、分からんよな、つちつち」
煩いなあ、とそっぽを向いた。漢字は苦手だ。書き順はもっと苦手だ。簡単な漢字だから、小学校で低学年から誇らしげに書いていたのだ。その時に覚えてしまった手の動きが、今もアップデートされていないのである。
「てか、お前だって」
僕は彼の名前をグッと頭の引き出しから引っ張り出した。右から左、左から右、上から下、下から上、舐めるように名前を観察する。
「ムコウダなのか、ムカイダなのか、はっきりしろよ」
下の名前をいじるのは諦めた。ごちゃごちゃした字は難しい。
手応えの全くない攻撃だと知っていたが、やはり彼は涼しい顔をしていた。
「別にどっちだって良いんだけどなあ。本屋のおっちゃんにはムコウダって呼ばせてるけど、食堂のばーちゃんたちはムカイダさんから転じて、カムカムだもんな」
カムカム。つちつちよりずっと良い。
悔しいと思って投げたボールが、何倍もの速さで戻ってきた。デッドボールになりそうなのを何とかかわす。
「カムカム? 反対にしたら、ムカムカ。常に苛立ってるヤツみたいだな」
「食堂の子どもにもそれ言われたなあ」
腹が熱くなった。ムカムカしてるのは僕の腹である。
「つちつちだって良いじゃん。反対にしたら」
「やだな、何か」
「じゃあ、ケイを反対にしたら? イケイケ」
「やだな、それも」
僕はため息をついた。
「ちょっと、自分の名前が嫌いになったかも」
「書き順を覚える良い経験になったじゃん。おすすめだよ、漢字検定」
「何級持ってるんだっけ」
「準1級。5級までなら、書き順の問題が出るよ」
「圭って字も出るわけ?」
「準1級の問題にね」
胸のムカムカが、かーっという音になって口から飛び出した。




