表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

骸の子(仮)

作者: 琥珀さそり

 投げつけられた紙幣を、冴木(サエキ)虎臣(トラオミ)は地面に膝をついて一枚一枚拾い集めた。

 視界の端に金を投げた張本人が映る。憎々しさを隠すこともなく口の端を不格好に歪め、虎臣を厭忌(えんき)の眼差しで睨んでいた。頭頂まで禿げ上がった偉そうな下膨れ顔が印刷されたこの紙切れ一枚で、五日分の栄養剤が手に入ることを、編集者である彼は知らないのだろうか。それが十枚もあれば、肝臓パーツを新しく交換できることも。富裕層の娯楽である飲食だってできるかもしれない。

 やはり金の価値を知らないのか、編集者の男が伸ばされた虎臣の右手を紙幣ごと踏んだ。手入れの行き届いていない、擦り切れた革靴だった。


「壁際を走るだけのドブネズミが、足元見やがって」


 そのまま振り上げられた足が肩を蹴り、虎臣は地面を転がった。痛みはそれほどないが、口に砂が入るのは煩わしい。

 男は舌打ちをして、夜闇に溶けるように貧民街を去っていく。

 くたびれたキャメル色のコートについた埃を払い落し、虎臣は再度紙幣を集める。早くしなければ、どこからともなく金の匂いを嗅ぎつけて浮浪者が集まってくる可能性があるからだ。

 踏まれた手の甲にも靴裏の跡がくっきりと残っていたが、溜息と共にズボンで拭くだけに留めた。仕方ない、虎臣も悪かったのだから。

 虎臣の仕事はフリーライターだ。主に富裕層や芸能界の醜聞を集め、ゴシップ誌に売っている。だが、記事の主役から差止め料金が入ったと事前に聞いていたから、記事の値段にその三割を上乗せして請求したのだ。支払わなければ、アンタが半年前にやった轢き逃げのことをインターネットに流すぞ、と脅しながら。

 旧時代から御し方を失敗し続けたインターネットは今や、ガソリンまみれの第二の現実である。マッチの先ほどの火種でも、簡単に噴火して何もかもを焼き尽くす。人ひとりの人生など、あっという間に消し炭だ。きっと妻子にも延焼するだろう。特に彼の息子はワシントンで知らない者はいない有名なサッカー選手で、先月フランスのトップモデルと婚約したと報道があった。素晴らしいサッカー・プレイヤーを育てた父としてあらゆるメディアに顔出しもしていたから、強引に示談に持ち込んで揉み消した事件を蒸し返されたくはないのだろう。

 何にせよ、罵倒と共にサラリーマンが三ヶ月で稼ぐ金額の金を手に入れた虎臣は、腐臭と暴力に満ちた貧民街の歓楽街へと足を向けた。

 コンクリートと木材が入り混じった歪な建造物が、ジャングルの木々のように密集しながら背を伸ばしている。これらは全て第三次世界大戦によって破壊された建物を再利用したものだ。半壊したコンクリートを土台に、壁がないなら板を立て、部屋がないなら上へと接ぎ足し、屋根は木板でもトタンでも平たい物は何でも張った。加えてそれらが好き勝手に乱立しているから、通路は複雑に入り組んでいた。

 防音も何もない建物からは、雑音まみれのラジオや女の嬌声が漏れ聞こえている。この体は性行為など不要だというのに、よくやるものだと虎臣は逆に感心した。

 店の前に立つ露出の激しい娼婦の手を掻い潜り、歓楽街を進んでいた虎臣は、一軒の店の前で足を止めた。

 下品なピンク色で『Bunny Pom』のネオンサインが掲げられた扉を開けると、甘ったるい香水の匂いに鼻を殴られた。ピンクのセロファンが貼られた照明は薄暗く、観葉植物のサボテンを淫靡に照らしている。

 三、四種類の香水が混ざりあった空気に咳き込みながら、虎臣はフロントのベルを鳴らした。カーテンで仕切られた奥の部屋から、すぐにウサギ耳のカチューシャを付けた金髪の女が顔を出した。彼女も『仕事中』だったようで、服は着ていない。虎臣の顔を見るなり、豊満な胸を隠すでもなく「いらっしゃいませ」と甲高い声で挨拶をした。


「トラさん、お久し振り〜。遊びに来たの?」

「いや、違う。オーナーに取り次いでくれ、リネット」

「なんだぁ、残念。今度は遊びに来てよね」


 リップグロスの乱れた唇を尖らせながら、リネットは内線電話をかける。通話は数秒で終わり、彼女はにっこりと左側の通路を指さした。


「部屋で待ってるから、すぐ来てくれって」

「あぁ、分かった。仕事の邪魔して悪かったな」

「ごゆっくりぃ〜」


 ひらひらと手を振った彼女は、腰を左右に振りながらカーテンの奥へと戻っていった。甘ったるい声で中座したことを謝る声と、許す女の声が聞こえる。後はふたり分の嬌声しか聞こえなくなり、虎臣は指示された通路を進んだ。

 何度も来たことがあるから、部屋の場所は言われなくとも分かっている。薄壁から漏れる男女の喘ぎに挟まれながら、通路の突き当りの部屋を開けると地下に続く階段が現れた。そこを降りた先がこの売春宿のオーナー、デオン・ロックの部屋だ。

 ノックをすれば「入っていいぞ」と声が返ってきたが、虎臣は開けた扉を閉めたくなった。五メートル四方の部屋には、高級な家具や調度品に混ざって数人の裸の男女が転がっていた。行為の後なのか、虚ろな目で小さく喘いでいる。そんな部屋の中心に鎮座する高級なソファーの上で、デオンは若い男女を侍らせていた。衣服を着ていない彼らに対し、一切の乱れのないスーツ姿のデオンは「よぉ」とまるで早朝の公園でするような軽い挨拶をした。

 虎臣は顔を背けて溜息を吐く。


「デオン……仕込み中なら先にそうだと言ってくれ。俺はそういう趣味はない」

「はは、悪い悪い。新しい従業員の具合を見るのも、社長の立派な役目だからな。――おいテメェら、いつまで寝てやがる。明日から部屋で客を取れ。立て替えてやった新しい『擬骸(カヴァー)』の金額分、ちゃんと励めよ」


 デオンから尻を叩かれた男娼は小さく「はい」と返事をし、床で転がっていた者たちもノロノロと起き上がって脱ぎ捨てられていた服を抱え、覚束ない足取りで部屋を出ていった。

 衣服を軽く直したデオンが、虎臣に座るよう促した。行為に使用したソファに座る気も起きず、虎臣は立ったままコートの内ポケットから金の入った茶封筒をテーブルに置いた。


「この間の報酬だ。国立劇団の看板女優の不倫と恐喝の記事、かなりの額で売れたぞ」

「おっ、そうかそうか! オレも情報を売った甲斐があるぜ」


 デオンは嬉々として封筒に手を伸ばし、紙幣を大事そうに一枚一枚数えていく。

 先刻、虎臣が編集者に売った記事は、彼からもたらされた情報だ。デオンはこの売春宿の他にも、富裕層向けの高級バーも営んでいる。そこで集まる情報を虎臣のようなライターや探偵などに売っているのだ。虎臣はその見返りとして、得た報奨金の六割を渡す契約をしている。彼の持ってくる情報は正確で信憑性も高いことから、虎臣も誠実な取引を続けている。その甲斐あってか、彼からの信頼も得てこうして私室に呼ばれるまでになった。

 デオンは茶封筒から抜き取った紙幣の束を厳重な金庫の中にしまい、深い飴色をしたマホガニーのキャビネットからウィスキーとロックグラスを取り出した。


「いい酒が入ったんだ、飲んでけよ。それともオンナの方がいいか?」

「どっちも不要だ」

「相変わらずおカタいねぇ、ジャパニーズは。柔らかい体と熱い快楽が恋しくならねぇのか?」

「性的快楽なんざ飲食と同じ、脳の錯覚だろ。不毛なだけで終わると分かってて(ふけ)る方が、俺には理解できん」

「分かってねぇなぁ、だからイイんだよ。セックスは神様が我ら人間に平等に与えてくれた娯楽なんだぜ。だから金持ちの女優も不倫するし、貧乏人も体で稼げる。旧時代はそれで子供ができてたから色々と大変だったらしいが、擬骸の体なら煩わしい問題もなく純粋な快楽だけを求められるんだよ」


 大仰な言い回しをしたデオンは、ロックグラスに波々と注いだウィスキーを一気に呷る。虎臣は眉間に皺を寄せながら右手を開閉する。表皮シリコン同士が擦れ合うわずかな振動が、触覚として脳へと伝わった。

 二八〇年前に終結した第三次世界大戦は、ただ(いたずら)に人命を減らしただけで終わった。今後は決して戦争はしないという『世界不戦協定』が結ばれた頃には、既に世界人口は三分の一まで減少しており、破壊された日常生活を戦前まで戻すには圧倒的に人手が足りなかった。

 そこで、アメリカが開発したのが『擬骸(カヴァー)』である。合金やシリコンなどで骨格、筋肉、内臓などを人工的に造り出し、脳や体液を移植して人間の寿命の伸長を図ったのだ。十八歳以上の人間は全てこの擬骸に精神を移すことが義務付けられ、メンテナンスを続けながら唯一の生体組織である脳が死ぬまでの約三百年間を生きるのだ。

 その代償として手放したのは、繁殖機能だ。

 子供が欲しい場合は、擬骸に移る前に生体から冷凍保存した卵子と精子を人工的に受精させ、試験管の中で生育して誕生させる。一気に増やせば社会的負担も大きくなるから出生数も管理され、養育適性検査に合格した夫婦だけが子供を持つことを許されるのだ。

 擬骸は全て精巧に似せたシリコンに過ぎないから、身体をつなげたとして得られるのは擬似的な感覚でしかない。永い歴史の中でDNAに刻まれた『こういうものだ』というお約束事を諳んじているだけの、虚ろで意味のない行為だ。

 しかし、そう考えている虎臣こそ異端なのかもしれない。実際デオンの経営するこの売春宿は盛況だし、明日になればインターネット上に投下された誰かの性事情に人々は群がるだろう。長命化で()んだ脳には、圧倒的に娯楽が足りない。

 体は作り物になっても、本能は生臭いままだ。だからこそ、デオンや虎臣のような仕事が途切れないのだが。

 虎臣は残った金をコートにしまい、踵を返した。


「次の情報がないなら、俺はもう帰るぞ」

「あぁ、待て待て! 情報はあるぞ、超ド級のな」


 慌ててソファから腰を浮かせたデオンは、執務机の引き出しを開けて一冊のバインダーファイルを取り出して虎臣へと見せた。

 概要のまとめられたA4用紙の右端に、クリップ止めされた三枚の写真があった。クリームゴールドの髪を七三分けにした、いかにも気難しそうな中年の男が写っている。他の写真は盗撮したのか、目線は向けられていないしややブレている。それでも変装してどこかの建物に入っていく様子は分かった。その顔に虎臣は見覚えがある。


「下院議員のマシュー・ボットか」

「そう。コイツは前々からギャングとのつながりがあるとか噂されていたが、当たりだったようだ。月イチくらいの間隔でノース・エリアのキャバレーに出入りしているらしい。そこで、違法薬物の取引をしてるって話だ」

「……それを、俺にすっぱ抜けってことか?」

「頼めるか?」

「断る」


 バインダーを閉じた虎臣は、それをデオンの胸に突き返した。


「おいおい、冗談だろトラオミ! コイツはデカいスキャンダルだ、きっと出版社は大枚はたいて買うだろうし、向こうも差止め料を積むぞ。チャンスを逃すってのか?」

「だったら別のライターに渡せ。俺は政治家絡みのネタは扱わないと決めたんだ」

「娘が死んだからか?」


 虎臣はほとんど突き飛ばすようにバインダーをデオンへ押し付ける。それが答えの代わりだった。

 十五年前、虎臣の娘だった美鶴が死んだ。学校へ行く途中、頭上から落下してきた店の看板に押し潰されたのだ。事故死として処理されたが、虎臣は信じられなかった。その時の虎臣はとある上院議員の汚職事件を追っていて、記事を買い取る予定だった出版社も、他の会社もみな虎臣を門前払いしたからだ。


『パパ、行ってきます。早く帰ってくるね』


 家を出る前、そう言って振り返った美鶴に、自分は何と答えただろうか。徹夜で資料をまとめていたから、ベッドの上から寝呆(ねぼ)(まなこ)で曖昧な返答しかしなかった。

 それが最後の言葉になると知っていたら、ちゃんと起きて「行ってらっしゃい」と抱き締めてあげたかった。数秒でも時間がズレたなら、死も回避できたのではないかとすら思う。

 後のことは断片的で、モノクロ写真のスライドショーを外側から見ている気分だった。腐った林檎のように潰れた美鶴の体は綺麗に修復されて、棺に収められて、土の下に埋められた。妻の絵莉はずっと泣いていた。狂ったように泣いて、虎臣が支えていなければ、自分も一緒に土に埋められに行ってしまいそうだった。

 灰色の葬儀から三日が経ち、仕事も不自然に干されてやはりこれは事故死ではなく殺人事件だと考え始めた頃、美鶴の墓は掘り返された。天国で寂しくないようにと植えた花は無惨に踏まれ、棺の蓋が壊されて遺体が持ち去られていたのだ。子供が擬骸に入るのは十八歳だ。そして、人間の生体は裏社会で高値で売れる。十四歳で死んだ美鶴は生身の肉体のままだったから、狙われたのだろう。

 この盗掘事件が追い討ちとなり、絵莉は完全に壊れた。美鶴が大事にしていたテディベアを赤ん坊の美鶴に見立てて抱き、子守唄を歌った。美鶴が着ていた服を撫でては「似合うわ、かわいい」と譫言(うわごと)を繰り返し、帰宅時間の夕方になれば発狂して美鶴の姿を探すのだ。

 虎臣はそんな妻を懸命に支えてきたつもりだった。同調し、相槌を打ち、絵莉の苛烈な感情を受け止めた。――しかし、現実は絵莉すらも虎臣から奪った。

 美鶴の死から五年――今から十年前に、絵莉は死んだ。自殺だった。テディベアを抱きながらポトマック川に身を投げて、着水の衝撃で脳が損傷したのだ。

 その時、虎臣は敗北を痛感した。事件が起こる前は、ライターとして真実を明らかにすることは正義だと思っていた。だが、現実ではどんな正義も巨大な悪の前には簡単に潰される。美鶴の事件が殺人だと証明することも、妻を絶望から救うこともできなかった虎臣は、全てを諦めて逃げるように貧民街へと移り住んだのだ。

 何度も後を追うことを考えたが、その度に美鶴の顔が頭をよぎった。せめて盗まれた美鶴の遺体だけは取り戻すことに決めた。十五年も経っているのだから、きっともう遺体は細切れにされて売られていることだろう。指の一本でもいいから取り返して、絵莉の傍に埋葬したい。その思いでライターを続け、デオンともコネクションをつなぎ、美鶴の遺体の行方を追っているのだ。だが今のところ、指どころか爪の欠片すら見つかっていない。

 何にせよ、虎臣は政治家相手のスキャンダルを取り上げることはやめた。虎臣の過去を知っているからこそ、デオンも政治家絡みの情報は寄越さないとばかりに思っていたのに、裏切られたような心地だ。

 渋い顔を崩さない虎臣に、デオンは立てた人差し指を左右に振った。


「話は最後まで聞けよ。確かに政治家絡みだが、ダイレクトにそこを叩くわけじゃない。今回探るのは、こっちのキャバレーについてだ」

「どういうことだ」

「キャバレー自体も違法だってことだよ。表向きはストリップ・ショーと酒を提供するキャバレーだが、裏では従業員に売春させてる。擬骸(カヴァー)にヤバめな『オプション』をつけて、『マジのセックスができる』って触れ込みでな。正規の機関を通さない擬骸の改造はご法度中のご法度だが、壁の外でやったなら関係ない」

「聞けば聞くほど、俺の手には余りそうな案件だな」

「マジでヤバかったら、バクストンの旦那にそのまま持ってきゃあいいのさ。そうすりゃ芋ヅル式で違法薬物も摘発できる。警察はドラッグ・ジャンキーの下院議員を逮捕できて、お前は有益な情報提供者として報奨金を受け取り、オレは情報料をもらって商売敵もいなくなる。ウチは真っ当な売春宿だからな、文字通りのヤリたい放題な連中にのさばられると困るんだ。どうだ、誰も損しない平和な計画だろ?」


 デオンはゲラゲラと笑いながら、ウィスキーを水のように飲む。実際、あれは琥珀色と風味がついただけの色水だ。第三次世界大戦以降、アルコールは武器の一種であり、大切な脳を損傷させるとして飲食物に使用することは禁止されている。それでも彼のように求める者が絶えないのは、脳に保存された酩酊感を思い出しながら擬似的に楽しむからだ。

 かつては生物にとって必要不可欠だった食事すら、ただの娯楽へと成り下がった。生きるには脳を維持するだけだから、国が製造する栄養剤を一日一パック接種するだけでいい。味気はないが、栄養バランスだのと余計なことを考える手間がなくなったのは、純粋に便利なことだと虎臣は思う。

 下膨れした瓶の中身を半分まで減らしたデオンは、虎臣の耳に唇を寄せた。


「それに、ちょいと気になる情報も手に入れたんだ。どうやらそのキャバレーで働いている従業員に、随分と『若い奴』がいるらしい。未成年の死体を使った中途半端な『空擬骸(ホロウ)』を、ブラックマーケットから買ってるんじゃないかって話だ」

「未成年の、死体だと……?」

「はは、目が変わったな、トラオミ。――で、どうするんだ?」


 水底の魚を狙う釣人(アングラー)のような目つきでニヤリと笑ったデオンが、再度バインダーファイルを虎臣に差し出す。

 虎臣はドアノブへ伸ばしていた手で、ファイルを掴んだ。そうこなくちゃな、と声を弾ませたデオンは、大物を釣り上げたように上機嫌だった。


  ◆◇◆


 第三次世界大戦の後、地球上の国は滅び、いくつかの国が興された。

 といっても、太古のように山を新たに切り拓いたとかではなく、元々あった国が体制を大きく変えたのだ。甚大な環境破壊と死だけを与えた戦争に懲りた国々は、二度と戦争を行わないと『不戦協定』を結び、旧時代から大きな影響力を持っていたいくつかの国が周辺諸国をまとめる形で『新統国』となった。

 アメリカ新統国は地球で一番大きな国だ。擬骸(カヴァー)技術を確立し、人類の延命に成功した功績によって、旧時代も今も暗黙の内に頂点に立ち続けている。だが、根強い資本主義はそのまま残り、貧富の差は世界で一番大きくもある。首都であったワシントンを堅牢な壁で囲い、内側になるほど裕福な者たちが暮らしていた。

 虎臣が住む壁際は、低所得者のコミュニティだ。司法の目も届きにくい場所であるから、限りなく黒に近いグレーゾーンの風俗店も生き残っているし、虎臣のようなワケアリの人間も家を得られる。

 ワシントンの中でも『ノース・エリア』は壁際でも特に治安の悪い場所だ。警察の取り締まりも追いつかないほど、様々な暴力が溢れている。少しでも金の匂いを嗅ぎつけられたら、身ぐるみどころか腹を裂かれて内臓パーツまで引きずり出されるだろう。

 なるべく『お仲間』に見えるよう、服装も着古した襤褸(ぼろ)同然のものをまとい、木製のステッキで地面を突きながら猫背になってスラム同然の歓楽街を歩いた。虎臣の住むウェスト・エリアよりも背の高い、そして粗雑な材料を組み合わせた歪なビルが並んでいる。路地の隙間から、ビルの上から、値踏みするような視線が突き刺さり、虎臣は思わず背中が粟立った。少しでも隙を見せれば、奴らは一斉に虎臣に襲い掛かるだろう。歩調も自然と速くなる。

 頭に叩き込んだ地図では、キャバレーはノース・エリアの西側にあるはずだ。ああ見えて慎重派なデオンは、虎臣に概要を覚えさせたら紙ベースの情報は全て焼却する。あれらはコピーであり、大元の情報は彼しか知らない場所に保管してあるのだという。だから虎臣も情報は紙にメモはせず、頭に入れることにしている。万が一のことがあっても、デオンに迷惑がかからないようにするためだ。そう言うと、彼は「律儀なジャパニーズめ」と笑っていた。


「……ここか」


 幸運にも、ゴロツキに捕まることなく目的のキャバレーに着いた。一見すれば廃屋を再利用した荒屋(あばらや)だが、下品なショッキングピンクの垂れ幕が性風俗店であることを主張していた。大音量の音楽が漏れ聞こえ、黄色い蛍光塗料で大々的に『EX TOYS』と書かれている。正直立ち入りたくないが、目的のためならば仕方ない。虎臣は扉代わりのカーテンを押し開くと、すかさず黒衣のボーイが近づいてきた。


「いらっしゃいませ。初めてのお客様でしょうか?」

「まぁ、そんなところだ」

「新規の方は、先に入場料として五百ドルいただきます」

「随分取るんだな」

「お客様の安全と信頼のためです。支払いますか、支払いませんか?」

「……これで足りるか?」


 虎臣はコートのポケットからクシャクシャの紙幣を出し、ボーイの手に乗せた。低所得者が精一杯かき集めた体裁をとるため、一ドル札を多めにしている。

 ボーイはじっくりと時間をかけて紙幣を数え、最後の一ドル札を弾いた後、わざとらしくニッコリと笑顔を浮かべた。


「ようこそ『EX TOYS』へ。極上の時間をお楽しみください」


 恭しく促され、虎臣は会釈をして奥へと進む。

 入口よりも分厚い緞帳の向こうに広がっていたのは、甘ったるい薔薇の香りに満ちた享楽の別世界だった。中央にある円形のステージには銀のポールが真っ直ぐ突き刺さり、花道でつながった扇状のメインステージでは、水着姿の若い女が真っ白い乳房をまろび出しながら音楽に合わせて腰をくねらせている。扇情的なポージングをする度に、ステージを囲うように設置された背もたれの高いソファから男の囃し立てる声が上がる。

 虎臣は嫌悪感に歪みそうになる顔を必死に抑えながら、ステッキを握る指の下にある小さなボタンを押した。L字になっている持ち手の先には、小型カメラが組み込まれている。音もなく、光らず、高画質な写真を撮るこれは、虎臣が危険な取材に赴く時には必ず携えるものだ。もちろん壁内の法律には違反しているが、気にしていては仕事にならない。


「お客さぁん、座らないのぉ?」


 入口付近で立ち尽くしていた虎臣に、金髪を波打たせたカウガール衣装の女が話しかけてきた。ステージ上の女よりは服を着てはいるが、それでも布より肌の面積の方が多いようだ。年の頃は二十代前半にも、十代後半にも見える。

 彼女は虎臣が聞いてもいないのに「ジェニー」と名乗った。虎臣が新規の客だと知ると、キャバレーの雰囲気に圧されているのだと勝手に解釈したらしい。腕に胸を押しつけられながら空いている席に案内された。彼女の肌にはシリコン特有の弾力がある。デオンから聞いていた違法な空擬骸(ホロウ)ではないようだ。

 やけに沈む座面に腰を下ろすと、ジェニーがテーブルの操作盤をいじる。大理石の机上にホログラムのメニュー表が浮き上がった。富裕層の店では当たり前に見るが、壁際には不相応なほどの高級品だ。

 虎臣が言葉もなく驚いていると、ジェニーは得意気な笑みを浮かべる。


「どぉ? ホログラム搭載テーブルなんて、お目にかかったことないでしょ。ま、どこかのお店で使ってた中古品なんだけどね。磨けばまだまだ使えるのにさ、捨てちゃうなんてお金持ちはもったいないことするわよねぇ」

「君みたいに?」

「ヤダ、お兄さんってばお上手ぅ!」


 ケラケラと笑うジェニーに肩を叩かれながら、虎臣はメニューの中では高めな酒を注文する。彼女の分も注文すれば、大袈裟なほどに喜んで体をより密着させてきた。

 服の露出が高いのは、男も共通らしい。ざっくりと布が切り取られ、背中や脚を惜しげなく晒した金眼のボーイが腰をくねらせながら、酒を運んできた。

 深い琥珀色のウィスキーは、水で薄めることもしていないようだ。瓶で買えば、恐らく先日デオンが飲んでいたものと同等の値段がするだろう。中流家庭でもおいそれと手が出せない酒や、中古品でも高額なホログラム搭載テーブルを導入しているこの店は、壁際にあるのが不似合いなほどの高級店だ。

 ジェニーは虎臣が金を持っている客だと、すっかりロックオンしたようだ。目尻をとろんと緩め、しかし瞳の奥では鼠を狙う猫のような狡猾な光を宿して、甘えた眼差しを向けてきた。


「ねぇ、お兄さんって外の人じゃないでしょ」

「よく分かったな」

「見た目の割に羽振りがいいんだもん。お仕事とか何してるの? 内側の会社員とか?」

「惜しい。内側で働いてはいるが、俺はただのビル清掃員だ。ここの噂を聞いて、必死に金を集めてきたのさ」

「噂?」

「『マジのセックス体験ができる』とな」


 虎臣が耳打ちした言葉に、ジェニーの表情が一瞬だけ強張る。だが、すぐに彼女は蠱惑的な笑みを浮かべ、虎臣の左手を自身の太腿へと導いた。


「そういうコト、日本人は嫌いだと思ってた」

「取り繕ってるだけさ。顔と態度に出さないだけで、頭の中は男も女もピンク色だ」

「あはは、ホントにぃ? じゃ、お兄さんも裏メニュー、いっとく?」


 ジェニーが再度テーブルのボタンを操作すると、飲食メニューが並んでいたホログラムが別のものに切り替わった。

 空中に細かいセックス・プレイの一覧と、その料金が浮かび上がる。どれもさっきの表メニューより、ゼロがひとつ多い。デオンの情報通り、酒よりも売春の方で稼いでいるのだろう。

 妻ともしたことのない際どい言語の羅列に、思わず虎臣の眉間に皺が寄ったが、ジェニーは体重をかけてもたれかかってきた。


「ねぇ、相手が決まってないなら、あたしとかどう? あたしの擬骸(カラダ)、結構スゴいよ。胸も水入りシリコンで本物に近づけたし、ココだってそう」


 ジェニーが囁きながら、自身の太腿に乗せた虎臣の左手をゆっくりと下腹部の方へ持っていく。

 あからさまな誘い方は興奮する者もいるだろうが、正直、虎臣の脳は一切反応しなかった。事前に擬骸カヴァーの違法改造の件を知らされていたからではなく、絵莉以外に色めいた感情を持てないのだ。その絵莉が死んだ時、虎臣の情動もまた死んだのだろう。

 しかし、今は調査をしている身だ。多少は乗ってやらねば、ジェニーに警戒される可能性もある。今夜は情報収集だけのつもりだから、悪印象と共に顔を覚えられては今後に差し支えてしまう。

 虎臣は右手でジェニーの輪郭をなぞった。


「魅力的な誘いだが、少々金が厳しいな。しがない清掃員に、この額はキツい」

「初回サービスしてあげるってぇ。個室さえ取らなきゃ、意外とリーズナブルに遊べるよ」

「個室もあるのか?」

「そ。裏メニューのこと知ってるってことは、ここがウリもしてるって知ってるんでしょ? ま、個室まで取るのは、ほとんどお忍びできた中心部の富裕層だけどね。大抵のお客さんは、この場でやっちゃうよ」


 ジェニーが耳の後ろに手を添えて、聞き耳を立てる素振りをする。彼女に倣って虎臣も耳を澄ますと、確かに、大音量の音楽に紛れて男女の嬌声が聞こえる。ソファの背凭れも高く、他の客からも見えにくくなっているからか、誰も彼もが大胆に性を買っているのだ。


「ねぇお兄さん、今日はどれくらい払える?」

「……二五○ドルは」

「あはっ、ジューブン! でも最初はオーソドックスな『リフレッシュコース』からね。帰りのバス代が無くなっちゃったら、大変でしょ?」

「心遣いができてる店だな、本当に」


 ジェニーがホログラムのメニューをタッチすると、すぐさまボーイが黒い長方形のケースを持ってきた。そこには行為に必要なアメニティが揃っている。

 ジェニーが虎臣と向かい合うように膝に乗り上げ、カウガールのデニムジャケットを脱いだ。その下は、やはり水着のような下着だ。


「リフレッシュコースって、何をするんだ?」

「文字通り、お客さんにスッキリして頂くコースよ。百ドルで当店で人気の高いプレイの詰め合わせってとこかな」

「そりゃ楽しみだ。――ところでジェニー、実はもうひとつ噂を聞いたんだが……」

「もう、お兄さんってば噂ばっかりね。それだけこの店が内側でも人気ってコトなんでしょうけど。そんな白けることより、愉しいコトしましょうよぉ」

「あぁ……確かに、ここで働く君にとっては、少しばかり面白くない噂だしな」


 やめにしよう、という虎臣の言葉は、逆にジェニーの好奇心をくすぐったらしい。やっぱり教えて、と口元に耳を寄せてきた。


「実は、このキャバレーで違法な薬も取引されてると聞いたんだ。こう見えて俺は小心者だから、ちょいと怖くてな」

「ヤダ、そんなのないない。あたし、ここで十五年は働いてるけど、ヤクなんて見たことないわ。そんな噂、流したの誰よ。ひっどい営業妨害」

「はは、他にもまだあるぞ。政府の議員が出入りしているとか、最近まるで人間みてぇな空擬骸ホロウを雇ったとかな」

「有名になるのって、いいことばかりじゃないわねぇ。――ね、お兄さん。お仕事、清掃員じゃないでしょ。ヘンに鋭いもん」

「おっと、君も鋭いな、ジェニー。だが、本当に清掃員なんだ。元フリーライターのな。根も葉もない噂を集めて金にしていた癖が抜けなくて、どうしても気になったら確かめたくなっちまうんだ」


 偽装用に作った清掃会社の名刺をジェニーに見せると、彼女は「ふーん」と気の抜けた返事をした。探偵や警察機関を疑っていたようだが、虎臣がそうでないと分かると彼女は目に見えて安堵したのか笑顔を作った。

 正面から抱き締めてきたジェニーは、虎臣の耳元で囁いてきた。


「初回サービスで、教えてあげる。政府の偉い人がここに来てるのはホントよ。……ほら、あそこの席」


 虎臣と手を絡ませるフリをして彼女が指差したのは、ステージを挟んだ反対側の席だった。そこには目深にキャップを被り、ラフなパーカーを着ている下院議員のマシュー・ボットがいた。ギャングの仲間らしい屈強な男をふたり、従業員の女を三人侍らせ、眼前で繰り広げられるストリップ・ショーに下卑た笑みを浮かべている。あれで変装しているつもりなのが、余計に滑稽に映った。


「議員さんだって聞いたけど、プレイの注文もしないくせにカラダ触ってくるから、みんな指名されたら『ハズレた』って思ってるの。お金持ってるのに、ケチよねぇ」

「へぇ、ダサい男だ」

「ま、最後には個室を取ってくれるからいいけど。彼のお気に入りがね、今、肩を抱かれた赤毛の子よ。ヴィヴィアンっていうんだけど……なーんか最近、あの子もおかしいのよね」

「おかしい?」

「受け答えがヘンっていうか……元々被害妄想が強い子だったけど、この頃はそれに加えて凶暴になってるってカンジ。時々話にもなんなくて、仕事でもトラブルが多くなっちゃってるしね」


 ジェニーが呆れたように吐き捨てる。あのヴィヴィアンという女も、マシューと同じく違法薬物を乱用しているのは確実だろう。秘匿性の高いキャバレーの個室は、取引を行うには打ってつけの場所だ。

 体の九十九パーセントが無機物の擬骸カヴァーとなっても、脳というアナログ器官は快楽を貪欲に求める。むしろその執着は旧時代の体以上にもなっており、一度依存してしまえば善行だろうが悪行だろうが抜け出せなくなるのだ。薬物は旧時代の最大級の汚点として、政府や警察も根絶を掲げているが、効果は薄い。一度汚れた布が元の真っ新な白になることがないように、広まった薬物が消滅することは永遠にないだろう。

 虎臣は彼女のホットパンツに、残りの百ドル札をねじ込んだ。


「ついでに、もうひとつの噂についても教えてくれないか。人間みたいな空擬骸ホロウを雇ったって話だ」


空擬骸ホロウ』とは、脳の代わりに高性能AIを搭載した擬骸のことだ。限りなく人間に近いアンドロイドであり、数が減った人間の補填として生み出された感情を持たない存在だ。金さえあれば誰でも購入できるため、彼らは壁内の飲食店から、壁外の風俗店まで至る所で働いている。

 ここのキャバレーでも空擬骸ホロウらしき従業員はあちこちにいる。先刻アメニティを運んできたボーイもそうだし、ステージ上で大股を開いて踊っていた女もそうだ。空擬骸ホロウ特有の揺れない金色の瞳をしていた。

 ジェニーが百ドル札と虎臣の顔を交互に見る。不自然に聞き過ぎて怪しまれたかと思ったが、彼女は満足げに微笑んで甘えるように虎臣に体を擦り寄せてきた。水シリコン入りで柔らかな乳房が、虎臣の胸元で押し潰されて張りのある双丘を形作った。


「いいよ。折角だから教えてあげる」

「本当に? 聞いた俺が言うのもなんだが、君の立場もあるんじゃないか?」

「そりゃあ、ホントはダメよ? でも、あたしもそろそろ別の店に移ろっかなって思ってたから、どうでもいいかな。正直『アイツ』にはこっちも困ってんの。オーナーも何であんなヤツ買ったんだか」

「『アイツ』……?」


 ジェニーが顎でステージを示す。

 照明が暗転し、空間の中央に突き刺さるポールが円錐型の光で照らされた。銀色のポールを背に立っていたのは、惜しげ無く肌を晒したアラビア風衣装を着た、長い黒髪の娘だった。

 白磁の肌と草花の花弁のような唇は照明で艶めき、大きな金色の瞳は虚空を見つめている。露わになった左の首筋にある小さな黒子に、強烈な既視感が虎臣を襲った。

 知らず、呼吸が早まる。脳裏で在りし日の娘の笑顔が重なっては、理性が否定しようとする。


 ――違う。そんなはずはない。あれは『娘』などではない。だが、恐ろしいほどに似過ぎている。


 呼吸が荒くなった虎臣を、ジェニーは己の体で快楽を感じていると思ったらしい。ソファに虎臣を押し倒し、マッサージするように腰や腿を揉んできた。


「アイツが困り者の空擬骸よ。名前はネヴァン。こういう所で働く空擬骸って、他人の客を取らないようにプログラミングされてるはずなのに、アイツは見境なく客を寝取ってんの。髪が真っ黒で、カラスみたいにガメツイから、ネヴァンだって。あたしも三人くらい取られたわ」

「……そんな名前じゃない」

「うん? お兄さん、何か言った?」

「い、いや、何でもない。それは、困った話だな」

「この間なんてヴィヴィアンと取っ組み合いの喧嘩までするしさ。アイツ、何でかマシューにばっかり付きたがるの。ムリヤリご奉仕しようとしたもんだから、ヴィヴィアンもヤバいくらい怒り狂っちゃって、営業どころじゃなかったわ。オーナーに抗議しても『上手くやって』って言うばっかりで、もうヤんなっちゃう!」


 当時のことを思い出したのか、ジェニーは唇を尖らせる。

 確かに、空擬骸ではありえない挙動だ。ガワは同じ擬骸で、どれだけ高性能なAIを搭載しているとしても、所詮は機械であるからプログラムされたことに逆らわない。空擬骸に見せかけた人間かとも考えたが、双方を区別するために金色の瞳を使えるのは空擬骸だけだと法律で決められている。無法者の仕業であることも考えられるが、それが単体でこのようなキャバレーに潜入する意味も分からない。


『――キャバレーで働いている従業員に、随分と『若い奴』がいるらしい。未成年の死体を使った中途半端な『空擬骸(ホロウ)』を、ブラックマーケットから買ってるんじゃないかって話だ』


 デオンの言葉を反芻し、虎臣は目を固く瞑った。

 盗掘された美鶴の遺体を、ずっと探していたことは事実だ。その一方で、こんな性欲に塗れた場所で見つけたくない、壁内で家事用空擬骸として大事に使われていればなどと、淡い希望すら抱いていた。あれがまだ美鶴の遺体を使った空擬骸であるとは断定できないが、父親としての本能が告げている。あれは娘だと。

 物悲しいウードの旋律と、舞踏のような打楽器の音に合わせて、ステージ上のネヴァンという空擬骸はポールに足を絡ませる。腰をくねらせる度、足を大きく振り上げる度、体に巻いた金色の装飾が光を跳ね返しながらシャラシャラと涼やかな音を立てた。ポールに縋って大股を開けば、客の男どもから歓声が上がる。

 虎臣は気が狂いそうだった。そんな下卑た視線を、言葉を、娘に投げつけるなと叫んでしまいたかった。そのくせに自分もネヴァンの黒髪から視線を外せないでいると、顎を掴まれてジェニーの方を向かせられた。


「なぁに、結局お兄さんもネヴァンがいいワケ? お兄さんが今イイコトしてる相手はあたし。ちゃんとコッチに集中してちょうだいよぉ」

「あぁ……すまない。ワシントンでは珍しい黒髪だったから、な」

「そういえば、お兄さんも日本人だから黒髪よね。じゃあ、あの子も元は日本人の擬骸(カヴァー)なのかしら。いいなぁ、日本。ワシントンも最近は空擬骸(ホロウ)の殺人とか突然爆発とか事件も多いし……いっそのこと、日本に移住しちゃおっかな?」


 ジェニーは虎臣のシャツのボタンを外し、ベルトにも手をかける。正直、彼女が何をしようとも、虎臣の意識はステージ上のネヴァンに向かっていた。

 ネヴァンは音楽の高まりに合わせてより過激なポージングをしていく。足を開き、首を反らせ、悩ましげに目を細める。まるで行為中を思わせる淫靡な表情に、誰も彼もが釘付けだった。

 フィニッシュに向けて、ネヴァンはポールの上へと登っていく。足を絡ませ、頭を下にして逆さまになるジェミニの形になった彼女の目が、一瞬で表情を失くした。薄い腹を開いて両手を突っ込み、引き抜いたその手にはハンドガンが握られていた。

 誰もがそれを凶器と認識するより先に、ハンドガンが火を吹いた。やかましい音楽を掻き消すほどの銃声に、断末魔と悲鳴が重なる。客も従業員も見境なく撃ち続ける間、虎臣はソファの上で頭を抱えて体を丸めることしかできなかった。

 やがて音が止み、虎臣は固く瞑っていた目をおずおずと開いた。まず目に飛び込んできたのは美しく波打った金髪だ。ジェニーがぐったりと虎臣に覆い被さっていた。白い背中には丸く抉れた跡が五つあり、頭からはドクドクと鮮血を溢れさせている。綺麗な蒼から濁った灰色になった瞳は見開かれ、薄く開かれた唇は自分の身に何が起こったのかを問いかけるようだ。

 擬骸の体は生身の肉体よりも頑丈だが、生物的器官としてある程度の痛覚は残されている。幸い、ジェニーの体が盾となってくれていたようで、虎臣には傷ひとつなかった。――それが何よりも苛立たしい。売春婦とはいえ、若い女を身代わりに生き残ってしまった。


「ジェニー……! クソッ、一体何が……」


 虎臣がジェニーの死体の下から這い出ると、先刻アメニティを運んできた従業員の男の上に落ちた。空擬骸(ホロウ)の体に流れる人工血液(ピンクブラッド)が、虎臣のシャツをジェニーの赤からピンク色に染める。

 赤とピンクの血が混ざり合うキャバレーの中心に、ネヴァンは立っていた。彼女の感情のない金眼が、ソファーの上で力なくもたれかかるマシュー・ボットへと向けられる。幸か不幸か、彼はいくつかの弾丸を浴びながらも生きていた。脳さえ破壊されなければ死ぬことはまずないから、今彼は激痛に体を痙攣させている。その膝にはヴィヴィアンが、足元にはギャングの男共が転がって事切れている。

 ネヴァンは白く細い足でギャングの死体を蹴飛ばして、マシューの額に銃口を向けた。喘鳴と共に吐き出された「やめろ」という懇願も虚しく、一発の銃声と共にマシューは動かなくなった。彼女は表情を変えずにマシューの髪を鷲掴み、グルグルと回して首を取り外した。引き千切られた血管チューブから滴る血で体が真っ赤に濡れることも構わず、灰色に変容した眼球を確認する。


「下院議員、マシュー・ボットの死亡を確認。これより生存者を処分後、離脱を――」


 淡々としたネヴァンの声を、一発の轟音が遮る。彼女の体が大きく揺らぎ、白い脇腹に真っ黒な穴が空いて、ピンクの血が噴き出した。

 凄惨な声や音を聞きつけたのだろう、このキャバレーのオーナーらしき初老の男がネヴァンに煙の立ち上る銃口を向けていた。オーナーの両隣には屈強な男の空擬骸が控え、それぞれ手にはマシンガンを携えている。


「やりやがったな、この腐れ空擬骸(ホロウ)が! 組織から買った時は、殺すのは政府の議員だけのはずだったろうが。従業員まで殺すなんて面倒を起こしやがって!」

「全ては『不戦転覆』のため、私に与えられた使命です。申し訳ありませんが、皆様にもご退場願います」

「構うな、やれ!!」


 オーナーのひと声で、控えていた空擬骸がマシンガンを乱射する。ネヴァンは軽やかに高く跳躍し、ソファや死体を盾にしながら応戦した。射撃精度は彼女の方が高いようで、的確に空擬骸の脳天を撃ち抜いていく。しかし、ひとりやふたりを殺したところで、後続の空擬骸(ホロウ)はゾロゾロと湧いてきた。

 虎臣はただ銃撃に巻き込まれないよう、頭を抱えて床に伏せていた。何とかして、この場から逃げなければ。視線を走らせて出口を探していると、入店した時に通された緞帳の奥からネヴァンの背中を狙う銃口が見えた。オーナーに気を取られている彼女にとっては死角であり、気づいていないようだ。


「危ない美鶴!!」


 思わず、虎臣は飛び出していた。ネヴァンの体に覆い被さった後頭部を、弾丸が掠める感触がした。投げたステッキは空擬骸の銃に当たり、手から離れた隙をネヴァンが撃ち抜いた。

 虎臣は彼女の手を掴んで、緞帳の方へ走り出した。


「逃げるぞ、体を低くするんだ!」

「貴方は生存者ですか? ならば処分対象で……」

「逃げる方が先だ!」

「追え、逃がすんじゃないぞ! 蜂の巣にして」


 緞帳を潜り、キャバレーを飛び出した。銃声は外まで聞こえていたのだろう、建物を遠巻きに見つめていた通行人たちを押しのけ、虎臣はノース・エリアの入り組んだ歓楽街を走る。

 背後を振り向けば、ちゃんとネヴァンもついてきていた。細い手首は記憶の中に残る娘のもののままで、心臓がギュッと締め付けられた心地になる。シリコンの感触も冷たい温度も違うのに、懐かしさばかりが胸に満ちて、走っていなければ涙が溢れそうだった。

 虎臣たちは入り組んだ路地に隠れ、追手をやり過ごす。目標を見失い、通り過ぎていく派手な空擬骸(ホロウ)たちを見送り、虎臣は息を吐いた。


「ひとまずは逃げ切れたか……。大丈夫か、美鶴」

「お黙りください」


 振り返った虎臣の眼前に、ハンドガンの銃口が突きつけられていた。思わず両手を顔の高さまで上げ、敵意がないことを示す。しかし、ネヴァンは銃を動かさず、無機質な金の瞳で虎臣を射抜いていた。


「貴方は何故、私を助けたのですか? 目的と所属している組織の名を言いなさい」

「目的と、組織? ち、違う違う、俺はフリーのライターだ! どこにも属しちゃいない!」

「貴方が何であれ、我らの障害となるものは、全て排除します。それが『戦争人形』である私たちの使命です」

「……分かった。お前が俺を殺したいのなら、そうすればいい。だが、ひとつだけ俺の要望を聞いてくれ」

「要望……ですか?」

「少しでいい。抱き締めさせてくれ」


 虎臣は両腕を彼女へ向かって広げる。ネヴァンの首が十度ほど傾いた。命の危機に瀕している男が抱擁を求める意味など、高度なAIでも理解しきれないだろう。

 てっきり虎臣はこのまま撃ち殺されると思っていたが、予想に反して彼女は銃を下ろして同じように腕を軽く広げた。虎臣は吸い寄せられるようにフラフラと歩み寄り、彼女を腕の中に閉じ込めた。

 髪から香る甘ったるい香水も、シリコンの体も美鶴のものとは違う。それでも虎臣の馬鹿な脳は、彼女を娘だと断じて苦しいほどの郷愁を抱かせる。

 やっと再び娘を抱き締められた――このまま彼女に撃ち抜かれ、死んでもいいとさえ思っていたが、小さな体がビクンと痙攣した。


「――重大な、エラーを確認……体内の人工血液(ピンクブラッド)の急激な減少により、機能を一部、緊急停止します」

「あっ、お、おい!?」


 ネヴァンの体が、芯を失くした人形のようにくずおれる。揺さぶってみたが、ガラス玉のような瞳は無機質に虎臣の焦った顔を映すばかりだ。脇腹を支えた虎臣の掌が、ぬるりとしたピンクの体液で濡れた。

 そういえば、キャバレーでオーナーに撃たれていたことを思い出す。虎臣は脱いだコートに彼女を包み、抱え上げて歓楽街を駆け抜けた。

 夜明けはまだ遠い。闇に沈む罅割れたアスファルトを踏む虎臣の頭上では、金色の月が薄雲に霞んでいた。


  ◆◇◆


 ウェスト・エリア五番街は、戦火を逃れたことで旧時代の街並みを色濃く残した居住区だ。劣化した油絵のように濁った色のアパートメントが整然と並び、窓は灯りを落として昏く沈んでいる。

 虎臣は灰色のアパートに駆け込み、息を切らせながら階段を三階まで駆け上った。唯一明かりの灯っているドアを、叩くようにノックした。


「バクストン、俺だ、入れてくれ」


 一分ほどでドアの磨りガラスの向こうに人影が見えた。開ききる前に、虎臣は体を捩じ込ませてむりやり室内へ入った。

 家主であるバリー・バクストンが、抗議するように両手を広げる。


「随分なモーニングコールだな、トラオミ。俺の可愛いシェリーが起きたらどうしてくれる」

「寝てなかったクセに、よく言う。悪いなバクストン、緊急だったんだ」

「何だ、またデオンの奴に唆されて、危ない橋を渡ってきたのか?」


 バクストンは猛禽類のようなアイスブルーの瞳を眇め、長い溜息を吐いた。

 彼は虎臣のハイスクールからの腐れ縁で、ワシントン警察に勤めている刑事だ。権力より正義に忠誠を誓っている男だから、何十年も前から度々協力してもらっている。デオンが警察も掴めない裏情報を売り、虎臣が記事にして公にして警察が動きやすくし、バクストンが捜査して後始末をする。順番が前後することはあっても、この連携で五十年以上やってきた。

 半ばバクストンも諦めているのか、欠けたカップにコーヒーを注いで差し出してくれた。


「で、今度はどんな橋だ? この間は女優の不倫だったから、違法カジノの実態調査か、それとも新しい性風俗店のルポ記事か……」

「半々ってとこだ。ドラッグ・ジャンキーの下院議員の調査でご贔屓にしてるキャバレーを探りに行ったら、もっとヤバいモンを見つけた」

「違法擬骸(カヴァー)の娼婦でもいたか? そんな奴ら、貧民街にはゴロゴロいるだろう。取り締まりが追いつかなくて敵わん」

「違う。コイツだ」


 虎臣はコートに包んでいたネヴァンを、ソファに寝かせた。それを見たバクストンが言葉もなく瞠目する。美鶴のことは彼も知っているし、妻子を立て続けに喪った虎臣を一番心配してくれたのも彼だ。


「おい、トラ……彼女は……」

「あぁ……俺だってまだ信じられねぇよ。十中八九、十五年前に盗掘された美鶴の遺体を使った空擬骸(ホロウ)だ」


 バクストンがコーヒーを啜る。冷静で数多くの修羅場を通ってきた彼ですら動揺したらしい、前歯に陶器が当たる軽い音がした。


「連れて逃げる時に脇腹を撃たれて、人工血液(ピンクブラッド)を大量に失っちまった。シェリーに診てもらいたいんだが、いいか?」

「あぁ、ちょっと待ってろ、連れてくる」


 ダイニングテーブルにカップを置いたバクストンは、隣の部屋へと走っていった。一分も経たない内に彼が腕に抱えてきたのは、真っ白い毛並みに金目の兎だった。

 兎の首裏をバクストンが押すと、シリコンの体が伸びて顔が割れ、十秒ほどで女型の空擬骸(ホロウ)に変形した。無機質な笑みを湛えた彼女は、腰を深く折って一礼した。


「お呼びでしょうか、ご主人様(マスター)

「起こして悪いな、シェリー。このお嬢さんの容態を分析してほしい」


 バクストンがソファ上のネヴァンを手で示すと、彼女は「かしこまりました」と平坦な返事をした。

 シェリーという名前の彼女は、以前にバクストンが担当した事件で回収した違法な空擬骸(ホロウ)らしい。ペットなどの愛玩動物を擬骸(カヴァー)にすることは違法ではなく、所持に税金もかからないことから富裕層で人気の娯楽だ。しかし、そこを抜け道にして動物の空擬骸を違法に改造して人型をとれるようにし、金のかからない労働力として使役する企業が現れたのだ。企業だろうが一般家庭だろうが、空擬骸(ホロウ)に仕事をさせる場合、役所への届け出と納税義務が発生する。万が一、警察などに追求されても動物形態となれば逃れられる、新しい節税対策だと宣伝された。法律の整備に技術の進化がついていけなかったが故の犯罪だった。

 例え空擬骸(ホロウ)であっても、人間は人間として、動物は動物としての境界線を越えてはいけないという法律が生まれたことでそういった企業は取り締まられ、彼女も劣悪な空義骸の派遣会社から押収されたのだ。

 本来ならば廃棄処分される運命だったが、密かにバクストンが連れ出し、家に置いている。もちろん、人間の家事用(ハウスキープ)空擬骸(・ホロウ)として新たな身分を登録してだ。

 シェリーはソファの横に膝を付き、首の左右と胸元を開いてコネクトチューブを引き抜く。それをネヴァンの同じ部位につないだ。


「体内の人工血液(ピンクブラッド)の総量が、三十パーセントを下回っています。大変危険な状況ですから、この場で緊急輸血をします。ご主人様(マスター)、輸血パックをこちらに頂けますか」

「あぁ、ここにあるよ、シェリー」


 バクストンから輸血パックを三つ受け取ったシェリーは、それを口から飲みながらネヴァンの修復に取りかかる。開いたネヴァンの胸の内側にあるシリコン組織を削り、傷口を塞いだ。

 空擬骸は緊急事態用に、応急処置や人工血液(ピンクブラッド)の輸血方法がインプットされている。違法空擬骸だった彼女にはそんなものなかったが、バクストンの所有物になった時に覚えたようだ。

 シェリーの飲んだ人工血液(ピンクブラッド)が、チューブを通ってネヴァンに送られる。虎臣はただ、ネヴァンの手を握っていることしかできなかった。


人工血液(ピンクブラッド)の総量が四十パーセントになりました。輸血は順調です。しかし、ご主人様(マスター)。こちらの方には政府が発行する個体認証番号がありません。それに、生体組織とシリコン組織の割合も七対三であり、法令基準である一対九が守られていません。武器の格納も認められます。通報いたしますか?」

「いや、大丈夫だシェリー。彼女は少し込み入った事情があって、解決してやらなければならないんだ。いつかの君のようにね。だから、今は少しだけ黙っていてくれるか?」


 柔らかな口調で頼むバクストンに、シェリーはただ微笑んで「かしこまりました」と頷いた。相変わらず、彼は『妹』と同じ顔をした彼女に甘い。

 彼女の分析通りなら、やはり美鶴は十五年前に盗掘された後、どこかで空擬骸に改造されたということだろう。脳は一度死んだら戻ることはない。誰が何の目的でやったのかは分からないが、愛おしい娘の体を開き、AIを植えつけて武器を搭載した犯人に、虎臣は途方もない怒りを覚えた。

 その時、断続的なバイブレーションが部屋に響いた。


「署から悪魔の電話だ。悪いトラ、少し外すぞ」


 ポケットから取り出した携帯端末を耳に当て、バクストンは隣室へ下がっていった。

 犯罪は朝も夜も関係ないと、ぼやいていたのを思い出す。新しい事件の一報かと虎臣が考えていると、握った手の中で指が動く感触がした。

 ネヴァンの長い睫毛が震えて、瞼が開いた。金色の瞳が周囲を探るように、左右に動く。自分が見知らぬ部屋に寝かせられていることは気づいて眉を(ひそ)めたが、まだ体は上手く動かないらしい。

 虎臣は根ヴァンの手を強く握り、身を乗り出した。


「美鶴! 良かった、目が覚めたんだな。あぁ待て、まだ動くなよ。輸血の途中だからな」

「……貴方は……」

「キャバレーの追っては撒いた。ここは信頼できる場所だから、安心していいぞ」

「どうして、助けるんですか……? 私は使い捨ての『戦争人形』……回復したら、きっと貴方を殺します」

「違う、お前はそんな子じゃない。大丈夫だ、父さんが元の体に戻してやるからな」

「とう、さん……? 貴方が何を仰っているのか、分かりません。深刻な、エラーを感知……」


 ネヴァンは困ったように呟いて、再び瞼を閉じてしまった。

 焦りを浮かべた虎臣に、輸血を終えてチューブを体内にしまったシェリーが微笑みを向ける。


「ご心配なく、サエキ様。彼女はスリープ状態に入っただけです。一般的な空擬骸(ホロウ)ではありませんから、輸血した人工血液(ピンクブラッド)が馴染むまで、少々時間を要するようです」

「そうか……なら良かった。ありがとう、シェリー」


 虎臣が頭を下げると、シェリーは優しく微笑んで空になったの輸血パックを捨てに行った。

 壁が二度ノックされ、電話を終えたバクストンが戻ってきた。眉間に深い皺を寄せて、何だか酷く難しい表情を浮かべている彼は、この十数分間で五歳は老けたようだ。


「輸血、終わったのか?」

「あぁ。迷惑かけたな、バクストン」

「今更だ。――シェリー、お前の服をこのお嬢さんに貸してやってくれ」

「かしこまりました」


 シェリーが隣室から数着の服を持ってきた。彼女は体が動物形態に変化するから、普段は銀色のボディスーツのようなものを着ているが、外出する際などは一般的な女物の服を着る。

 いくら空擬骸(ホロウ)でも娘の裸身を見るのは抵抗を感じ、虎臣はバクストンを連れて寝室へと引っ込んだ。


「トラ、お前はこれからどうするんだ?」

「ひとまず、夜明け前には家に帰ろうと思う。まずは美鶴と俺の生体組織をDNA鑑定して、親子関係をはっきりさせるつもりだ。俺だって、盗掘された時から、空擬骸にされている覚悟はしていたさ。AIを抜いて埋葬し直すか、初期化してこのまま傍に置くかは……正直、まだ決まっていない」

「そうか……ならばまず先に、署の方に来てもらおうか」


 低く告げたバクストンは、虎臣に一枚のメモを押しつけてきた。そこには走り書きで『ノース・エリアの違法キャバレーで銃撃事件。黒髪の男と少女の空擬骸が逃走中』と書かれており、虎臣は顔を強張らせる。ベテラン刑事のバクストンにとって、その反応だけで十分だったようだ。

 ゴリ、と虎臣のこめかみに冷たい物が押し当てられる。バクストンが刃物のような鋭い眼光で、拳銃を突きつけていた。


「説明してもらおうか、トラオミ。あの子をどこで見つけて、何をしてここに転がり込んできた?」

「そ、それは……」

「正直に話せよ。でなきゃ、俺はお前たちを力ずくで連行するぞ」

「わ、分かった、話すから!」


 虎臣はキャバレーでの顛末を全てバクストンに話した。デオンからマシュー・ボットの違法薬物使用の情報をもらったこと、取引きがキャバレーで行われていたこと、客として潜入したこと――それらを嘘偽りなく打ち明けた。

 バクストンは正義に忠誠を誓っている。それは虎臣が長年の友人だからといって、揺るぐことはない。彼が『力ずくで』と言えば、話ができるギリギリまで擬骸(カヴァー)を損傷させられてしまうだろう。


「……デオンから、そのキャバレーが異様に若い空擬骸を買ったという噂も聞いた。それで俺はキャバレーに行くことを決めたのさ。まったく……アイツの情報はいつも正確すぎて嫌になる」

「マシュー・ボットの違法薬物に、未成年の遺体を使った違法な空擬骸……さすがに同情はするが、その後は何があった?」

「美鶴が銃を撃って、マシューを殺した。マシューだけじゃない、キャバレーに来ていた観客やジェニー……従業員まで皆殺しにしちまった」

「その中でも無傷とは、つくづく運の良い男だ」

「良いわけあるかよ。とにかく、キャバレーを台無しにされたオーナーと美鶴が戦闘になって、連れて逃げてきたってだけだ。警察も情報が回るのが早いじゃないか」

「あの店はノース・エリア貧民街の中心部にある。周囲には野次馬も相当いたから、トラブルがあったと通報してきた奴らが大勢いたぞ。派手な従業員の空擬骸に追われる黒髪の男女は、相当目立ったようだな」


 虎臣は舌打ちをして頭を掻いた。

 目撃情報が多いとなれば、いつかはオーナーに見つかる可能性もある。多人種の国であるアメリカのワシントンで日系人は珍しくはないが、情報はどこからどうつながるかわからないものだ。見つかったら最後、足の小指の爪まで剥がされて壁外のブラック・マーケットに流されるだろう。

 バクストンが銃を下げ、腰のベルトに収めた。


「お前の話の通りなら、お嬢さんだけでも連行するべきだろうな。死んだ場所が違法なキャバレーとはいえ、現職の下院議員の殺人事件だ。警察も動かざるを得ない」

「だ、だが……」

「それに、殺害目標が不特定多数ではなくマシュー・ボット個人であった場合、もっと厄介なことになる。お前の手には負えない――」

「そこまでです」


 大きな物音と共にシェリーの短い悲鳴が聞こえ、虎臣とバクストンはリビングへ戻った。

 ソファから起き上がったネヴァンが、シェリーの頭に銃を向けていた。シェリーは空擬骸であるから、死の恐怖は薄い。ただ困ったように主人のバクストンを見るだけだった。

 最初に行動したのはバクストンだ。拳銃を抜き、ネヴァンへと照準を合わせる。


「シェリーを放せ!」

「貴方は刑事だとお聞きしました。では、我らの敵です。『不戦転覆』のため、死んで頂きます」

「不戦転覆……? 何をふざけたことを!」

「待てバクストン、やめろ!」


 虎臣はバクストンとネヴァンの間に体を割り込ませる。


「邪魔だトラオミ、退け」

「お前に美鶴を撃たせたくない。俺に任せてくれ、頼む」

「……シェリーに傷をつけたら、撃つからな」


 バクストンは銃を下ろしたが、警戒は解かず眼光は鋭いままだ。それでも虎臣は礼を言って、ネヴァンを振り向いた。


「美鶴、銃を下ろしてくれ……大丈夫だから」

「お黙りください!」


 ネヴァンが突然叫んで、銃口を虎臣へと向ける。その隙に、シェリーが兎の形態に変わってバクストンの元へ逃れた。

 虎臣はネヴァンから目を逸らさずに、少しずつ距離を縮めていく。張り詰めた緊張感に脳がひりつく感覚がする。

 刺激しないよう、慎重に言葉を選んでいると、カタカタと震える軽い音がした。


「どうして、貴方は私を『ミツル』と呼ぶのですか……? 私は、ネヴァンです。『不戦転覆』を掲げた、使い捨ての『戦争人形』なのです」

「違う、お前はそんなモノじゃない!」

「『不戦転覆』……そんな馬鹿げたことを掲げている組織のことは、警察も知っている。名前は『ヴィクティム』……三年程前から政府関係者や大企業の要人などを殺害している、テロリスト集団だ」


 バクストンの言及した殺人事件は、虎臣もよく知っている。

 ワシントンでは、富裕層の中でも名前が知れた政治家などを標的に、空擬骸(ホロウ)による殺人事件が多発している。一般的な空擬骸は犯罪を行えないようAIにプロテクトがかけられているから、違法な空擬骸であろうことは早い段階から分かっていた。しかし、その空擬骸らは事件から数日経つと自爆するのだ。そのため警察はテロリストの名前だけは分かっても、それ以上の情報を得られずにいた。


「君は『ヴィクティム』に改造されたのか。だから下院議員のマシュー・ボットを殺害するため、キャバレーに潜入していたんだな」

「……第一の目標は達成しました。しかし、第二の目標は達せそうにありませんので、最終手段を取らせて頂きます」


 ネヴァンは口を大きく開いた。左の奥に、歯ではない何かがきらめいたのが見える。


「私に搭載された時限爆弾が、即時起爆するスイッチです」

「な……爆弾!?」

「『戦争人形』に、役立たずは不要です。任務を受けてから十日が経過すれば、自動的に爆発します。解除キーは本部の者にしか知りません。任務を達成したら即座に本部へ帰還し、爆弾を解除して頂くのです」

「なるほどな……時々あった空擬骸(ホロウ)の不審な爆発事件も、君たちだったというわけか」

「しかし、時には貴方がた警察に追われることもあります。その際は起爆スイッチを押し、爆死するようにプログラムされています。私が今スイッチを押さずとも、あと八十二時間後には爆発します」

「そんな……そんな馬鹿なことがあってたまるか! やっと美鶴を見つけられたんだ!」

「……ですが、何故でしょう。スイッチを押そうとしているのに、押さなければならないのに、原因不明のエラーになるのです。貴方に『ミツル』と呼ばれる度……私のプログラムが処理を停止してしまう……」


 ネヴァンの顎が、壊れた玩具のように小刻みに上下する。口を閉じれば奥歯が噛み合わさってスイッチが押される仕組みなのだろうが、カタカタと鳴るばかりで、一向に閉じられる様子はなかった。

 それどころか、プログラムはネヴァンの声で「予期せぬエラーです」と繰り返すばかりで、心なしか本人も困ったような表情を浮かべていた。

 その背後に、素早く回り込んだ白い影があった。

 シェリーが持っていた筒状のものを、ネヴァンの項に押し当てる。電気がショートするような音が響いて、大きく傾いたネヴァンの体を虎臣は受け止めた。

 シェリーの手に握られていたのは、擬骸(カヴァー)用のスタンガンだ。シリコンを貫通する特殊な電流で合金の骨格を痺れさせ、一時的に硬直させる。空擬骸(ホロウ)に使えば、AIを緊急停止できる非常用の護身武器だ。

 バクストンが大きく息を吐き、抜身の刃のような警戒を解いた。


「怪我はないか、トラ」

「あぁ、何とかな」

「夜が明けたら、警察に行くぞ。その時限爆弾を取り出せないか掛け合ってみる」

ご主人様(マスター)、それは少々難しいかと」


 ネヴァンの腹を開け、体内組織を探っていたシェリーが「こちらを」と示した。

 空洞な下腹部の奥、背骨と骨盤の境目部分に、陰に潜む黒い塊があった。無数のコードが血管のように伸び、緑色のライトが一定の感覚で明滅している。


「こちらが爆弾かと思われますが、除去は困難だと判断します。見ていて下さい」


 シェリーが爆弾へ手を伸ばし、摘まんで引き外そうとしたら、ライトの色が赤く変わって明滅が早くなった。コードに触れても同じ反応をし、彼女が手を離せばライトは緑色に戻った。


「恐らく、高性能な衝撃感知機能が備わっているのでしょう。正規の手順を踏まずに爆弾を除去しようとしたり、擬骸(カヴァー)が破損する程の衝撃を受けたりしても、起爆するようになっています。撃たれた際、コードに当たらなかったのは奇跡的です」

「文字通り『戦争人形』は使い捨てってことか……。解除方法は分かりそうか?」


 バクストンの言葉に、シェリーは首を横に振った。


「この爆弾はオリジナルな方法で製造されている可能性が高いです。警察で解除の前例がない限り、方法が解析されるまで五日はかかるでしょう」

「ということは……警察に連れて行っても『手立てなし』として、爆破処理されるだけか――おい、トラ?」

「……テロ組織の名前、『ヴィクティム』だったな。バクストン、シェリー、世話になった」


 虎臣はネヴァンの腹を閉じ、彼女の体を抱きかかえた。そのまま玄関へと向かう虎臣の肩を、バクストンが掴んで止める。


「待てトラ、何をするつもりだ!?」

「『ヴィクティム』のアジトを探して、美鶴の爆弾を取り除く」

「馬鹿を言うな! 『ヴィクティム』の居場所は警察でも掴めていない。ただのライターであるお前に、突き止められるわけが……!」

「だが他に方法がないんだ! 十五年間探した娘が今ここにいるってのに、また喪うのは耐えられない! 命なんざ捨てたっていい。俺は美鶴を助ける。今度こそ!」


 虎臣はバクストンの手を振り解き、ドアに手をかけた。その時、再びバクストンが虎臣を呼んだ。

 彼は振り向いた虎臣のコートのポケットに、一枚の紙片を滑り込ませる。


「俺の私用端末の番号だ。何かあったら連絡しろ。できる限りの協力はする」

「……お前、携帯電話持つことにしたのか? 機械音痴のお前が?」

「うるさい。シェリーに連絡手段が欲しいと言われたからだ。言っておくが、俺は通話しかできないぞ。……キャバレーの件は、俺が警察を押さえておく。だが長くは持たないから、さっさと爆弾を解除してこい」

「十分だ。ありがとう、バクストン」


 虎臣は友に頭を下げる。失敗すれば、きっともう彼と会うこともない。ニヒルに笑ったバクストンに背中を押され、虎臣はアパートを出た。

 空は薄まって、ビル街の輪郭が分かるほど白んでいる。虎臣は疲労を訴える脳に鞭打って、未だ眠りの中にある住宅街を駆け抜けた。

 両腕に抱き締めた娘は、幼子のような寝顔で、死んだように収まっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 こんにちは〜、いつぞやの掲示板でお世話になった若宮澪です。本当は掲示板にコメントしたほうが良いとは思いますが、自分がずいぶん昔に立てた板が上に上がってしまうのと、あとはちゃんとした批評にならないだろ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ