後編
店内は看板の雰囲気と同じく落ち着いている。照明はほどほどに、ゆったりとしてBGMが流れている。マスターと思しき人物がこれまたゆったりとした低音で「いらっしゃい、お好きな席へどうぞ」と促され窓際の席に座る。メニューに目を通してコーヒーと何を頼むか迷っていると、マスターがいつのまにか席の隣に立っていた。
「お疲れのようですね。当店には疲れているとき限定のメニューがありますよ」
とにっこりと微笑んだ。
「疲れている時だけ頼めるメニュー?」
ちょっと聞きなれない。季節限定とかならわかるが……。あるいはよほど彼が疲れ切っているように見えたのか。
「ええ。今日は特別なココアを作ってあげますよ」とマスターがいい、促されるままにそれを注文した。店に入った時はコーヒーを頼むつもりだったが、ココアも悪くない。むしろいい。マスターがカウンターの奥へと消え、しばらくして戻ってくると温かい湯気を立てるカップを直樹の前に置いた。
「これがうちの特製ココアですよ。飲んでみて」
直樹はカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。最初の一口で、彼の心に温かさが広がり、次第に疲れが和らいでいくのを感じた。その味は甘くて濃厚で、そしてほんの少しスパイスが効いている。直樹は不思議そうにマスターを見上げた。
「チャイってあるでしょ? ミルクティーにたっぷりの砂糖とスパイスをいれたやつ。あれを参考にして作ってあるんだ」
「どうしてこんなに心が落ち着くんだろう」
と直樹はつぶやいた。マスターは優しく笑い、
「ココアって不思議だよね。生まれてから今まで何度も飲んでいるはずなのに、飲むたびにホッと一息ついたような心地になる。甘くて安らげる時間をくれる。だから私も大好きなんだ」
マスターはどこか遠い目をしながら話してくれていた。自分も粋な返しはできなかったが、「そうですね」と相槌を打った。
「このココアには、特別な思い出が詰まっているんだ」とマスターは答えた。
マスターは昔、直樹と同じように都会の生活に疲れていた時期があったという。その時、友人が作ってくれた特製ココアが彼の心を救ったのだ。それ以来、マスターはそのレシピを受け継ぎ、多くの人に提供してきたという話をしてくれた。
「友人に作ってもらうまで、ココアを飲むなんて選択肢が思い浮かばなかったんだよ。本当に1つのこと以外何も考えられなくなっていたんだろうね。私もその時は、今の君と同じような目をしていたんだと思うよ。でも飲んだら灰色だった世界にほんの少しだけ色が灯ったような気がしたんだ。その時に思ったんだ、同じような気持ちの人には無理にでもココアを飲ませてみようって」
マスターは照れくさそうに、けれども懐かしそうに語る。その微笑みがなんだか周りの流れをゆったりさせているように思えてくる。
「一杯のココアで、誰かの心が温かくなるなら、それが私の喜びなんだ」
そうマスターは語った。直樹はその言葉を胸に刻み、もう一度ココアを味わった。その瞬間、彼の心の中の何かが変わったように感じた。
翌日、直樹はいつもより少し早く起き、窓の外を眺めた。冬の朝日が街を照らし、少しだけ輝いて見えた。昨日までの彼からしたら、街の景色を眺めるなんて行動はしなかった。彼は深呼吸をし、久しぶりに心からの微笑みを浮かべた。カフェ・セレンディピティでの一杯のココアが、彼の心に新たな希望の光を灯したのだった。
彼は一週間ほど心の底でやりたいと思って、そして仕事を言い訳にして我慢してきたことをやってみることにした。他人からすれば、それらは些細なことのように見えた。芝生で昼寝をする。運動をする、カフェに通う。けれども彼にとっては劇的な変化であった。休み明け少しだけ働いた後に彼は会社を辞め、今は別の会社で働いている。仕事自体は忙しかったが残業をするほどではなく、何より心に余裕をもったことで効率的に進められていた。毎日の忙しさの中で、自分を見失わないようにと誓った。彼はまたカフェ・セレンディピティに立ち寄り、心を温める特製ココアを味わうことを楽しみにしていた。
そして、直樹は気づいたのだ。人生の中で本当に大切なのは、小さな幸せや心の温かさを見つけることだと。その日から、彼の毎日は少しずつ輝きを取り戻し始めた。
田中直樹にとって、一杯のココアはただの飲み物ではなく、心の救いだった。カフェ・セレンディピティでの特別な時間が、彼の人生を再び彩り始めたのである。