前編
「兄は……突飛過ぎる殺人計画を立てていたんだと思います」
友人の影響で怖い話や奇妙な話を蒐集するようになり、はや三年。私の元に舞い込んできた新たなコレクション候補は、そんな語り口で始まった。
姪っ子の紹介で都内のカフェで待ち合わせたのは、大学で同じゼミに所属しているという男子学生の、坂本直樹君だ。
飲みの席でつい、実家に頭のおかしい兄がいる。と漏らしたらそれが姪の耳に入り、「そういう話が大好きな親戚がいるよ!」と話を持ちかけられて……。今に至る。
その流れで実際に会うことにしたの!? と私が一番驚いたものだが、どうにも直樹君は真剣に聞いてくれそうな誰かに、すべてを打ち明けてしまいたかったのだという。
“あの変人”である大石美鈴。――つまり姪の親類である私ならばきっと……。そんなきっかけで、こちらが預かり知らぬ場所で話がまとまったのだとか。
「殺人計画とは……また物騒だね」
「はい。……実際に誰かを殺すって兄が明言した訳ではないんですけど。でも、その意志があって。多分僕が知らないだけで、どこかで実行してしまったとしか思えなくて」
「ほう? ……具体的には?」
花の女子大生である筈の姪が、ストレートに変人呼ばわりされている件については……物凄く気になるのだが、それはそれ。
趣味が悪いと自覚はしているが、この手の話は大好物であるから、深く掘り下げない理由はなかった。
すると直樹君はうなだれながら、ゆっくりと。言葉を選ぶように語り始めた。
「始まりは……十二年も前にさかのぼります」
※
年の離れた兄……元樹がおかしくなったと感じたのは、僕が小学三年生に上がってすぐのことでした。
明らかにイライラしていることが増えて。ブツブツ独り言が多くなったり。何より……よく一緒に遊んでいた近所のお姉さん。兄と同級生だった結衣さんと遊ばなくなってしまったんです。
当時の僕は何も知らずに「ユイちゃんは?」と兄に問いかけて、物凄い形相で睨まれたのを覚えています。
ええ。そうです。結論から言うと兄は失恋しました。幼馴染みであるユイちゃんとは、本当に高校へ上がる直前までは仲良しでした。でも兄の思い描く仲良しと、彼女の仲良しは違っていた。
兄は恋愛対象としてユイちゃんを見ていましたが、ユイちゃんはそうではなかったんです。
彼女は新しい高校生活という環境の中で、より気の合う男の子と急速に仲を深めて行って……。夏が始まる前に晴れて恋人同士になってしまった。
兄が完全に狂ってしまったのはそこからです。
そんなことで? って思うでしょう? でも……兄にとっては彼女こそが世界の全てだった。なまじ仲自体はそこまで悪くなかったし、周りからもオシドリ夫婦なんて持て囃されていたからこそ、傷は大きかったのかもしれません。……いや、兄は満更でもない様子で、彼女の方は明確に否定してましたけど。
ともかく。狂った兄は徐々に学校に行かなくなり。部屋に引きこもるようになって……翌年の、春くらいでしたか。
兄は家が所有する山中の古いため池で……魚を飼い始めたんです。
※
「ま、待ってくれ。ちょっと待ってくれないか?」
「え? あ、はい」
半ば反射的に私は直樹君の話を遮ってしまっていた。
でも許してほしい。
結構日常に転がってそうなエピソードから、どのような形で突飛な殺人計画なんて狂気が飛び出すのかと思っていたら、唐突に出てきたのが、『兄、魚を飼い始める』である。意味がわからない。
「魚って……あの魚かい?」
「えっと……はい」
「これ必要なエピソードなんだよね?」
「だいぶ……その。最重要なエピソードかと。何せ……兄が育てていたのは、人喰いの魚でしたから」
「……人、喰い?」
思わずゴクリと喉がなる。さっきまでの拍子抜けな気分は一瞬で吹き飛んで、私の身体は緊張で強張った。
「それは……まさか、ピラニアを?」
「いいえ、兄が飼い始めたのは、ニジマスと呼ばれる淡水魚です」
「ニジマス……」
魚にそこまで詳しくない私は、スマートフォンを駆使して簡単な情報収集をする。
ニジマスとは日本に広く分布する淡水魚ではあり、元々は外国からスポーツフィッシングや食用に養殖を目的として持ち込まれた、いわゆる外来種。
丈夫で大食いで、繁殖力も強い。サイズは40センチ前後だが、個体によっては更に巨大化し……。
「でもこの魚、調べた限りでは、人喰いではなさそうだよ? 比較的に雑食というか、何でも食べはするらしいけど」
「ええ、本来はそうです。でも……兄が育てたものは違っていました。大きさも。気質も……とてもじゃないけど、普通の魚ではなかった」
あれは紛れもなく……怪物の類でしたから。
そう言いながら、直樹君はぶるりと身震いした。
「きっかけは両親に頼まれたからなんです。引きこもっていた兄が外出するようになったが、どこへ行ってるのか見当もつかないから、調べてほしい。そんな感じでした」
「それで、尾行を?」
「はい。そうして、山中のため池にたどり着きました」
そういえば、個人所有の山とか凄いね。と思ったが、聞いてみたところあくまで山中の一部の区画だけなのだという。
山の中にいくつかの持ち主が違う農地がある……は、わりと田舎ではよくあること、らしい。
直樹君の兄が利用していたのも、その土地の一角だったのだとか。
「思わず話しかけてしまったんです。だってその時の兄は何だか楽しげに見えたので」
「お兄さんはなんて?」
「あの時はただ……魚を育て始めた。名前は“アクル”だと」
それ以来、兄弟の交流は家ではなく、もっぱらそのため池のほとりになったのだという。
「家での兄は相変わらず部屋に引きこもってはいたのですが、あのため池では昔のように会話が出来て……何も知らなかった僕は、ただ嬉しかった。大きくなれよ……って囁きながら池に餌を撒く姿が、優しかった頃みたいで……」
目を細めながら、直樹君はそっと顔の前に手を掲げ、何度か握り拳を作っては開く。
「でも、本当に何気ない日に気づいてしまったんです。大きくなれよ……って兄が餌を撒いて、それを水面を叩くようにして受け取るアクルが……少し。いえ、異様に大きいことに」
「アク……ああ、魚の名前だったね。そんなに?」
「はい。だから兄に、つい聞いてしまったんです。こんなに大きくなるものなのかって。そうしたら……ニタリと笑って……」
直樹君は両腕を抱くようにして、震えながら口にした。
「餌が、特別なんだって……」
餌? と、思わず私は首を傾げる。
詳しく聞いてみると、兄は引きこもる前は社交的であり、友達も多かった。そしてその性質は……学校に行かない状態でもある程度は維持されていたとのこと。
もっとも、交流が残っていたのは、あまりいい噂を聞かない輩ばかりだったらしいが。
「実家でドッグフードや、家畜の飼料を作っている友人から買いとった……と言ってたんです。その時は気にも留めなかったんですが……」
……飼っているのは魚なのだ。それこそ田舎の山中ならば虫やミミズなんて簡単に手に入る。魚用の餌だってホームセンターにでも行けばいくらでもあるのに。わざわざ兄は思いもよらぬツテで購入していた。
柔らかめのドッグフードや、少し生臭い、ペースト状の何か。
それが明確な目的を持って使用されているのだと気づいたのは、兄が少しずつ、それらの餌とは別にため池に生き餌を入れるようになってからだという。
「最初はカエル。次にネズミ。蛇。小さめの猫まで放り込んだ時は……流石にぞっとしました」
「ニジマス……いや、アクルは……全部、それを?」
直樹君は震えながら頷いた。
恐怖はあった。だが、兄を一人にしたら、確証はないながらも、もっと恐ろしいことになる予感がして、直樹君は日課となる兄との餌やりから離れる事が出来なかったという。
会話だけは成立したのだ。なんなら、学校や普段の生活。遊びに行く場所まで聞いてくるくらいには興味を持ってくれていたのだという。
……私には、その情報がより不気味に聞こえたが、ついには口を挟めなかった。
直樹君の話の先をもっと聞きたかったのもあるが……多分私も、すでに明かされていた事実を再確認するのが怖かったのだ。
「気がつけば……五年以上の月日が流れていました。僕が高校生になった時に……僕は目を逸らしていた現実を突きつけられたんです」
今でもその時のことが夢に出てくるんです。――僕はその日、兄に……ため池に突き落とされました。
その光景が、見たわけでもないのにありありと想像出来てしまったのは……私が怪談をはじめとした不気味な話を求める人故にだろうか。
「兄は……笑っていました」
「全身に……ワッと! 何かが大量に群がってきて。くすぐったいような、弄られるような感触と明確な痛みも走って――。最後に……ドンっと。丸太みたいに大きな何かが腰にぶつかってきて……」
気がつけば、大小様々なニジマスの群れに取り囲まれていた。振り返れば……明らかに異様な大きさの巨大魚が体をくねらせながら口吻を押し付けて、獲物の柔らかそうな部位を探すかのようにパクパクさせている。
アクルだった。
『あああああああああっ!!』
悲鳴をあげ、手足をバタつかせながら、直樹君は命からがら岸辺に手をかけた。兄は……何事もなかったかのようにため池からの脱出を手伝ってくれたという。
「……待ってくれ。群れって……増えてた? 繁殖を?」
「はい。でも、そんなことより一番怖かったのは、僕をあげた後に兄がボソリと呟いた……上出来だ。の一言だったんです」
その瞬間に、直樹君は悟ったという。
兄はこの魚達を……人喰いに仕立て上げようとしているのだと。
「それから数日後、兄は失踪しました……」
何も言わずに。綺麗に部屋を掃除して。
まるで最初からそこに誰もいなかったかのように……。
彼が消えてから五年。行き先は誰も知らないそうだ。
因みに……。直樹君の兄が狂気に陥るきっかけになった、ユイちゃんもまた、故郷にはもういないらしい。
人づてに聞いた話では彼が消えた前後で、突然家を出たのだとか。
結婚。就職。家族との不仲。様々な理由は考えられるが、兄を通してしか関わりのなかった直樹君は、だいぶ昔に彼女とは疎遠になってしまっていた。
だからこの不自然なまでの同時失踪の真相もまた……闇の中なのだという。
※
直樹君からお話を聞いてから、丁度二月程経った頃だろうか。
「叔父さん! 車出して!」
と、姪っ子がハーフっぽいイケメンと、眼鏡をかけた明るい茶髪の美少女を伴って部屋に突撃してきたのが金曜日の夜。
あれよと言う間に車に担ぎ込まれて、カーナビを操作される。
到着予想時刻が7時間後と出て目を点にした所で、「直樹君のお話、最新版が出たんだけど聞きたくない?」なんて餌をぶら下げられたら、私は車を発進せざるを得なかった。
「あっ、紹介するね。そっちのイケメンが、クロード!」
「蔵・人・だ」
「え〜っ。クロードの方がカッコいいって絶対! 名前の由来的にもそっちの読みが正しいんじゃなかった?」
「……改めて、蔵人といいます。美鈴……さんとは同じサークルなんです。突然の訪問すいません」
「あっ、コイツ無視したなぁ。イケメンだから許すけど」
騒ぐ姪っ子……もとい美鈴を無視して、蔵人君はペコリとお辞儀してくる。
清潔感のある格好に、亜麻色の髪と明らかに日本人離れした白い肌。男性にこんな喩えは失礼かもしれないが、本当に人形みたいに整った顔立ちの美青年だった。
「で、こっちのザ・図書委員! って感じのめちゃカワ美少女が、マリーちゃん! 眼鏡取るともっとヤバいんだよ!」
「はじめまして、藤堂真理子といいます。スズちゃんやクラウド君と同じサークルに所属させてもらってます」
「だから蔵人…………いや、もういい」
蔵人君の普段の立ち位置というか、三人の力関係がよくわかるかのようなやりとりだった。
そんな中で真理子ちゃんもまた、丁寧にこちらへ会釈してくれた。背の低さと童顔も合間って、高校生。下手すれば中学生にすら間違られそうな容姿である。そして……美鈴が褒めちぎるのもよくわかる。アイドルです。と主張されたら、普通に信じてしまいそうだった。
「うん、宜しくね。美鈴と仲良くしてくれてありがとう。直樹君には何かこう……変人呼ばわりされてたからさ」
私も運転しながらもバックミラー越しに笑顔を向ける。すると二人は何故か引きつった笑顔で「あ〜。……は、はい」と何だか味のある反応を見せていた。
多分深く考えない方がいいのだろう。姪と仲良くしてくれてるのは間違いなさそうだし。
「……まぁ、いいか。で、美鈴。そろそろ説明して欲しいんだけど、何処に向かってるんだい?」
「そりゃ勿論、直樹の実家よ。最終目的地は怪魚がいるため池だけど」
「………あ、話題が出た時にまさかとは思ったけど、本当に行くんだね」
目的地は地方……東北方面にあった。直樹君の実家とやらは、そっちの方だったらしい。
あの話が本当ならば。場所が判明しているならば……成る程、集団で確かめに行きたくなる気持ちもよく分かる。
厄介な香りもするから、叔父としての立場なら近づかないで欲しいが本音なのだが、姪は性格的に多分止まらないので、もはやどうしようもなかった。
「うん? じゃあ、直樹君もいた方がよくないかい? もしかして丁度帰省してるとか?」
私が何の気なしにそんなことを口にすると、不意に車内がしんと静まり返った。
蔵人君は腕を組んだまま不動。真理子ちゃんはうつむき、美鈴は普段のお転婆ぶりが完全に鳴りを潜めてたすまし顔になる始末だった。
「三人とも? どうし……」
「直樹は、――もういないわ」
……え? と、私は思わず美鈴の方を向く。丁度赤信号で本当に良かった。
「いない……って」
「消えたのよ。アイツ。叔父さんにあの話を打ち明けた数日後に、ね」
“だから”私達が動いたのよ。
美鈴は普段からは想像もつかないほどに鋭い声でそう言った。
※
直樹君の田舎への道すがら、私達は色々なことを話した。
と言っても、蔵人君はあまり会話に入らずにぼんやりと車窓を流れていく景色を眺めていたので、もっぱら口を開くのは美鈴と時々真理子ちゃんだった。
「直樹の奴、お兄さんから五年ぶりに連絡が来たんだって。会いたいって」
「それっきり?」
「そ。で、ホイホイ会いに行ったのよ。もう話の流れ的に消えてるかもね」
「消えるって……そんな」
「“本当に”直樹君のお兄様が殺人の為にお魚さんを育てていたとして。それを実行に移していたとしたら……真相にたどり着けそうなのは、お兄様視点では直樹君だけですからね」
他人に話すということは考慮しないのか? と私が口にすると、真理子ちゃんはしないでしょうね。と首を横に振る。
「だってお話が突飛過ぎますから。怪魚に襲われた体験をしたのは、直樹君だけです。その恐怖は彼だけが知っていて、繰り返しますが“本当にお魚さんが”殺人に使われたのだとしたら、そうだと真実味を持って言えるのは直樹君だけです」
「じゃあ、口封じは直樹君だけでいい……と? そんな……。そもそも始まりが失恋で、果てが殺人に行き着くなんて……絶対におかしいよ」
「え〜でも私、歴代の元彼は出来れば全部殺したい派だけどな〜」
「……話の腰折るな。バカ」
「おうおう。なんだぁ? クロード? 喧嘩なら買うぞ?」
「蔵人だ」
助手席と後部座席で口喧嘩が始まりかけるが、蔵人君が再び黙ったことで水に流れる。
私はというと……得体のしれない出来事が起きているのかもしれないと、嫌な寒気に身を苛まれていた。
「怖いですか? おじさま」
後ろから真理子ちゃんの声が届く。
怖いというか、本当にそんな事が起きているなら理解出来ない。私はそう呟くしか出来なかった。すると、真理子ちゃんは眼鏡を指先で直しながら、クスクスと愉しげに嗤いはじめた。
「何も難しかったり、怖い話ではありませんよ。人は起きる全ての犯罪に動機を求めようとしますが……衝動的であろうが、計画的であろうが……結局、最後は全部一つの結論に行き着くんです」
「……結論? どんな?」
私がそう問いかけると、バックミラーに映る真理子ちゃんは、恥じらうように顔を赤らめてる。やがて、その童顔に見合わぬ妖艶な笑みを浮かべながら、彼女はこう口にした。
「セックスと一緒です。ヤリたいから、ヤるんですよ」
美鈴のお転婆ぶりが可愛らしいと感じたのは生まれて初めてだった。何この子怖い。
因みに美鈴はもう慣れっこなのか、むしろ親指を最低な形のサインにしながら、「最高でしょ? この子」と笑っていた。
「……まぁ、普通なら、大学の薄い繋がりの知り合いが、家庭トラブルに巻き込まれた。ってだけの話だから、特に俺達が動く理由も無かったんですが……」
そこで不意に蔵人君が苦虫を噛み潰したかのように口を挟む。……よく見たら隣に座る真理子ちゃんが、チョンチョン。ツンツンと彼の二の腕をつついていた。心なしか距離も近いというか、半ば寄りかかってもいる。
男なら、鼻の下を伸ばしそうな状況だが、彼は本気で嫌そうだった。
「うちの部長命令で。気になる名前が出たので、念の為に調べにいけと」
「名前?」
「はい。つまるところ、そのニジマスが……怪異や妖怪の可能性があるらしく」
「かいい? ようかい?」
人喰い魚よりもぶっ飛んだ名前が出てきて、私は思わず目眩を覚える。
確かに奇妙な話は蒐めてきた。その中には幽霊的なものが出てきたりもした。だが、こうして実際に私が現場に行くのは初めてだし、そんなものをこの目で見たこともない。
何もかもが、私の常識から離れていくかのようだった。
「君たちは……何だ?」
思わず素直な疑問を投げかける。すると美鈴は誇らしげに胸をはりながら、待ってましたとばかりにパチンと指を鳴らした。
「私達は鷹匠大学、非公式オカルト研究サークル“Raven”」
決まった……! といった顔をする美鈴。心底呆れた顔をする蔵人君。ニコニコと微笑ましげに宣言した美鈴を見ている真理子ちゃん。三人の反応はバラバラだったが、そういった集まりだということを最後まで否定しなかった。
曰く、とある理由から幽霊やその他、この世に存在するありとあらゆる怪異や謎。超常現象。都市伝説に触れて回るオカルト研究サークル。
今回のターゲットは……。
「悪樓。起源は日本神話に伝わる――巨大魚の姿をした悪神です」
朗々と、少しの畏れをこめて、その名前は紡がれた。